パンチの独り言

(2023年4月17日〜4月23日)
(外野から、人材活用、人材育成、分業制、やってみる、光明、大学教育)



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4月23日(日)−大学教育

 では、大学教育とは、どうあるべきか。四半世紀程前に、所謂、「ゆとり」教育が、初等中等教育を、席巻した時、強制ではなく、自由と選択が、重視された。だが、現場の混乱は著しく、習うべきことを、済ませていない子供達に、先生達は、困惑し、扱いに苦慮していた。
 それが、学生達の質の低下を、招いたと言われたが、だからと言って、大学が果たすべき、社会への責任は、些かも減じられない。品質保証とは、製品に対する、言葉の一つだが、卒業生の質を、ある水準に保つことは、大学の重要な責任の一つ、に違いないのだ。以前なら、自覚を促すだけで、十分だったものが、それへの道筋を、示すことまで、必要となり、不平不満を、漏らす教員が、増えたのもこの時期だろう。だからと言って、教育内容を減らし、到達点を下げるのは、明らかな誤りで、反省すべき点は多い。では、改めて、何をどう教えれば、いいのだろうか。参考となるのは、以前取り上げた、読んだ本の一つだ。2015年1月の項で、紹介したが、科学の考え方に、母語での教育が、如何に重要か、を問うたものだ。世界の多くの国が、共通語で著された、教科書を使い、中等高等教育を、行っているのに対し、この国は、維新当初は、外国語による教育を、高等教育で、採り入れていたものの、その後は、外遊を終えた学者が、教員となり、母語での教育を、確立させてきた。今も尚、母語での教科書が、無い分野では、翻訳本が出回るのは、その表れだろう。但し、それによって、思考そのものが、借り物の如き、外国語ではなく、身に付いた、母語で行えることは、この国の科学水準を、向上させ、世界の先頭を、走ることを、可能にした。この状況は、今も変わらず、そこでの、高度な教育の維持が、国の将来を決める、大きな要因となる。最新の知識だけでなく、基本的なものも含め、それらを、母語で教え、習うことを、続けることの重要性を、考えて欲しい。(一旦、ここで終わる)

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4月22日(土)−光明

 教育に力を入れる、という考えを示してきた。しかし、大学の本来の役割は、教育と共に、研究がある筈、の声は根強い。今も、特に、国立大学において、年々、縮小が続く、運営費の逼迫が、重要な問題となり、研究の継続が、難しいと言われる。その点について、考えてみる。
 予算の逼迫は、既に、人件費の削減、つまり、教員や職員の数を、減らさねばならぬ、段階にまで達している、と言われる。何方を、選ぶのか、ある意味、究極の選択だが、現状では、数を減らしても、講義の種類や数を、減らさぬように、せざるを得ない。ここでも、教育を、主な業務とする教員が、不可欠となる。その上で、各研究室への、予算配分は、確保しにくいのが、現状だろう。こちらも、教育に関わる研究に、重点を置いて、その他の基礎研究や応用研究は、競争的資金を、当てにするしかない。卒業研究や修士課程の研究は、教育の一環として、存在するものだから、数に応じた配分を、確保すべきだろう。その上で、教育的観点からの、研究指導に重点を置き、最先端を、必ずしも目指さぬことが、肝心となる。この方針も、おそらく、強い反対が、起きると思うが、現状の逼迫度からは、一つの解となると思う。文系は、少し事情が異なり、研究と言っても、実験や現地調査が、必要とならない場合も多い。その代わり、文献調査など、情報収集が、主な手立てとなる。そこにも、必要な予算を、配分すべきだろう。今の学生の、勉学意欲は、伝え聞くところによれば、かなり深刻な状況に、あると言われる。その中で、教育を、という意見は、時代錯誤も甚だしい、と指摘する人が、いるかもしれないが、そこには、二つの問題がある。一つは、学生自身の、置かれている立場である。大学まで、決まった道筋を、如何に確実に、歩むかが問われたが、入学後は、全く異なる。その備えに対して、大学の準備が、整っていないことが、もう一つだろう。そこに、光を見出したい。(続く)

