問題は、自信の無さに、あるのではないか。などと書くと、そんなことは、当然であり、自信満々の人間など、何処にも居ない、と言われるだろう。確かに、誰もが、自信をつける為に、日々、努力しており、何事にも、自信がある、と断言できる人間は、居ないだろう。
問題は、そこにあるのだが、それ自体が、問題となる訳ではない。自信の無さが、何かに依存し、それを頼りに、過信へとつながる、と思うのだ。また、ここで、過信とは、と問われるかも知れぬ。これは、自信過剰の意味では、決して無く、何かへの信頼が、過ぎるという意味だ。つまり、誰かが書いたことを、鵜呑みにしたり、他人の話に、すぐに騙されたり、そんなことが、度々起こるのは、信じ込むという姿勢にある。疑うことが、重要であるのは、批判的に、物事を捉えるという主張で、伝わっていると思うが、今の社会の問題は、批判無しに、盲信することにある。社会媒体では、何処の馬の骨とも知れぬ、匿名人物の発言に、振り回される人が、一杯居るようだし、肝心の報道媒体でも、権威筋として、専門家や世界機関の発言を、鵜呑みにして、右往左往を、繰り返してきた。これらは、自信の無さの現れで、自らの考えを、駆使しようともせず、安易に、受け入れることが、発端となる。では、何故、こんなことが、続けられるのか。それは、責任感の欠如、から来ていると思う。一人ひとりの責任は、ごく小さなものだが、それが集まり、全体の責任となると、急に重いものとなる。専門家や世界機関の責任は、そういう意味で、非常に重い筈だが、実際には、個人的な、軽い責任のまま、軽率な判断を、下しているに過ぎない。それに対して、庶民は、自分の責任を、放棄する為に、馬鹿げた論を、鵜呑みにして、不安を募らせる。この堂々巡りは、終わることが、無さそうに見える。だが、自分の、軽い責任を、果たすだけで、解放されるのだ。小さな一歩から、始めたらどうか。
この所の話題に限らず、若者を、揶揄したり、批判したりする声は、昔から強かった。だが、何時頃からか、自分の頃より、ずっとまし、などという意見が加わり、今では、そちらの方が、強いのかも知れない。次代を担う人材を、大切に育てる、という思いがあるからか。
実態が、どうなのか、軽々には語れない。人それぞれは、当然のこととして、皆の判断が、客観的なものでもなく、単に、自分の経験と、照らし合わせただけなのだ。だったら、と思うのは、優しく、褒めて育てるより、厳しく、叱って育てる方が、と思うのは、間違いだろうか。少なくとも、情報社会という言葉が、世の中で、普通に使われ、現実に、情報が氾濫する世界に、暮らすようになってから、若者も含め、人々の判断力は、低下しているように見える。鵜呑みにしたり、騙されたりと、多くの人々が、被害者となったことに、何の疑いも無く、自らの責任を、感じる素振りも見せない。被害の殆どが、判断の誤りに、起因するにも関わらず、自分は、何も悪く無いとか、皆も、同様に動いているとか、そんな言動を、続けている。過ちを、認めないのは、自信が無い証拠で、更なる責めを、受けたくない、と思うからだろうが、それにしても、皆横並びに、そういう態度を、取り続けるのは、何故なのか。この点だけでも、若者達を、厳しく糾弾すべき、と思うのだが、どうにも、世間一般が、同様の結果を、招いており、若者だけを、という訳にもいかない。ただ、情報社会において、便利な道具の数々が、登場してきたが、それを、使いこなせるか否かは、年代による違いが、歴然としている。個別に見れば、当てはまらぬ人も、居るのだろうが、平均として、若い世代は、手にした端末から、様々な情報発信を、行っている。それも、愚かとしか、思えぬ犯罪紛いのものから、攻撃的なものまで、社会通念では、認め難いものが、数多くある。若気の至り、では済まない、と思うのだ。
今回取り上げた話は、言い過ぎかも知れぬが、売れれば良いとばかり、馬鹿げた内容の小説を、世に送り出した作家と、耳目さえ集めれば、とばかりに、悲惨な話を、殊更強調するように、情報操作した本を、世に送り出した放送人の、愚かな所業の表れ、と思える。
