今更、取り上げるまでもなく、「宣言」は、宣言でしかない。出した時の経緯を、思い出せば、大体の様子が、分かるだろうし、その後の経過からも、何の為のもので、その効力が、如何程のものだったか、分かるだろう。だから、終了としても、何も変わらないとも思える。
但し、この騒動のはじめから、ここで何度も書いたように、宣言を発した組織が、それを、引っ込めない限り、片付かないことがある。その為には、今回の発表は、こちらの予想通りではなく、また、無駄な時間を、費やしたとは言え、やっと、自らの役割を、果たしたものと言える。こちらの状況が、偶々、分類変更の直前だったこともあり、一部の人々は、勢いを増すやも知れぬ。だが、報道を見る限り、大本営発表は、慎重を期したもので、始めた時と同様に、何でもあり、を想定している。ただ、通常の思考力を、有する人間であれば、こんな戯れ言は、誰でも発せられるし、何の役にも立たない、と受け取るだろう。また、同様に、こちらの政府の関係者の、発言などに関しては、断末魔の叫びに似た、と受け取りたくなるが、他の選択肢が、思い浮かばないのだから、致し方ない。結局、世界全体を巻き込んでの、騒ぎの結末は、所詮、こんなものでしかない。総括も、大本営は、指示を守らず、勝手な行動を続けた、国々の責任を、問うているようだが、それとて、一体全体、どんな勝算があって、出した指示なのか、と訝ってしまう。要するに、ウイルスにせよ、細菌にせよ、病原体が引き起こす、感染症に関して、絶対的な予防措置は、存在せず、極端に言えば、運に任せるしか、手立てが無いのだ。それを、少しでも、明らかにするよう、多くの人々が、精査を求めているが、前に書いたように、その気配は、見えて来ない。騒ぎを起こした人間が、自らの過ちを、確定させるような、調査を望まないのは、当然のことであり、どうにもならない。独立した組織が、行えばと思うが、さて。
「いい加減にせよ」と書いたが、結局、世界機関は、終息宣言を、行った。事務局長の戯れ言にも関わらず、委員会は、強い圧力に屈して、終息を諮問したのだ。恐らく、世界中に、安堵が広がったろうが、あの悪党どもは、簡単には、諦めない。次の礫を、血眼になって、探すのだ。
とは言え、人々の心には、少しは安心が根付くだろうか。この国の現状から、油断禁物と思えるが、それは、感染の再拡大ではなく、甘い汁を吸おうと、暗躍する人々が、次に、どんな手段を、講じるかという意味だ。早速、事務局長の会見は、頑なな態度を保ち、一つ覚えを、繰り返していた。一方で、終息宣言には、性懲りも無く、根も葉もない主張が、繰り返されている。それは、"high population-level immunity from infection, vaccination, or both"という件に、如実に表れている。全体として、集団免疫が、獲得されたとの見解は、感染収束の、要因の一つだが、そこに、どんな要素が、関わるかについての、詳細な調査は、一切、発表されておらず、収束という現象のみが、現れただけなのだ。公衆衛生という、立派な学問も、それに関わる人々が、綿密な調査や、詳細な解析を、施してこそ、真価を発揮する筈だが、今回の騒動では、世界機関をはじめとして、各国研究機関、専門家など、全ての人々が、肝心な作業を、怠っているとしか思えない。騒ぎに乗じて、日銭を稼いだ、怪しからん輩は、言わずもがなだが、研究機関の人々が、冷静な判断と分析を、施さなかった理由は、判然としない。実は、感染拡大を、警戒する声は、これまでに、何度も、世界機関から、発せられた。ただ、その度に、殆どは空騒ぎとなり、仮令、犠牲者が出ても、狭い範囲で、収まってきた。今回のものが、世界的な機関が、初めて経験した、感染爆発なのだ。だからこそ、騒ぐばかりで、確かな対処法も出されず、手を拱くばかりだった。終息は、生物の営みの結果、でしかない。
教育の機会均等を、訴える声が、高まっているようだ。それも、無償化という形で、思い切った措置を、とるべきとの意見が、強くなっている。意欲があるのに、経済的な理由で、断念することへの、救済措置として、重要だという訳だ。それ自体、何も間違っていないが。