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4月21日(金)−やってみる

 大学の水準を、保つ為には、分業制の導入が、必要らしい。賛否があると思うが、まずは、試してみてはどうか。などと書くと、保守的な人々は、危険な賭けだ、と反対するだろう。ただ、彼らは、保守的の言葉だけで、反応するのでは。研究の最前線をいく、革新的な人材と。
 何を、苛立つのか、理解できないが、従来の方式を、踏襲しつつ、その中での競争に、生き残る人々は、必ずしも、革新とは呼べない。特に、大学の状況が、悪化する中で、若手の教員から、上がる反対の声は、改革へのものが多かった。傾向と対策の、競争社会での、生き残りが、命題だからだろう。ただ、導入するにしても、現状のままでは、長続きはしない。自己評価の導入で、重み付けも、各人の選択となったから、日々の評価は、教育に重点をおいても、正当に受けられる。だが、人事に関しては、今のままでは、正当とはならない。教育と研究を、両立させることこそ、大学教員の役割だったが、その中で、これまでの、採用時の評価基準は、研究業績に、その殆どを置いていた。これでは、教育を主体として、活動を続ける教員は、その地位に留まるのが、精々となる。彼らを、正当に評価して、昇進に繋げる為には、別の採用基準を、設ける必要がある。分業制の導入と同時に、人事の流れも、別々の形式に、分ける必要があるのだ。実際には、このような仕組みを、採り入れれば、対象となる人事についても、公募形式を、維持した上で、所属する人材を、昇進させることも、研究人材同様に、行うことが可能だ。その上、この形式を、取り入れる組織が、増えていけば、留まるだけでなく、新たな環境に、漕ぎだすことも、可能となる。一方で、従来から、人事に関して、監督官庁からの圧力を、訴える声が、高かったようだが、この改革については、法令や規則に、抵触することなく、各大学や部局も、内部のみで、決定できるだろう。だから、試してみては、となる。(続く)

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4月20日(木)−分業制

 ここまで読んでくれば、この国の大学教育が、かなり深刻な状況にある、ということがわかる。それに加え、その原因については、現場の内と外で、かなりの認識の違いが、生じていることも、わかってくるだろう。外から見て、最大の問題は、解決できるか否かだろう。
 だが、この考えも、不埒なものと、言わざるを得ない。何故なら、高い金を払って、大学にやってくる若者には、高い水準の教育を、受ける権利があり、それが、十分に準備されている、筈だからだ。なのに、現状では、少し怪しげな状況にあり、解決の糸口も、見出せないように、思えてくる。一方で、やってくる若者の、教育水準の低下も、実は、かなり深刻と言われる。肝心の大学関係者は、予算措置などの外圧に加え、学生や教員の実力不足という内圧が、掛かり続けることで、構造疲労が、強まっている、と感じているようだ。外圧に関して、現時点で、できることは少なく、内圧の方に、力を入れた方が、良さそうに見える。但し、学生の水準を、上げる話は、自分達だけで、できる訳ではなく、水準の低い人間を、引き上げる為の仕組みを、考えないといけない。その為にも、教員の質の向上が、喫緊の課題なのだが、どうにも、当事者達には、危機感が無い、としか思えない。少なくとも、予算獲得という名の下に、多彩な研究を、盛り上げたり、新規の提案に、手を染めることは、一見、正しく思える道だが、その実、単に、人員や時間の無駄を、増やすだけとなっている。一方で、教員の負荷は、そんな形では、増すだけでなく、多方面への寄与が、強いられる為に、肝心の教育水準を、上げる方には向かわない。そこで、手始めに、役割分担の導入を、行う必要がある。研究という柱は、誰も失いたくないだろうが、誰もが、関与すべきかは、別の話だろう。時と場合により、教育に重心を持つ、教員が居る必要があり、彼らの活躍が、次代を担う人材の、育成を促進させる。(続く)

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4月19日(水)−人材育成

 反響が起きないのは、おそらく、多くの人が、研究を、絶対正義と見做し、到達点として、大学での職を、目指すからだ。それを継続し、活躍し続けるのも、当然と見る。だが、彼らにとって、重要な戦力は、学生達であり、その育成にも、力を入れる必要がある。
 だが、半世紀前と異なり、進学率は高まり、頂点の大学でさえ、競争の激化は、学生の質を、落とすこととなった。当時は、一流の研究を行い、教壇に立てば、意欲の高い学生は、自らの力で、機会を掴んでいた。だが、現状は、かなり大きく異なる。基本から、順序立てて、教え育まねば、最先端の研究を、支援する力は、鍛えられない。そこに、教育の重要性が、一段と増した、という背景があり、それに加え、四半世紀程前に、殆どの国立大学で、実施された、教養部解体が、教育の中核を成す、人材の減退を招き、研究人材への転換が、人材育成の困難を、加速してしまった。その後、解体後に、構築された組織の多くは、既に、消滅したことからも、この変革の失敗が、明らかとなる。大学によっては、再編の決断を下し、教育への注力を、復活させたようだが、根本的な組織崩壊は、簡単には、回復できない。当事者の問題として、研究だけでなく、教育にも、力を入れることが、課題となってきたが、研究費枯渇に対する、競争的資金の導入は、肝心の問題から、目を逸らす結果を導いた。こんな状況でも、最前線で、活躍し続ける人々に、教育という、更なる負荷を、掛けるのは、酷というものだ。となれば、その他の中から、教育を担う人材を、拾い上げるしか、ないのだろう。環境としては、十分に、機は熟したと言えるが、人々の心理は、まだ備える所までは、到達していない。だからこそ、外野の意見に、耳を傾けず、落伍者を、排除するだけでなく、組織全体の疲弊を、他人事としてしか、捉えようとしない。社会における、大学の役割は、研究だけでなく、教育にもあるのに。(続く)

