パンチの独り言

(2023年5月15日〜5月21日)
(頼みとする、意味は、正しいか、嘘を見破る、歯止め、信頼には、危険思想)



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5月21日(日)−危険思想

「情けは人のためならず」という言葉は、本来、他人に対して、情けをかけておけば、巡り巡って自分にいいことがある、という意味だが、近年、誤った解釈が、増えていると言う。困っている人に、情けをかけることは、却って、本人の自立を、妨げるものとなる、と。
 こんな誤解が、広がったのも、実は、他人に優しくすることが、重要との認識が、強まったからだろう。先輩や上司から、厳しく鍛えられ、今の自分がある、との自負を抱く、世代にとって、優しさは、邪魔なものとの認識が、あった。だが、時代は、既に、それが常識と化し、厳しさより、優しさが、重視されている。次には、他人だけでなく、自分にも、優しさを求めるのだ。楽に生きる、正しい評価を受ける、褒められるなど、自己肯定感と共に、勢いを増している。その風潮の中では、厳しい言葉は、忌み嫌われ、その発言主は、忌避対象となったり、時に、糾弾の対象とさえ、なり始める。ハラスメントが、市民権を得るに従い、この考え方が、大半を占めるようになった。その発言が、正論だとしても、相手への配慮が、足らぬものとして、切り捨てられる。一部の人にとり、厳しい社会は、生き難いもの、と映るようだが、現実には、優しさという、甘言に乗せられ、自らの可能性を、摘み取ることに、終始していないか。前に取り上げたが、大学の教員に、任期制が適用され、20年程になる。今では、不当な制度と、批判する声が、高まっているが、導入の端緒が、何だったかを、知る人は少ない。定年までの雇用が、保証される中、元々、努力を怠らぬ人には、何の問題も無かったが、努力や才能の無さが、露呈した人々は、ただ漫然と働くだけとなった。その問題を、解決する手段として、導入されたが、今では、不当とさえ言われる。集団では、働かぬ蟻にも、権利があるが、少数で動く社会では、そうは行かぬものだ。本来の目的を知らず、不都合を排除しようとの動きは、危険なものだ。

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5月20日(土)−信頼には

 人工知能の能力が、一気に高まり、人間社会を、脅かす存在、となりつつある、と言われる。だが、現実には、的外れな議論ばかりで、感情的な言説や、悲観的な見方が、垂れ流されている。いつから、人間は、物事を、冷静に考え、見極めることが、出来なくなったのか。
 有り体に言えば、大衆の気を惹くことが、第一となったからだ。その為に、重要な武器は、恐怖を煽ることで、最悪の物語を、語ることこそが、最善とされるからだ。だが、その多くは、的外れに過ぎず、振り回された人々は、精神的不安定のみならず、生活さえも脅かされる。但し、起きるとされたことは、その殆どが起こらず、空振りに終わるから、安心を、取り戻した、とさえ思う人も居る。結果が良ければ、それで良し、心配は、ヒトという生き物が持つ、大切な性質の一つ、なのだから、などという、馬鹿げた説明まで、出てくるようでは、お終いではないか。人工知能の脅威は、何も、盤上の戦いに、止まらず、一般大衆の生活にまで、及び始める、との指摘は、愚かさの現れに過ぎず、人間の営みへの影響は、人間自身が、関わることで、食い止めることは、容易い。にも拘らず、例の如く、騒ぎを広げたい人々は、過剰反応を、引き起そうと、躍起になっている。犯罪の温床については、規制をかけることが、一つの方法だろうし、生成された文書の、信頼性に関しては、人間による検閲が、当然の措置だろう。研究の場に関しても、同様であり、従来の不正同様に、人工知能が作り出す、実験結果と結論についても、学界の人々による、相互点検が、答えの一つとなる。今も、論文投稿では、査読が行われ、無償の役割として、研究仲間が、互いに助け合う。もし、科学空想小説のように、研究の創作が、懸念されるのなら、全体を、相互点検することで、保証すればいい。仮令、人工知能が関わらずとも、こんな仕組みが、確立されれば、不正の排除が、可能となる。何れも、難しくない。

