パンチの独り言

(2023年3月6日〜3月12日)
(真意は何、罪悪感、懲りない輩、疎外感、基本なの、慰撫、提供終了)



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3月12日(日)−提供終了

 一度、誤報を流してしまい、申し訳なく感じている。だが、今回は、確かに、情報提供を、止めたと報じられた。ただ、報道の中で、担当者が、話していた内容には、驚きを、禁じ得ない。今だに、専門家と称する人々が、こう信じているのか、という憤りにも似た、感覚だ。
 改めて、当該サイトを、眺めに行くと、世界地図を、示さなくなった、古いブラウザでも、情報収集を、3月10日で、止めたことが、明記されている。一方、示せるブラウザには、依然として、その時点での、情報が明示され、それまでを含め、情報分析を、望む人々への、提供を続けるとある。だが、ここ数ヶ月に関しては、情報源となる、各国政府が提供する、情報の確かさが、怪しくなっていたので、比較の意味は、殆ど無いと思われる。その中で、この国では、盛んに、最悪の状況との、連日の報道がなされ、それを信じる人々は、恐怖に、戦いていたのだろう。何とも馬鹿げたことだが、それこそが、この騒動の本質であり、核心なのだと思う。にも拘らず、同じ状況を、続けるべきと考える、専門家が、世界各地に居り、世界機関は、依然として、大流行の宣言を、下ろすつもりが、無いのだ。それも、これ程の騒ぎの中で、件のサイトをはじめとして、多くの情報収集が、行われた結果、検証すべきデータは、無数にあるに違いないのに、それを、行おうともせず、自らが、下した決断や、対策の数々が、どのような結果を、招いたかさえ、総括する気が、無いのではないか。一方、唯一の頼みとされた、ワクチンに関しては、相変わらず、接種の推奨を、続けているが、これとて、検証の無いままでは、偽薬と、何ら変わらぬもの、と受け取る向きも、出てきている。元々、同種のウイルスで、起きる疾患への、ワクチンは、存在しておらず、一方で、流行性感冒に、対するものも、毎年、流行に先駆けて、接種が行われるが、流行抑制は、目論見通りには、ならないことが多い。そんなもの、だ。

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3月11日(土)−慰撫

 寄り添っている、とでも思うのか、同情したり、賛同したり、兎に角、視聴者が、思うことに、近付こうとしている。だが、その実、一方では、恐怖を煽り、根も葉もない噂を、せっせと取り上げる。こんな連中の、言うことや、解釈に、耳を傾ける必要は、無いと思う。
 だが、愚かな大衆は、同意を求め、慰めを求め、こんな奴らの、口車に、まんまと乗せられる。こんな調子では、簡単に、見破ることができる、詐欺電話の嘘や、電子メールの誘いに、いとも容易く、騙されるのも、無理はない。流石に、自分達の嘘については、白を切るが、詐欺師共の、犯罪を、撲滅しようと、政府は、躍起となる。警察が、乗り出すのは、当然だが、それ以上に、知恵を付けねば、とばかりに、教育に手を入れる。だが、こんな矛盾に満ちた、考え方は、無いのだろう。一方で、マッチポンプ方式で、有る事無い事、言い並べて、騒ぎを作りながら、くるりと振り返って、詐欺を撲滅、というのでは、道理が成り立たない。政治への信頼は、今回の騒動で、世界各地で、失われてしまったが、この国に限っては、依然として、多くの人々が、頼りにしているようだ。その片棒を、担いでいる、報道機関は、本来の役割である、権力批判を、この件に限っては、すっかり棚上げして、煽りに、手を貸しているのだ。その理由は、おそらくだが、はじめに書いたように、寄り添うことが、最重要であり、その為には、正しいことを、説く代わりに、騒動を、続ける方に、舵を切ることが、大切だったのだろう。原稿読みを、常とする連中が、庶民目線と称して、分かり易さを、前面に押し出し、その実、様々な解釈を、紹介することで、混乱を招くより、ただ一つの、騒動を大きくする解釈を、正しかろうが、間違っていようが、全く知らぬふりをして、伝聞を繰り返す。この調子が、続いた中で、気付いた人も、居るには居たようだが、現実には、ほんの一握りで、多数は、鵜呑みだけだ。

