パンチの独り言

(2023年5月8日〜5月14日)
(見守る、政権交代、一張一弛、誰の得、自滅行為、悪影響、適材適所)



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5月14日(日)−適材適所

 選挙について、様々な意見が、出ているようだ。だが、常識的に考えて、おかしいというものが多く、現行の制度に対して、不平不満を、並べるのは結構だが、そんな話の相手を、するのはどうかと思う。愚民政治が、蔓延することで、根本的な考え方まで、歪曲されるのはどうか。
 例えば、先日、宰相を襲撃した、事件の犯人は、被選挙権について、不満を並べたとある。だが、不平不満が、世の中に満ちても、その是正を図る人間が、非常識では、何ともならない。年齢制限は、ある意味、妥当な考え方だし、出馬に、保証金のようなものは、当然のことだ。信教の自由については、憲法で定められており、それを保障するのは、当然のことだが、だからと言って、狂信的な輩が、政を司るのは、あり得ない話だ。これもまた、何度も繰り返され、不満が、打ちまけられる原因となるが、世間の常識が、保たれているということか。男女平等が、謳われる時代に、何故、女性議員が、増えないのか、という問題について、ある筋から、全ての時間を、議員としての務めに、注ぎ込む必要がある、と言われたという話が伝わり、件の人物が、家事を女性に押し付けることで、それを実現するのは、男性の身勝手と、訴えていたが、これもどうかと思う。何方の側も、間違っており、議員を、専業とすること自体、間違いであるし、一方で、男女の役割分担を、一方的に押し付けたり、逆に、共同作業が当然と見るのも、不見識と思う。それぞれ、状況による違いが、あるのは当然で、その中で、何ができるかということだろう。専業か否かについては、異論があると思うが、最近の状況は、如何かと思う。国会議員は、止むを得ないと思うが、地方議員については、他に仕事を持つ人間が、担ってこそ、と思う部分が大きい。世襲制にせよ、専業にせよ、議員業を生業とするのは、常識の逸脱を、招くものと思う。大所高所を思えば、見合う人間は、自ずと明らかなのだが。

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5月13日(土)−悪影響

 大学が抱える問題について、もう一言、書いておきたい。と言っても、これは、国立大学に関わることで、私立大学には、当て嵌まらない。何故なら、私立は、元々、法人として成り立ち、優遇措置はあるものの、企業の一種として、営利を目的とするからだ。公立は、微妙だが。
 何れにしても、国立を対象として、ここからの議論は進む。二つの大きな出来事が、この半世紀の間に、起きたと言われる。一つは、教養部解体、という事件で、当時の文部省が、主導して行われた。設置基準の改定で、進められたと言われるが、目的は、何だったのか。大学教育の水準を、上げる為には、早期からの専門教育が、必要との考えが、あったと言われるが、どうだろう。結果として、確かに、初年次から、専門教育が、実施されることで、専門性が高まった、と一時言われたが、現実には、幅広い知識も持つ人材が、徐々に消失し、専門性も、応用の利かない人間では、という意見が、出てくるようになり、大失敗と言われた。もう一つが、法人化の問題で、こちらは、表向きは、国立大学それぞれが、独自の発想に基づく、経営手法を実施し、それが、人材育成にも、反映されるとの期待、と言われたが、現実は、経費削減の対象として、それまでの特別扱いを、廃する為だった、と言われる。実際に、予算削減は、毎年実施され、今に至るが、それによって、何か特別な効果が、人材育成に、及んだとは言えず、単に、政治的な思惑で、出費を抑えただけ、と揶揄される。更に、効果どころか、悪影響が、様々な方面に及び、元々、進学率の向上から、質の低下が危ぶまれる中、卒業生の品質保証が、難しくなった、と言われる。だからこそ、監督官庁は、保証を謳うことを、義務付け、出来もしない目標を、設定させてきた。とは言え、人材育成に、経費が必要なことは、明白だが、限られた予算でも、出来ることはある筈だ。そこにこそ、経営の手腕が、発揮される。だが、現実は。

