パンチの独り言

(2023年2月6日〜2月12日)
(問題は何、聾桟敷、違うから、同病相憐、少数派、要不要、増税を)



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2月12日(日)−増税を

 懸案が、一つ片付き、歓迎と共に、喜びの声が、上がるだろうか。それとも、例の如く、悲観的な空気に満ち、まだ足らぬとの悲鳴が、上がるだろうか。何方にしても、施しを欲するばかりで、自らの義務を、果たさぬ人々に、一体全体、どんな権利があるというのか、不思議でならぬ。
 泡が弾けた頃から、長年の懸案だった、薄給問題は、愚かな大統領の、暴挙をきっかけとする、世界の混乱により、財布の紐を、固く締めたまま、蓄財に精を出し続けた、企業の経営者の、重い腰が上がることで、解決されようとしている。物価上昇という、魔物から、逃れようと、躍起になった人々も、流石に、この混乱では、抵抗の術を、失ったようだ。堰を切ったように、値上げの波が、押し寄せ始め、その結果として、雇った人々の、生活の糧を、上げるしか、指し手が無くなった。何度も書いたように、ごく自然の成り行きで、思惑はさて置き、論理の流れは、円滑に見える。だが、困窮を理由に、施しをせがむ、人々の多くは、もっともっと、という声を、上げ始めるだろう。一方で、国の財政は、そんな愚民を養い、無駄金を、ばら撒くことしか、能が無い政治家達に、抗う術も無く、破綻寸前に、迫りつつあると言われる。ただ、給与が上がれば、同じ税率でも、税収は増し、消費に頼る税も、値上げが追い風となる。とは言え、騒動による混乱で、大盤振る舞いを、続けた結果は、財政を、惨憺たる状況に、追い込んできた。こちらは、まさに、焼け石に水、といった具合で、侵攻を恐れての、国防予算の増額を、目的とした増税どころか、これまでの借金を合わせて、増える支出を、賄う為の税収が、不可欠となり、増税も止む無し、と思える。人気商売にとり、禁句の数々を、この混乱で、叫ぶ必要が、との意見もあるが、それ以前に、国の財政の立て直しには、それ以外に、妙案は浮かばぬのだ。義務や責任を、果たしてこその、自由と権利という、論理を、掲げる時なのでは。

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2月11日(土)−要不要

 教育の意義は、どう捉えるべきだろうか。べき論を、展開すること自体、何か間違ったこと、とも思えるのだが、世の中は、そんなものに、振り回されている。教え育むことに、必須の要素があるのか、はたまた、時代の変遷に従い、それらは、次々に、変化するのだろうか。
 軍国主義が、蔓延した時代に、育った人々は、捻じ曲がった教育を受けた、と戦後、大いに悔やんだ、と言われる。これは、一つの最適化の問題かもしれない。一方、ある女性作家が、語ったとされる、無用論から、中学数学の公式が、必修から外されたのは、有名な話だが、これとて、愚かな夫が、審議会で紹介し、議論の末に、起きたことで、同様に、愚かな委員の不見識ぶりが、語り草となる。何れにしても、要不要により、左右することに、どれ程の意味があるのか、怪しいものだ。自身の経験から、人それぞれに、思う所は、多種多様だろう。だが、生きる術を、教わる所とすれば、小手先の技術を、身に着けて、その程度を、競争させることに、どんな意味があるのか。では、何を、どう学べば、生きる術が、身に付くのだろう。読み書き算盤、と嘗ては、よく言われたものだが、最低限のことは、それだけで、済みそうなものだ。ただ、一方で、頭の活動を、高める為のもの、と考えると、もう少し、先のことまで、手を出しても、構わぬのかも知れぬ。さて、そんな所から、現状を眺めると、どんな景色が、見えてくるのか。近年、世界水準を、大きく下回る、とも言われた、この国の教育水準は、どの程度に、収まっているのか。また、それが、国の存亡に関わるのか。まあ、そんな大ごとに、する必要もない、とも考えられる。何れにしても、一時期、盛んに、持て囃された、ゆとりに関しては、今や、諸悪の根源とされ、自主性のみに、任せることは、罷りならん、とされているようだ。その一方で、騒動の根源を辿ると、世界的に、足らないものが、見えてくる。さて、どうすべきか。

