パンチの独り言

(2023年2月20日〜2月26日)
(皆同じ、捌け口、非国民、眉に唾する、国際機関、内政干渉、素直なの)



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2月26日(日)−素直なの

 教育現場は、自己矛盾に、苛まれているのではないか。一方では、素直な子供を、育てようとし、もう一方では、何事にも、疑問を抱き、追究しようとする子供を、育てようとする。だが、この矛盾は、表面的なことしか、捉えられない人間が、指摘するものではないか。
 素直、という一言で、何でも言うことを聞く、と思うのは、大きな間違いだ。服従を、素直と取り違える人間が、何と多いことか、と思う。親も然り、教師も然り、である。自分では、何も考えず、ただ、指図のままに動く、ということが、素直だと思うのだとしたら、どうしたことかと思う。先日も、ある小学校で、起きた事件を、大々的に取り上げていた。食中毒の一種と、扱われていたが、出前授業で食べたものが、消費期限切れだったとのことで、児童が見つけ、その後、吐き気や腹痛を訴える子が、出たというものだ。何事、と騒ぐ大人は、報道には多いが、間違いは、間違いとしても、ほんの1週間で、焼き菓子が、有毒になるとは思えない。唯一、思い当たるのは、精神的なもの、期限切れは、食べてはいけない、と素直に信じる子が、それが発覚した途端に、反応したということだ。その後、何事も無かったようなので、多分、それだけのことだろう。で、素直とは、何だろう、となる。ここ数年の、感染症騒動でも、マスク然り、ワクチン然り、自分で、考えようとしない、大の大人が、巷に溢れることに、驚かされた。以前から、その兆候に、危機感を抱く、教育界は、様々に、自分で考えることの、重要性を強調する。が、素直と疑問は、彼らの頭では、両立したとしても、世間では、通用しないようだ。特に、教育現場では、矛盾に苦しむ、教師と生徒の関係が、拗れている。精神の発達は、人それぞれだけに、難しさは、理解できるのだが、大の大人の方が、遥かに、未発達な精神を、持ち合わせていては、混乱を、回避する手段は、無いに等しい。

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2月25日(土)−内政干渉

 軍隊を、引き上げることは、可能なのか。もし、表向きの理由で、侵攻を決断したのなら、その状況を、国際機関が構成する軍に、監視させればいい。それだけのこと、と思って、以前囀りで、呟いてみたが、失笑を買った。あの連中の真意は、理解できぬ。何方が、阿呆か。
 存在意義を、考えれば、この答えは、正しいだろう。だが、世界情勢は、そうは動かない。例として、挙げる人が居るが、半島での戦争は、大戦直後も、もう一つのものも、国を二分する戦いであり、東西勢力の戦いだった。二つの勢力に、分かれた国が、双方支援を得て、戦いに挑んだ。前者は、まさに、国際機関の軍が、関わったものだが、今、冷ややかに見守る国が、関与することで、現状に落ち着いたと言われる。後者は、更に複雑で、西の大国が、加担した側が、最終的に敗れ、共産圏となったが、実は、裏で支援があったと言われる。一方、独裁大統領の死後、国が分裂した地域は、結局、内戦に突入し、現状に落ち着いた。これらは、何れも、自国民同士の戦い、と見るべきだろうか。それに対して、今回の軍事侵攻は、嘗ての連邦だった国に、住み続ける自民族を、守る為という、表向きの理由で、行ったと、独裁者は、主張するが、もしそうなら、国連軍の駐留で、国際的に、状況把握と監視を、すればいいと思える。今でも、それが理由なら、決議の下で、派遣を決定し、撤退すれば、いいだけのことだ。何故、そうならないかは、違う魂胆が、あるからと勘繰られる。一方、嘗ての勢力拡大で、水面下も含め、他国への侵攻や、支援を続けた国は、まずは停戦を、と提案したという。あれ程に、内政干渉を、批判し続ける中、何を、惚けたことを、言い始めたのか、と思うがどうか。今の状況では、あの国への内政干渉は、軍事侵攻を、断行した国が、行っている。それを、今の状態で、停めたとしても、無意味なことは、明確だ。この仕組みが、働かないのが、一番の問題なのだ。