問題は、二つあると思う。一つは、財源に関する話で、こちらは、誰もが取り上げ、議論が進んでいるが、答えは、そう簡単には、見つからないだろう。高度成長が終わり、停滞期から、坂を下り始めてから、人々の経済感覚は、ずれ始めたと思う。受ける施しは、徹底的に要求するが、与える方は、拒絶する。典型は、税金問題だ。毟り取るのではなく、公共に必要な事柄を、達成するために、不可欠なものなのに、だ。役所も、目先を変えて、ふるさと納税なるものを、打ち出したが、これは、他人への施しに、なるかもしれないが、自分には、戻ってきそうにない。では、もう一つの問題は、何だろう。意欲と必要性、つまり本人の問題だ。進学を、友達がするから、という理由だけで、決断したり、入学後は、これ以上の努力は、御免蒙るとばかり、遊び惚ける人間に、機会均等など、無意味でしかない。まさに、金を溝に捨てるだけ、となる。弱者への施し、という観点なら、まだしも、全てに対して、となると無理だろう。今や、受験戦争は、遠い過去となり、希望すれば、全員が、大学へも進学できる、状況にある。選別が可能な大学も、あるだろうが、数から言えば、ほんの一握りで、多くは、定員割れに、悩まされている。そこに、無償化となれば、気軽に進学し、何もせずに、卒業させよとなりかねない。金の無駄を、無くさねば、将来、国民全体の生活が、逼迫すると言われる中、何を考えているのか、さっぱりわからない。どうしても、導入せねばならぬ、というのなら、二つ条件がある。一つは、滞れば有償となること、そして、滞るかの判断を、厳格化することだ。どっちが良い。
世界機関が、様々な騒動を、引き起こしているのは、何故か、と思う人も多い。最上位の組織も、国内紛争や、国の間の紛争に対して、提言を、何度も発しているが、紛争自体は、一向に、無くならない。体制の問題ともされるが、それだけでは、ないように思われる。
昨日取り上げた、問題に関しても、叫び続けるだけで、何の検証も無く、何の総括も無いままに、同じ論調を、続けること自体に、強い疑問を抱く。今回の感染症騒動は、以前も繰り返されたものと、大きく違う点がある。確かに、多くの犠牲者が、出たこと自体、大きな問題、と捉えるべきとの意見がある。ただ、これについても、日々、感染症で犠牲となる数は、膨大に上るだけに、この例だけを、殊更に強調するのは、バランス感覚に、欠けた人間のすることだ。その最大要因は、本来、あの機関が、拠り所とする、公衆衛生学に、則った形での、分析や総括が、行われておらず、一つ覚えを、繰り返すだけだからだ。昨日の意見を、書いた後だが、機関の長が、語った話が、伝えられた。そこには、「ウイルスはまだそこにある」と語ったとある。どんな言葉を発したのか、その前後を含め、機関の発表を、確かめてみると、"We remain hopeful that sometime this year, we will be able to declare an end to COVID-19 as a public health emergency of international concern. But this virus is here to stay, and all countries will need to learn to manage it alongside other infectious diseases."、とあった。確かに、そこにある、と語っている。だが、ウイルスは、常に、そこにあるものであり、改めて、こんな戯れ言を、宣う必要はない。今回の検討でも、煮え切らぬ結論を、出すつもりか、こんな記者会見を、行った上で、用意された結論を、導くのだろうか。いい加減にせよ。
一週間程前に、取り上げた話だが、世界機関で、重要な役割を、果たした人物が、行なった発言として、話題になったものの、結局、これまでの感染症騒動同様、何の検証も、行われぬまま、放置されるだけだろう。そして、各国政府に、強い圧力を、及ぼすだけのことだ。
この姿勢は、当初から、世界機関が、暴走を繰り返す為に、貫き通したものだが、各国政府も、報道機関も、専門家でさえ、批判的な思考を、行おうともせず、世界的な、時間と金の無駄遣いを、放置している。所詮、市井の人々が、指摘したとしても、誰も、耳を貸さず、知らぬ存ぜぬを、続けるだけだ。でも、小さな声だが、上げることは、重要と思う。そこで、ちょっとした集計を、行なってみた。貧富の差が、感染症との戦いにおいて、重要なものとなる、という提言に、どれ程の意味が、あるのかが、少しは見えてくるかも知れぬ。表は、貧困国と富裕国の代表、順位として上位を、掲げたもので、陽性、死亡、接種は、それぞれ、調査を終了した時点の、総計を示す。その右の列は、各数字の人口比で、国毎の違いを、比較できるように、したものだ。比率は、小数点以下の桁を、E-1などと表す。