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2月10日(金)−少数派

 また、難癖を付けている、と思われるかも知れない。まるで、囀りの世界で、悦にいって、陰謀論を呟く輩と、何ら変わらぬ様子、と思うだろうか。何の何の、難癖などではなく、ただ単に、論理の穴を、突いているだけだ。あの著者が、社会の問題を、暴いたつもりの。
 差別を、批判する人々の多くは、弱者保護を、前面に出している。彼らは、弱く、小さな存在だから、保護してやる必要が、あるのだと言わんばかりに。その際に、屡々用いられる言葉が、マイノリティーだろう。原語では、minorityとなるが、その元々の意味は、少数派である。辞書によれば、多数派に対する言葉で、勢力を、比較した時に、より少ない集団を、指すこととなる。著者の主張にあるように、多くの事例で、それが如実に現れており、まさに、少数派、それも、多くの場合は、圧倒的少数となっている。だから、社会の中で、弱い立場にあり、多数派の横暴に、晒されている、という論理なのだろう。だが、これは、ああいう論者達が、陥る過ちの一つとなる。社会で、権力を有する人々は、よく言われるように、一握りに過ぎない。貧富の差で、度々持ち出される論理が、全体の100分の1が、世界の財産の三分の二を占めている、というものだ。これは、流石に、極端としても、彼らは、明らかに少数派であり、それが独占するのが、よろしくない、という論調がある。このマイノリティーは、けしからん連中で、差別の最たるもの、とされるが、さて、どうしたものか。少数派だから、という主張は、確かに、一見正しいように思えるが、この程度の話に過ぎない。差別、という意味では、結果に過ぎず、何でもかんでも、という主張には、出鱈目さと、悪意さえ、感じられるのではないか。皆が違う、という考え方で、物事を捉えれば、結果が異なったとしても、それは多くの要因によるもので、それだけの話ではない。としてこそ、次の策を、講じる手立てが、見つかると思う。

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2月9日(木)同病相憐

 今、偶々、差別に関する本を、読んでいる。「差別はたいてい悪意のない人がするー見えない排除に気づくための10章」、という題で、韓国人が著し、あちらでは、ベストセラーになった、と帯にはある。常道だが、著名人の推薦も、添えられ、書評でも紹介された。
 だからと言って、過剰な期待は、抱かない。何しろ、これまでにも、数々の推薦で、評判を取ったのに、的外れな書評でしか、無かったことは、数え切れぬ程ある。今回も、読み始めてすぐに、何処か遠くの出来事、という印象が、頭の中に、靄が立ち込めたが如く、広がった。国民性の違い、と言ってしまえば、その通りだが、推薦は、この国の著名人、と呼ばれる人々からのものだ。的外れは、書評もだが、この推薦人達の不見識に、呆れるのみだ。そんな読み出しで、一向に、靄は消えず、五里霧中の様相を、呈してきた。だが、著者は、徹底して、今の社会の差別を、批判し続ける。まるで、自分は、そんな非常識は、微塵も抱かぬ、とでも言うように、社会の問題点を、鋭く突いているように、感じているのだろう。だが、実際には、所詮、浅はかな考えの、無知蒙昧の一人、に過ぎないのだ。そんな人物が、傲慢な態度で、社会という他人を、貶し続ける。不快を通り越し、隣国の悲惨な様子に、だが、同情は、やはり起きない。この著者同様、この手の人々は、悦に入るばかりで、何の理解も、できないのだ。彼らの主張する、差別の根源は、実は、その場だけの、一過性のものに過ぎず、真の根源を、見出すことさえ、できないからだ。指摘の数々も、今この時には、耳目を集めることだが、ほんの少し前には、誰も、著者自身も含め、見向きもしなかった事柄だから。そんな指摘が、まるで神の啓示の如く、心に響くと感じる、そんな人々も、同病相憐れむ、ということだ。人はそれぞれ、違うものと思えば、何事も、理解できるのに、それができないが為に、苦しんでいる、だけだろう。

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2月8日(水)−違うから

 多様性、と聞く度に、何か違う、と思う。世の中は、様々な違いを、それぞれ尊重しようと、多様性と表現し始めた。だが、実際には、尊重などという、相手に対する気持ちは、微塵もなく、自分を、どうにかして欲しい、という気持ちだけが、出てきているのではないか。
 差別の話を、する人々の中には、本当に、真剣に、差別を無くそう、と思っている人も、居るのだろう。だが、様々な場面で、こんな主張をする人には、全く異なる考えから、訴えている人も多いようだ。特に、相手を尊重、という言葉が、まるで、絵空事のように、思える場合がある。そこには、相手を考えるのではなく、自分を考えろ、と命ずるような、雰囲気に満ち溢れているからだ。差別意識が、何処から生まれるのか、人それぞれだろうから、これと決めることは、難しい。だが、自分自身に関して、どうだろうか、と考えることはできる。自身で、基準を決め、そこから、どういう違いがあり、どういう問題があるのか、考えることは、それ程難しくはない。だが、他の人々が、どうしたくて、どうしているのか、その背景に、どんな理由があるのか、となると、分からないだけでなく、どうでもいいこととなる。そう思っていたが、最近は、全く異なる設定が、なされているのだ。多様性を尊重せよ、と命じられることに、抵抗を覚える人も、多いと思う。それは、自分と、その対象とを、比較した時に、どちらが恵まれているか、とか、優劣はどうか、とか、そんなことが、気になるからだろう。なのに、ほぼ強制的に、尊重という行為を、押し付けられるのは、どうか。先日、性の問題に関して、不穏当な発言をした、ということで、任を解かれた人物の話題が、取り上げられていた。目くじらをたてる人にとり、許し難い発言だった、と報じられるが、その一方で、賛同する人の数も、多かったのではないか。といって、彼らが、発言することは無い。こんな状況では、憚られるからだ。