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3月10日(金)−基本なの

 同じことを、繰り返すのは、新たな情報を、遮断しているからか。あるいは、心揺さぶられる、下らない煽り文句に、辟易した結果か。他にも、人それぞれに、理由は、数え切れぬ程に、あるに違いない。が、何れにしても、騒動が、下火となり、忘却の彼方へと、進むのは確かだ。
 その中で、叫び続けることで、自らの立場を、守ろうと躍起になる、例の人々は、どんな気持ちだろう。3年に渡り、政府から、全幅の信頼を、得てきたのに、このままでは、舞台を降ろされるどころか、名誉も、奪われかねない、と気が気でないだろうか。どの道、今、出来ることは、限られている。その中で、新たに示した、とされる基本は、これまで同様、誰もが、思い付く内容で、呆れるしかなかった。それも、一部の報道が、取り上げただけで、愛読する新聞には、一切触れられず、忘却の文字が、思い浮かぶ。役立たずの提言を、繰り返しても、まだ、懲りもせず、「5つの基本」などと、触れ回るのは、専門家として、恥ずべきことと、思うのだが、現実には、彼らを登用した人間が、恥を知るべきで、あの人々の能力が、足らないのは、端から知れたことだった。この国の役所は、一度始めたことを、途中で、変更することこそ、恥と思うらしく、こんなやり方が、今回も、踏襲された訳だが、国民の多くは、承知しているのだろう。だが、一方で、街行く人々の、異様な行為には、所詮、庶民の程度が知れており、非科学的な提言も、その後の、不手際の数々も、承知したと言うより、何も理解できていない、と言った方が、正しく、把握できている、のかも知れない。それにしても、今回の騒動の顛末が、教訓となるかについては、これまでの災害や事件同様、期待しても、裏切られるだけだろう。批判する側も、一見、正しい指摘を、しているようだが、その実、同じ穴の狢に過ぎず、異なる間違いを、犯しているだけだ。人間、そんなもの、と思えば、気が楽になるかも、なのだが。

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3月9日(木)−疎外感

 数日後には、制度が変わる、と言われているが、世間では、その気配さえ、感じられない。街中を、歩く人々は、相変わらず、口を覆う物を、装着したままだ。誰とも、会話もしないし、一目散に、何処かに向かうだけで、立ち止まることも無い。これが、異様な光景と、なるのか。
 分類の移行自体、後手に回ったままで、迅速な対応を、怠った結果、こんなに捻じ曲がった、状況を招いた。ただ、それだけで、片付けてしまえば、それで済むのだが、世間の騒ぎは、早々には、収まりそうにない。理由は、極々単純で、扇動の主共が、主導権を、手放したくないのだ。既に、覆う必要の有無については、監督官庁からの通告で、とっくの昔に、片付いている筈が、未だに、未解決として、何度も取り上げられる。他人の目を気にする、国民性故か、はたまた、感染予防に対する、伝統的手法だからか、真偽の程は、定かでないものの、科学的な根拠も無く、また、その検証さえ、行わぬままに、迷走を続けるのは、無駄としか思えぬ。だが、街行く人々の多くは、大真面目に、自分の方針を、述べているようだ。と言って、そんなものに、何の意味があるのか。他人がするから、自分も、という魂胆では、何事も、変わることが無い。何時まで、こんな茶番を、繰り返すのか、冷静に、考えてきた人間は、呆れるばかりで、もう、助言のしようが無い。この事態を、国民性という、解釈で済ますのなら、それはそれで、構わぬことだ。だが、それによって、不利益を被る人間は、黙っておけ、と言われるのは、心外なのだ。特に、奇異な目を、向けられ続け、その上、暴言を、浴びせられたり、時に、危害を加えられた人間には、こんな状況は、さっさと御免被る、と思うのが当然だろう。だが、今の状況を、見せつけられると、週が明けた途端に、景色が変わることなど、あり得ないとしか、思えない。結果が、どうなるのか、知る由も無いが、少なくとも、着用する人間が、奇異な目を向けられたり、危害を加えられることが、無いように望むのみだ。

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3月8日(水)−懲りない輩

 断末魔の叫び、とは言い過ぎか。だが、今の状況からすると、そうとしか受け取れない。あれ程の騒ぎを、引き起こした人々は、今まさに、崖っぷちに、追い込まれている。確かに、犠牲者は、それなりの数、生じた。後遺症に、苦しむ人も、居ると言う。だが、予想とは、食い違っている。
 世界的な傾向として、既に、嵐は過ぎ去った、とされる。その理由は、定かではないものの、様々な要因が、引き合いに出される。だが、騒動そのものも含め、科学的な解析は、全くなされていない、と言っていいのではないか。その中で、煽りを続けた各国政府も、総括することなく、方針変更を、始めている。この国も、人々を、洗脳してきたからか、方針変更が、支障なく進むか、まだ、懸念が残るけれども、一気に、緩和の方向に、走り始めた。その中で、取り残されたのは、国民ではなく、騒ぎを煽り続けた、国の委員会や、専門家と呼ばれる、人々だろう。科学的な根拠を、示さぬままに、危険性のみを、前面に打ち出した結果、根も歯もないことが、記録として残ってきた。そこに、全面撤退の決定、と思われる、方針転換が起きた。となれば、これまで、耳目を集めた、とされた発言の主共は、蚊帳の外へと、追いやられる。だけなら、まだましで、日々の収入を、失うこととなり、皆からの尊敬の眼差しも、失われてしまえば、自らの存在価値は、無くなったも同然だろう。その中で、これまで同様に、性懲りも無く、何の確証も、得られていないことを、繰り返す形で、提言を掲げている。内容は、見る価値も無く、聞く価値も無い。だが、いつの日か、同じ騒動が、再燃した時に、自分達は、警句を発したのだ、という証を、残したいのだろう。そんな連中を、都合よく使い、煽りの片棒を、担いできた報道は、今回も、何も考えずに、提言を伝える。愚かな連中には、ただ、目の前の利益しか、見えないのだろう。だからこそ、本当の総括を、行わないと、こんな愚行が、繰り返されるのだ。反省の文字は、彼らの目には、入らないのだろう。

