パンチの独り言

(2023年6月12日〜6月18日)
(拾い物、結論は、不安材料、別の見方、性急さ、誰のせい、慌てず騒がず)



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6月18日(日)−慌てず騒がず

 様々な所で、人工知能の活用が、検討されている。だが、議論の的は、本質から、大きく逸脱しているようだ。科学技術の発展により、人々の生活は、多くの面で、便利になった。それにより、作業にかかる時間は、大きく短縮され、費やす労力も、著しく軽減されてきた。
 その一つとして、今回の問題を、取り上げる所は、非常に多いようだ。確かに、的確な指示さえ出せば、一見、整った結果を、返してくれるのは、如何にも、利便性を思わせる。時間や労力、という観点から、今度の新技術も、人々の生活を、楽にしてくれる、との期待が、大きいようだ。でも、本当に、そうなのか。本来、考えることは、人間が有する、重要な能力の一つであり、それを、身に付ける為に、子供の頃から、努力を積み重ね、大人になっても、日々、能力向上を、心掛けてきた。そこに、今回の新技術が、登場したことで、努力の軽減が、謳われる部分も、大きいようだが、実際には、個人にとって、身に付けるべきことが、簡便さの反面で、著しく損なわれている、との意見も多い。開発者の中には、人間に、取って代わる存在ではなく、単に、手助けをする存在、との見方を、示す人が居るのは、誤解から生じる、開発への懸念が、妨げとなることに、危惧するからだろう。一方で、努力の場である、教育現場では、戸惑いが広がる半面、如何に、活用すべきかを、論じる意見もある。ただ、人間誰しも、楽がしたいもので、これまでの教材のうち、人工知能に、任せてしまえば、何もせずに済むなら、そちらを選ぶ、との意見も、かなり多いようだ。これでは、教育の妨げに、なり兼ねない、との見方から、導入を、禁止したり、制限したり、との意見が、飛び交っており、未だ、結論は出ていない。と言うのも、発展途上のものでは、どんな結果に至るかが、不明な点も多く、初期段階での対応は、中途半端に終わるからだ。今は、慌てた対応より、見守る時期なのかも知れぬ。

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6月17日(土)−誰のせい

 税金と年金、互いに、結びついている、と言われるが、最近は、随分と違うようだ。庶民にとって、何か、降ってくる施しは、歓迎するが、毟り取られるものは、断固、拒否したい、とでも。だが、国の財政にとり、何方も、重要なものであり、片方だけでは、成立しない。
 という考え方が、当たり前だった時代は、年金は、有難いもの、と受け取られたが、最近は、当然の権利なのに、何故か、不安が付き纏い、奪い取られかねない、との思いが、蔓延っている。どうして、こんな具合に、物事を、考えられるのか、論理では、理解し難いが、本人達は、至って真面目に、そんな考えを、披露している。例えば、税金の話と、年金の話を、聴く機会が、あったとしよう。何方も、日々の生活に、不可欠なものだし、その国で暮らすには、必要なものだから、同じように、興味を抱く、と思っていたら、どうも、そうではないらしい。毟り取られるものには、全く興味を持たず、貰えるものは、何としてでも、手に入れようと、それに必要な事柄を、頭に、叩き込もうとする。しかし、税金が無ければ、年金制度は、成立せず、出すものを、出さねば、受け取れなくなる。そんな単純な論理に、何故、違和感を覚えるのか、不思議で、仕方がない。その上、良からぬ噂が、度々流され、行く末に、不安が付き纏うと、その理由を、求めたくなるようだ。だが、ここ数年の騒動から、学べたように、世間の話題は、不安を纏わせて、流すことで、耳目を、集めることができる。ただ、冷静に、論理を読み解けば、騒動の原因も、年金の問題も、所詮、戯言に過ぎない、ということが、明らかになる。その為に、必要なことは、冷静さ、論理性、そして、最小限の知識だろう。たった、これだけのことが、出来ないばかりに、不安に苛まれ、安心を手に入れられない。何処に、原因があるかは、明らかではないか。それに、気付かぬのは、やはり、本人の問題でしかない。