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2月24日(金)−国際機関

 声を上げて、批判しても、何処吹く風という体で、言い返してくる。他人の家の庭に、入り込み、好き勝手に、破壊を繰り返すことに、どんな正当性があるのか。誰が考えても、と思う人が多いが、その一方で、別の問題を、引き合いに出し、やり返す国に、どんな権利が、と思う。
 国際機関の、確固たる地位を、笠に着て、傍若無人ぶりを、発揮する大国に、嘗て、裏切られた経験を、持つからでもないが、それを含め、嫌味を並べた演説を、行った外務大臣が、どう評価されたのか、何の情報も、流れてこない。その上、報道では、反対に回ったり、棄権をしたりと、以前同様の態度を、繰り返す国々が、何処なのかに、触れもしないのは、何故だろう。確かに、前の国際機関が、迷走を繰り返した過ちを、繰り返さぬよう、という意図で、様々な仕組みを、整えた筈の現機関も、ここに来て、特別な権利を有する、大国の横暴に、為す術も無く、手を拱いている。冷戦の最中でさえ、これ程の対立が、起きなかったのは、何故なのか、今となっては、知る由もない。ただ、国を治める人間の、資質によるもの、という点には、異論は無いだろう。一方、嘗て、同じ国だった場所に、自民族を、保護しようと、乗り込む姿勢にも、これもまた、嘗て、戦争を始めた、こちらの国の、傀儡政権樹立や、軍部の暴走など、様々な要素を、挙げる人々の中には、今回の軍事侵攻を、正当化する意見が、あると聞く。どういう論理が、成立するのか、中立の立場では、理解は不可能だ。要するに、都合の悪い意見を、全て排除し、敵対者を、排除することで、自らの権利を、確保しようとするしか、この結論には、到達できない。全ての国々が、仲良くすることを、目指す必要は、決して無いのだが、一方で、こんな横暴が、罷り通るのでは、国際機関の存在は、無用となる。では、何をどうすれば、解決に至るのか。まずは、他国から、軍隊を引き上げさせ、元の状態に、戻すことが、第一だろう。

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2月23日(木)−眉に唾する

 薬の効能として、どう考えるべきか。この手の情報について、最近は、後付けとしか、思えぬ話が多いと思う。今回のことも、騒動自体、身勝手な連中の、目論見通りに、進んだことと、後々、振り返る機会も、ありそうに思うが、一事が万事、この調子なのだ。
 余程の特効薬でなければ、すっきりと、病気を治し、回復させることなど、あり得ない、と言われる。僅かな効能を、統計手法により、際立たせることで、薬として、認めさせる、というのが、これまでの常道だ。この騒動の最中も、多くの新薬が、取り沙汰された。と言っても、今、記憶に残るものが、無いということは、何を意味するのか、明白だろう。風邪に効く薬は無い、と昔から言われ、兎に角、自分の体力を信じ、安静にして、遣り過すのが、精々と言われた。だが、死の病だからこそ、薬に頼るべき、となるのも、人の常だろう。結局、幾つかが、申請され、幾つかが、認可された。とは言え、治すよりも、重症化を防ぐ、というのが目的、と言われる病気だ。特別な効果など、望むべくも無い。そろそろ、熱りが冷め、熱狂的な騒動も、何処かに去ると、途端に、こんな話題が、持ち出されるようだ。感染症そのものへの、効能ではなく、その後、盛んに取り上げられた、後遺症への、効能が認められた、という報道があった。確かに、あれ程の騒ぎが、起きており、異常を訴える人々が、膨大な数に上る、と言われるのだ。それが、回避できれば、という期待も、あるのだろう。だが、元々、この手の薬の処方は、どうすべきか、かなり揉めた筈だ。その上、後遺症が、出るかどうかは、事前に、分かる訳も無く、どう判断するのか。第一に、この点に、疑問が残る。その上、効果を謳った解析結果は、薬の効果の検証と、同じ調子で、不思議な論法が、繰り出される。曰く、後遺症を、呈した人間の数が、服用者では、半分に減った、というものだ。では、呈さぬ方を数えたら、どうなるのか。

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2月22日(水)−非国民

 囀りでは、盛んに、陰謀論が喧伝され、攻め込んだ国の正当性や、独立を目論んだ地域の、悲惨な状況が、書き連ねられていた。その論調に、強い違和感を覚え、反論を、書き込んだこともあったが、反応は、無知蒙昧と、罵らないまでも、馬鹿にしたものだった。
 その繋がりを絶った今は、その手の雑音は、殆ど聞こえず、平穏に思える。だが、軍事侵攻から、一年を経過しようとする、今もまだ、攻撃の手は、緩むことなく続き、悲惨な状況は、ある意味、何の変化も無い。陰謀論に、与する人々は、この国を含む、多くの国の報道が、それに加担し、まさに、陰謀の片棒を、担いでいると、盛んに指摘する。だが、攻め込んだ国でも、自国の動きに、違和感を覚える人が居り、言論統制の中、反旗を掲げる如く、発信する人も居る。独立系と言われる、報道の人々は、その国では、権利を失い、他国に逃げ延びて、発信を続けたが、受け入れてくれた国で、嘗ての侵攻や占領を、思い起こさせるような発言から、放送権を剥奪され、別の国に、移らざるを得ない、という状況にある。自国を思う心は、ある意味、傲慢な発言を、無意識にさせ、そんな事態を招いた。他国民から見れば、危険思想の表れ、となったのだろう。一方、庶民として、普通に暮らしてきた人の中にも、侵攻を良しとせず、反論を掲げた人も居る。それまでの友人や、親戚から、罵倒され、隣国に逃げた人の口から、発せられたものは、嘗て、この国が、戦争に突き進んだ時、同様の意見を、発した人間の呼び名を、思い起こさせるものだった。非国民、という言葉は、まさに、差別の典型とも言えるが、何を、どう表現しようと、発せられたのか。今の時代からは、想像も付かない。ただ、これらの遣り取りは、他国での出来事とは言え、何処か、似た状況を、想起させる。それも、囀りで、盛んに、当時の戦争の原因が、陰謀によるもの、と訴える人々と、酷似した部分も含め。