現代社会が抱える、深刻な病の一つ、とも言えるのだが、その元凶は、本を書いた人間ではなく、それを読んで、共感を覚えたり、鵜呑みにしたり、そんなことをする、庶民にあるのではないか。仮令、一時は、心を動かされても、落ち着いて考えれば、何と馬鹿げたことか、と気付くか否かに、寛解に向かうか否かが、かかっている。おそらく、この流れを、食い止めることは、難しいかも知れないが、被害者を、自認するだけで、実は、何の被害も、受けていない人間なら、そのうち、気付きそうなものだ。それとも、悲劇の主人公に、憧れる余り、その芝居から、抜け出せないのだろうか。何れにしても、社会媒体での、活字や映像による、情報操作については、特に、感情に訴えるものに、耳目が集まり、過剰反応へと繋がり、全く別の被害者を、出すことについては、同じ活字媒体である、書籍の役割は、非常に大きいと思う。今回取り上げた本では、まさに、その役割を、果たせないばかりか、一層、深刻な状況に、陥ったことが、明らかとなったが、本来なら、同時進行ではなく、時間を置いてからの、落ち着きを取り戻した、心の動きから、冷静な判断を下し、論理を、再構築することで、本質を、読み解くことが、可能となる筈だ。特に、報道に携わる人々には、日々の情報提供が、時間に追われた結果、数々の過ちを犯し、大衆を、誤った方向に、導いたことを、是非とも、総括した上で、反省し、改めて、正しい判断を下し、正確な情報を、提供して欲しい。でないと、このままでは、扇動的で、感情的な、情報ばかりが、氾濫することで、民衆の心が、荒んでいくに違いないから。
ワクチンの効果について、学校で、教わったのを、覚えているだろう。疫病に対して、絶大な効果を持ち、感染の広がりを、防ぐことこそが、最大の要因である、と習ったと思う。確かに、歴史上、そのような事実が、あったに違いない。だが、それ以外のことは、何一つ、教わっていない。
つまり、接種にも関わらず、罹患してしまい、死に至った人は、どれ位居たのか、とか、接種後に、体調を崩した人が、どれ位居たのか、といった情報は、教科書には、一切記されていない。でも、専門家なら、そういうことも、熟知しているだろう、と思う人が、多いだろう。しかし、統計とは、敢えて、それらの数を、調査しない限り、何の役にも立たない。当時は、効果の程に、目が向くだけで、例外的な犠牲者に、着目する動きは、殆ど無かったのではないか。そこに、目が集まり始めたのは、混合ワクチンが、世に出てきてからか、接種を拒否する親が、出てきたのだ。その後、拒否する割合が、急増することなく、義務的な接種が、粛々と進められた。ところが、そこに起きたのが、女性特有のがんへの、ワクチン接種による、被害の報告だ。接種後に、体調を崩す人が出て、その報道に、私もと、手を挙げる人が、続いたことで、薬害の一種のように、扱われてきた。確かに、そんな症状を、呈する人が居て、彼らの状況は、ある意味、深刻なのだが、その一方で、接種が、忌避されることで、がん患者の数は、増え続けたと言われる。更に、国外では、そんな影響も無く、接種が継続され、患者数が、減少したとの調査が、出されると、状況が、少しずつ変化してきた。その中、今回の感染症騒動と、それに伴うワクチンの問題が、起きた訳だ。これらは、殆ど全てが、十分な知識を持ち、状況把握を、繰り返した上では無く、一部の被害者のみに、光を当てた結果であり、実態を、精査したものとは、とても言えない状況にある。こんな背景の中、感情的な情報提供は、行われたのだ。
何故、より深刻なのか、書くまでもないことだが、敢えて、厳しく指摘したい。特に、報道に携わる人間の、質の低下が、著しいばかりでなく、様々な事柄についての、総括や反省が、殆ど存在せず、悪化の一途を、辿っており、強い自責の念を、抱いて欲しいと思うからだ。
あの本に登場する、被害者やその家族が、同じ論調で、何かを綴ったとしても、それ自体を、責めるつもりは無い。感情に走りたければ、それで良いし、理性を失うのも、止むを得ないことだからだ。だが、報道は、そうは行かぬ。耳目を集めた、社会媒体での、情報提供は、同時進行でのものだから、ある意味、感情に訴えることや、事実誤認も、ある程度まで、許される。それでこそ、帯に謳うように、多くの人々の関心を、集められるのだ。だが、それを基にした、本を綴る段では、様相が一変する。同時進行で、事実とされたものの殆どは、その後の解析から、別の見方も、出てきたろうし、何より、全体を俯瞰する形での、分析こそが、本に著すことの、重大な意味だからだ。にも拘らず、この著者は、当時と変わらぬ姿勢を、貫くことで、寄り添う態度を、明確にしようとし、数々の事実誤認も、放置したままで、検証する気も無いようだ。これでは、批判の対象とされる、政府や世界機関と、全く変わらず、感情的で、非理性的な、悪書を、世に問うだけとなる。何度も出てくる、ワクチンの悪影響についても、殆どが、当事者や身近な人々の、感想に過ぎず、一方で、政府の見解は、全面却下となる。更に、ワクチンの効果についても、感染そのものを、防止することは、製造企業でさえ、主張しておらず、当初の、単なる誤解を、依然として、後生大事に抱えるのは、無知でしかない。このような姿勢で、報道に携わり続けることは、悪影響しか無く、他の扇動と、何ら変わらぬものだ。感涙の話など、まさに、感情移入の典型であり、報道人として、映像外としても、恥ずべき行為でしかない。