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5月19日(金)−歯止め

 人工知能の可能性は、四半世紀程前から、注目されてきた。これは、量子計算機も同様で、当時、可能性を、強く訴える声が、高まっていた。だが、現実は厳しく、従来の方式を、推進する人々から、厳しい批判の声を、浴びせられ続けていた。今は、少し違ってきた。
 量子計算機も、愈々、実用化が近く、多くの企業や研究所が、手を挙げ始めた。一方、人工知能は、その後、盤上の戦いに、勝機を見出し、一流の人間を、打ち負かす程に、なったと言われる。だが、前にも書いたが、ここには、大きな誤解が、あるのだと思う。戦法は、相手次第で、何とでも変えられる。今、敗れたとは言え、人間の逆襲は、始まっていないからだ。人間相手の、戦い方では、計算速度と情報量で、勝るのは、機械の特長だろうが、別の手立てが、無いとは言えない。同様に、今、話題となる、生成人工知能に関して、その可能性が、無限に広がる、と信じる向きが、あるのは当然だが、その一方で、人間の営みとの共存は、容易な問題ではない。だからこそ、開発側からも、規制の必要性を、訴えており、無限が、無軌道とならぬよう、整備を進める必要が、迫っている。だが、一つの目標に向かい、邁進する中、どんな問題が、山積しているかを、論じることは、難しい。現時点で、強い規制を掛ければ、確かに、安全性は、保てるかも知れぬが、それは、可能性を、縮小させることになるからだ。かと言って、対策を講じる為に、議論すべき項目を、挙げることは、果たして、可能なのだろうか。例えば、この仕組みの、危険性を指摘する中には、犯罪との関わりが、取り上げられる。これについて、表面的には、仕組みの中に、予め、禁忌事項を、設定すれば良い、との意見もあるが、悪意が、その規制を、外すとしたら、どうなるか、と懸念される。全く別のことだが、研究における発見を、空想科学小説を、書くようにして、創作することが、可能では、との懸念も伝えられる。実験そのものを、仮想として行えば、筋書きは、どうとでもなる、というのだ。やはり、人間との営みが、最後の砦なのかも。

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5月18日(木)−嘘を見破る

 統計を、高校で教えることの難しさを、新聞の記事は、説いていた。そこで、学問上の違いとして、演繹と帰納、どちらを使うかに、違いがある、と説明していた。演繹とは、理論や法則から、結論を導き出し、帰納とは、個別の事象から、原理や法則を、導き出すものだ。
 科目として考えれば、数学が、公式を理解し、それを使うことで、結果を導くのを、常とするのに対し、統計は、個々の事例を集め、そこから一般論を、導き出すことを、常とする。この違いが、数学の中で、統計を教えることの、難しさを示す、というのが、記事の主旨だろう。だが、学問一般として、その通りとしても、初等中等教育で、学ぶべき事柄は、必ずしも、学問そのものの性質とは、合致しない。算数や数学は、日常生活で、どう役立つかを、強調して教え、それによって、興味・関心を、抱かせようとする。その一端として、統計が、登場したとしても、同様の扱いが、出来る筈だ。また、教員は、専門の研究者とは違い、教えることを、重要な役割とする。その意味では、学問の性質が、どうあろうとも、現場での扱いようは、違ってくるだろう。また、この記事では、一切触れられていなかったが、数学への統計の導入後、もう一つの科目が、重視されている。それは、情報であり、従来は、付け足しの扱いだったが、主要な科目として、重視せよとのお達しが、出ているのだ。その中でも、統計が扱われ、互いに補完する形、となっている。実際の事例を使い、統計の手順を、習得させるのは、情報の役割とされ、それに必要な、理論的な側面を、主に数学が扱う。とは言え、新たに導入された項目を、どう扱うかは、現場に任され、その中で、徐々に、形を整えるのだろう。だが、何度も書くように、統計の知識を、多くの人々が、身に付けることが、重要という点は、今回の騒動をはじめとして、多くの事例で、明らかとなっている。これは、政府や世界機関の嘘を、見破る為もある。

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5月17日(水)−正しいか

 騒動に、振り回された結果、情報の大切さを、感じている人も、多いだろう。だが、一方で、嘘によって、固定化された観念を、真実で、書き換えることが、出来ない人も多い。先入観とか、拘りとか、そんな言葉で、表されるものだが、何故、そんなことが、起きるのか。
 情報の価値は、受け取る側によって、決められる。偽情報や、嘘や出鱈目も、都合良いと考え、受け入れれば、価値が出る。だが、その価値は、間違ったものであり、本来は、無価値なばかりか、時に、負の価値さえ、産み出すこととなる。その意味で、情報の吟味は、重要な事柄だが、騒動を思い起こせば、出来ない人が、余りにも多い。それも、末端に位置する、庶民ではなく、指導的立場にある、専門家にまで、及んでいるのだ。とは言え、専門の嘘も含め、庶民は、それらを吟味し、取捨選択を、行う必要がある。その為には、時に、統計手法を用いたり、使われた手法を、疑うことも大切だ。その意図からか、中等教育段階で、統計を教える動きが、高まっている。その一方で、関係する教科の教員は、肝心な知識を、受け取っておらず、現場の混乱が、懸念される。教師と雖も、知らぬことを、教えることは、度々起こる。少なくとも、教科書にある事柄くらいは、その教科を、教える能力が、備わっておれば、何とかなる筈だ。そこに、懸念を抱くのは、自己研鑽を、蔑ろにしてきた、そのつけが回ったからだろう。同様の状況は、これから、勉学に勤しむ人々にも、当てはまる。例えば、生成AI(いつの間にか、系が抜けている)について、世界規模で、懸念が広がるが、元々、インターネット上での、検索と同様、使用者側の能力に、依存する部分が大きい。検索エンジンは、設定通りに、優先順位を決め、その順に表示する。だが、設定は、必ずしも、使用者の要求とは、合致しない。その結果、偏った情報を、提供することとなる。生成AIに至っては、唯一無二の情報しか、提示しない。