5.0E-1は、0.50という意味だ。一見して、わかるのは、貧困国の方が、陽性率も死亡率も、富裕国より低いことで、接種率も、確かに、富裕国の方が高い。この数字が、1を超えるのは、2回以上接種したからだ。富裕国は、例外的なものばかり、と思われるが、参考に挙げた、先進国も、同様の傾向を示し、例外ではないことがわかる。何故、ワクチン接種が、行き渡っているのに、こんな結果となったか。まず、ワクチンの効果は、感染を防げない、という事実がある。だが、死亡率は、説明できない。こちらは、大多数の死亡者が、接種開始前に、出たと考えるだろう。だが、この国の例を考えれば、これも的外れだ。さて、こんな数字を並べて、彼女は、何を言いたいのか。意味不明だ。
分数ができない、とは、実は、配慮した発言であり、現実には、割り算さえ、出来ないのかもしれない。実態は、わからないが、そんな事例は、調べてみれば、数え切れぬ程、出てきそうだ。一方で、割り算、分数、比例は、躓いた人々が、抱える難問の、代表格のようだ。
すんなりと、歩めた人々にとり、出来ない人の苦悩は、理解できそうにない。ただ、彼らの能力が、全く及ばない、という訳でもないのは、小学校で教わる内容を、懇切丁寧に説明し、理解させた上で、練習問題を、やらせてみれば、出来るようになることから、判明するだろう。四則演算は、単純な作業だが、要領を得ない場合には、手も足も出ない。この状況は、ある女性作家が、中学で習う、二次方程式が、いかに無駄なものかを、指摘した話とは、明らかに異なる。何しろ、職業によらず、割り算を、必要としない人間は、何処にも居ないからだ。などと書くと、また、そんな筈は無い、との反論が、返ってくるかも知れない。まあ、そんなことに、構っている暇は、こちらには無いが、何を、どうしたいのかと、不思議に思う。躓きは、人それぞれであり、様々な障害を、抱えることとなる。これら全てを、最近は、発達障害と、称するようだが、この名称も、馬鹿げたものの一つ、と思う。確かに、現時点で、多くの人々が、出来ることが、出来ない人は居る。そして、救う手立てが無い、と思われることが、殆どなのだろう。だが、本当に、そうなのか。当人も含め、工夫の必要は無いのか、また、救いようが無いのか、考えてみたり、試してみたりすることは、悪いことではないだろう。所詮、素人考えだが、何だか、病名を与えることで、言い訳ができた、とさせることには、強い抵抗感がある。誰もが、人より劣る部分を持ち、それを克服しようと、努力している。なのに、無理だから、良いのだとの結論は、どうかと思う。年寄りが、自分の頃よりまし、と若者を慰めるのも、如何なものか。
学力低下は、今に始まったことではない、と聞いても、誰も驚かないだろう。だが、それが、半世紀も前、となったらどうか。ここを読む人でも、そんな昔の話では、と思うのではないか。しかし、既に、当時から、この流れが、始まっていた。もしかしたら、もっと前から。
当時は、高度成長期の真っ只中で、時代の流れとして、様々な変化が、起きていた。例えば、中学を卒業して、すぐに職に就く人は、それまでは、かなりの数に上っていたが、当時は、一部の地域を除き、一割にも満たない、状況へと変化していた。これは、つまり、義務教育だけでは、不十分と考え、進学する人が、増えたということだ。一方では、経済的なゆとりから、そういう趨勢になった、とも言える。だが、その中で、少しずつ、歪みが強まっていた。例えば、公立普通科高校に、進学した生徒でも、四則演算、特に割り算が、できない子が、散見されていた。それから、四半世紀を経て、ある本が、出版された。「分数ができない大学生」という題の本は、話題を呼んだが、大学の数学を、担当する教員が、著したものだけに、現実味と驚きが、満載されたものだった。更に、四半世紀を経て、現状は、殆ど変化がない。依然として、分数どころか、割り算が、できない学生への対応に、現場が、苦慮している。この問題の根源は、半世紀の間、全く変わっていない。つまり、小学校での、算数の学習に、問題があるのだ。そこで、枠外に滑り落ちた児童は、挽回の機会を失い、そのまま、階段を上り続ける。どんな試験を、課したとしても、その割合が、減ることはなく、却って、増えているとも言われる。この悪影響は、比率の問題にも、及んでおり、その感覚の欠如が、様々な職場で、重大な問題を、引き起こす。典型は、医療現場で、投薬に必要となる、単純な比率や割り算に、問題を抱える看護師が、事故を起こすのだ。彼らの再教育も、大学の役割の一つ、なのだろうか。