パンチの独り言

(2023年4月10日〜4月16日)
(論理を、使いよう、成長する、自分は?、継続と維持、懸念、考えるとは)



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4月16日(日)−考えるとは

 本当ではない、と個人的には思う。しかし、既に、現場は、大混乱に陥っている、とさえ言われる。何故か。こちらの方が、遥かに深刻な問題だが、当事者達は、一向に気付く気配がない。その方が、余程、首を傾げたくなるが、気付かないものは、仕方ないようだ。
 本来、教育の役割として、能力を伸ばすことが、第一とされてきたが、では、能力とは何か、という問題はどうか。そこに、問題の核心がある、と信じる。多くの現場では、記憶力が、優先され、何事も、覚えなければ、と圧力を掛けてきた。当然、上の学校に進む為にも、その能力が、試されることとなり、それで順位が、つけられてきた。だが、社会はどうか。確かに、現場での、迅速な対応が、迫られる所では、多くの事柄を、記憶に頼って読み解き、策を講じる必要がある。最低限の知識を、覚えるべきとの判断から、その手の試験を、課すのは当然のことだ。そこでは、記憶装置や、そこへの連絡を、確保する手立ては、不正と見做される。だが、そんなことは、人工知能が、登場せずとも、行われており、厳しい措置が、取られてきた。そこに、新たな問題が、生じた訳ではない。今の懸念は、覚えることではなく、考えることに、関係したことだろう。既に、出された課題を、完成させるのに、検索だけが、頼りとなっていたこともあり、それを、無難どころか、普通の学生より、遥かに優秀な形で、行う道具の登場は、確かに、脅威となっている。だが、課題そのものの、抱える問題に、目を向けぬまま、新たな道具を、排除するのは、ヒトの成長を、妨げることとなる。所詮、用意された答えを、導き出す為に、必要となる時間と手間を、減らしただけのことで、より高度な課題と、それに対する答えを、導き出す道筋を、編み出す力を、鍛えることとは、格段の違いが、あるのではないか。現場の人々は、今こそ、何が大切かを、考え直し、より良い人材を、育てる為に、必要な手立てを、講じるべきだ。

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4月15日(土)−懸念

 教育現場には、懸念が付き物、とよく言われる。確かに、ほぼ毎日、何かしらの事件が、伝えられ、時に、教育現場の荒廃、などとまで、言われることもある。だが、その多くは、杞憂に終わり、何事もなく、時が過ぎていく。そして、また、別の懸念が、掲げられる。
 教え育むことは、誰もが抱える、大きな問題であり、次代を担う、大切な人材を、育成する為の手段として、いつの時代も、重要なものの一つに、数えられてきた。だが、確実な方法は、何一つ無く、その上、時代の変遷につれ、不可欠な要素が、入れ替わり、内容も、大きく変化する。教える側に、教わった頃とは、全く異なる内容や手法が、必要となることが殆どだ。ごく最近の懸念は、人工知能に関する話題だ。生成系とか、対話型とか、呼ばれる代物が、突然登場して、話題をさらっている。初めに、この話題が伝わったのは、海の向こうの大学で、教える人々からだった。ChatGPTと呼ばれるものが、登場して、試験や課題に、学生が使うと、自分ではなく、機械が代行することで、不正が行われる、という話だった。その後も、こちらの大学教員から、作文をやらせると、外国語でも、それなりのものが、出来上がるから、要注意との話が、伝わってきた。そこから先は、皆が、報道などで、触れた内容となり、単純に、設問への正解を、示すだけでなく、文章や絵画などの、創作活動でさえ、十分な水準に、達しているとの話になった。となれば、以前から、懸念されてきた、剽窃行為が、巧妙化する可能性が、指摘され始め、教育現場の混乱を、心配する声となった。確かに、以前なら、検索で見つけたものを、丸写しする行為を、禁じれば、剽窃を防げる、とされたが、この仕組みを使うと、巧妙に、組み替えられた文章となり、生成されたものは、人間の創作と、区別が困難と思われる。これでは、学習効果を、上げるための手立てが、無効となるのでは、という訳だ。本当だろうか。

