パンチの独り言

(2023年3月13日〜3月19日)
(梃入れ、浅知恵、同じ景色、独唱と合唱、敵か味方か、聞く技術、相互作用)



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3月19日(日)−相互作用

 では、あの本に、書いてあった、困った人々から、話を聞く為に、また、聞いてもらう為に、必要な技術ではなく、普段の生活で、他人の話を、拝聴する為に、つまり、聴く為に、必要な技術とは、何だろうか。また、聴かせる技術とは、何だろうか。少し考えてみる。
 昔、他人、特に、先生の話を、聴いている時に、何を考えていたのか。そこから、考えることにしよう。集中力が無く、一つ事に、熱中することも、少なかった子供には、周囲の子らと、授業中に話をするのは、当たり前だった。だが、先生から見ると、それでも、他の子供が、自分の話に、引き摺られて、先生の話を、聴いていないのに、話の主の自分は、何故か、話の要所を、聴き逃していない、と映っていたらしい。そこから見えるのは、集中することが、聴く技術とは限らない、ということだ。却って、他のことと、比較することで、記憶や理解に、結び付けることが、できるのだ。そんな筈は、と思う人が、多いのではないか。自分が、話を理解できないのは、つい、他ごとを考えるからで、集中さえすれば、できるようになる筈、と。確かに、全く無関係のことを、思い浮かべてしまっては、上の空となりかねない。だが、相手の話に、合わせた上で、それに関連したことを、思い浮かべるのは、頭の中で、繋がりを作り出す、きっかけになる筈だ。そこを、巧く繋ぎ合わせて、例の芋蔓を、作り出すことは、理解や記憶に、役立つという訳だ。集中するのは、話を、一言一句違わずに、覚える為には、役に立っても、内容を理解することも、長い間、保持できる、記憶を形成することも、叶わなくなる。人間の、知の営みは、実は、こういう形で、行われているのではないか。見る行為も、頭の中に覚えている、形との比較で、行われているし、読む行為も、既に、身に付いた知識との比較で、行われている。幼児のような、真っ白な状態とは違い、様々な知識がある状態では、こうすべきだろう。

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3月18日(土)−聞く技術

 先日も、外国人の苦悩を、書き記したが、意思の疎通は、誰もが、直面する問題だ。だからこそ、教育で、その技術を、身に付けさせようと、躍起になっている。コミュニケーションと称して、その技術向上に、役立つ講義を、開く大学もあるが、何処か、ズレを感じる。
 横文字として、別物となった、という訳でもない。communicationだろうが、コミュニケーションだろうが、意思疎通だろうが、どれにしたって、何をどう学ぶのか、何を身に付けるのか、が肝心だろう。違和感を、覚えるのは、これらの技術として、多くが、会話術だったり、発表術だったり、目的として、説明の技術を、伝授しようとする。確かに、こちらの思う所を、的確に、相手に伝えるのは、意思の疎通だ。だが、一方的な形でなく、双方向で考えると、説明だけでは、不十分に思える。特に、多くの人々が、抱える問題を、眺めてみると、説明は、滔々と行うのに、相手が、発した疑問を、掴むことなく、一方的な説明に、終始している。型通りの説明を、終えた所で、相手から質問されても、先ほど説明した通り、とばかりに、同じ言葉を、繰り返す。相手が、何故、その説明を、理解できなかったのか、どこで、引っかかったのか、兎に角、それらの点を、把握できないのだ。要するに、話す技術だけでなく、聞く技術も、肝心ということだ。先日、題名に釣られて、聞く技術なる本を、読んでみた。心理士と呼ばれる人が、著した本は、こちらの望んだ、聞く技術ではなく、全く別の、悩みを聞き取る技術を、説いていた。それはそれで、混迷する時代に、重要なものだろうが、もっと日常的に、必要となる、聞く技術を、と思ったのだ。確かに、この本でも、似たような状況は、想定されている。だが、聞き出すべきは、相手の悩みであり、心配なのだ。それとこれとは、大きく違ってくる。質問は、勿論のこと、誰かの話を、拝聴する場合にも、聞く技術は、不可欠となる。どうだろう。

