パンチの独り言

(2023年3月27日〜4月2日)
(囀り、希釈と濃縮、作法、鑑定力、年の劫、口出し、人物背景)



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4月2日(日)−人物背景

 パンチとしては、囀りのプロフィールに、記したように、「匿名ですが、信頼できる情報を流すようにしています。」、ということを趣旨として、「独自のサイトを管理しており、(中略)今では専ら『パンチの独り言』を毎日書いています。」、という立場なのだ。
 そういう背景で、では、この匿名人物は、どんな人間なのか、を気にする人が、居るかも知れない。そういう人は、独り言の「週ごと」を、最初の方から、読んで欲しい。個人を、特定することは、おそらく、できないと思うが、この人物の背景が、少し明らかになる、と思う。どうでもいい、と思う人は、無視すればいい。はじめの頃は、証券サイトも、賑やかだったから、オフ会で、出会った人々を、相手として、独り言を、綴っていた。しかし、管理人だった、1000株さんから、このサイトの管理を、引き継いでから、ふと思い付いて、独り言を始めたから、それから、徐々に、証券社員の関心も、薄れてきて、その他の人々も、去っていったから、10年前位からは、新たに覗く人は、殆ど居なくなっていった。そんな状況もあり、こちらの正体を、知る人々を、相手にしたものから、不特定多数を、相手にしたものへと、内容は変化してきた。だから、最近の独り言は、内容は主観的だが、こちらの正体を、知っていようが、知っていまいが、関係なく、読むことで、何かを感じる、きっかけになれば、という思いで、書くようにしている。その中で、少しは、読者を増やそう、という思いから、囀りを始め、当初は、単に、世間に知らせる、という考えしか無かったが、その内、やはり、遣り取りも必要と、誰かが書いたものに、反応するようになった。フォローという仕組みも、時に利用し、こちらが、情報収集に、使う場合と、発信に、使う場合が、出てきた。更に、最近では、感染騒動だけでなく、時事の話題に関しても、囀るようになった、という訳だ。明日からは、普通に戻りたい。

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4月1日(土)−口出し

 一方で、これまで、独り言では、殆ど触れてこなかった話題に、最近、囀りで、触れている。と言っても、自ら、話題を提供して、というより、一部の人々が、気になる話題として、取り上げたものへの、反応としてだが。それも、多くは、大学に関するものである。
 これについても、人によっては、訝しんでいるだろう。何故、こんな話題に、首を突っ込むのかと。一つには、彼らの話題の中心が、一般社会の認識たる、大学の姿と、少し異なっている、という点が、動機としてある。まるで、特別な社会であるかのように、自分達の関わりを、論じているのだが、何処か、的外れな印象を、抱かされる。ツッコミと言えば、それに近いかもしれないが、何方かと言えば、発言者の真意を、確かめてみたいのだ。一般には、象牙の塔、などと呼ばれる、世間離れした、社会と思われているが、現実には、大した違いも無く、自分らが、特殊と思い込んで、いるに過ぎないと思う。ここでも、論理的に考えれば、彼らの主張の綻びは、簡単に、見破れそうだ。と言って、責める気は、毛頭無い。それより、気付くのを、待っている、と言ったほうが近いと思う。同じことは、研究を行うことにも、通じるような気がする。恰も、頂点を目指して、登っていくが如く、時間をかけ、他のことには、目もくれずに、突き進まねば、大発見という、目標には、到達できない。とでも、思っているのではないか。現実には、研究費を、獲得することが、目標となり、それが、満足できれば、それでよし。また、論文などの業績も、一流どころに、発表できれば、よしとなる。真理を追究する、という話は、何処に行ったのか。大発見は、それ程に、重要なことか。細々とした所に、目が向いてしまう。そこで、一言二言、口を出したくなる。独り言では、そんなことは、決してしない。自分の考えを纏めて、書き綴る場なのだから、誰かとの対話、という形式にはならない。また、主題は、自分で考えるもので、他人が提供する話題には、殆ど興味が湧かない。少し、度が過ぎたかも、とは思う。

