パンチの独り言

(2023年7月3日〜7月9日)
(何が問題、網の罠、見切り時、御都合主義、何を学んだ、学んだか、変わったのか)



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7月9日(日)−変わったのか

 移行後、徐々にだが、街中の光景も、変化が起きている。口を覆う人の数は、当初、殆ど減らず、故無き行動、としか、思えなかったが、それでも、徐々に、重い腰を、上げ始めた。だが、そこにも、理由は存在せず、相変わらず、庶民感覚は、理解し難いもの、と映る。
 それ以外には、大きな変化がある、と予想されていた。全数把握が、廃止され、流行性感冒、と同様の措置として、選ばれた箇所の、感染者数の調査から、全体の推測へと、結び付ける手法が、取られ始めた。無駄な労力、と盛んに揶揄された、目的を見失った措置が、行われなくなっただけでも、現場の混乱は、少しは鎮まっただろう。だが、騒動にしたい人々にとり、この変更は、痛手と見られたものの、懲りない輩は、早速、別の手立てを、講じ始めた。全数という、大きな数字を、掲げることで、不安を煽る戦略が、盛んに、行われてきたが、今度は、数自体は、小さくなったものの、それを基に、掛け算を行い、結果として、大きなものとする、となっただけのことだ。その上、逼迫という状況も、一部の施設での数値から、全体を導き出し、以前より、遥かに強力なものに、変貌させた。全数では、操作が入る余地は、少なかったが、今では、選ばれた箇所が、全体の分布の中で、何処に位置するのか、検討しないままでは、選別の偏りが、強く反映される場合も、出てくる筈だ。都道府県別の、発表においても、それが、反映するかどうかが、大きな問題だが、数字に変わったものは、それ以外に、訴えてくるものが無い。異常な程に、高い数値を、示している県が、全体として、どんな状況にあるのか、検証無しに、悲惨な状況、と報じるのは、以前と、何も変わっていない。特に、その地域では、移行前から、高い数値を、維持していたらしく、さて、流行の最中だったのか、はたまた、兆しを、示していたのか、あるいは、単に、集中した施設だったのか、誰も、気にも留めないのは、何なのか。

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7月8日(土)−学んだか

 失敗学は、その主宰者と共に、人気を集め、一世を風靡した。確かに、失敗の原因を追及し、二度と、繰り返さないのは、重要な手法の一つで、それを、ひとりの人間に、限定することなく、社会で共有するのは、大切なのだ。だが、その一方で、歴史は繰り返す、とも言われる。
 こんな指摘をしたら、あの主宰者なら、だからこそ、この学問を、確立することが、重要との見解を、返してくるだろう。だが、人間社会は、そんな単純なものでもなく、似たことで、違う失敗を繰り返し、過ちを、犯し続けるのだ。後から解析すれば、似たことだったり、そっくりそのままでも、当時は、少し違うとか、ここが異なるとか、そんな見解が、飛び交っている。そんな事柄は、数多あり、その点も含め、懲りないとは、このことかと、思わされる。失敗を、数多く経験した人間は、自分の中で、それらの違いを、比較した上で、共通点を見出し、二度目を回避する。だが、学問として、仮令、確立したとしても、何の経験も無い人間が、類似点や相違点を、整理することで、的確な対処を、導き出すのは、かなりの困難を、伴うものだ。ここに、失敗から学ぶ、という考え方の、弱点があるように思う。ただ、経験せずとも、自分なりに整理し、比較検討を、繰り返すことは、できる筈なので、各自が、その考えを携えて、課題に挑めば、解決の道筋が、見えてくる可能性もある。要するに、この類のことは、手順書に書かれたことを、単純に、行うだけでは、同じ失敗に、陥る可能性が、常に残るという訳だ。もし、学ぼうとするのなら、やはり、各自が、各自なりの見識を持ち、目の前で、起きていることを、精査するしか、方法が無い。表面的な点検事項も、着眼点を、整理するか否かで、完了できるかが、決まる場合も、多々あるだろう。言葉では、解った気になっても、実際には、戸惑うことが、起きるのも、そんな所から、来るのではないか。安易に、取り組んでは、駄目なのだろう。