もう一つの本は、もっと深刻な問題を、示していると思う。小説の人気は、その内容そのものより、読み手の動向に、左右される。そこが、癒しの本質であり、共感と呼ばれるものだろう。だが、受け手ではなく、送り手が、大きな過ちを犯し、社会への影響となれば、より深刻だ。
感染症騒動に関しては、これまでに、嫌になる程、何度も、問題を指摘し、それらに気付かず、片棒を担ぐ、報道機関の劣悪さを、糾弾してきた。確かに、本丸である、国際機関が、元凶に違いないが、権力に与せず、批判姿勢を、貫くことこそが、報道の責任、と自負してきたのは、ただのまやかし、だったのか。その中で、感染症そのものも、社会問題として、大きく取り上げられたが、それに付随する要素も、大きな話題となった。中でも、ワクチンは、当初、救世主と目され、世界中が、期待に、満ち溢れたが、結果は、惨憺たるものだった。ただ、専門家達は、自衛手段として、効果を絶賛し、悲劇を免れたのは、そのお陰と、ある意味、自画自賛の姿勢を、崩さぬままだ。報道も、接種推進に、異常とも思える、執着を見せ、またも、片棒を、担いで来たが、その中で、続出する、被害者に、光を当てたのが、この本の著者、ある地方テレビ局の、人間だった。確かに、接種後の反応から、死に至った人や、重篤な症状に陥った人が、出たのは事実であり、それを、報道しないのは、卑怯極まりない、との見方も出来る。だが、接種の効果と、副作用の問題を、冷静に統計分析した上で、行うべきことだろう。悲劇の主人公に、光を当てるのは、弱者保護や、寄り添う姿勢の、現れなのだろうが、下らない物語と、なり易い。当初、報道とは別の媒体で、情報提供したことが、耳目を集め、更なる広がりを、見せた結果、書籍化したらしいが、内容は、支離滅裂で、論理の欠片も無く、無価値でしかない。例のがんワクチンと、同じ路線に立つ、報道の無軌道ぶりを、表すだけとなった。
癒し、という言葉が、如何に的を外したものか、何度も、指摘してきた。息抜きに過ぎず、ただの逃避でしかない、そんな行為を、癒しと呼ぶことで、正当化する。病んでいる、としか見えない。もう一つ、これも、病みの一つだろうが、寄り添う、という言葉がある。
これらは、同じ思考線上に、あるように思える。何の根拠も無しに、自らを正当化し、荒んだ世の中に、働きかけようとせず、ただ、漫然と暮らす人間の行為と、彼らを、無闇矢鱈に、応援する、愚かな人々の行為、という意味で。今月読んだ本で、まさに、この典型とも呼べるものを、手に取ってしまった。情報源が、新聞書評を、主体とするから、ある意味、評判を、取っているのだろう。だが、その評判とは、まさに、これらの、的外れな考えと、正当化に終始する、人間達が、築いたものだ。まずは、恋愛小説とか、婚活小説とか、そんな呼び方をされる、評判を取り、文庫化されたものを、取り上げよう。善良な市民として、生きてきた男女が、紆余曲折を経て、結婚に至る過程と、その後の、片割れの失踪を、描いた内容だが、執拗に語られる、彼らの心情には、違和感しか覚えなかった。だが、そこにこそ、評判を取った理由があり、強い共感が、得られたとある。何処に、この乖離があるのか、単純には、身勝手な考えを、抱くことと、それを正当化し、自らを防衛する姿勢が、多くの若者と同じ、だったのだろう。その上、そんな自分を、批判的に捉える人々に、何の反論もできず、的を射た指摘に、納得するしかない、その態度にさえ、自分の姿を、重ね合わせていたのだろう。誤った考えを、誰もが抱くとして、正しいものと、勝手な解釈をし、それが、致し方ないものとして、納得することで、自分の心が、折れないようにする。そんな身勝手が、描かれて、共感を得る、などとは、何とも幼稚な話で、幼児の心を、持ち続けただけでは。そんな同調を、読書で得て、何が面白いのか。