パンチの独り言

(2023年6月19日〜6月25日)
(大変革、手始め、何の為、結論ありき、個に用心、良い事も、飛躍は)



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6月25日(日)−飛躍は

 では、人工知能の騒動は、如何に。当初、大きな期待を持って、大々的に、取り上げられたが、その後は、様々な懸念が、指摘され始め、少々、勢いが無くなった。とは言え、一旦、開発が、進み始めれば、多くの人々が、関わることとなり、提案は、多種多様となる。
 次々に、発表される、改訂版について、更なる検討が、必要となるだろうが、一方で、懸念の払拭に、多くの変化が、対応している。確かに、初期のものでは、情報の出所が、明記されないばかりか、まるで、剽窃が、発覚しないように、筋書きを、組み替えたが如く、悪用の可能性ばかりが、強まっていた。当然、対抗措置として、出典を明らかにし、引用を、明記するよう、対策が取られたようだが、大元の問題が、改めて、議論され始めた。大量の情報から、要求に見合う結果を、導き出す方法は、所詮、限られた範囲での、最適化に過ぎず、新たなものを、創り出すことには、繋がらない、という指摘だ。模倣を、繰り返す形では、原型から、抜け出すことは、できないものだが、同様の過程を、経てる筈の、人間では、次の段階が、訪れる場合がある。模倣に留まるだけの、人が多い中で、時に、従来の形とは、全く異なる展開を、編み出すことが、ヒトの特徴の一つ、と言われる所以だろう。問題は、創造性と呼ばれる中にも、多様なものがあり、単に、組み合わせの新規性、という場合もある。意外な組み合わせ、と見られるものだが、学習の対象を、単に広げるだけでなく、無関係と思われる範囲にまで、目を向ける。そのような飛躍が、人工知能にとり、可能か否かは、現時点では、見えていない。更に、その先には、従来とは、全く異なるものを、産み出す力が、あるのだろう。ここでの飛躍は、学習対象として、存在するかも、明らかではないから、もっと難しい状況に、あるに違いない。とは言え、高度な模倣に、驚くだけでは、更なる飛躍は、望めそうにない。次の段階は、何か。

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6月24日(土)−良い事も

 感染症騒動が、如何に馬鹿げたものだったか、改めて、綴るまでもなく、皆の知る所と思う。だが、未曾有の被害が、予想された中で、結果として、犠牲者の数は、ある程度に達したものの、予想は、大きく外れ、普段の年間死者数と、大きな差は、できなかったようだ。
 となれば、空騒ぎ、と呼んでも当然の状況で、不安に駆られた人々は、ただ、騒ぎに、巻き込まれただけで、何の利益も、得られなかったのだろうか。暴動へと、結びつきそうな可能性を、抑えようと、各国は、様々な支援を、打ち出して、中でも、現金支給が、盛んに行われた。それにより、市中に撒かれた、資金は、資産運用の世界へと、流れ込んで、実態から乖離した、活況を呈する、異常な事態を、引き起こした。これもまた、後になれば、害悪の一つ、と数えられそうで、果たして、庶民にとっての利益は、あったのだろうか、と訝しむ人が、多いだろう。だが、人の集まりが、厳しく禁じられ、それまでに、発達してきた、情報伝達の仕組みを、利用したものが、突如として、急発達したことは、事実だろう。その中で、通信会議は、特に、著しい利用頻度と、質の向上を、見ることとなった。当然、それに派生する、様々な道具も、登場してきた。と言っても、全く新しい考え方が、登場したのは、ほんの僅かで、多くは、従来の仕組みを、新たな通信の中で、使えるようにしたものだった。皆で、記入した付箋を、貼ることで、意見を出し合い、その中から、分類・整理の上で、新たな提案を、絞り出す形式は、それまでも、多くの場面で、使われてきた。しかし、集まれない状況では、互いの意見を、比較検討することも、叶わない。そこで、開発されたのは、付箋を貼る仕組みを、ネット上で、共有するもので、他の手順に関しては、対面形式と、ほぼ同等のものだ。これにより、意見提出と集約が、可能となり、通信会議でも、実現した。この手の利益は、他にも、沢山あるに違いない。

