自由な意見を、交換する場とか、有用な情報を、手に入れられる場とか、そんな状況に、なりかかったものが、いつの間にか、全く別物の世界を、築き上げることとなった。現実には、始めた人間も、そんな有意義な場を、作れるとは、全く思っていなかっただろうが。
はじめに書いた話は、あくまでも、後付けのことであり、当初は、おそらく、仲間内の談話室、ぐらいの話だったのではないか。しかし、参加者が増え、とても、仲間内とは、言えない程の規模に、膨れ上がると、逆に、意見は、多様になり、情報は、多彩となった。そこで、意見交換の場とか、情報収集の場とか、そんな見方が、広がった訳だ。要するに、運営側の思惑は、大したものでもなく、また、大義名分を、語れるようなものでも、なかったろう。だが、多種多様な人々が、集まることで、一時的には、質の向上が図られ、価値が上がれば、更に、参加者が増える、という正の連鎖が、起きるものだ。だが、それが、ある所を越えると、逆に回り始め、負の連鎖が、続くようになる。仮想空間の営みは、こんなことが、簡単に起き、誰も、止められない状態へと、移っていく。となれば、仕組み自体が、破綻するか、あるいは、全く別のものへと、転移するしかない。厳しい制限が、かかる場合もあるが、逆に、自己統制が、図られることで、収束する場合もある。その移行期に、当たるのだろう。そんな世界では、好き勝手な発言を続け、他人を罵倒したり、生産性の無い、無益な議論を、挑む人間も、出てくるものだ。その中で、役に立つ作法は、一度だけ、相手をする、というものらしい。無意味な論争では、相手になるのは、無駄でしかなく、その上、嫌な思いまで、抱え込んでは、馬鹿を見る。だったら、一度だけで、あとは、吠えさせておけば、すぐに飽きて、次の標的へと、移っていくだけだ。所詮、文句を並べ、不平不満を吐くだけでは、何も変わらない。無駄とは、そんなものだ。
囀りの世界が、変化している。と言われるが、果たして、そうだろうか。前に書いたように、経営者が代わり、方針の変更が、あったとされる。確かに、そんな気も、しないでもないが、果たして、改善となったのか、それとも、本質には、変化が無いのか、定かではない。
仕組みが変われば、良くなる筈、とあの人物は、就任前に、話していたらしい。そして、自由な発言こそが、囀りにとり、また、参加者にとり、重要な要素だ、とも。だが、以前も、そして、今でも、発言の自由が、脅かされているとは、思えない。その代わり、無責任な発言や、嘘や捏造が、蔓延ることで、被害を受ける人が、増えることに関して、運営する側が、どんな責任を、負うべきか、また、負わされるのか、については、まだ、結論が出ておらず、その点に関しては、方針が変わったとしても、すぐに、改善されるとは、誰も思っていない。自由を謳歌すれば、そこに、別の問題が、生じることは、確かなのだが、一方で、全ての参加者が、それを認識しているかは、怪しいものだからだ。自分が、犯した過ちに、どんな責任が、生じるのか、とか、誰かの過ちにより、被害を受けた場合に、その保障は、なされるのか、とか、そんな問題が、まだ、燻っている。新しい経営者は、そのことに関して、言及している訳ではなく、各自が、自己責任で、問題を解決すべき、としているようだ。これでは、被害を訴える人々を、救済することは、できない。それは、自業自得だからだ。騙されるのも、脅されるのも、それを受ける側にも、責任がある、となれば、運営する側は、何の責任も、負わずに済む。確かに、良識や節度が、全てにおいて、通用するのであれば、何の心配も要らない。ただ、自由に発言し、意見交換すれば、問題は、何も生じないのだ。だが、果たして、そうだろうか。他人を、脅したり、不快にさせたり、果ては、騙す人間が、確かに居る状況では、この論理は、成立しないのだ。
更に、肩身が狭くなったか。喫煙は、害を及ぼすと言われ、副流煙のように、他人にまで、となってから、職場や公共の場でも、厳しい規制を敷かれ、遂には、家庭にまで、その手が及んできた。一方で、擦れ違う車中で、喫煙する女性を、見ることも増え、微妙な状況だ。