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2月7日(火)−聾桟敷

 子供の数が減る、と言っても、寿命が延びているうちは、全体としては、大きな問題とは捉えられなかった。だが、遂に、その勢いも衰え、全体として、数が減り始めると、急に、騒ぎが広がった。実は、状況に、大きな変化は無い。ただ、表面の数字に、少し違いが出てきたのだ。
 問題の捉え方として、明らかな間違いがあるが、当人達は、一向に気付かぬ。頭が悪いのか、都合が悪いのか、はたまた、別の問題があるのか、さっぱり分からぬが、まあ、そういうことだ。だが、世界に目を転じると、状況は一変する。半世紀前の、倍を上回る人口に達し、その勢いは、少し衰えたとは言うものの、まだ増え続けている。生産能力の高い地域に、医療が整備され、特に乳幼児の致死率が、下がったことが、大きく影響している。一方、先進国は、何処も、少子化の悩みを、抱えている。これも、30年以上前だが、ある国の少子化が、社会問題として、取り上げられた。このままでは、国が滅ぶとさえ、言われかねない状況だったが、その国も、今も、存続しており、こちらと比較しても、問題と思えぬ状況に、落ち着いたようだ。この問題を、考える上で、先を進む国の推移は、興味深い筈だが、今回、それを取り上げても、この国に関する話題は、一切、取り上げられない。不思議に思うが、理由は定かでない。その代わり、税制のことで、突然、この国を取り上げ、恰も、重要かの如く、扱われ始めた。それが、問題解決の策だったなら、理解できるが、どうも、そんなことに、目を向けた訳では、ないようだ。またぞろ、都合のいい話に、飛び付いた人がいて、それに便乗した人が、居ただけのことらしい。では、解決策は、何だったのか。当時、あれ程騒いだのに、すっかり忘れたとでも、言うのだろうか。まあ、報道も、専門家も、都合の悪い話には、一切耳を貸さぬのなら、仕方がない。だが、それでも、何か聞こえてきても、良さそうに思えるのだが、どうしたものか。

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2月6日(月)−問題は何

 少子化の問題が、深刻であり、その解決が、急がれる、と言われる。ただ、多くの人々は、自分達の生活が中心で、この手の問題に、目を向けない。実際、何が問題で、何故、解決を急がねばならないのか、その理由が、思い浮かばない人も、多いのではないだろうか。
 経済の立場からは、少子化により、経済成長が滞り、国民全体の生活が、脅かされる、と説明される。労働人口の減少が、生産性を低下させ、それが、経済の停滞に繋がる、という訳だ。だが、これだけを、取り上げれば、労働人口を、他の国から持ち込み、それによって、生産性の向上を、図ればいいのでは、と思えないか。もう一歩進め、生産性の低下といっても、需要と供給の均衡から考えれば、全体の人口が低下し、消費が減れば、生産が減っても、問題ないのでは、と考えることもできる。どうも、彼らの書いた筋書きでは、満足できる答えは、得られそうにない。一方、福祉の立場からは、老人の生活を、支える仕組みを、維持する為には、ある程度の労働者が、不可欠であり、その為には、子供を産み育てる必要がある、との意見がある。でも、この考え、老人の立場からの話でしかなく、これから成長する子供も、労働する若者にも、関係の無い話、とならないだろうか。どうも、この手の話で、利害関係を、持ち出そうとすると、何やら話が拗れてくる。結婚したくない、子供は要らない、と主張する若者達は、多くが、利害を第一に、このあたりの問題を、論じている。確かに、子育てにかかる、労力も金銭も、莫大なものに見え、そんなことに、費やすのなら、自分の楽しみに、と考えたくなるだろう。少子化問題を、こういった捉え方で、考えようとすること自体、何処か、おかしなことではないか。家族の中で育ち、家族を作り、子供を育て、という輪廻が、長く続いてきたが、そこに、こんな利害は、あったのだろうか。では、どんな解決が、と考えても、簡単には浮かばない。

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