言葉の大切さを、何度も説いてきた。一方で、誤解を招くことにも、何度も触れてきた。意思の疎通の媒体として、共通理解が、不可欠なのだが、それがずれると、互いに、違和感を感ずる。だが、少しのずれなら、言葉を継ぐことによって、真意を伝えることができる。
そんなことを、強く感じたのは、「勝利」という言葉が、通じないとの指摘からだ。これまで、独り言では、国名を明示することは、避けてきた。それをせずとも、理解できると思うからだ。だが、今回は、敢えて明示する。関係する人々が、検索で、見つけてくれることを、願うからだ。東欧の国、ウクライナ、Ukraine、母語での表記はこちら、は、今隣国からの、軍事侵攻に、苦しめられている。多くの人々が、世界各地に、避難しており、不安な毎日を、送っている。以前から、仕事を求めて、外国に出向く人も多く、この国にも、音楽家など、多く滞在してきた。その中に、放送局で、編集にあたる人が居て、彼女の苦悩を、取り上げた番組が、放送されていた。遠く離れた地で、何の役に立てるのか、という悩みが、一番のようだが、それについては、日を改めて、取り上げたい。ここでは、避難した人々が、口々に、「勝利」という言葉を、発するのに対し、こちらの人々が、違和感を表す、という食い違いに、触れてみたい。こちらでは、平和こそが、最優先と思う人から、「勝利」とは、との疑問が、出ているようだが、平和ボケは、さておき、敗戦、それをも、終戦と言い換えたとさえ、言われるが、そこから、国の繁栄を築き上げ、平和な時代を、手に入れたと信じる人に、「勝利」は、違う意味に、捉えられる。だが、目標を立て、それを手に入れることが、一つの「勝利」と思えば、何の問題も無い。ウクライナの人々は、侵攻された領土から、敵軍が撤退すれば、それが、「勝利」と見做すのだ。全面戦争での、勝利ではなく、侵攻以前の状況に、戻ることを、願うのだろう。但し、あの半島の併合については、別の考えが、出始めた。これについては、当時の対処も含め、国際社会も、考えねばならぬ。
最近、路上犯罪の検挙率が、上がったような気がする。以前なら、通り魔殺人など、目撃者が、多数居たとしても、迷宮入りしたものが、多かった印象だが、今は、あらゆる犯罪で、犯人の特定が、速やかに、行われている。何が、変わったのか。答えは、簡単だ。
普段、生活する上で、殆ど意識しないが、街の至る所に、カメラが設置されている。防犯目的が、大部分だが、それ以外のものも含め、数限りなく、存在するのだ。はじめは、防犯とは言え、そんな経費が、何処にあるのか、と思う一方で、もしかしたら、過剰生産の挙句、某国が、廉価で販売したから、とさえ思った。これは、世界各地で、同じ傾向にあり、大都市で、爆破などのテロ犯罪が、起きた時に、犯人の足取りを、逐一追跡した結果が、発表される。逮捕前なら、情報提供を促し、逮捕後なら、その理由を提示する。こちらでも、鉄道駅での犯罪で、行為そのものを、捉えた映像が、流された上に、その後の、逃走経路さえ、細かく映し出された。それ以外にも、街頭での致傷行為と、思わしき映像が、流された上に、犯人逮捕に、至ったとの報道があった。どれもこれも、店の内外を、映し出したものや、街頭に、設置されたものから、得られた映像だ。精細度が、不十分だとしても、その服装などの特徴から、割り出したとされる。犯罪撲滅を、目的と考えれば、確かに、喜ばしい傾向だが、本当に、それだけなのか。最近の、国際情勢からは、全く別の様相が、報じられる。以前なら、録画機に、直結されたが、今では、それらも、通常の情報端末同様、ネットと呼ばれる、仕組みに繋がれる。となれば、世界の何処でも、全て繋がっており、設置者だけが、手に入れられる、とは限らなくなる。それを利用して、某国が、各国の情報を、収集している、とされるのだ。真偽の程は、明らかではないが、最近の状況は、かなり深刻なもの、となっているようだ。監視社会、とでもいうのか。
流行り言葉を、操ることが、最先端の証し、と言われる。確かに、新しい技術や、社会の動向に、明るいことを、表す為には、言葉は重要となる。だが、中身を把握せず、単に、言葉を使うだけでは、何の意味も無い。流行を追う人々の中には、そんな輩が、一杯居る。