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6月23日(金)−個に用心

 多勢に無勢の話では、統計という道具は、殆ど役立たない。使えるとしたら、増加とか減少とか、変化を伴う時に、それを、際立たせるくらいだろうか。では、少数派に対して、どんな手立てを、講じるのだろう。報道を、眺めてみると、彼らが選んだ、答えが見えてくる。
 仮令、数が少なくても、そこに、目を向ける、光を当てる、そんな演出を、施すことで、数の問題は、克服されて、皆の注目を、集められる。そう考えると、この手法は、近年、特に力が入れられ、報道各局、新聞各社、それぞれが、盛んに、小さな問題を、取り上げている。問題としては、少数のことでも、社会的には、重大な問題となり得る。取り上げることで、世論が、盛り上がれば、少数派を、救済することが、可能となるのだ。弱者保護、という観点から、この演出は、盛んに使われる。弱者は、少数に限られ、そこに目を向ければ、保護や救済が、達成できる場合がある。その上、この演出では、悲観的な見方や、悲劇的な筋書きが、施される。それにより、目を向けた人々が、感情的に、揺さぶられることで、世論の盛り上がりが、急になると思われている。こんな場面で、冷静で、客観的な、統計処理は、無用となる。感情には、数字は、強い効果を持たず、形容詞を、巧みに操ることで、人の心は、左右される。確かに、一人ひとりの問題では、それぞれに、目を向けるしか、扱うことも、論じることも、難しくなる。だが、社会問題として、それを、取り上げようとすると、個々の問題は、その範囲内に留まり、全体として、把握することも、全体への対策を、議論することも、難しくなる。確かに、端緒となるかも知れないが、その問題を、拡張しようとした途端に、話が混乱し、見えなくなる。今の報道では、この傾向が、強まり続け、多くの弊害が、出始めている。更に、社会媒体などで、それが、強調されて、本質を、見失わせている。個別にばかり、目を向けるのは、危険なのだ。

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6月22日(木)−結論ありき

 何故、改めて、統計に関して、取り上げたのか、不思議に、思った人も居るだろう。統計は、重要な道具として、既に、多くの人々が、使っており、今更、何の為かと、目的について、論じる必要は、無いと思うだろうからだ。だが、便利に使う人々が、多いのも事実だ。
 解析の結果、の筈なのだが、現実には、結論ありきの論法で、根拠の一つとして、提示されるのが、統計処理の結果なのだ。本来の姿とは、全く異なるものとして、注意を要するのだが、多くの人々は、その手の言説に、簡単に騙され、鵜呑みにする。その結果が、混乱や騒動だとしたら、言説の出所は、大きな責任を、負うべきだろう。だが、主の殆どは、騒動が、山場を越すと、次の材料を求めに、別の場所に、移って行く。騒動の責任は、その後も、同じ場所に居座り、誰か別の人間が、作り上げた言説を、後生大事に、守り続ける人であり、総攻撃に晒されても、一度、信じ込んだものを、死守しよう、と躍起になる。だが、それ自体が、創作に過ぎず、嘘や捏造に、塗れたものだとしたら、何の為に、必死になっているのだ。扇動者は、こんな形で、騒動を、巻き起こして、それによって生じる、何らかの利益を、貪り続ける。一方で、支援者達は、憂き目を見て、二度と騙されまい、と思うのだが、肝心の吟味力が、不足する為に、何度も、煮え湯を飲まされる。さて、では、何故、今なのか。感染症騒動で、一部の人々が、執拗に、食い下がったのは、どちらかと言えば、騒動の後期に、注目が集まったとされる、超過死亡なる現象だ。統計上の変化として、注視すべき、とされる現象だが、その要因は、種々雑多であり、一様には決められない。一方で、結論ありきの人々には、格好の材料となり、今回の騒動でも、死者数の急増は、更なる懸念となり得る、として、盛んに取り上げられた。一時的な変化を、取り扱うものだが、一方で、長期の変化との比較が、重要となる。そろそろ、発表だ。

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6月21日(水)−何の為

 改めて、問うてみたいことがある。統計とは、何の為にあるのか。多くの人々は、数値などのデータを、集めた中から、結論を導き出す為に、必要な道具、と答えるのではないか。では、統計で、導かれる結論とは、どんなものか。こちらの問いには、どう答えるのか。
 データの中に、埋もれているものを、統計処理によって、掘り出すことで、調査対象にある、傾向を炙り出し、その上で、結論が導かれる、とでも答えるだろうか。確かに、多くの統計処理は、そんな考えの下で、行われている。だが、結論は、どうだろう。結論は、本当に、処理後に、炙り出されるのか、それとも、データを、収集する前から、ある程度、候補となる結論が、決まっているのだろうか。一概には、言えないことだが、今の世界では、前者より、後者の方が、優勢なのではないか。識者が、様々に、考えを巡らせ、ある程度、あたりをつけて、調査を実行する。項目そのものも、推論上にある結論を、導き易いものが、選ばれる傾向にあり、想定通りの結果が、出ることを、期待している。だとしたら、統計とは、改めて、何だろう。これでは、自分の考えを、補強する為だけに、使われており、はじめに書いたように、埋もれたものを、掘り出す為とは、言えそうにない。だが、仮令、そうだったとしても、データ収集を、繰り返し、その度に、統計処理を、繰り返すと、当初の目論見とは、異なる結論が、固まってくることも、ありそうだ。そこにこそ、統計の意味が、あるのではないか。一度きりの、検証の為の統計は、確かに、当事者達の目論見に、沿う形のものだが、徐々に、積み重ねると、異なる傾向が、露わとなる。だからこそ、長期間に渡る調査が、重視されるのだ。もう一方で、別の考えに基づく、調査を実施することも、重要となる。例えば、項目そのものが、異なる場合もあるし、抽出方法が、異なることもある。統計とは、多様であることが、肝心なのだろう。