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6月16日(金)−性急さ

 多様な見方の重要性を、少しだけ、紹介した。但し、これは、自分の中でのことであり、多種多様な人々の間では、当たり前のこととなる。人それぞれに、考え方の違いから、見方も異なり、出発点だけでなく、同じデータを眺めても、違う解釈をする。当然のことだろう。
 だからこそ、議論の重要性が、次に来るのだ。何方が正しいのか、ということだけでなく、異なる見解を、戦わせることで、より良い結論を導く、という手段にもなる。一方で、自分の中に、多くの見方を置けば、それぞれを基に、展開した解釈が、論理的に妥当か、また、他の解釈の可能性は、一切無いのか、などといったことが、検討できる。ここに、多様な見方を、身に付けることの、重大さがある。ところが、多くの人は、この点に目を向けず、ただ無闇に、自分の考えに固執し、他人の見解を、受け容れようともしない。その結果、議論は、紛糾した挙句、結論を出せぬままに、決裂する。その原因の多くは、妥協できないことにある、と思う人が居るだろうが、現実には、他の見方を共有できず、その要点を、理解できないことにある。そう思うと、これまでの騒動の多くが、その程度のことから、生まれたことが、理解できるのではないか。何も、他人の意見を、鵜呑みにせよ、と言っているのではない。その内容を理解し、自分の考えと合わせて、どこに、妥協点があるのか、検討することが、大切だというだけだ。頑固に、自分の意見を、押し通すばかりでは、何の結論も、導けない。様々な意見が、出された中で、どんな共通点があり、どこに、欠陥があるのかを、俯瞰する力も、議論には、必要となる。全体を通じて、論理性が、重要なのは、言うまでもないことだが、肝心のものを、欠いたままに、結論を急ぐのも、騒動の最中、度々見られたことで、よく、結論ありき、と批判されるのは、まさに、この状態なのだろう。そんな力を、養う機会が、今、失われつつある、と思う。

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6月15日(木)−別の見方

 昨日の独り言のように、データを示して、ある見方を、主張することは、度々ある。だが、その基盤となる、考え方や仮説、果ては、結論までもが、ある意味、自由自在に、制御できるとしたら、どうだろうか。ある主張を、鵜呑みにする危険性は、最近、特に、注目されている。
 論理の重要性は、何度も取り上げたが、上に挙げた例では、論理力だけでは、見破ることが、難しいとされる。というのも、一部の例外を除けば、これらの主張の多くは、根拠を示し、その上に構築した、論理に破綻が無く、その流れ自体を、打ち砕くことが、難しいからだ。それよりも、大切なことは、結論を導くために、置かれた仮説や、データの解釈における、見方の置き方に、目を向けることだろう。例えば、結論を導く為に、置いた仮説には、他の可能性が、無いのか、といったことや、もっと厳しく、データを取る為に、何か、決まった仮定を、置いていないか、といったことに、目を向けて、それ以外の可能性を、検討する、ということから始める。それだけで、同じデータでも、全く異なる結論が、導けたり、データそのものに、欠陥のあることを、見つけることができる。データに、騙されるな、という主張が、最近、よく聞かれるのも、そんなことが、日常的に、行われているからだろう。騒動の最中、杜撰な論理を、展開して、誤った主張を、繰り返した、自称専門家達の、言説に関しては、容易く、見破ることが、可能だった。仮令、彼らが、権威筋の論調を、使ったとしても、そこから先の論理には、破綻が、簡単に見つかるからだ。だが、もう少し、上手な人々には、その程度のことは、容易くできるから、論理破綻は、見つけ難い。それよりも、大切なことは、彼らが置いた仮定や仮説が、どの程度、まともなものか、という点にある。論理そのものは、円滑に進んでも、出発点が、間違っていれば、何の意味も無いからだ。別の見方を、検討することは、非常に重要なのだ。

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6月14日(水)−不安材料

 感染騒動でも、人々の不安を、煽ることに、躍起になっていたが、下火になったら、別の材料を、とでも言うように、報道各社は、次々と、様々な話題を、提供し始めた。中でも、受信料徴収で、話題に事欠かない、公共的なものを、自負する所は、料金に見合わぬ、劣悪さだ。
 今朝の材料は、「働き手クライシス」だそうだ。囀りでも、早速、槍玉に挙がり、炎上とは言えぬが、それなりに、叩かれている。その一つには、今後の予測を示す、グラフが、掲げられていたが、これが、どんな意味を成すのか、見た瞬間に、解説との乖離を、強く感じた。見込みは、あくまでも、見込みに過ぎないが、何故、人口が減るのに、労働人口が、増える必要が、あると言うのか。実は、この話題を、ここが取り上げたのは、これが初めてではない。当時は、造語は使わず、担い手不足、との表現だったが、同じ内容だろう。こちらでは、件のグラフは、示されておらず、恐らく、当時の報道で、効果を上げられず、もっと過激なものを、との反省からか、需要と供給の均衡を、示したつもりなのだろう。だが、基本的な問題には、何の変化も起きない。杜撰な予測では、前の報道でも、取り上げられた、3Kと呼ばれる職種が、特に深刻であり、その乖離が、大きな要因となったのだろう。しかし、独り言でも、取り上げたように、老人人口は、団塊の世代が、その域に達した後、減少に転じることは、ほぼ確実だし、全体として見ても、人口減少が、予測通りに、深刻化するなら、必要な労働力も、減少する方が、妥当と言える。こういう研究所が、発表する危機の多くは、空振りに終わることが、殆どであり、不安を煽る為の材料に、過ぎないのだ。まあ、それこそが、報道にとり、格好の材料であり、飛び付くのも、当然かも知れぬが、マッチポンプならぬ、火付けと火消しを、役割分担して、騒動を煽るだけの、下劣な集団に過ぎない。こんなことでは、対策など、編み出せる筈も無い。