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5月16日(火)−意味は

 文言が語る、と書いたものの、では、それを読んで、どんな印象を抱くか、それもまた、人それぞれなのだろう。本来、規則を定めるなど、目的を持った文言は、誤解や曲解を、招かぬように、意味を明確にすべきだが、それは時に、例外を生じ、混乱を招く。それも良くない。
 だが、既に、混乱の極みを越え、人々が、疑念を抱き、諦めにも似た、心境にある時、各自に、独特の受け止めを、させることは、如何なものか。その上、この分類の移行では、的外れな批判が、またぞろ、報道をはじめとして、ばら撒かれる事態となり、お手上げ状態に、あるとも見える。自己負担の問題は、その最たるもので、感染症分類の目的から、大きく逸脱しており、愚の骨頂と、片付けるべきだ。一方、懸念を、盛んに訴える人の中には、移行した類でも、十分に危険なもの、との主張があるが、これとて、危険性の無いものを、指定するとは何事、と片付けるべきだろう。基本に立ち返り、文言の趣旨は何か。今回の移行で、意図されたのは、危険性の度合いの見極め、となるのだ。危険性とは、集団における、死の危険であり、感染率だけでなく、死亡率も加味して、考えるべきものとなる。そこで、当初の見込みより、特に、死亡率が低下し、見直しが必要となった訳だ。これは、当然ながら、誰も死なない、という意味では無い。何を、極端に捉えようと、意図的に、流言蜚語を、撒き散らすのか。呆れて物が言えない、とは、まさにこのことと思う。上位の分類では、感染力と重篤性により、危険性の度合いを、測ることで、行うこととなり、それが、ある程度、小さなものとなれば、更に、下位へと移行させる。それだけのことで、結果として、一般的な流行性感冒と同等、となった訳だ。それに対して、措置が決められ、実施される。但し、今回の騒動では、ここにも、意味不明なものが、散在しており、検証、総括の必要がある。そちらについては、今後の経過を見守るべきだろう。

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5月15日(月)−頼みとする

 一週間が経過した。何が、変わったのか。何も、変わっていないのか。受け止め方は、人それぞれと思う。だが、騒動を、起こしてきた人々は、どうだろう。その目的は、それぞれだろうが、利害関係が、最も大きく、時には、実入りの違いにまで、影響が及ぶようだ。
 これまでも、おそらく、これからも、嘘や出鱈目を、撒き散らすのだが、それに対して、庶民は、どう対処すべきか。最も簡単なのは、無視である。目を向けず、耳を傾けず、ただ、見えぬ、聞こえぬ、を繰り返すのみだ。だが、騒動の発端を、思い出せば、それが、難しいことが、理解できる。恐怖に駆られ、不安に苛まれる中、藁にもすがる思いで、情報を、追い求める。だが、その時、さしのべられた手は、嘘や出鱈目が、殆どだった。だからこそ、意を決して、無視する必要がある。ただ、それだけの強さを、持たない人間には、やはり難しいものだ。そこで、別の方法は、となると、これがまた難しい。誰もが、出来るものとしては、おそらく、正しい情報を、選別することくらいだ。だが、あの時を、思い出せば、権威筋からの情報も、公的機関からの情報も、歪曲されて伝わり、曲解が当たり前だった。肝心なのは、二次、三次といった、解釈が加えられた、情報にではなく、大元のものに、辿り着くことだろう。例えば、この一週間、盛んに取り沙汰されたのは、分類の変更だが、その結果のみを、取り上げるのではなく、分類の根拠に触れることが、重要ではないか。監督官庁からは、幾つかの情報が、提示されている。単純には、騒動以前の情報が、冷静な目で、見たものだろうし、その結果として、どんな感染症が、どう分類されたかは、次の表を見れば、理解できる。その上で、件の類では、どう考えるべきか、については、こんな資料が、出されている。そこにある文言が、全てを語るのだが、どう受け取るべきか。「危険性が高い」から、「発生・まん延を防止すべき」とは、何か。

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