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3月31日(金)−年の劫

 独り言では、その時その時の、社会での話題に対し、意見を綴ることが多い。何故、多種多様な事柄に、対応できるのか、不思議に思う人も、居るのではないか。科学的な話題も、多岐に渡るが、それ以外のものも、様々にある。法人税の問題や、社会制度の問題、等々だ。
 長く生きてくると、日々、それなりに、情報に触れる。亀の甲より年の劫、などと言われる所以だが、これを見た瞬間に、顔を歪めたり、嫌気が差す人も、多いだろう。また、年寄りの小言が、始まったとばかりに。確かに、前にも書いたように、今の時代は、多くの情報に、接することができる。以前なら、図書館に出向き、繙かねば、手に入らなかったものも、今では、検索するだけで、多種多様な情報を、手に入れられる。更に、最近は、人工知能を活用し、その手順が、容易になった、とも言われるのだ。だが、ここに、落とし穴が、あることに、気付かねば、損をする。検索は、あくまでも、こちらが思う言葉で、調べることだからだ。日々、人と会ったり、業務をこなしたりする中で、様々な形で、接する情報は、こちらが、意図しようがしまいが、洪水のように、押し寄せる。それを、取捨選択することで、自分の能力を、高めるのだが、一方で、捨てた筈の情報も、後になって、突然、役立つようになる、という場合も多い。ここに、一つ目の、落とし穴がある。更に、もう一つは、人工知能は、確かに、相手をしてくれる、と言われるが、それとて、まだ不十分に、思えるのは、対人関係での、情報交換では、こちらの望むものだけでなく、あちらが、思いついたものまで、話題の転換が、起きることで、多様性が、増すことが多い。そういう形で、思いがけなく、手に入った情報に、助けられることが、多いのだ。これも、経験の為せる技、自己主張ばかりに、拘っている、若い頃には、拒否反応を、示すだけで、実は、損をしてきたことに、後になって気付く。まあ、気付けば、ましだが。

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3月30日(木)−鑑定力

 囀りは、短文に、制限される為、詳しく書くことは、難しい。多くの人々は、続編という形で、自分の意見を、縷縷述べているが、それとて、背景までとなると、更に難しくなる。一方で、読み手は、長々と書かれたものを、読む気は毛頭無く、理解も、深まらない。
 感染騒動に関しては、独り言に、一週間に渡り、書き綴ったものを、抜粋して、囀ったこともある。今も、その一つを、固定しているが、読み易いか、と言えば、否と答えるしかない。社会媒体の多くは、画像などの、視覚的な資料と、短い説明で、読者の理解を、得ようとする。だが、その後の展開を、眺めるにつけ、誤解の方が、遥かに多いようだ。そこに、この媒体の難しさが、あると思う。更に、意見交換に、発展したとしても、昨日書いたように、先入観や誤解に基づき、あらぬ方に、進展するから、手に負えない部分もある。顔を突き合わせれば、もう少し、相互理解が、起きそうだが、さてどうだろうか。放射性物質の汚染と、新型コロナ感染症の流行について、囀りでも、触れてきたが、詳しくは、やはり独り言の方を、読んで欲しい。一方で、何故、こんな意見が、書けるのか、と不思議に思う人が、居るかも知れない。これも、独り言で、触れてきたが、物事を、論理的に考えることが、第一と思う。更に、近頃では、ネット上の情報が、豊富になり、検索により、閲覧が可能となったので、誰でも、確かな情報を、手に入れられる。但し、そこには、偽物や嘘が、ばら撒かれているから、注意が必要だ。その上で、自分で考え、判断することで、自分なりの結論を、導き出せる。囀りのような、伝聞に基づくものでは、誤解の方が、遥かに多くなるから、一次情報と呼ばれる、元のものを、確認することが、大切だろう。今の時代、情報を、手に入れることは、容易になった。しかし、その代わりに、種々雑多なものから、確かなものを、拾い上げる鑑定力が、必要なのではないか。

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3月29日(水)−作法

 それまで、一声も鳴かなかったのに、突然、囀り始めたのは、例の騒動の為だ。あれから、丸3年が、経過したにも関わらず、根本の流れに、大きな変化も無く、無意味な対策が、講じられた挙句、本質が、明らかにされることは、決して無い。無駄な年月だった。
 始まった頃、あまりの荒唐無稽ぶりに、世界が、崩壊するかも、とさえ思えたが、冷静に見れば、何の問題も無く、ただ、無駄な足掻きが、繰り返されるのみだった。その中で、囀りを覗くと、ある一人の人物が、盛んに、この国のやり方を、褒めていた。外国からは、散々詰られ、それに与する、無能な輩は、同じ場所で、批判を繰り返す中、その人物は、専門家でもないのに、ただ、現状を俯瞰して、何方が、誤っているかを、指摘していた。元々、ネット上の小説の世界で、活躍したらしいが、興味を惹いたのは、自分の主張に、反対する人物への、対応だった。一度は、どんな理由にせよ、反論が投げられれば、間違いを指摘するが、二度目が無いのだ。結局、論理を理解できない人間は、相手にする価値無し、とばかりの対応で、囀りでの作法の一つ、と思われた。しかし、主張は、真っ当に見えたので、こちらで、海の向こうの大学の発表を、逐次追いかけて、陽性者の数や、死者の数の、人口当たりの推移を、並べてみた。多分、そこが、始まりだった。その後、数字の推移だけでなく、感染経路の問題や、重症化の理由、治療法の問題など、様々な話題について、調べた所を、囀っていった。その過程で、もう一人、興味深い人物が、海の向こうで、囀っていたが、彼の主張には、大きな偏りがあり、徐々に捻じ曲がっていくと、その支援者と共に、読む価値が、無くなってきた。結果、その情報が、入らぬ措置を取り、今に至っている。この話題については、多くの人々が、先入観や誤解に基づき、誤った言説を、ばら撒いている。間違いは、間違いと、指摘するのが、自らの役目だろうと思う。

