パンチの独り言

(2023年2月13日〜2月19日)
(人事、肝心要、誰の責任、作り物、先後の順、評価の意味、要らぬ)



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2月19日(日)−要らぬ

 組織の長の役割は、何だろう。改めて、こんな問いを、書く必要があるのか。そのこと自体、おかしいと思う、人も多いだろう。だが、今、世の中に溢れる、長の為体には、こんなに馬鹿げた問いも、書く必要がある、とさえ思えてくる。特に、この数年の騒動で、長の意味は、無くなったようだ。
 今でも、思い出すのは、東西大都市の首長が、競争心丸出しで、相手を意識しつつ、自分を売り込もうと、躍起になる姿だ。中でも、ある遊技施設に対する、強い敵対視を、前面に押し出した、禁止を要請する、例の会見の数々には、何の科学的根拠も無く、ただの思い込みで、まるで、生贄のような扱いに、冷静な人々からは、批判が相次いだ。しかし、強い発言権を有し、支援者同様の、報道の無能ばかりに、囲まれる中では、批判は皆無であり、自慢げな演説に、酔い痴れる姿に、不快感を、催した人も居た。その後、世界各地の混乱や、世界機関の迷走で、間違いを、犯したのは、自分だけでない、という勝手な解釈からか、何の検証も、行わないまま、忘却の彼方に、投げ捨てたようだ。だが、彼らの影に隠れてか、多くの首長が、暴言を繰り返し、浅はかな考えを、市民らに押し付け、下らない施策が、巷に溢れていた。本来、選挙民の信頼を得て、少なくとも、地元の利益を、追求することが、狭い考えを優先する、愚民政治の基本だった筈が、今や、そんなことさえ、投げ出しても構わぬ、という態度が、露わとなっている。そこに、新たな火種が、政府から、国民に、投げつけられた。迷走した挙句の、自身の判断に委ねる、という方針決定は、庶民に、混乱を招いている、と盛んに、報道は訴えるが、こちらから見ると、当然のことに過ぎず、今更という感は、残るものの、やっと正常化したか、と思える状況にある。だが、選挙民の代表を、自認する首長は、不満の意見を、強く主張する。曰く、マスクの着用の判断を、明確に示せ、となる。愚の骨頂は、何度も指摘したが、今回も、その一つに数えられる。寄り添う姿勢が、最優先課題とは、長の無用論を、思わせる。

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2月18日(土)−評価の意味

 何度も、取り上げたことだが、教え育むことに対して、誤解している人が、多いのは何故か。不思議に思うのは、ほんの一握りに、過ぎないのだろうが、それにしても、どんな期待を、抱いているのだろう。その一方で、その思いが、多くの破壊を、招いていることに、疑問は無いのか。
 ずっと昔に、海の向こうから、渡ってきた考え方に、褒めて育てる、というものがあった。叱られずに済む、という一言に、飛び付いた人が、多かったようだ。その結果、何が起きたのか。危ない時、悪いことをした時、様々に、叱られる機会が、ある筈だが、その度に、逆に褒められ、事態を認識できず、状況把握を怠る。そんな人間が、どうなるのかは、今、周囲を見れば、何となく判ってくる。だが、一度、それが固定されると、困った事態に、陥るのは、よく知られたことだ。叱ることと似て、批判することが、憚られるのも、近年の状況だろう。批判は、叱ることと同じ、と見る向きは、批判の本質を、見誤っている。また、それと同様に、評価も、嫌われることの一つ、ではないだろうか。評価を下す時、多くは、厳しい意見が、織り交ぜられるから、批判され、叱られたと思う、という訳だ。成る程、表面だけを捉えれば、そう思い込むのも、無理はない、と言えるのか。そんな訳は、決して無い。にも拘らず、そんな思いに、拘った結果、評価を避ける社会が、出来始めた。順位を決める、役割を決める、様々な場面で、評価は、不可欠となる。なのに、それを避けようと、躍起になった結果、組織も何も、動きが取れなくなる。それが、初等教育に、下された結果、皆は、放置に近い状態に、押し込まれる。好き勝手に振る舞いたい子にとって、何とも好都合なものだが、多くの子供は、そうではない。自分の位置を、見極めたいし、順位も、気になる所だ。気持ちを、尊重すると称して、先生という大人達が、責任を、放棄しているに過ぎない。これが、長く続けば、社会全体に、無秩序な状況となる。それこそが、教育の本質を、破壊することに繋がる。