国際機関が、定めたものとして、いつ頃からか、SDGsなる言葉が、世間を騒がせ始めた。SDGsとは、Sustainable Development Goalsの頭文字で、17の目標が、定められている。訳文では、持続可能な開発目標、とあり、更に細かな、基準と指標が、設定されている。それぞれの目標が、色付けされ、それを象った、徽章を、胸に着けた人を、見たことがあるのではないか。公的な立場だけでなく、企業人も、身に着けていることから、何かしら、重要な印、と思った人が多いだろう。だが、その意味について、どの程度、理解が進んだかは、怪しいものと思う。特に、流行語として、用いられることが、余りにも多いので、勝手な都合で、使われているようだ。特に、持続可能という意味において、多くは、誤解に基づき、的外れな目標を、定めている。例えば、環境問題は、その最たるものとして、配慮せねばなるまい。特に、先進国では、半世紀程前に、社会問題となった、環境の悪化と、結び付けることが、多い。しかし、国際機関が、定めたことから、対象は、先進国に限らず、地球規模での、問題とすべきなのだ。その意味で、環境汚染は、それぞれの国で、全く異なる様相を、呈しており、一部の人々が、考えるような、単純なものとは、なっていない。それは、程度の問題でもあるし、要素毎の問題でもある。半世紀前に、抜本的な対策を、講じた国々で、更に、清浄化を進めることは、必ずしも、正しい判断とは、言えないのだ。だが、無知な人々は、ここでも、一つ覚えを、繰り返そうとする。環境の栄養素は、富でも貧でもなく、適度に必要なのだ。
閉まろうとする扉に、突進する。自分がやるかは兎も角、そんな光景を、見かけた人は、多いに違いない。電車への、所謂、駆け込み乗車である。危険が、伴うだけでなく、時に、遅延に繋がり、多くが迷惑する。田舎なら兎も角、都会では、ほんの数分で、次が来るのに。
これも、国民性の一つ、として挙げられ、今は下火となる、観光客から、異様な視線を、浴びていたらしい。改札から、大急ぎで向かうのでなく、階段の終わり辺りから、急に、急ぎ出すのは、どうしたものか。同じことが、全く違う場面で、展開される。一部の人々から、諸悪の根源とまで、揶揄される、例の番号に纏わる話だ。既に、強制的に、番号そのものは、国民全員に、配付されたとされる。しかし、それでは、折角の施策が、機能しない、と信じる役人と大臣は、その利便性を、喧伝するだけでは、不十分とばかり、別の便益を、図ってきた。但し、そこには、期限が設けられ、慌てて、申し込む人が、窓口に、殺到したという。前回も、そんな騒動を、盛んに報道していたが、今回もまた、同じ騒動が、連日、流されている。これもまた、駆け込みと呼ばれる現象で、事務能力や、電子手続きの、処理能力を、遥かに超えた、と伝えられる。出口に殺到する、人々の行動と同じく、群集心理の一つとされるが、不思議なのは、電車の駆け込み乗車と違い、一度、手続きをすれば、二度目は無い、という点だ。にも拘らず、今回で、何度目の期限だろうか、またまた、慌てふためく人々の姿が、画面に映し出される。便益に関しても、前回と、殆ど変わらぬのに、何が、心変わりの原因、となったのだろうか。それに、最大と称する、その中身は、実は、大したものでは無い。当然、最大を施される人は、少ないようだ。近年の国民性として、危惧を抱くのは、この点にある。何か、施されることが、当然の権利と考え、それを受けようと、躍起になる。いつから、そんな欲張りになったのか。
速報とは言え、概数を眺めるには、十分なのだろう。早速、話題として、取り上げられていた。人口動態として、気になる所は、喫緊の課題とされる、少子化問題らしい。報道向けの発表でも、まずは、出生数が、過去最少となった、と記された。特効薬は、あるのか。
確かに、重要な問題に、違いない。だが、この所、取り沙汰される、施策では、果たして、効果があるのか。街頭の声は、金銭的な問題を、第一に挙げるが、絵空事にしか、見えない。これまでも、様々に、要求が出され、それに応じた、田舎町に、移住が殺到した、との報道もある。だが、果たして、そんな対策で、子供を産み、育てる気持ちに、変化が起きるのか。更には、経済的な面のみが、重要なのか。実は、様々に、心理的な圧力が、伸し掛かる、都会の生活に比べ、子も、親も、気楽に過ごせる環境は、経済よりも、別の効果がある、と言われる。医療費を、無料にするから、という理由で、転居したのに、医者にかかることが、殆ど無くなった、という話もある。確かに、大病に罹れば、都会の大病院に、お世話になる方が、確実だろう。だが、日々の暮らしで、どれ程の違いが、出て来るのか。