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2月21日(火)−捌け口

 褒めて育てることの過ちを、散々書いてきた。悪いことは悪い、間違ったことは間違い、その度に、きつく伝えねば、子供の成長は、見込めない。放置は、以ての外、言葉を弄して、褒めるなどとは、何をか言わんや、である。だが、叱ればいいのか、そうとも言えぬ。
 そんな悪例に、初めて出会した。旅の帰り道、休憩に訪れた、高速の施設には、シアトル系として、人気を博す、外資系の飲食店が、設置されている。店内で、中々進まぬ列に、やきもきする中、前に並ぶ母子から、これでもかと、母親の叱責の声が、響いていた。何を注文するのか、息子に、教え諭すのではなく、ただの罵倒としか、思えぬ程の勢いで、叱り続けているのだ。その時の、子供の目は、こちらに、何かを訴えようと、していたが、注意すべき、との気持ちも、少しは過ぎったものの、素知らぬ顔で、並んでいた。順番が来ると、子供を前に押し、注文を促す態度は、相変わらずのもので、縮み上がった子は、小声で店員に、「ココア」と伝えた。そこに、後ろから、母は、「キッズココア」と付け足し、何の為の叱責だったのか、とも思ったが、店員は、教科書通りの対応を、行なっていた。その後、受け取り口で、飲み物を、渡された子に、横から、父親と思しき人間が、他人事のような言葉を、掛けていたようだが、親子4人の、何とも不愉快な、家族劇を、見るようだった。実は、この劇は、その前から始まっており、到着後直ぐに、店の前で、子を罵倒し続ける母を、見かけたのだ。それから、半時間程、叱り続けていたのは、言葉の暴力としか、思えぬ程だ。職場なら、大勢の前で、叱責すれば、訴えられるが、家族では、そんなことも、できないだろう。親を選べぬ、不幸な子供達、という話は、屡々取り沙汰されるが、これは、まさに、その典型か、とも思えた。躾と称して、母の、欲求不満の捌け口に、させられた息子は、たまったものではない。

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2月20日(月)−皆同じ

 不思議な国民性、とでも表現しようか。嘗て、赤信号皆で渡れば怖くない、と揶揄された、自分で考えない人々は、今回の騒動でも、あれこれ、振り回されながら、しぶとく生き延びてきた。矛盾があろうがなかろうが、知ったことではなく、ただ、周囲を見渡し、同じことをするだけだ。
 命に関わること、という意味では、赤信号も、新型感染症も、何の違いも無い。実態を、知ろうともせず、ただの噂に、振り回される。それも、お上のお墨付き、となれば、皆の安心は、十分に強まる。だが、肝心のお上も、この国民性の上に、立っているのだから、何の根拠もなく、ただの思い付きさえ、お墨付きとする。そんなことが、繰り返された挙句、世界では、もう、嵐は過ぎ去ったとさえ、言われる状況に、過去の思い付きを、消し去ることに、躍起になり始めた。しかし、何方にしても、確固たる根拠は無く、ましてや、科学的な証拠なぞ、存在する筈も無い。となれば、人それぞれ、勝手に振る舞えばいい、という結論に、達するのは、自明とも言える。だが、この混乱の中で、次々に繰り出した、苦心の労策は、どれもこれも、後になれば、取るに足らぬもの、と言い切ることも、難しくはない。単に、前言を、忘れてしまえば、気楽なものだ。そんな調子で、数々積み上げた、制限の殆どを、無かったことに、し始めた。だが、皆で渡りたい人々は、お上の沙汰とは言え、突然、無かったことにされても、すぐに従う気は、毛頭無いらしい。その辺りの国民性の表れには、理解に苦しむ面もあるが、当人達は、大真面目で、その理由を並べる。一番のものは、皆がやれば、となるだろうが、実は、それ以外の理由も、数々並ぶ。根拠無しで動ける人間には、何の理由も、必要無い筈だが、そうともならぬ、理由があるのか。これもまた、摩訶不思議としか、思えぬ状況だろう。で、結局、来年の今頃は、何だったのか、誰も思い出せぬ、ことになっているのだ。

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