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4月18日(火)−人材活用

 歪みと言われて、現場の人の頭に、すぐに浮かぶのは、困った人々の存在だろう。囀りでも、研究活動を行わず、日々のうのうと過ごす、教員のことが、盛んに取り上げられる。厄介者であり、お荷物と言われ、消えて欲しいとさえ、言われる程だ。でも、本当だろうか。
 研究業績のみが、評価される中、活動が停滞した人々は、徐々に、行き場を、無くしてきた。その結果が、目の前に居り、努力を重ね、研究費獲得に、骨身を削る思いの人には、邪魔としか、映らないだろう。だが、彼らの一部には、講義や実習に、力を入れる人も居る。しかし、その業績には、日が当たること無く、役立たずとさえ、揶揄する人も居る。確かに、研究第一で、全てが、回る環境では、こんなことが、起きてきた。ただ、現在では、ある意味、過去のこと、と見る向きもある。自己評価の仕組みが、導入された結果、研究、教育、学内業務、地域貢献の、四つの柱が、評価の対象となり、その重み付けも、各人が、自由に決められるようになった。個人評価が、それに基づけば、業績としても、何に注力するかは、個人の選択となる。だが、肝心の昇進に関しては、依然として、多くの大学が、旧態依然とした形を、踏襲している。ここに、歪みを産む、大きな原因が、あるのではないか。一方で、大学としての、研究業績を、求める場合には、教育の義務を、免除することで、研究に専念する地位を、確保する所も出てきた。これは、研究と教育が、両立しない、現状を反映しているようだ。となれば、逆に、教育に専念する人材を、確保する必要も、出てくるように思う。採用時から、そういう役割を、定めることも、あるだろうが、今ある人材の活用、という考え方からすれば、上に書いたような人物に、活躍の場を、与えることも、十分にあり得る。その上で、昇進の評価に、教育業績を、主体とする方法を、採り入れれば良い。囀りにも書いたが、反響は、今一つのようだ。(続く)

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4月17日(月)−外野から

 教育は、社会問題の一つであり、独り言でも、何度も取り上げた。だが、その多くは、一般論であり、的を絞ったものではない。この所、囀りでは、何人かの意見に対して、こちらの考えを、ぶつけており、一部には、部外者の戯言、と思う人も居るだろうが、外野の意見も重要だ。
 特に、気になるのは、大学の状況だ。多くの人々が、学問の府として、研究の中心であるべき、と思っているが、現実には、教育・研究の場であり、教育の一環として、研究が位置付けられる。これには、反論があるだろうが、そこにこそ、現状の問題が、あるのだ。大学院に進学し、研究者の道を、歩み始めると、ここ半世紀程は、研究員を務めた上で、大学に地位を、得る人が殆どだ。文系と理系では、大きく違うが、基本的には、割合として、理系の方が、遥かに多いので、そちらに、的を絞って考えたい。この背景もあり、はじめの採用では、研究実績が、評価の対象となる。大学院生から、研究員にかけての期間で、どれだけの研究実績を、上げたかが問われる。その多くは、論文数となり、一部には、実績を上げる為には、有名研究室に、属することこそが、全てと見る向きもある。だが、研究の実力は、本人が備えたものであり、所属とは、無関係なのだ。にも拘らず、こんな現状となるのは、実力を見極める手段が、他に無いからだろう。そこで、ここ四半世紀ばかりは、任期制が導入され、見極めの期間が、確保されてきた。この問題については、先日取り上げたから、改めて触れないが、この過程を経て、定年までの職を、確保したとしても、次には、昇進という壁が、立ちはだかる。現状では、そこでも、研究実績が、評価の対象とされ、何も変化が無いが、実際には、研究と共に、教育の実績も、積み上がり始める。本来なら、双方を、評価した上で、審査すべきだが、そうはなっていないようだ。その理由は、研究重視の考えに、あるのだろう。だが、それが、歪みを産んでいる。(続く)

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