それしか、思い付かないから、というのは、行政への批判で、よく聞かれるが、街頭の声にも、同じ批判が当てはまる。それと、今回の発表で、取り上げられたのは、死亡数の増加だ。こちらは、過去最多と記され、やはりという声も、聞かれるようだ。ただ、死因などの詳細は、速報には含まれず、新聞報道での、解析の情報源は、見当たらない。今後、詳細が発表されれば、こちらでも、取り上げることになるが、現時点では、何とも言えぬ。丸3年経ち、一年目には、減少したとの報道があったが、今回は、増えただけでなく、最多とのことだ。その辺りの相関も、頼りにならぬ連中が、調べてくれるのやら。何れにしても、騒ぎが、騒ぐ程でなかった、との結論だけは、避けたいに違いない。
ここ数年、様々な騒動が起き、改めて、考えた人が多いと思う。情報とは、何か、という問題だ。情報の流通を、盛んにしようと、情報社会を、課題の一つとして、掲げてきた国で、実は、肝心の情報とは、何か、という問題を、論じないままに、促進が図られた。
それは、敢えて、国家の課題とせず、流れに任せた、海の向こうでも、同様だったろう。利便性を、追い求めた結果、確かに、社会全体に、流れる情報量は、凄まじい勢いで、増してきた。その理由は、それまでの、新聞や電波に頼る、報道の仕組みからは、想像できない量となり、それを歓迎する声も、確かに、高まっていた。その理由の一つに、参加者の変化がある。それも、受け手が、殆ど変化していないのに対し、送り手の数が、急速に増えたことが、最大の要因だろう。その効果は、日常的な情報に、最も大きく現れた。井戸端会議や、人々の噂は、限られた中で、広がるとはいえ、一旦広がり始めれば、あっという間に、駆け巡ると言われたが、それが、新たに導入された仕組みで、限定させず、世界中に、瞬時に伝わるようになった。問題は、噂と同じように、根も葉も無いものでも、嘘や捏造でも、そして、真実だろうが、事実だろうが、無関係に、伝わることだった。それにより、情報の大部分は、人を惑わすものとなり、時に、人の心を煽り、集団心理として、扇動に利用され始めた。社会問題として、重視されたのは、これも海の向こうの、前大統領が、用いた戦略だろう。不都合なものは、偽とか嘘とか、断定することで、排除する一方、自らの情報は、支援者の手を経て、多数派を形成し、事実として、伝えられる。見方や、立場により、時に、事実かどうかが、決まる場合に、この戦略を、使うことで、国の政治だけでなく、国際関係も、動かせると証明して見せた。ただ、その結末は、一種悲惨なもので、自業自得となり、表舞台を去った。情報とは何か、考えねばならない。
一年が経ち、様々に、総括が行われる。と言っても、一年だから、あちらの騒動ではなく、軍事侵攻の話だ。そして、終息は、依然として、見えていないのだから、単なる途中経過、とも言える。ただ、始まる前の状況と、侵攻直後の様子は、それなりに纏められた。
などと書くと、例の如く、囀りで、偏向報道を、批判する人々から、捏造、偽物、嘘、一方的といった言葉が、浴びせ掛けられるだろう。だが、一国の状況を、伝えることに関して、その政府が、関わった事実に、そんな意見が、通用するのか。同じことが、侵攻側にも、当てはまる訳で、それ自体を、否定したものでも無い。確かに、そこでは、そちら側からの、情報は全く無く、関係国共々、拒否されたと、明記されていた。それに加え、侵攻前の状況は、今の情勢からは、信じ難いものであり、それ自体は、どちらの側にとっても、不都合な事実となる。彼らが、自分達の権利を、守る為に、嘘を並べた、と言いたければ、言えばいいのだろう。支援国となった側からは、否定も肯定も、届かないに、違いない。外交上は、そうなれば、事実と受け取られる。プロパガンダ、政治宣伝とも言われる、この行為は、政府が、盛んに行うもので、偏向の塊、と目される。それに満ちた国が、侵攻について、自らの正当性を、並べたとしても、信じるに値しない。一方で、された側が、並べることに関しても、一部の国民からは、反論が届くと言われる。民主主義、という観点から、何方の状況が、まともに見えるか、明白と思うのだが、一部の人々には、そんな答えは、真っ赤な嘘でしかない。それこそが、民主主義であり、誰もが、勝手な意見を、並べられるのだ。だとしたら、攻めた側は、どう見るべきか。今更、論じるまでも無い。それにしても、国際情勢とは、何と脆弱な、ぎりぎりの均衡で、保たれたものか、見えていたのが印象的だ。自分に降りかかったら、さて、どうしただろうか。