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3月17日(金)−敵か味方か

 人工知能に、画期的な進展が、あったと言う。単なる、検索の道具ではなく、問いかければ、多くの質問に対する、妥当な回答を、提示するとされる。興味があれば、chatGPTを、試してみればいい。改良が加えられ、文章だけでなく、絵画さえも、作り出すと言われる。
 この話題が、伝わったのは、海の向こうの、教育関係者からだった。その実力から、学生が、利用し始めると、試験やレポート課題に、支障が出る、という懸念だ。こちらでも、同様の懸念が、広がり始めた。課題を、入力すれば、それらしい、文章を作成し、送り返してくる。はじめは、学生が書いたものと、遜色ない程度、とされていたが、その後、改良されたものでは、専門家との違いが、見えないとされる。囀りを、はじめとする、社会媒体の世界では、例の如く、過剰な反応が、起き始め、騒ぎが、広がっている。思い出すのは、製造の現場で、自動化が進み、多くの作業を、ロボットに託すようになると、仕事が奪われる、という懸念が広がった、四半世紀程前の状況だ。単純作業を、繰り返すだけの、組み立て工場では、確かに、その段階は、ほぼ全てで、人間に代わり、ロボットが、稼働するようになった。人員削減に、直接結び付いた所も、確かにあったが、別の高度な作業を、作り出すことで、雇用を確保した所も、多かったのではないか。それでも、日進月歩の技術革新は、次々に、転換を進め、工場の人員は、当時と比べ、激減したのだ。そこから、今度も、同様のことを、懸念する声も、上がっている。だが、この心配は、要らないと思う。一方、教育現場の懸念は、どうか。こちらは、質の低下が、現実となりつつある中、その加速が、進む可能性は、確かにあるだろう。だが、低下の要因は、何も、教わる側だけに、あるのではない。教える側が、確かな対処もせず、怠慢を続けたことに、主要因があると思う。今回の騒動も、そちらの解決で、十分に対応可能、と思えるのだが。

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3月16日(木)−独唱と合唱

 囀りをはじめとする、SNSは、時に、社会媒体とも呼ばれるが、登場当初は、一部の、趣味的な人々の、集まりに過ぎなかった。だが、徐々に、その数を増やし、大災害や大震災の際に、公共の情報が、行き届かなくなると、その威力を、発揮し始めた、情報源として。
 確かに、混乱の最中、責任ある立場の、役所や政府は、自らも、混乱の淵に沈み、確かな決定を、下せなくなる。それに対して、一般大衆は、目の前で、展開する光景を、そのまま伝えれば、情報として、他の人々の役に立つ、という利便性が、際立ってきたのだ。権威ある筋より、市井の人々の、呟きにこそ、真実がある、という訳だ。そこまでは、成長の過程、だったのだろう。だが、そこから先は、不埒な奴等の、遊び場と化し始めた。嘘をばら撒き、捏造を繰り返す。そんな行為が、愉快犯によって、繰り返されると、善良な市民は、噂に惑わされるようになった。権威は、それらを、否定することに、追われるばかりで、肝心な決定を、下す為の時間さえ、失ってきた。結果として、媒体を管理する企業が、情報の管理を、徹底する必要が、出てきた。それが、成長を止める圧力となり、更に、興味が失われるに従い、広告などの収入が、激減することで、経営が圧迫された。現状は、そんな所だろうか。前から書くように、そこに、救世主として、現れた人物が、梃入れを図り、皆の期待を集めたが、さて、何が変わったのか。根本の仕組みは、変わる筈も無く、参加者の倫理道徳感も、変わる訳が無い。ただ、連鎖的な情報伝播に、少しの変化が、起きているような、気配がする。囀りでは、個人の考えを、発信することは、依然として続いているが、その後の、他の人々の反応が、爆発的に起きることが、少なくなった、のではないか。そうなると、情報の質が、改善されることも、少なくなるから、この措置は、逆効果と思える。どれもこれも、独り言に、なるだけだからだ。此処と同じで。

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3月15日(水)−同じ景色

 変更後、景色の変化は、どうだろうか。予想通り、報道は、せっせと、負の宣伝を、繰り返している。曰く、怖い、皆がしていない、面倒、等々、文句を並べる人々を、選んでいるのか、圧倒的多数となる。だが、ここでも、肝心なことは、全く行われない。調査解析だ。
 無能な専門家達は、前に書いたように、断末魔の叫びを、連日、発しているが、これも、報道が、見向きもしなければ、取るに足らぬ、戯言でしかない。だが、ここでも、負の宣伝とばかり、実しやかな指針を、並べている。それも、何の検証も無く、科学的な解析には、遠く及ばぬ状況だ。確かに、政治家や、政府の役人達は、これも、芝居掛かっているが、未装着の姿を、見せつけている。こちらも、所詮、何の根拠も無いが、それとて、どの道、何方もどっちであれば、同じことなのだろう。さて、その中、遠出をしてみた。電車の中は、これも、予想通りだが、ほぼ全ての乗客が、装着したままだ。一部、着けていない人も、手に、それを持っていたり、所謂、顎マスクと呼ばれる、無意味な姿を、晒している。一方、都会に出てみれば、少しだけ、景色に変化がある。未装着の数が、増えるのだ。ざっと眺めてみると、若者、と言っても、十代ではなく、三十代近辺が、多いように感じる。学生達は、大人の心配を他所にか、同じ姿のままのようだ。中に、車中で、こちらに目を向け、関心を示す者も居た。ただ、彼らの心中は、計り知れない。このまま、この国の人間は、過剰防衛を、続けると言うのか。あるいは、単に、皆で渡れば、といった調子で、状況が変われば、自分も、押し流されるのか。臨機応変とか、必要に応じてとか、そんな観点は、現時点では、無いように感じられる。特殊性と言えば、それまでかもしれないが、こんなことで、いいのか、とも思える。大学や高校は、この春から、前の学校で、在学中ずっと、着用し続けた人々が、進学してくる。さて、どうなるのか。

