パンチの独り言

(2023年1月30日〜2月5日)
(何処が科学、正しく伝わる、配慮、科学的解析、推定と推論で、企業形態、値上げ)



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2月5日(日)−値上げ

 値上がりの話題が、盛んに取り上げられる。特に、煽ることしか能のない連中は、品目数や値上げ率を、訴える事に、躍起になるようだ。だが、今回も、愚かさは変わらず、馬鹿げた論調に、終始している。物価の変動は、どんな仕組みで、何を要因とするのか、知りもせず。
 無能ぶりを発揮したのは、品目数に関する報道だった。破綻企業数の報道で、毎度登場する、ある調査会社の報告を、伝えていたのだが、はじめに紹介したのは、品目価格の調査対象を、大幅に増やしたことで、その後に、値上げ品目数が、かなり増加したと伝え、生活の逼迫が、深刻になると論じていた。この読み原稿を、仕上げた担当者は、一体全体、どんな頭の構造を、しているのか。対象を増やせば、数が増えるのは、ある意味、当たり前と見做せる。その問題を無視して、最終結果のみを、殊更に、そして、大袈裟に伝えるのは、今に始まった事ではないが、それにしても、論理の欠片も存在しない。煽り文句には、そんな面倒は、無用だとばかり、叫ばせているのだ。物価は、どう決まるのか、についても、論じられることが無い。以前は、需要と供給で決まる、と教えられたが、どうなったのか。原油価格は、産油国の思惑で、変動が操作されるが、買い手から、増産を求める声が上がっても、想定価格を維持しようと、減産を決めるのは、その最たる例だろう。一方、今、話題となる物品の多くは、どうだろうか。部品供給が滞り、生産が厳しくなるものも、確かにあるが、最初に取り上げられたものの多くは、その範疇には無い。原材料価格の上昇を、理由とするものが、殆どのようだが、だぶつく生乳や、供給不安が和らいだ小麦など、どうにも、理解に苦しむものも多い。だから、値上げは無用だ、と言いたいのではない。これまで、努力とかいう不思議な代物で、値上げを回避していたことが、遂に、難しくなったのなら、それでいいではないか。物価も給料も、上がらねば、金が回らぬのなら。

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2月4日(土)−企業形態

 確定できないのに、何故、皆が挙って、取り上げているのか。と言っても、世間全般としては、殆どのマスゴミが、取り上げていないから、どうでもいいことなのだろう。それとも、ここでも、報道や政府は、愚かさを強め、無知蒙昧に、成り下がっているのだろうか。
 一部の委員会を除き、政府関係者には、超過死亡の重大性は、認識されていない、と言われる。一部報道では、その重大さを、伝えようとするものもあるが、耳目を集めてはいない。なのに、何処か一部の世界で、騒がれている、と盛んに伝えるのは、何故だろう。これは、その大部分が、囀りでの書き込み、だからなのだ。以前、ある人物を、フォローしていた頃は、そんな発言が、ほぼ毎日、絶えることなく、掲げられていた。批判する対象を、見つけ出し、彼らの暴挙を、指摘しようと、躍起になった人々は、あの世界で、仲間を見つけ、互いに、情報交換を行うだけでなく、覗いている人々に、その重大性を、訴えようとしていた。だが、先に書いたように、何も、確定的なことは、言えないのだ。本来なら、専門家だけの世界で、科学的な検証を、重ねるべきことが、ど素人の集まりで、さも真実かの如く、扱われる話題となった。現在の、社会媒体が、蔓延る社会では、かなり大きな問題と、なりつつあるが、その勢いは、収まるどころか、過激さを、増しているように見える。だが、媒体自身の状況は、どうも、怪しげな雰囲気に、なりつつある。収益は、確かに、上げ続けているが、その成長が、かなり著しく、鈍化し始めたのだ。元々、誰もが気軽に参加できる、という仕組みでは、収益の源は、それ自体に、求めることができない。参加費や会費で、賄われるのが、こういう仕組みの常道だが、それを排することで、膨大な参加を、募ったのだから。その代わりに、其処彼処に、仕込まれた、広告を頼りに、運営が行われてきた。このビジネスモデルに、翳りが見えているのだ。