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3月28日(火)−希釈と濃縮

 当初は、広告のような目的で、登録したのだが、その後、騒動が起きて、多種多様な人々の、日々の囀りに、辟易としたところから、自分でも、書き込みを始めた。紹介にも、書いたように、信頼できることを、第一と考え、正確な情報の紹介と、自分の考えを、主体とする。
 こういう場所は、騒動が起きると、賑やかになる。今も、それらは、続いているが、徐々に、下火になってくる。一昔前に、起きた事故でも、当初、放出された放射性物質に、人々は、恐れ戦いていた。目に見えぬ存在、という点では、今、徐々に、終息に向かっている、あの存在と似ているが、実際には、大きく違う点がある。それは、測定器の有無だ。前者は、放射線を、測定する機械で、その場で、検知できるのに対し、後者は、検知すると言っても、時間が経った後のことだ。だったら、恐れることは無い、と思うのは、軽軽だろう。この星の上どころか、宇宙の果てまで、何処にでも、存在するものを、どう扱うかが、この厄介物の、重要な問題だ。今、盛んに取りざたされる、処理水の放出でも、その点への理解が、著しく不足した為に、起きた誤解だからだ。基本的に、ある水準を、超えない限り、危険性は、殆ど無いとされてきたが、この言い回しが、曲者だと指摘する人も多い。安全・安心を、強く求める人々にとり、全く無い、以外には、受け容れられないからだ。一方で、日々の生活を、冷静に見回せば、何処にも、ゼロがないことに、簡単に気付ける。こちらに、目を向けぬままに、安全・安心を、訴えるのは、まさに、理解不足であり、愚かなことだ。政府の方針は、この点では、十分に配慮され、正当なものと言える。が、事故後の、除染と呼ばれる、一大事業に関しては、同じ観点から、明らかな過ちであることに、気付くべきだ。希釈を、基本とすれば、除染作業によって、集めた上で、集中させるのは、濃縮であり、危険性を増すだけだからだ。そこに、一貫性は、見えない。

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3月27日(月)−囀り

 この所、囀りで、何度か呟いたことで、新たな訪問者が、増えたように感じる。独り言は、文字通り、独り言であり、他人が聞くかは、問うていない。が、訪問者が、増えないと、言い捨てのようにも、感じるので、ある時から、囀りで、発信するように、したのだ。
 そこで、今週は、囀りとの関連で、これまでの独り言を、纏めておきたい。日記は、ごく個人的なもので、他人に、読ませる意図は、殆ど無い。しかし、ブログ、blog、は日記とは、大きく違う。元々、weblogを略したとされ、ウェブに記録されるもの、という意味だが、多くの人々が、意見発信の場として、利用し始め、それを仲介する所も、出てきていた。此処の独り言は、パンチが、自ら構築したものだが、仲介する場では、様式が整えられ、単に、書き込むだけで、表示も管理も、全て行うという形で、一時は、大流行していた。そこに、新たに現れたのが、囀りである。ツイッター、Twitterと呼ばれる仕組みは、15年程前に、海の向こうで、始まったものだが、tweet、囀りという、鳥達が鳴き声を、出す行為に、準えている。鳥の鳴き声には、意味が込められている、と言われてきたが、多くは、縄張りを主張する為、と思われてきた。しかし、近年、シジュウカラの鳴き声が、会話に準じるものとの、研究結果が出され、人間の呟きに、似たものともされる。短文での、発信の形式は、ある時期から、爆発的に、参加者を増やし、前にも書いたが、それによって、多様な意見や、多彩な情報が、流通する場、となってきた。ただ、良い所ばかりではなく、悪質な参加者が、自己満足の為に、嘘を言いふらし、大衆を、騙す行為が、蔓延することにもなった。一部には、それを良しとせず、正義感からか、あるいは、社会の腐敗を、少しでも、減らそうとするからか、はたまた、嘘を、否定したいからか、兎に角、番人のような、行為も、増えてきた。それと、独り言とは、似て非なるものか。

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