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2月17日(金)−先後の順

 人工知能に関しては、もう一つ、何方かと言えば、こちらの方が、遥かに深刻と思える、問題がある。究極の技術と称して、一部の人間が、持て囃すのは、彼らが無能だから、仕方ないのだが、それに振り回されて、一緒に踊り狂う、人間達の方が、遥かに多いことが、問題なのだ。
 ついこの間まで、歯が立たなかった人間を、打ち負かしたのだからと、その能力を、評価したくなるのは、ある意味、仕方のないことだ。しかし、だからと言って、不可能は無い、と信じ込んだり、何でも出来る、と勝手に思い込むのは、愚かさの極みと思える。特に、次代を担う人間を、教え育む現場で、その傾向が、著しいことに、危機感を覚えるのは、当然とも言える。夢を抱き、その実現に向けて、研鑽に励む。理想的な姿、と思う人も居るだろうが、現実を理解せず、ただ、幻を追いかける姿、だとしたらどうか。まさに、そんな状況が、作り上げられる。持て囃す人間達が、枢要な立場にあり、強い発言権を、持つ状況だと、その勢いは、強まるばかりだ。彼らにとり、人工知能に興味を持ち、その発展に尽くそうと、意欲を出す若者は、強い味方となる。だが、基本的な事柄を、教えることを怠り、ただ、夢を追わせるだけでは、何も実現できない。特に、新しい技術の開発においては、何を、どうやらせるかが、重要な課題となる。それを、理解させる為には、当然、現状を把握させ、既存の技術を習得させることが、第一となる。にも拘らず、過剰な期待を抱かせ、その一翼を担うのだと、自覚させることの方が、先とばかりに、肝心要の事柄を、すっ飛ばして、先に進ませる。最近の傾向で、最も深刻なのは、この点だろう。早期教育が、重視された時代も、そんな暴挙が、何度も断行されたが、結局、何も変わらないどころか、逆効果ばかりで、失敗続きとなった。今回の騒動も、それに類したものである。人工知能は、人間のように、勝手に成長することは、決してないのだから。

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2月16日(木)−作り物

 人工知能、という言葉が、盛んに飛び交っている。一部には、まるで、不可能は無いかの如く、究極の技術、と持て囃すが、さて、実力の程は。強烈な印象を与えたのは、囲碁や将棋での、人間との勝負だろう。嘗て、足元にも及ばぬものが、一流の人々を、負かしたと。
 その後、多方面に渡り、活躍の場が、広がり続け、不安に駆られる人々は、悲鳴を上げ始めた。これができる、あれができると、能力の高さを、誇示するけれど、心配する必要は、無いと考える。この話題が、世に出始めた頃、もう一つ、複雑系という言葉も、盛んに飛び交っていた。多分、四半世紀程前のことだ。こちらは、一見、複雑に思える事象が、実は、単純なことの積み重ねで、再現できる、という話だった。魚の群れ、鳥の群れ、その動きは、見た者の心を捉える。これらの集団行動は、統率者無しで、実現しており、どんな複雑な仕組みが、存在するのか、と不思議がったのだ。ところが、計算機で、再現すると、その基本には、単純に、隣の個体との、距離の保持だけが、関係することが、明らかとなった。人間の頭は、確かに、高度な思考を、実現しているが、事象の捉え方には、多くの難点を抱える。この世界の出来事の、殆どは、実は、単純なことの積み重ねで、起きている。それを、理解できないのは、一つひとつの事象を、捉えられても、ある数を超えると、途端に、理解不能に陥るから、と言われている。元に戻って、人工知能に関しても、多くの人々が、誤解しているようだ。確かに、人間が考えるより、遥かに短い時間で、結論を導く。が、これは、答えの分かった話に限る。人が与えた、あるいは、今では、与えずとも、情報を収集して、そこから、個々の事例を、記憶し結びつける。この基本を、如何に素早く、如何に多く、行うかが肝心で、そこに、驚異の能力と呼ばれるものがある。だが、所詮、仕組まれたものに過ぎない。人間との違いは、そこにあるのだろう。

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2月15日(水)−誰の責任

 比較的高層の、集合住宅が、崩壊した光景は、やはり衝撃的だった。だが、一方で、地震そのものの規模は、それ程大きくない。ということは、と思っていたら、すぐに、規制逃れとか、手抜き工事とか、果ては、邪魔な柱の除去などと、とんでもない話が、舞い込んでくる。
 嘗て、隣国で、百貨店が崩壊した、と報道されたことがあった。原因は、手抜き工事と、その後報じられたが、そのこと自体、信じ難いと思った。別の国では、今回同様、改装工事で、柱を取り除き、それが崩壊へと繋がった、との話があった。これもまた、信じられないことだ。工事業者が、自らの利益を、追い求めるのは、自由経済では、当然と言われる。だが、それが、害を及ぼす程、となっては、法治国家は、成り立たない。それを、当然と受け取れるのは、社会の構成員それぞれが、自らの責任を負い、社会への責任をも、負っているとの考えが、浸透しているからだ。私利私欲に走り、他人の損害を、考えようともしない人々には、関係ないことだからだ。こんな事件が、起きる国は、やはり、人々の心が、荒んでいるとしか言えない。では、規制による基準は、どうだろうか。こちらについては、規制の根拠が、合理的で妥当であれば、社会は受容する。本来なら、そうなる筈が、今回のような事例では、どうだろうか。この国も、嘗て、耐震設計を請け負った人物が、不正を働くことで、大規模な事件に、発展した。発注側は、安価を理由に、選定したとのことだが、まさか、という話になった。疑うべき、との声も上がったが、さて、どうか。一方、建築済みの建物は、全て壊されたが、その際、何故、耐震性を試さなかったのか、一部からは、そんな声も上がった。妥当性を、確認する実験は、施設内で行われたが、現実の建物では、実施されていなかったからだ。理由は、不明なままだ。今回の大震災と、四半世紀程前の、こちらの大震災を、比較する人も居るだろうが、かなり事情が異なる。文化住宅と、最新と見える高層住宅を、比較することに、意味は無いだろう。