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2月3日(金)−推定と推論で

 続きである。では、超過死亡とは、どう導くのか。それを取り上げた、ある研究所の記事を、見てみると、統計的推定と、解説している。つまり、数年の死亡数の推移から、ある期間の数値を、推定する訳だ。それも、下の方の回答からは、かなり様々な操作の上、のようだ。
 ただ、議論に加わる人々は、この推移を、大ごととして、捉えたい思惑があるので、兎に角、大袈裟な受け取り方に、終始している。それにしても、ここでいう思惑が、主張の違いで、超過する原因を、感染症の流行と捉えるか、はたまた、ワクチン接種による副反応の結果と捉えるかが、違ってくる訳で、何方にしても、更なる仮定を重ね、推論を重ねることで、都合の良い結論に、達しているようだ。考え方として、学問の世界では、間違ったことではないのだろうが、それにしても、この推定の使い方は、正しいのだろうか。元々、推定に比べて、実数が大きく異なった場合に、そこに隠れた要因が、存在する可能性がある、というのが、この手法を用いる理由であり、要因を定めて、それが影響したに違いない、という結論ありきの議論に、使われること自体、過ちであると思う。統計の使い方、という意味で、何度誤報を、流し続けても、依然として、中枢に居座る専門家と同様に、このやり方は、正しい手順を、重ねているとは思えない。では、それ以前の状況で、通常の人々が、これらの数値を、眺めた所で、何をすればいいのか。単純には、死亡数の推移と、死因ごとの推移を、各年で、比較することが、まず第一と考えられる。ここでは、月報の12頁にある、肺炎及び誤嚥性肺炎の死者数と、同じ頁の最下部の、その他の特殊目的用コード、と示された部分の死者数を、比べることが、必要となる。その他の、とは、ここでは新型コロナ感染症を、死因としたもので、監督官庁からは、死因の決め方についての文書が出ており、それも加味する必要がある。結果としては、確定できない、となる。

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2月2日(木)−科学的解析

 科学的に、ものを捉える、というのは、おそらく、多くの人にとり、数値に基づき、解釈をする、という意味となるだろう。で、実際に、それを行うと、人により、様々に、時に正反対の結果が、導かれる。何方も、数値を基礎とし、論理的に、解釈したのに、全く違う結果が。
 この話を聞くと、これも、多くの人々は、科学的な解析なのに、何故、と不思議に思うだろう。だが、学問の世界では、当然の出来事であり、何の不思議も無いのだ。だったら、科学なんて、信用ならん、と決め付けたくなる。しかし、これまでに読んできたように、また、原発事故や、大震災の後に、専門家が登場して、解説した時、同じ画面に、登場した専門家達が、正反対の結論を、主張していたり、確定的な意見の一方で、不確実性を、盛んに主張する人が居たり、そんな光景が、度々起きていたことを、思い出して欲しい。まさに、これが、科学の営みであり、専門家の間では、こういう多種多様な意見が、戦わされた上で、何らかの結論に到達し、それが、確定する。時には、一度、確定したとしても、別の数値が、発表された途端に、それまで確かだった理論が、脆くも瓦解することさえ起きる。そんな風に捉えれば、何事も、その世界の中で、議論を重ね、少し確実性が、増した所で、聞かせてもらえば、十分と思える。例えば、この所、超過死亡なる言葉が、一部で盛んに取り沙汰される。だが、主張が全く異なる人々が、同じ数値を拾い、正反対の結論を、導き出している。これは、仮定に基づき、推測を重ねる、科学の営みであり、当然の成り行きなのだ。現時点で、何方が正しいのか、決めることはできない。簡単な論理なら、一般庶民にでも、口出しはできる。この例では、監督官庁から、統計数値が発表され、誰もが目に出来る。当月を含む過去1年間の動向、という表からは、この2年間は、死亡数が増加したことが、明らかとなる。だが、これは、単なる増加であり、超過とは異なる。超過とは、予想を超えた、という意味であり、それが、どう導かれるかが、肝心となる。それを知る為には、数年の動向が必要で、人口推計から推測する。一方、死因については、人口動態統計月報を、頼りとする。さて、どうなるか。続きは明日に。

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2月1日(水)−配慮

 世界機関は、予想通り、継続を決めた。それに対し、海の向こうでは、非常事態の解除を、5月と決めた、との報道があり、各国の姿勢は、緩和の方向に、進んでいる。とは言え、実際には、状況の違いは、明らかなのだ。それぞれの思惑が、今後、見えてきそうだ。
 まず、世界機関は、従来から、感染症に対して、過剰な警告を、発してきた。新型流行性感冒も、SARSも、警報の出し方は、極端であり、状況把握より、警戒を優先させた。だが、それらの事例では、見通しは、悉く外れ、狼少年となっていた。それに対し、今回の事例は、予想通りと言うより、それを上回る勢いで、流行が広がり、犠牲者が急増した。その結果、各国政府の対応も、旧来とは異なり、真剣味を帯び、極端としか思えぬ程に、強い規制を敷いた。一度味わった、この感覚を、失いたくない、と思うのも、無理の無いことだが、そこには、科学の欠片も無く、論理の飛躍が、著しさを増した。継続の理由は、今回も、言い訳に過ぎず、既定路線であることは、事務局長の事前発言に、現れていた。一方、海の向こうの対応は、個人主義の国だけに、解除以前に、個々の行動は、規制を外れており、今更の感がある。更に、合衆国では、州毎に、物事が決まるだけに、国単位の方針決定は、形骸化している。とは言え、一つだけ、配慮があるかも、と思わせたのは、その時期の決定だ。教育現場への、配慮が感じられた。これについて、首を傾げる人が、居るかもしれないが、この国と違い、あちらは、夏休み後に、新年度が始まる。5月は、現場では、年度の最終盤にあたり、卒業式も、多くは6月に開かれる。となれば、既に、規制を解除した州も、そうでない所も、これで、元通りの運用が、可能となるのだ。この報道に、こちらと同じ、という感覚を持つ人は、物事を、冷静に見極めておらず、相変わらず、情報操作に、惑わされているのだろう。

