パンチの独り言

(2023年7月10日〜7月16日)
(評判倒れ、役立たず、批判精神、新参者、曲解、大衆心理、栄枯盛衰)



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7月16日(日)−栄枯盛衰

 ここを、読んだことのある人なら、すぐに、理解できると思う。感情ではなく、論理に訴えないと、事は進まない、ということだ。何度、書いてきたか、知れないけれど、懲りずに、書き続けるのは、それが、最重要の事柄、と思うからだ。だが、理解できない人の方が、遥かに多い。
 軍事侵攻が、その結果、だとは思わないが、自分にしか、通用しない論理を、相手に押し付け、横車を押し続けた、結果だろうと思う。人の成り立ちは、その代だけなら、自身の歴史として、語ることも、難しくはない。しかし、人種やら、民族やら、そんな集団の話となると、あまりにも、多くの要素が、入り混じった結果、答えは、見出せなくなる。ただ、その中でも、互いに理解できる、論理を展開すれば、争うことなく、平穏無事に、過ごすことが、可能となるのではないか。その考えを、あっさりと捨て、他人の都合など、知ったことかと、自らの論理を、押し付けた結果が、暴力へと結びつく。凶暴な連中が、権力を、身につけた途端に、そういう暴挙に走るのは、歴史が、物語っていることだ。でも、国の間でのことでは、一般大衆には、無関係のこととなる。だから、普段から、力の行使を、当然と考え、周囲を、力で押さえつけようとする、という人も、居るようだ。でも、それで、何ができるのか、大したことはない。それより、論理を駆使し、相互理解を、導くことで、周囲を巻き込んで、進むことこそが、社会的動物としての、繁栄を築き上げてきたのではないか。恐怖とか不安とかの方が、遥かに強力であり、大衆を、自由に動かせる、と思う人も多く、様々な騒動において、実践されてきたことだが、それは、すぐに、破綻してきた。長く続く繁栄は、やはり、論理に基づき、全体の理解を、進めた結果であり、その成果でもある。でも、どんな国も、繁栄の後は、衰退へと進んだのでは、という考えにも、殆ど間違いは無い。但し、繁栄下で、傲慢な考えが、蔓延ったからだ。

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7月15日(土)−大衆心理

 感情に訴えるという話は、実は、政府の高官、世界機関の担当者、研究者と呼ばれる専門家まで、対策を講じ、施策を検討する、あらゆる人々の資質に、強い疑問を抱かせるものだ。理路整然と、状況を把握し、それに基づき、対策を練る作業に、感情は、入り込む余地が無い。
 にも拘らず、それを、大衆に向けて、発動しようとする時、と言うより、それ以前の状況で、決定を下すべき、議論の場で、感情に訴えて、心を動かさねば、何事も、進められないとしたら、何の為の学問で、何の為の議論なのか、全く理解不能となる。科学に携わる人間に、数値などの結果は、絶対的なものだが、そこに、感情が、入り込む余地は無い。著者が、読者に配慮して、話を分かり易くした、との解釈もあるが、もし、主人公達が、そう思っていたのだとしたら、その役を果たすだけの、資質に欠ける、と言わざるを得ない。おそらく、会議の最中、頑なに、封鎖を拒む人々に、理解を促す為として、家族や身近な人を、引き合いに出したのだろうが、それを、感情に訴える、と解釈したのは、誰だろうか。発言者本人か、はたまた、それに同調して、考えを改めた人々か、何方かなら、彼らには、退場を勧告すべきだ。一方、著者が、気を利かせて、そんな解釈を、施したとしたら、大いなる誤解に、批判や糾弾を、浴びせるべきだろう。だが、結果として、この悪書は、海の向こうでも、こちらでも、よく売れたとある。これはつまり、読者の見識が、問われている、と見るべきではないか。世論が、どうあるか、という点に関して、今回の騒動は、様々な問題を、突き付けられた。特に、大衆の言動には、不見識極まりないものも含め、呆れる程のものが、多く見られた。一方で、行動自体も、無責任極まるものや、無軌道なものまで、理解不能としか、評せないものが、沢山あったことも、事実だろう。何故、こんなことが起きたのか、考えるべき時、と思うのだが、どうだろうか。

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7月14日(金)−曲解

 先日、取り上げた悪書の中で、唯一、成る程、と思ったことは、封鎖などの措置では、感情に訴えることが、肝心との話だ。ただ、ここでも、著者は、過ちを犯した。物事を、分かり易く語る為に、比喩を用いたつもりが、全くの誤解に過ぎず、根本的な間違いを、犯したのだ。
 効果的な、感染拡大予防は、学校の閉鎖による、子供達の間での、感染の広がりを、抑制する措置、というのが、本の中で称賛された人々が、導き出した答えだが、それを、国立の機関の関係者で、議論した時に、当初は、難色を示す委員ばかりで、反対の声しか、上がらなかったのに対し、推進側が、示した提案は、もし、自分の子供や孫達が、その学校に通っていたら、どうするのか、というものだった。途端に、身近な人間が、感染することで、犠牲となるのを、思い浮かべた人々は、賛成に回ったという結果を、著者は、感情に訴えることこそが、こういう施策において、重要な意味を持つ、と解釈していた。だが、この考え方は、明らかな誤りではないか。身近な人に対して、感情的になる、との考え方は、如何にも、物事の本質を、理解できない人間が、やることであり、この場合、それ以前には、あくまでも、他人事としてしか、事象を見なかった人間が、自分のこととして、考えるようになっただけで、それを、感情と言い換えるのは、間違いと思う。逆に言えば、感染症対策などに、関わる人間が、まるで、他人事のように、有る事無い事並べて、解説するのと、酷似している。要するに、研究に携わる人間が、まるで、実験動物を見るように、感染者や重症者を、扱うことにこそ、問題があるのだ。研究室で、行う実験では、研究者は、観察者であり、実験の対象となる、当事者ではない。その考えに、どっぷりと浸かった、愚かな人々は、人類の危機かも知れぬ、肝心な時でさえ、その姿勢で、観察し続ける。だから、大衆を、恐怖心で動かすことを、正当化して良いなど、もっての外だ。