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6月20日(火)−手始め

 提案を、求められた時、どうするのか。できない、と断る人が、多いのではないか。心では、時間の無駄とか、どうせ採用されないとか、悪い方向の考えが、浮かんだとしても、そんな返答より、できないと言った方が、穏便に済ませられる。そんな思いを、抱きつつ。
 前例を、踏襲するだけで、事が、円滑に進んでいた時代、提案を求められることは、殆ど無かった。それでも、多くの企業が、目安箱や提案箱、と称するものを置き、上から下まで、社員の提案を、集めていたようだ。成長を、続ける中でも、そう言った活動に、目を向けていた所は、景気が傾いた時も、持ち堪えていたのではないか。壁に、打ち当たり、崖を、転げ落ちると、何処もかしこも、盛んに、提案を集め始めた。現状打開の為には、多種多様な知恵が、必要というのだろう。だが、突然、そんな業務命令が、下されたとしても、不慣れなことに、取り組むのは、容易ではない。改めて、姿勢を正して、何かしらの提案を、出そうとしても、形に目を奪われ、本質的なことは、思い浮かばない。実は、成長が、限界に達した時、それまで通りに、前例を踏襲するのでは、何も、起こせないものだ。かと言って、全く異なることを、思い浮かべて、それを、実行に移す、などと言われても、固まったまま、動けなくなる。普段から、そういうことに、目を向けてきた職場では、身近な問題を、取り上げて、その解決策を、考えたりする。難しく考えずに、簡単なことから、取り組む姿勢が、重要なのだろう。些末なこと、と片付けるのは、人の勝手だが、問題が生じた時、そこにあるのは、複雑ものとしても、手を付けるのは、簡単な所から、とするのが、適切なのだろう。特に、限界を迎えたり、問題が生じたり、そんな時こそ、小さなこと、些末なこと、簡単なこと、身近なこと、そんな所から、手を付けるべきだ。一方で、報酬が、必要となることも、忘れないように。

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6月19日(月)−大変革

 便利な時代となり、教育現場の状況も、変える必要が、出ているのだろう。例えば、随分昔に、取り上げたことだが、初等教育での、夏休みの宿題の一つである、読書感想文について、文例を掲げることで、児童生徒の負担を、軽くするという、馬鹿げた話を、報道が取り上げた。
 そこにあるものを、丸写しして、提出すれば良い、という話に、呆れたのだが、それを、取り上げる報道とは、何なのか、とも思った。既に、当時から、報道の劣悪化が、始まっていた、ということだ。今回の感染症騒動も、その劣悪さが、際立っていたが、鎮静化したのに、依然として、愚かな言説を、撒き散らすだけで、以前の過ちを、総括しようとする、動きさえ、見えない。それ程に、自覚も無く、批判力も、減退したのだろう。では、そんな人間を、のさばらせるのは、何が原因なのか。おそらく、脅されれば、鵜呑みにして、騒ぐだけだし、乗せられれば、踊るくらい、何の躊躇いも無い、そんな人間が、大多数を、占める時代だからだ。こんな為体を、産み出したのは、まさに、教育の荒廃が、その主たる要因であり、ただ、素直で、従順な人間を、育てることこそが、平和な国を、築く為に、不可欠なもの、と信じているのだろう。戦争に、突き進んだ状況と、何ら変わらぬことに、疑問も抱かず、暴走を続けている。ただ一つの、正解を求め、努力を強いてきたことが、正解と思えることを、鵜呑みにする姿勢を、作り出した訳で、幼児ならまだしも、いい大人でさえ、そんな状況では、先が思いやられる。高等教育では、盛んに、批判的な考え方を、身に付けさせようとするが、固定化された人間に、できる筈もなく、その為に、必要となる、衝撃的な働きかけや、面罵はやり過ぎとしても、厳しく批判することは、いじめの一つと、受け取られるから、一切、使えない状況にある。この点を、大変革しないと、役立つ人材の育成は、夢のまた夢としかならない。現場が、変わるしかない。

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