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5月12日(金)−自滅行為

 愈々、危機的状況、となりつつあるのか。大学教育が、崖っぷちに、追い込まれつつある。世間では、研究費の窮状が、問題視され、業績との関連や、開発力の減退が、懸念されている。だが、最先端の研究を、心配するよりも、もっと大きな問題を、考えるべきでは。
 前にも、一週間かけて、大学教育の問題を、取り上げたことがある。そこで、書き記したのか、それとも、以前、取り上げたのか、記憶は定かではないが、大学の予算自体が、厳しい状況にある、と言われる。国立大学が、法人化された後、財政当局は、思い切った予算削減を、打ち出した。年に1%の削減、という方針だ。デフレが、国全体に、閉塞感を広げ、経済状況の悪化が、見込まれる中、放漫会計の解消を、謳ったものらしいが、確証がある訳でもない。にも拘らず、一律の適用に、各大学当局に、危機感が広がった。そして、それから20年余り、単純に計算すれば、0.99を20回掛けたこととなる。つまり、適用前の8割程に、減額された訳だ。その中で、学生数は減らず、基礎経費は、おそらく、殆ど変わらぬままだ。そこに、今回の感染症騒動と、軍事侵攻の余波による、物価高が襲い、窮乏状況は、更に、深刻化している。人員削減は、当然の如く、厳しく行われ、教員の数も、事務員の数も、減っているようだ。だが、教えるべき相手の数に、変化は起きず、少子化問題が、取り沙汰されても、確保されたままだ。そこに、襲ったのは、経費削減と称して、教員一人当たりの、予算の削減が行われ、遂には、配分無しとなった、という話だ。大学の研究室の運営は、主に、この予算が使われ、学生の卒業研究は、これを元に行うこととなっている。もし、これが無くなれば、大学生の最後の難関たる、卒業研究が行えず、質の保証は、不可能となる。止むを得ぬ措置、と見る向きもあろうが、この状況は、明らかに逸脱したものだ。一体全体、どういうつもりか。

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5月11日(木)−誰の得

 歌にも、「自分の頃よりだいぶまし大目にみよう」、とあるように、大人になった人間が、若者達を、応援しようとしている。本心からの言葉、でもあろうが、果たして、この見方は、正しいのだろうか。自身が、彼らの年齢だった頃を、思い出せば、答えは見えてくる。
 と言っても、今、壮年期の人間は、この歌の主同様、そんな気持ちを、抱きながら、歳を重ねてきた。だから、彼らに向かって、どうだと言うつもりはない。今、老年期を迎え、半世紀程前、どうだったのか、回想に耽る人々に、問いかけたつもりだ。大人達から、ああだ、こうだとばかり、何事にも、厳しいお叱りを、受けていた年代は、逆に、歌のような気持ちを、抱いたのかもしれない。だが、そこで、時代の流れを、変えてしまったら、育成の目論見は、破綻してしまう。一方で、こんな変換を、求めた理由には、嫌われたくない、とか、自身に有利になるように、とか、そんな目論見が、あったのではないか。これこそ、他人の為ではなく、自分の為でしかない。そんな思惑が、優しさという姿勢の裏に、隠されているようだ。全体として、どうすれば、より良くなるか、という点に絞っても、その対象を、そのまま、全体に広げるか、自分だけ、に絞り込むかで、話が違ってくる。本来は、自分にとって、良い方向に向かえば、全体も、改善されると言われるが、その限定範囲が、問題となる。今、若者達に向かって、盛んに、応援する人々の、言動を、冷静に見渡してみると、本来の目的は、そこにはなく、自分にとって、どうなるのか、という点に、的が絞られている。特に、嫌われたくない、という気持ちを、最優先にした場合、波及効果は、殆ど望めず、自分の利益だけが、後に残る。その上、支援された若者達も、次の段階で、頓挫して、先に進めなくなる。結局、このような考え方では、全体の改善を、目指すことも、現状の維持も、立ち行かなくなるのだ。利己主義とは、そんなものだ。

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5月10日(水)−一張一弛

 優しさと厳しさ、両極とも見える、対応法だが、何方か一つで、良いと言うのか。褒めて育てる、という手法が、海の向こうから、やってきて、という話は、何度も取り上げたが、一世を風靡した子育て法で、多くの書籍が、出回ったものだ。その後、どうなったのか。
 今も、その勢いは、衰えておらず、子育ての場面だけでなく、人材育成に、欠くことのできないもの、と言う人までいる。その一方で、同じ国から、もたらされたのが、ハラスメント、という言葉と、その派生物だろう。いじめは、この国でも、重大な問題とされ、特に、義務教育課程では、逃げることが、難しいという点で、課題とされた。ただ、その際の対応として、重視されたのは、いじめる側の心理であり、それを改善することが、喫緊の課題、と言われた時期もあった。一向に、改善されない中、海の向こうから、やってきた、ハラスメントという言葉には、正反対の心理を、重視する姿勢があった。つまり、いじめを受ける側の、気持ちである。そこで、問題となったのが、厳しさの表れとしての、叱る行為である。育てるつもりで、厳しく当たり、時に叱ることも、不可欠との考えが、社会に満ちていた中、突然、叱られる側の心理が、重視され、それが、ハラスメントとして、認定され、責任を問われた。この一大転換は、育成という事柄に、大変革を引き起こした。こちらの意図ではなく、あちらの意識だけが、重視されるのだ。それ以前から、社会の優しさは、捻じ曲がった形で、伝えられ、特に、若年層には、不幸な境遇として、手を差し伸べる姿勢が、表されていた。大学入試も、その一つで、共通試験の導入で、受験科目が、増えたと言われた時代、その直前の世代からは、却って、楽になったのでは、との指摘もあったが、報道をはじめとして、社会は、可哀想との論調を保った。そこから生まれた優しさは、歪曲されたもので、実態を無視し、歪みを、更に増していた。何故か。