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3月7日(火)−罪悪感

 ここ暫くの話題で、もう一つ、島国根性には、無関係な情報を。自分の国ではない地域で、暮らす人間にとって、独特の感覚は、疎外感と共に、罪悪感とでも言うものがある。疎外感については、逆の立場から、何となく、想像が付く、と思う人が、多いだろうが、本当だろうか。
 海の向こうの大国に、住む外国人にとり、日々の暮らしで、感じる疎外感は、かなりのものと言われる。それに加えて、その人々を表す言葉に、驚いた人も多い。在留外国人や異邦人を、表す言葉として、alienと呼ばれるが、あの映画以来、別の感覚を催すのだ。他の星からの、生命体を指す言葉として、間違ったものではないが、あの気味悪さを、自分に対して、当てはめられた、と思ったら、どうだろうか。あれ以来、使用を控えるべき、とも言われるようだが、公式用語として、使われるのだ。一方、罪悪感に似た感情、と言われるものは、今の、ウクライナからの避難民や、こちらで働く人々に、広がっている、と言われる。これに関しては、同じ国に暮らしても、同じ感情に、苛まれた人も、居るようだ。大震災をはじめとして、多くの自然災害に、見舞われた人々が、画面に映し出される度に、遠くに暮らす、同郷人が、似た感覚に、襲われるらしい。確かに、被害の程度が、大きい程に、そんな感情を、抱くのだろうが、同情とも違う、感覚の出所は、何処なのだろうか。よく、同じ経験を、することが大切、などと言われるが、それと似ているのかもしれない。だが、それとこれとは、大きく違うと思う。経験を積む、という点では、同じに思えるが、自発的なものと、自然災害とは、全く異なるからだ。だから、知らぬふりをせよ、と言うのではない。同じ環境に、身を置かずとも、相互に、関係を築くことは、できるだろう。その中で、互いに、自分のできることを、行うことこそが、大切なのではないか。その意味で、罪悪を、感じる必要は、全く無いと思う。

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3月6日(月)−真意は何

 彼女が、悩まされている、「勝利」と「平和」の違いは、編集過程で生じた。避難した自国民に、問い掛けた際に、発せられた言葉を、当初、正しく「勝利」と訳したが、他の編集者、恐らく上司だろうが、から、強過ぎると指摘され、「平和」と変更したのだ。
 ところが、それに対して、自国民達から、間違いを指摘された。発言者は、「勝利」を望む、と言っているのに、何故、「平和」と訳すのか。そこに、大きな違いがある、というのだ。平和とは、平穏を指し、侵攻された国が、現状を受け入れ、此処から、平和を目指す、という意味に受け取られた。一方、勝利とは、この戦いを、勝ち取ることを、意味すると受け取られた。何方も、言葉の意味として、間違いではない。だが、双方には、異なる見方が、存在したのだ。平和が、平穏を重視するとはいえ、そこには、現状なのか、元の状態なのか、という点に、触れずに置く、という考えがある。まずは、平穏を、という願い、という訳だ。一方、勝利とは、戦いに勝つことだが、それは、以前の戦争のように、敵国を打ち負かし、その領土をも、手に入れるという意味ではなく、単に、攻め込まれた、自らの領土を、取り戻すという意味もある。これらの違いに、悩むのは、言葉を操る職業に、就く人間としては、少々心許ない。双方の定義を、相手側に、紹介することこそが、彼女の役割、と思うのだ。現代社会において、弱者救済は、一大命題ではあるが、その過程において、一方的な要求や、一方的な対応が、繰り返されることが、問題となり始めている。そこには、救済を、最優先させることに、心を奪われて、そこにある筈の、中心課題を、見誤る瑕疵が、存在することに、皆が、気付くべきではないか。この問題でも、彼女一人に、全てを任すことは、間違いだろう。まずは、重要なことを、見つけ出すことで、果たすべき役割を、見極めることが、肝心と思う。

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