その中、ドラッグストアで、煙草の販売を、中止する所が、出てきたと言う。薬局とは違い、日用品や食料品まで、売り出すことで、ある時期から、急速に、店の数を増やすが、小さなスーパーに、見える存在だ。薬を売りつつ、煙草を売るのは、矛盾するとの判断らしいが、さて、どうしたものか。元々、健康に害が、と言われる一方で、高齢者の喫煙が、目立つ実情に、体質の違い、と見る向きもあった。ただ、副流煙の問題は、他人への危害だから、規制も止むなし、なのだろう。感染流行が、急速に広がり、死者が急増した時、真っ先に、喫煙者が、危ないとの指摘が出たのも、感染の症状が、呼吸器の炎症であり、喫煙習慣で、傷んだ呼吸器が、との思い付きからだったが、現実には、炎症は、免疫の過剰反応の現れであり、息の根を、止められることが、死に繋がるものの、呼吸器の状態より、免疫に関する体質の違いが、標的ではないか、との指摘となり、すぐに、喫煙との関連は、忘れ去られた。何れにしても、調査が不十分で、どれも、正答とは成り得ず、宙に浮いた状況だが、これとて、調査が行われるとも思えない。一方、肩身の狭さについては、喫煙者の感覚と、同じようなことが、今回の感染騒動では、様々な面で、現れており、確証無しに、追求する風潮は、相変わらずだ。以前、副流煙の話を、医者の卵にしたら、喫煙者の彼は、世の中には、珈琲の香りが、苦手な人も居る、などと的外れな反応を、返してきたが、医療現場は、こんな具合に、勝手な解釈と、不確実な言説が、罷り通る世界なのか。信頼できる医者に、出会いたいものだが、選べぬことも多く、困ったものだ。
騒動で、一番犠牲になったのは、皆の娯楽ではないか。日々の、週や月に一度の、ほんの偶の、人それぞれだが、楽しみとして、行ってきたものが、出来なくなった。まるで、戦中の、欲しがりません、勝つまでは、の掛け声の如く、奪い去られ、強い我慢を、強いられた。
楽しみは、人それぞれで、遊技場に、足を運ぶ人も居れば、映画を、楽しむ人も居る。だが、人が集まれば、感染が広がる、とばかりに、悪者扱いされ、楽しむ人々も、非常識な、凶悪人物の如く、扱われた。無知のなせる技、とは言え、こういう無知ぶりは、戦中の行状と、何ら変わらず、時に、個人の人格をも、傷つける悪行となる。賭け事に、興じる人々は、不景気の中、減ることも無く、活況が続いてきたが、映画は、もう随分と、不況の淵に、落ち込んだままだ。騒動の最中も、また、今もまだ、客は戻らず、授賞式の中継も、絵空事にさえ、見えてしまう程だが、先日、初の受賞として、話題となった作品を、観てみた。エブエブと、略される題名の作品は、典型的なドタバタで、期待を裏切られ、受賞も、まさかとは思うが、過去の人種差別問題を、引き摺った結果か、とさえ思った。一方、主演人物の、名を冠した作品は、頑固な人間の、不幸を主題としたもので、気難しさから、敬遠され勝ちな、内容に思えたが、正論を吐き、嫌われても、諦めない人物の、気持ちの変化を捉え、周囲の人間との、関係修復さえ、手に入れる筋書きに、不幸ではなく、幸福が感じられた、いい作品となっていた。確かに、娯楽としては、ドタバタも、一興とは思うが、評価として、どう見るかは、別物だろう。幼児体験で、火傷を負わされ、遠い存在となった、映画館も、最近では、娯楽として、楽しめる存在と、なってきた。ただ、その内容については、何かを、考えさせられる、という点が、大切だと思う。そこに、演出の妙があり、また、足を運ぼうと、思う気持ちが、出てくるように。
光景は、一向に、変化しそうもない、ように見える。だが、少なくとも、一つだけ、大きく変わったことがある。好奇の目が、向けられるものの、誰も、注意をしてこない、という点だ。ただ、少ない経験では、囀りなどで、盛んに揶揄される、頑固な店と、同じは無いのかも。
入り口に、明示されていた、着用要請の文言は、ほぼ消え去った。だから、各自が、好きにすれば、となった訳ではない。同調圧力は、強く残存し、皆が、心の中はさておき、従来と同じ、姿で歩き回る。それでも、ごく少数の人が、無防備な姿で、歩いてはいるが、ほんの僅かに、限られている。一方で、発言の場では、証拠写真を掲げて、Xデー以降も、従来通りを、貫くことを、決めた店を、盛んに攻撃する。何方もどっち、なのかも知れぬが、現実には、場所の所有者が、決めても良い、という考えなのだろう。人権を、考えた時に、例えば、訴訟に持ち込まれたら、どうなるのか。時間の無駄には、違いないが、尋ねてみたい気も、少しはするものだ。が、一方で、報道は、今朝の新聞も、昨日のニュースも、依然として、数値の報告に、余念が無い。前に書いたように、予測不能の事象だから、備えを怠らず、という考えに、間違いは無い、との方針だろう。だが、この数字自体に、どれ程の意味があるのか、当事者は、理解しているのか。それとも、習慣化したものは、すぐには、捨てられない、とでも言うのか。何れにしても、今後、どんな経過を辿るのかが、庶民の日常にとり、重要な事柄、と思うだろうが、現実には、そんなことは、全く無いのだ。日々の生活で、自分の健康に、どれだけ配慮するかは、人それぞれで、各自、勝手に決めれば、いいだけのことだ。今回の騒動が、社会的に、如何に悪影響を、及ぼしたかは、この点に、集約されると思う。何しろ、自分より、他人、社会を、優先して考えろ、というのだから。馬鹿も休み休み、と思うのは、ここでは、異端の典型なのだろう。