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4月14日(金)−継続と維持

 大学は、本来、教育の場だ。にも拘らず、最先端の研究ばかりに、注目が集まる。囀りでも、盛んに、競争的研究資金の獲得を、強調する発言が、多く見られるが、如何だろうか。教育に不可欠として、研究の継続・維持を、訴えるのは、分からなくもないのだが。
 国立大学の法人化は、財政当局が、予算配分を、操作する為に、画策したことで、監督官庁も、その圧力に屈し、実施されてしまった。その結果、運営費の削減が、毎年ある割合で、続けられた結果、何処も、運営資金の逼迫が、深刻化している。一方で、財政当局は、競争的資金と、それに付随する、間接経費なる仕組みで、削減分は、十分に補われている、との主張を繰り返す。その中で、一部には、最大の資金である、科学研究費補助金、科研費と呼ばれるが、それが、多くの場合、申請数の2、3割が、採択されるから、3年程度の研究期間を、考えれば、誰もが、何かを獲得でき、削減分は、賄えるとの意見がある。この間違いは、単純な算術でも、明らかだが、それに加えて、大学の本来の業務である、教育を支える、研究を、継続・維持させるのなら、満遍なく、行き渡る形の、運営費での支援が、不可欠なのは、明らかだろう。但し、これは、巨額の資金を、必要とする、最先端の研究を、推進する為に、必要となる競争的資金を、無くせという意味ではない。こちらも、誰でも、理解できることだが、科学の発展を、推進する為に、必要なことは、行うべきなのだ。ただ、今の財政当局が、盛んに強調する、競争こそが、推進に不可欠という論理は、科学の営みにおいて、通用しないことを、納税者も含め、多くの人々が、理解する必要がある。その上、人材育成こそが、重要とする観点からは、必ずしも、最先端の研究が、必要なのではなく、研究という営みから、学ぶことの重要性を、きちんと理解した上で、尊重することが、大切なのだ。効率とは、明らかに違う考え方も。

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4月13日(木)−自分は?

 新しい年度が、始まったことで、様々に変化が起きた。と言いたい所だが、進学や就職で、新たな環境に、入ったことは、確かな変化だし、そうでなくとも、学校や職場に、変化が起きたのも、その通りなのだが、その一方で、目の前に広がる光景には、あまり変化が無い。
 何度も書いたから、すぐに、分かることだが、皆の表情を、窺い知ることが、まだ難しいのだ。社会全体では、そんな流れが、少しずつ起きている、と言われるものの、電車の中も、街角でも、人々は、依然として、マスクを着けている。何の効果も、期待できない、とさえ言われ、無駄なのだからとか、自由選択だからとか、そんな話が、届いている筈だが、一向に、変化が起きないのは、何故だろうか。心理的な圧力は、依然として強く、皆の視線が、突き刺さるように、感じられる、と主張する人が、沢山居るらしい。だが、少数とは言え、外す人々も居り、車中でも、街角でも、以前なら、厳しい視線と共に、罵声を浴びせる光景も、見られていたが、今は、そんな雰囲気は、全く漂っていない。にも拘らず、何を恐れているのか、或いは、何か悪いことを、しているとでも、思っているのだろうか。色々な動きが、始まりそうになった時、年度の変わり目に、その時期を、合わせるべきとの見解を、何度か示してきた。しかし、動きの鈍い政府は、様々に、理由を付けて、人々の動きが、最も盛んになる時期を、外すことを、優先させた。それが、この混乱を、招いたと言っても、いいと思う。だが、その一方で、この調子では、仮令、政府のお墨付きが出ても、不安に苛まれる人々は、自分の殻に閉じ籠り、周囲の目を、気にした行動しか、とれないままかもしれない。以前から、国民性として、揶揄されてきたことが、この騒動で、一層、極端さを増した、と思うのは、誤解だろうか。だが、自主性の無さと、自分で考えることをしないのは、まさに、こんな人間を、育てるのだと思えてくる。

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4月12日(水)−成長する

 便利な道具として、四半世紀位前から、皆が使い始めたのが、検索だろう。世界中の情報が、結び付けられ、それを閲覧できるから、誰もが自由に、情報を手に入れられる。だが、これもまた、諸悪の根源、と見る向きもあり、便利ということが、仇となることもある。
 それを、人工知能との会話形式で、実現したものが、最近話題となっている訳だ。確かに、検索の問題点は、的確な鍵言葉を、入力しないと、あてもなく、彷徨い歩くこととなるからだ。それに比べて、新しいものは、推測も含め、絞り込みを、相手がやってくれる、という点も、評価されている。だからこそ、教育の妨げとなる、との意見も、出てくる訳だ。だが、検索そのものも、以前から、その害悪が、取り沙汰されていた。極端なものは、教育現場での、使用禁止の措置だが、今回も、そんな話題が、出ていると言う。でも、人間の知恵は、そんな制限を、受けるべきものだろうか。確かに、知恵足らずの人間は、道具に使われる、と言われるが如く、何の理解も無く、右から左へ、という操作しか、行えない。考えることを、忘れてしまえば、そうなるのは必然、とも言える。しかし、多くの人々は、そうならない。確かに、当初は、示された結果を、鵜呑みにするだけで、そこに記されたものの、真偽を吟味することなく、受け入れてしまう。だが、その周辺の知識が、増すにつれて、徐々に、使い方に、変化が起きる。その経過を、見守ることこそ、教育の本質、と思うのだが、一部の人々は、禁じることこそ、教育と思い込む。何と情けない話か、と思うのだが、理解できないらしい。今回も、そんな措置が、様々に、行われそうだが、使いようを、知ることこそ、ヒトという種の、特質なのではないか。半世紀前なら、図書館で、本の索引を、調べるしか、手立てがなかったのが、今では、簡単になった。だからと言って、能力が、著しく向上した訳でもない。足りぬ所を、補う必要がある。