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7月7日(金)−何を学んだ

 失敗から、学べることは、数え切れぬ程にある、と言う人は多いが、本当に、学んだのか、と思う。今回の事故も、何かしらの手順に、間違いが起きて、工事中の橋桁が、落下したのだろうが、当局は、全国の同様の工事に対し、再点検を、通達したとされる。
 確かに、素人目には、同じ種類の工事が、同様の手順で、行われている、と見えるが、現実には、それぞれの現場で、事情が、微妙に異なり、各所、独自の手順で、との解説を、直後にする人も居た。どちらが、本当なのかは、実は、大きな問題ではない。同様の工事と言っても、行う場所も、携わる人間も、違っているのだから、少々の違いが、生じるのは当然だろう。それでも、事故が起きれば、その原因を追及し、問題点を挙げることで、繰り返さぬよう、万全の措置が取られる、と言われてきた。だが、それにしても、何度も、同じことが、起きているようだ。今回の事故は、真夜中に起きたから、工事関係者のみの、犠牲で収まったが、30年以上前のものでは、日中のことで、信号待ちの車も、巻き込まれた為、15人が死亡とある。5年程前の事故でも、日中だったが、落下したものの、途中で止まったことで、下を走る車には、被害が、及ばなかった。それぞれに、原因が、異なると言われるが、点検すべき項目には、殆ど変わりがなく、失敗から、学べることは、沢山あっただろう。再点検を、促す動きには、単に、再確認を行え、という意味が、込められているだろうが、それにしても、何故、という疑問が、残るのだ。失敗学、という話が、盛んに注目され、今回の、感染症騒動でも、同様の話が、取り沙汰されるが、現実には、何をどう失敗したのか、解き明かせるだけの、データがあるとは、とても思えない。先日、読み終わった本も、そんな話題を、取り上げたものだが、実際には、魔女狩りを、彷彿とさせるだけで、本質は、何も見えていない。また、後で、書くことにする。

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7月6日(木)−御都合主義

 処理水の問題は、国際的な基準について、多くを語っている。国内外から、感情的で、非論理的、非科学的な、反対の声が、盛んに上がる中、科学的に、至って妥当な結論が、出されてきたが、それに対して、国際機関が、基準に沿うとの見解を、正式に表明した。
 嘗て、その事務局長を、この国出身の人物が、務めていた時、発電所の事故が起き、悲惨な状況に、適切な対応に、砕心したと言われる。それが、原因でも無いだろうが、在任中に、死去したことで、現事務局長が、跡を継いだ。その後も、事故だけでなく、核保有を匂わせる国々への、査察を含めた対応や、軍事侵攻に伴い、他国の発電所を占拠し、暴挙を繰り返した、軍隊に対しても、毅然とした態度で、施設の安全確保に、当たっている。対象の複雑さから、平和利用から、軍事利用まで、多岐に渡る事柄への、対応を迫られる世界機関は、例の感染症騒動で、無能ぶりを発揮した組織と比べ、遥かに、中立的で、目的意識を、明確としているが、そこからの保証に、心強く感じた人も、多いだろう。だが、相変わらず、自己中心的で、利己主義な、隣の大国は、論理の欠片も無く、矛盾だらけの論調に、終始しており、愚かさだけが、目立っている。多くの国々の、科学者達による判断を、不十分と言い切り、まるで、自分だけが、正しいと主張するのは、世界機関を、中心とする仕組みを、蔑ろにするもので、自国絶対主義の塊、でしかない。その上、嘗て、核の塵を、世界に撒き散らした張本人は、結果として、自国の領土さえも、汚染させており、発電所の事故後、こちらの首都が、汚染されたと、報道が、盛んに騒いだ時も、その値が、自国の首都の値より、少なかったことに、口を噤んでいた。同様に、敗戦後、廃棄した汚染物質が、河川の汚染の原因、となった時には、盛んに報道したが、経済発展後の、環境汚染の話には、口を噤み続ける。所詮、そんな輩の戯言に、価値がある筈もない。

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7月5日(水)−見切り時

 懲りない、としか、言いようがないと思う。与党に属する、政党の党首は、以前から、庶民に寄り添う姿勢を、盛んに見せつつ、その実、傲岸不遜な口調で、反吐がでる、と思う人も、多いと思うが、またも、愚かな政治家の、本性丸出しの、失言を、例の調子で、吐いていた。
 大震災も、それが招いた、数々の問題も、一概に、自然にだけ、責任を負わせることは、できない。多くの事柄に、人間が関与し、時に、主犯とも思える、場合もある。発電所の事故は、確かに、様々な思惑が、複雑に絡んだ末に、起きたことだが、その責任が、誰にあるのかを、検証したとしても、現状には、何の変化も起きない。暴走を、始めてしまった、原子炉に対し、できる措置は、限られており、そこから生じる、大量の放射性物質を含む、冷却水の処理も、現時点でできる、最善の措置が、取られてきた。だが、最後に残った、放射性物質を、除去する手立ては無く、他の世界中の発電所と同様に、環境への廃棄しか、選択肢は無いのだ。科学的には、現時点では、自明の結論だが、人間の心を、優先させる考えが、そんな論理を、受け入れる筈が無い。風評という、目に見えぬ怪物を、作り上げた上で、反対の論を張る人々に、つける薬は、無いのも当然だが、彼らに擦り寄る姿勢を、例の如くに見せようと、海水浴を、引き合いに出したのは、愚の骨頂だった。科学を、一切理解せず、人の顔色を伺うだけの、愚かな人間が、政の中心に、居座るのは、如何に、馬鹿げたことか、今度のことでも、明らかとなった。前言撤回しようが、謝罪しようが、もう、遅きに失したことであり、そんな人間に、国の行く末を、頼むことこそ、最悪の事態を、招きかねない。海の向こうの、前大統領が、依然として、人気があるから、などと戯言を並べ、再びの暴走を、許しかねないのも、愚民政治の典型だが、何の違いもないことを、しゃあしゃあと行うのでは、そろそろ、見切り時と思えてくる。