街の景色は、依然として、喧騒の最中にある。だが、これは、一部の国に、限られた話で、例えば、海の向こうでは、もう、以前と変わらぬ、光景に戻ったと言われる。元々、マスクの効用については、見解が大きく異なり、一部の国では、以前から、着用が習慣だった。
それに対して、海の向こうでは、好奇の目が向けられ、時に、爆笑さえ、起こったと言われる。その背景から、今回の展開は、当然の結果とも言われるが、それにしても、大海を挟んで、理解不能な状況が、起きている。その中、あちらに渡り、医師をする人間が、語った話は、興味深かった。自身も感染し、生死の境を、彷徨ったらしいが、人工呼吸器、正確には、ECMOと呼ばれる医療機器で、体外式膜型人工肺といい、呼吸を助けるのではなく、機能しなくなった肺の代わりに、酸素を血液に送り込む機械だが、それによって、命を救われたようだ。その後、やっと職場復帰し、手術も手がけるようになったが、彼が、見た海の向こうとこちらの違いが、面白い。例えば、医療崩壊について、流行の頂点で、野外病院まで、設置された時期、あちらでは、確実に、崩壊が起きていたが、それが取り沙汰されることは、無かったのに対し、こちらは、そんな事態に、至ることが無く、現場が、危機に瀕していたとはいえ、大きく違う状況だったのに、崩壊を、騒ぐ人々が、沢山居た。心配は、必要だが、一方で、そればかりに、目を奪われ、自分を含め、対処すべき事柄を、見失うのはどうか、という意味だった。治療薬についても、制度の違いから、使用を控える状況は、如何なものか、という指摘もあった。ただ、こちらに関しては、従来から、重症化の頻度や可能性が、まちまちなのに、一律に考えるのは、どうかと思う。ここでは、個人の判断を、優先させる社会と、社会の安全を、優先させる国との、違いがある。更に、社会優先が、個人を、蔑ろにするとしたら、という警句が含まれる。
何も、変わっていない、と思う人が、多いだろう。確かに、景色の変化は、殆ど無い。以前、書いたように、赤信号皆で渡れば、の如く、他人と同様を、目指しているからだ。だが、この光景は、正反対であり、青信号皆が渡らねば、動かない、となっているのでは。
逆に言えば、ほんの一握りの人が、お墨付きが出たのだから、とばかりに、歓迎して外しても、他の人々は、怖いからとか、危険だからとか、口にしながらも、本心では、皆がやれば、と思っている。となれば、時間の問題、と思う人も多い。ただ、一部の専門家達は、全く別のことを、考えているようだ。叫びとまで、思いたくなる程、馬鹿げた指針を、改めて出したのも、その一つだが、肝心の政府も、依然として、同じ論調を、維持している。大臣も、官僚の多くも、表向きは、外してみせるが、監督官庁は、相変わらず、接種の推奨を、止めていないし、危機が去ったとは、一言も口にしない。それどころか、これまでの状況を、解析した上での総括を、とは、その気配さえ無い。それに加え、騒動を煽ることに、加担してきた報道も、依然として、数の報告を、日々続けており、再上昇を、見越した動き、とも思えるのだ。この姿勢は、大震災後の事故から、放出された放射性物質の影響で、各地に残った放射能を、日々、定置観測として、報道していたのと、似たように見える。だが、前者は、予測不能な変化を、繰り返すのに対し、後者は、減衰の一途を辿るものだ。決して、同等に扱うべきものではない。にも拘らず、同様に見えるのは、当事者の無理解による、としか思えない。まあ、流行性感冒同様、毎年、季節的流行を繰り返すのと、似たようなもの、と見るべきだろうか。何れにしても、今後の展開がどうあれ、皆と同じを、貫く人々は、外す割合が、3割を超えた頃から、急激に、勢いを増すだろう。そして、何事も、無かったかの如く、以前を、取り戻すのだろう。