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6月13日(火)−結論は

 何事にも、賛成と反対がある。それらを、並べた上で、議論を重ね、一定の結論に至る。民主主義と呼ばれる、仕組みの根幹は、こんなものだろうか。独裁国家では、そんなことは、全て排除され、極端には、一人の人間が、決めたことを、粛々と進める。何方が、正しいのか。
 この疑問は、歴史の中で、何度も唱えられ、何度も検討された。答えは、無いと言われる。まず、正しいとは何か、という質問に、答える必要がある筈だが、結果論にしても、答えが見つからない。一方、独裁下で、国民は、幸福か否か、という疑問には、どう答えるのか。それも、人それぞれで、正答は、無いだろう。ただ、一人が、率いた国が、永らえるか否かは、歴史が、証明している。独裁者に、後継者が居ないのは、ほぼ自明だろう。組織的な独裁は、一人の寿命よりは、永らえることが、できるようだが、それとて、長くは続かない。何千年もの歴史を、誇る国と雖も、実際には、国を治める組織が、交代し続け、存亡を繰り返す。さて、賛否両論が並ぶ中、近年では、民主主義が、台頭しているから、議論が、重ねられている。その結果、どんな結論が、導かれたのか、その正誤について、検討することは、殆ど無い。特に、国が永らえる中、肯定的にせよ、否定的にせよ、何れかの評価が、下されたとして、既に、済んだことに、見方を示しても、詮無いことと言われるのが、精々だろう。例えば、昨日の話題も、当事者達は、喧しく、議論を戦わせている。だが、傍目八目よろしく、傍から見ると、議論のそれぞれが、非論理的で、好悪を表明するに、過ぎないように思える。経験に基づく話も、余りの狭量さに、呆れるばかりで、建設的なものが、余りに少ない。大真面目で、主張を繰り返す人々も、互いの意見を、理解しようとする、姿勢さえ見えぬようでは、何ともはやだ。それぞれが、自分の思うものを、試してみるしか、手段は無い。結果として、歴史が、白黒付けてくれるのだ。

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6月12日(月)−拾い物

 高等教育の問題を、何度か取り上げた。一方で、問題の核心の、捉え方の違いが、表面化しているように、感じられることもある。例えば、教育の質の低下についても、教員の問題と捉え、その改善に、映像化された講義の導入、を訴える声もある。的外れ、と思うのだが。
 監督官庁から、上質な講義の映像化を、進めている人物が、表彰された、との話があった。社会媒体でも、分かり易いとか、興味が湧くとか、そんな意見が、大半を占めていたが、そこに、更なる発言があり、物議を醸している。曰く、大学での基礎教育の、荒廃が叫ばれる中、こういう映像を、導入すれば、教員の負担軽減と、教育の質向上の、両方が実現する、というものだ。賛同する声が、上がった一方、反対意見が、無い訳ではない。教育現場における、人間関係の構築こそが、教え育む上での、重要な要素との主張や、効率化の推進は、ある意味、人員削減の手段となり、却って、逆効果を招く、との意見もあった。この手の議論に、正解は無い、とも言われるが、まさに、その通りと考える。送り手の問題が、深刻となりつつあり、その解決こそ、喫緊の課題、と捉えられているが、一方で、受け手の問題が、取り上げられないのが、不思議なのだ。一人ひとりの経験から、何方が正しいのか、と論じることは、一見、正しいように見え、実は、多様な答えの中から、唯一の正解を、導くことの難しさは、少し考えたことのある人なら、すぐに理解できる。実は、劣悪と断じられた講義も、人によっては、思う所があり、考えを改める、端緒となった、という場合もあり、教えるとは、ただ、知識を伝授する、とは限らない、と思えてくる。実際、最近は、講義の映像化が進み、無料で提供されるものも、多くなっており、講義に出席する必要を、認めない学生も、居ると言われる。押し付けを、好まぬ人間に、多いようだが、機会を、どう捉えるか、考えるべきと思う。意外性も、時に、重要だ。

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