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7月4日(火)−網の罠

 詐欺の話が、何度も、取り上げられ、用心している人が、増えているだろう。電話が、掛かってくれば、身構えるだろうし、端末を手に、情報収集を、繰り返す時も、余計なことは、すまいと思っている。だが、予期せぬ形で、引っ掛かったり、あらぬ方へと、誘導されたら。
 電話では、手練手管を、弄した作り話に、乗せられる人が、沢山居ると聞く。あれ程に、注意していても、相手の話に、乗せられるとは、何たることか、と思う人も居るようだが、感情的な話や、不安を煽る話に、抵抗するのは、難しいとも聞く。要するに、相手にせねば、良い訳だから、知らぬ相手からの電話に、出なければ、いいとなる。まあ、これも、容易なことではなく、全ての情報を、断ち切る覚悟が、必要となる。一方、電話と同じ端末が、最近は、情報収集や、情報発信の道具として、盛んに使われる。こちらに関して、不安は無いのか。以前、計算機を動かす仕組みの、大部分を占めていたもので、ちょっとした問題が、生じたとされた。利便性の追求、の結果だったのだろうが、画面上の矢印が、掠めるだけで、その先に接続する、という仕組みが、突然導入された。結果、メールでも、訪問先でも、その先へと、勝手に繋がることが、頻繁に起き、一部の人々は、危険を察知し、使用を止めた。これにより、詐欺の巣窟に、案内される場合があり、それが、犯罪を、多発させることが、懸念されたからだ。では、今の手にした端末では、どうだろうか。卓上の計算機では、今では、釦を押さない限り、その先には、辿り着けないが、端末では、何処に飛ぶのか、不明なことが多い。最近、それを悪用したのでは、と思えるのは、広告サイトの運用で、そこでの中止を意味する、×の部分を、触れてみると、元に戻るどころか、次の場所へと、誘導されることがある。この仕組みを利用して、広告料を、加算しよう、という目論見なのか、と思うのだが、果たして、真相は如何に。

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7月3日(月)−何が問題

 人材不足が、叫ばれてから、久しいのだが、そこに、今度は、人手不足が、加わったようだ。求人に対して、応募する人の数が、明らかに、足らないとある。何故なのか。確かに、少子高齢化が進み、新たな人手は、減り続けている、と言われるが、それは、本当だろうか。
 丁度、退職する年代に、当たる人々は、決断を、迫られている、と言われる。そのまま、年金生活に入るか、あるいは、再雇用や新たな職を得て、働き続けるのか、という選択だ。その意味では、徐々に、人員は、減り続けるとも見えるが、反面、雇用が、継続するなら、現状維持では、とも思える。更に、多くの企業では、新卒採用を、継続しているから、人手不足が、起きているとは、ちょっと思えない。だが、心配を、煽ることに、腐心する人々は、この時ばかりと、連呼を続け、問題の深刻さを、訴えようとする。前にも書いたが、その典型が、介護現場にある、と言われる。労働条件として、最悪とも言われ、離職や転職が、相次いだことでも、よく知られるが、その状況は、大して変化していない。特に、物価高騰が、深刻化している、と言われる中で、賃上げが、社会問題の一つになる中、相も変わらず、低賃金で、長時間労働を、強いると言われては、新たな人手が、入り込む可能性は、低いと見られて、当然だろう。同様に、低賃金が、問題となる職業では、この状況が、より深刻となる、と見られている。おそらく、それらが、特に、際立つ業種で、そこに、光を当てて、問題を、強調しているのだ。だが、それとて、解決の手立てが、無い訳でもない。他業種同様に、賃上げを、断行するのは、当然であり、職場環境の改善も、それに伴い、進めていく必要がある。粛々と、進めればいい、と思うのは、他人事と思うからだろうか。それとも、病状は、より深刻で、絵に描いた餅の如く、事が進まぬ、とでも言うのだろうか。長年、先送りにしたツケが、愈々、と思うのだが、はてさて。

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