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3月14日(火)−浅知恵

 浅知恵を、連想させる話が、伝わってきた。と言っても、当事者達や、投資家にとっては、自らの資産が、弾け飛ぶかも、と思える事態だったから、気が気では無かったろう。海の向こうの銀行が、破綻したとの報道が、あったのは、先週末のことだ。休みが明けて、どうなった。
 自己責任の国、として、こちらの人々は、あちらの状況を、考えてきた。それは、自由を謳歌できるが、一方で、何かあれば、全ての責任が、身に降りかかる、という意味として。だが、今回の騒動は、そうならなかったようだ。ここ数年、自己責任と言われつつ、感染症への恐怖や、軍事侵攻を、受けた国への支援など、個人の判断ではなく、社会としての判断が、重要との風潮が、強まってきた。そのせいも、あるのではないか、と思うのだが、今回の事態も、本来なら、保護される預金額が、法律で限定されるのに、全額保護との決断が、連邦政府から、打ち出された。このこと自体、以前なら、考えられぬことだが、愚民政治の、一つの表れ、かもしれない。何が、浅知恵か、この点ではない。銀行の、健全性を保つ、という政策で、様々な制限が、掛けられてきた。にも拘らず、今回の事態が、生じたことは、そこにあるべき、予防的措置が、十分に、効力を果たせず、結果として、破綻したことを、示している。計算上は、十分な対策が、講じられていた筈が、そうはならなかった。これが、一つ目の浅知恵だろう。もう一つは、経済対策そのものに、関することだ。今回、物価上昇を、抑える為として、金利を、次々に引き上げてきた。これが、破綻の要因として、指摘されており、次回の引き上げが、見送られるのでは、との憶測も飛んでいる。こちらは、物価との兼ね合いが、考慮されたが、その結果として、国債などの、債券の価値が、急落したことが、破綻の原因とされ、経済対策も、多面的な把握が、不十分だったことを、如実に表す。これも、浅知恵か。難しいものだ。

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3月13日(月)−梃入れ

 最近、囀りの様子が、変化している、ように感じられる。まず、広告の表示が、増えたと感じられ、五月蝿いとしか、思えなかった。次に、起きたのは、元々は、繋がりを望んだ人達の、発言ばかりが、表示されていたのに、この頃は、無関係な発言が、目立つのだ。
 想像するに、これらは、全て、買収した人物の、方針に見合ったもの、なのだろう。民主主義とか、自由主義とか、そんなことを、気にする人間にとり、嘘や捏造が、企業の方針として、制限されるのは、おかしいと指摘し、そこから、企業買収へと、話が発展した。良識ある人間は、嘘や捏造を、見破る能力を有し、それにより、厳しい社会を、生き抜いている、とでも言うのか、真意は、見えて来ないが、行き掛かり上、責任を負う、となった訳だ。その上、厳しい制限により、前大統領が、排除されたことが、参加者の激減に繋がり、広告収入も、激減したことから、収益が上がらず、経営も逼迫していた、と伝えられる。だから、有意義と考える、この仕組みを、支えるべきとの、判断からか、口だけでなく、金も出したようだ。だが、彼の考えには、根本的な過ちが、あるように感じられる。それは、つまり、嘘も捏造も、構わないという、考え方だ。当初は、参加者の善意に基づき、各自が、正しい情報を提供し、それを拡散する、という目的が、成立していたが、徐々に、良からぬ輩が、顔を出し始め、汚れた社会が、反映されてきた。結果として、法律での制限が、課されることとなり、社会的な責任が、そういう集まりにも、適用されている。その中で、受け手の責任のみで、物事を片付けることは、不可能となってきた。結果、制限をかけ、社会的地位が高い人間でも、それが適用されることを、明らかにしてきたのだ。これ自体、何の間違いもない、と思う。道徳倫理というものが、個人の都合で、何とでもなる、ということが、自由とはならないからだ。だとして、さて、今の状況は。

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