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4月11日(火)−使いよう

 ひと月ほど前に、取り上げた話題だが、その後も、空騒ぎが、暴走を続けている。特に、開発した企業の、トップが訪ねてきたことで、何かあるのでは、との憶測が、飛び始めることで、更に、根も葉もない噂が、飛ぶのではないか。人工知能は、ある能力では、長けているようだが。
 限界は見えている、との見解を、示す人も居るが、多くは、最近の騒動の典型で、不安と心配を、募らせる方に、与しているようだ。曰く、全ての創作活動が、妨げられ、人間の活動範囲が、強く狭められる、とか、教育の意義が、失われ、多くの人間が、学ぶ意欲を、失うに違いない、とか、そんな与太話だ。こんな書き方をすれば、必ず、批判の矢が、飛んでくるだろうが、幸い、この場は、訪問者も少なく、殆どが、十分な理解力を、備えているから、問題とはならない。とは言え、一体全体、何がどう、問題となっているのか。前者で言えば、当初、懸念されたように、課題を与えれば、それに沿った内容を、自由自在に、作り出せる、という触れ込みは、ある程度、当たっているだろうが、それとて、稚拙な水準に、止まっており、創作者の排除に、繋がる程とは、言えないようだ。所詮、切り貼りの一種に過ぎず、短い文章ならまだしも、長編作は、望むべくも無し、と言われる。同様に、描画活動に関しても、推して知るべし、といった範囲内のようだ。一方、教育現場への、悪影響は、どうだろう。こちらも、以前触れたように、教わる側の、不見識と、無気力を、拡大させる可能性は、確かにあるが、それは、結局の所、自業自得の結果であり、これまでの、安直な道具と同様、消え去る運命にある。それに対して、教える側については、逆の意味で、朗報と受け取るべき、とも思う。つまり、本来の教育の意義を、考え直す、いいきっかけになる、と思うのだ。無能な教育者は、駆逐され、無意味な内容も、排除せざるを得ない。これまで同様、本来の姿を、取り戻すのに、役立つからだ。

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4月10日(月)−論理を

 論理的に、物事を考える、という点を、何度も強調してきた。こう考えるのは、感染症の騒動のことも、あるのだが、それ以前から、何も考えずに、出鱈目ばかりを、書き散らす人々や、その妄言を、吟味することなく、盲信する人々が、矢鱈に、目立つからだ。
 その一方で、別の形で、論理の能力を、取り違える人も居る。先日も、経済新聞の、「私の履歴書」という連載で、ファスナーの企業の、2代目社長が、触れていた話題を、その典型と見た。ファスナーは、ジッパーとも、チャックとも呼ばれるが、最後のものは、巾着から取られたそうで、国内でしか通用しない。一方、先代社長が、築き上げた企業は、ファスナーを、主体とした事業を、行っていたが、その後、サッシなどへも進出し、現在は。非鉄金属の製造業、に分類される事業を、行っている。さて、話題だが、大学卒業後、海の向こうに渡り、経営を学ぶ中、実感したこととして、議論を行う能力が、不足していた、と自己分析していた。その理由として、本人は、言語能力を、挙げていたのだが、そこに、大きな誤解が、あると感じたのだ。国際的な活動を、行っている人物の多くは、流暢に、国際語を話す、と言われる。多くの人々は、それこそが、肝心な能力であり、かなり以前から、小学校での、教育導入が、盛んに取り沙汰された。一方で、同時通訳を、業務とする人々からは、言語能力が、不可欠なのは、当然のことだが、それさえ備われば、十分な議論が、行えると考えるのは、誤解との指摘がある。事実、学者の世界では、必ずしも、言語能力が、優先されるのではなく、論理を構築し、議論する能力の方が、遥かに重要、とする見方が優勢だ。例えば、ある有名な賞を受けた学者には、外国語が苦手として、名を馳せた人が居た。要するに、口先だけの議論では、重要な事柄を、決めることはできない訳だ。おそらく、2代目社長に足らなかったのは、知識と論理だったのだろう。

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