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5月9日(火)−政権交代

 隣国政府の豹変ぶりに、驚いた人も多いだろう。だが、その一方で、信用できない、と思う人も多い。これまでの歴史から、そんな印象を、抱くのは、ある意味、仕方のないことだが、前政権の迷走ぶりは、嘗て無い程、とさえ言われた。では、今回は、どうなるのか。
 ここで、一部のマスゴミのように、それについて、予想するなどと、下らないことを、するつもりはない。この傾向が、実は、隣国に限らず、多くの国々で、起きていることに、注意を促したいだけだ。海の向こうも、前大統領の無軌道さが、何度も、取り上げられた。元々、交代と共に、政府要人のみならず、政権を担う、役人までもが、交代することから、大規模な方針転換が、当たり前とされてきたが、あの時には、それに加えて、中心人物の変心振りが、話題となった。その中でも、一貫していたのは、前の政権の否定であり、それだけは、首尾一貫していた。ただ、国民の期待は、徐々に裏切られ、一部の熱狂的な支持者を除き、継続を望まぬ人が、急激に増えたのは、当然の帰結だった。政治家は、人気商売と言われるが如く、有権者の興味を、惹く必要がある。その中で、極端な公約が、好まれる結果となり、ある意味の破綻を来し、政情不安さえ、引き起こすことがある。ただ、その責任が、何処にあるのかは、有権者の意識には、上ってこない。選んだ人間が、その責任を、負うべきなのだが、全てを、選ばれた人間に、押し付けるからだ。現大統領は、それに比べて、全面的な方針転換は、行わず、その代わり、一部改定や、細かな変更を、繰り返してきた。批判の対象となった、撤退についても、継続性を、重視したことで、混乱を引き起こしたが、方針転換よりは、遥かに、小さな問題を、生じただけだった。隣国は、前政権が、他国との関係に、破壊的な影響を、及ぼしてきたが、今回は、その修復に、専念している。まあ、隣の大国は、不都合とばかり、批判頻りだが。

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5月8日(月)−見守る

 今年もまた、その季節がやってきた。毎年、取り上げていると思うが、季節の病の時期だ。元々、春は、気が落ち着かぬ季節だが、それに加えて、この国では、新たな生活を始めてから、ひと月が経過した頃、連休という、行事なのか、それとも何なのか、解らぬものがやってくる。
 春が、そんな季節という点は、おそらく、ヒトが、生き物である、特徴の一つだろう。冬眠をする動物も、秋が深まるに従い、葉を落とす植物も、暖かくなるにつれ、活動を始める。表面的には、大したことでもない、と思う人もいるだろうが、現実には、体内で、大きな変化が起きている。一般の動植物では、精神の話が、持ち出されることは、殆ど無いのだが、ヒトという動物に関しては、精神の動きこそが、全ての原動力、と見做されることも多い。その中で、安定を失えば、心だけでなく、体の変調も、来す場合がある。やっと、新生活に慣れた、と思った途端の、暫くの休息が、功を奏する場合もあるが、逆効果となる場合も多い。その結果が、季節の病、と呼ばれるものだと思う。近年は、人を労わることが、重要との見方が、強まったこともあり、そうなれば、保護の対象となる。時に、様々な手立てが講じられ、支援の手が、差し伸べられる。それ自体、何も悪いことは無い、と思う人も居るが、果たして、そうだろうか。ずっと以前との違いは、相手にするか否か、にかかっている。昔は、声を上げない限り、特に、手を差し伸べることも、特別扱いにすることも無かった。だが、今では、無断欠勤や欠席に対して、次々と、手が差し伸べられ、手当てが講じられる。初期対応こそ、重要との考えが、行き渡っているからだが、必ずしも、功を奏するとは、言えないのではないか。放置する、という表現だけで、何か悪いことのように、受け取られるが、人間の成長過程では、度々、そういった、放っておく、ことも大切だと言われる。何でもかんでも、とはいかぬ話と思う。

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