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1月31日(火)−正しく伝わる

 今月読んだ本で、気になったのは、リスクに関するものだ。ただ、内容は、かなり稚拙で、練り上げられておらず、特に、気に入らないのは、全体として、他人事に終始する姿勢だ。どうすれば、各人が、自分に降りかかる、リスクを、正しく避けられるのか、見えてこない。
 中でも、著者が、盛んに強調したのは、意思疎通の問題だろう。どう伝えるか、というのは、発信側の問題だが、どう受け取るかが、今は、大きく取り上げられる。それに対して、発信側が、受信側の状況を、誤解している、と盛んに訴えるのだ。確かに、今回の騒動をはじめとして、多くのリスクにおいて、発信側が、専門家として、非専門家である、受信側に対して、教え諭すような態度をとり、無知蒙昧を、相手にしている、という姿勢を、露わにしている。そうではなく、受信側の庶民も、多くのことを、理解しており、それを前提に、もっと核心を突く、発信を行うべき、としているのだ。だが、問題は、本当に、そこにあるのか、強い疑問が残る。確かに、今回も、多くの社会媒体から、多くの市井の人々が、数多くの指摘を繰り返し、その中には、十分な理解に基づき、世間に、垂れ流された、多くの間違った情報を、正していた。だが、その一方で、誤った情報を、流し続ける政府、専門家、報道と、何ら変わらぬ状況で、別の過ちを、書き連ねる人の方が、遥かに多く、一般市民にとっての、有害性においても、何の違いもないものだった。意思疎通での、発信、受信の問題を、取り上げたい気持ちは、わからなくもないが、実際には、極端な解釈を、重ねることで、ほぼ役立たずの、情報を発信していたのは、この本においても、当てはまることだろう。確かに、正しい情報を、正しい形で、届けることが、発信側にとり、重要となるのだが、その一方で、受信側は、何をすべきか、こういう書籍において、重要な情報は、そこにこそある。その点が、編集者も含め、理解できていないのだ。

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1月30日(月)−何処が科学

 科学の話を、持ち出す度に、何処かおかしい、となる。何故なのか。科学を語る人の多くは、その事実に、気付いていない。にも拘らず、自分に都合のいい時には、盛んに、科学を掲げ、都合が悪くなると、口を噤む。そう、そこにこそ、問題の核心が、あるのだ。
 都合の良し悪しは、科学で決めることも、出来るのだろうが、多くの場合、その人の心の動きに、左右されるだけだ。これを、専門家達は、心理と呼ぶようだが、心理学も、科学の一分野に違いない。だから、それも科学だ、と言えるのか。否、そうは行かない。一つには、本人の心持ちが、その時の気分で、揺れ動くことにある。それも、様々な要因を、突き詰めれば、何とか解析できる、と言えるのか。これも、無駄となりそうだ。人の行動は、確かに、冷静に考えた上で、様々な可能性を検討し、その中から、最適解を導く、という場合もあるが、殆どは、その場の気分に流され、周囲の行動に影響され、冷静に考える遑を与えられず、えいやっとばかりに、行動に移す。その結果、間違ったと思えば、考え直せばいいし、大丈夫と思えば、そのまま突っ走る。どうも、こんな調子で、動いているのではないか。この騒動も、例に漏れず、そんなものが、山積みとなった。それを、後になってから、したり顔で、批判したとして、何をどうすべきか、具体的に示すのは、ほぼ不可能だ。その最中に、問題点を指摘し、別の解を示さねば、何の意味も無い。少し考えれば、矛盾だらけのことが、この数年の騒ぎで、度々起きた。遊興施設を、目の敵にした、首長達は、すっかり忘れて、知らぬ存ぜぬだが、あの手の施設の問題は、何だったのか。居酒屋も、槍玉に挙げられたが、さて、何処がどう問題だったのか。黙食と呼ばれる、儀式の如き風習も、どんな科学的根拠が、あったのだろう。未だに、その意義を、滔々と語る校長を、映し出すのは、何の意味か。監督官庁でさえ、沈黙を貫くのに。何ともはや。

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