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2月14日(火)−肝心要

 天変地異に抗うには、人間の力は、余りに小さい。そんなことを、思い知らされるのは、大地震の直後だ。勝手に作り出した騒動を、恰も、押さえ込んだが如く、自画自賛を続ける、あの人々とは、全く異なり、突然、襲い掛かってきた、大きな揺れに、為す術もなかった。
 被害が、次々と明らかになり、その規模の甚大さに、驚く人が多いだろうが、それにしても、直後に伝わった映像を含め、異様な光景の方が、遥かに衝撃的だった。一方で、地震学者は、地表に現れた地割れを、映し出すことで、被害の甚大さを伝え、如何に、巨大な地震だったかを、解説している。だが、揺れそのものの規模は、数値で示され、大きいとは言え、巨大とは言い難い水準と、明らかとなっている。この違いは、何処にあるのか。既に、当地では、その方面に、捜査の手が及び、逮捕者が出たと報じられる。揺れが、収まった後に、下から崩れ、ぺしゃんことなった、集合住宅は、その光景から、耐震構造が、基準以下だったことが、推測されていた。被害が、広がった要因は、揺れそのものより、そちらの方に、あったと言われ、この学者の見解には、専門以外に、無知な姿が、現れている。だが、同じ組織内に、幾らでも、専門家が居る筈で、尋ねさえすれば、助言は簡単に得られただろう。この辺に、最近の学問の、問題があると思える。一方、俄か知識を、纏った素人が、大きな顔が、できるのも、近年の特徴だろう。先日も、事故後の汚染土壌の、処分法に対して、対象地域の人間が、反対の弁を、行っていたが、核心である、危険の可能性は、無くなる筈のない、存在だ。更に、自然放射線の源は、自身の体内にも存在し、日々、浴びている。危険度を、論じるのに、どんな知識を、持ち合わせるのか。基準を下回る、という主張に、抗う手立てを、それしか、持ち合わせず、世論を味方に、と思うのだろうが、無知は無知でしかない。希釈こそが、肝心と思えば、答えは決まっている。

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2月13日(月)−人事

 国の中央銀行の、次期総裁が、内定したとの報道に、一番落胆したのは、現副総裁を、最有力候補として、内定との速報を、出した経済新聞だろうか。件の人物が、辞退したとの報が、伝わると、様々な憶測が、飛び交ったようだ。尻拭いは御免、というのが、尤もらしいが。
 海の向こうでは、苦心惨憺、利上げの歩調を、合わせようと、中央銀行は、躍起になっており、前任者、前々任者と異なり、学者出身でない議長は、奮闘している、と伝えられる。こちらでは、戦後は、中央銀行出身か、官僚出身かに、限定されていたようだが、方針転換とも思われる人事に、一時的に、市場が反応した、とも報じられた。内定の時点から、こんな騒動が、起きるのは、どの国にも共通することらしく、それだけ、影響力の大きな人事、と言えるのだろう。ただ、これまでなら、身内に限られ、国の方針、あるいは、組織の方針に、従うのが当然、と見られていたものが、様子が違う、と思われたのかも知れない。とはいえ、ここ数年の混乱の、原因だった現総裁の、方針を踏襲するかが、最も大きな関心事となる。ただ、海の向こうでは、学者出身者が、登場する前には、経済の実態を知る、現場経験者が、登用されており、その点でも、かなり事情が、異なっている。それはさておき、経済が、どう動くのかが、気になる所だろうが、政策そのものは、政府と役所が、決めることであり、全体の調子は、海を挟んで、かなり異なっている。更に、税金の問題や、給与の問題、そして雇用の問題も、どれもこれもが、違うだけに、今後の成り行きを、見守る向きも、然程、期待していないのではないか。一方で、政治は、混沌としており、騒動と国家間紛争が、暗い影を落とす中、どんな道筋を、つけるのかが、肝心だろう。税制も、その一つだが、一方で、各企業の経営陣にも、大きな責任が、かかってくる。大中小と、階層化する、国全体の組織図だが、全体の流れを決めるのは、大きい順だ。

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