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7月13日(木)−新参者

 社会媒体の世界に、変革が起きようとしている、と言われるが、本当だろうか。圧倒的な占有率を誇った、囀りと呼ばれる媒体は、従来から、参加者の無謀な発言が、取り沙汰されていたが、遂に、海の向こうの前大統領の、身勝手な発言に、重い腰を上げた、と言われた。
 貴賎の区別無く、誰もが自由に、発言できる場として、確立されてきたが、その実、過激さが、高まるにつれ、詐欺や暴行といった、一般的な犯罪と、同等のもの、と見做せる行為が、頻々としていた。無名の人間が、犯したとしても、管理側は、ある程度まで、無視できたのだろうが、大統領という地位にある、人物による、捏造や嘘は、影響力の大きさから、無視出来ぬ程に、深刻化した。結果として、制限を掛けざるを得ず、自由が奪われた場から、多くの人々が、去って行った。広告料を、糧とする仕組みでは、参加人数の激減は、死活問題となる。経営が圧迫され、遂に、ある人物の登場となった。それまでにも、新興企業の経営者として、辣腕を振るってきたが、軍事侵攻では、支援に回るなど、耳目を集める行為に、人気を博していた。しかし、この買収に関しては、賛否両論が噴出し、依然として、元通りの活況には、戻れていない。そこに、他社の参入が起きた訳だ。芋蔓とでも、呼ぶべきだろうが、新規の仕組みでは、様々に異なる様式が、導入されたとある。ただ、その企業も、社会媒体を、広告収入で運営しており、根本には、変化が無い。もしかしたら、全く別の展開が、起こるかも知れないが、過剰な期待は、禁物だろう。でも、開始直後の、参加者の急増は、現行の占有者に対する、不満の表れ、とも受け取られる。当初、自由な発言の場が、登場した時には、人々の反応は、様々であり、発言の質も、様々だった。しかし、一度確立した、過激発言の傾向は、仕組みの問題でも、制限の問題でもなく、単純に、参加者の問題でしかない。彼らの駆逐しか、方法は無いのだろうか。

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7月12日(水)−批判精神

 ただのお話を、これ程に持ち上げ、絶賛したのは、何故なのか。その理由は、簡単なものだろう。失敗したのが、権力側であり、彼らを、批判することに、血道を上げてきた、報道の人々は、マスゴミと揶揄され、所詮、同じ穴の狢、と呼ばれたことに、抵抗したかったのだ。
 だが、書き手は、単なる語り部に過ぎず、彼が、絶賛した人々も、検証の材料を、語り部に与えた訳でもない。これでは、警鐘を鳴らした人々を、蔑ろにした、権力そのものを、批判することこそが、本の主題となるのは、ある意味、止むを得ないことだろう。だが、その程度の代物を、解説の中で、絶賛した報道者も、御里が知れる、というものだ。危機が、迫る中での、権力に与する如く、大衆に、不安を煽り、行動制限も、止むなしとした態度は、見事に、棚に上げた上で、後出しじゃんけんを、やってみせるのは、情け無いを、通り越している。嘗て、公共放送とも言われた場所で、子供相手に、報道解説をした時、分かり易い解説に、子供だけでなく、その親や大人達にも、好評を博していた。その後、放送局を離れ、別の局の番組や、大学教員を、行うようになったのは、その人気の故だろう。だが、一方で、知ったかぶりが過ぎ、馬脚を露わすことも、度々あり、特に、今回の騒動では、解説と称しながら、感染症そのものや、その対策に関して、核心を突くことが、無いままに、似非専門家と、変わらぬ役しか、果たせていなかった。収束が、近づくにつれ、批判姿勢を、露骨にし始めた所に、この出版は、ある意味、朗報だったに違いない。だが、肝心の批判力は、騒動の高まりに連れ、減退したようで、本の内容に関しても、犯人探しの部分しか見ず、触れられてもいない、国内事情の批判に、言及するに至っては、嘗ての栄光は、などと書きたくなる。確かに、批判は必要だが、最重要なのは、如何なる対策を、講ずべきか、という問題だ。そこに、辿り着くのは、何時のことやら。

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7月11日(火)−役立たず

 では、何が問題で、何で劣悪だったのか。評判の本を、読みたい、と思う人は、ここから先は、読んでからにして欲しい。著者は、百年以上前の、膨大な数の死者を出した、流行性感冒における、国内都市の、対策の違いから、原因を推測した論文を、端緒として、書き始めた。
 今回の大流行でも、引き合いに出された、歴史的な出来事だから、誰もが知る話だ。しかし、その論文の前までは、ウイルスによる感染は、予防することが困難、との見方が、大勢を占めていたが、都市による流行の違いが、流行の初期対応の違いに、起因したとの計算結果から、都市封鎖の重要性が、注目され始めた。更に、その中核を成すのが、子供が通う学校の関与で、学校閉鎖が、最適な対策との計算が、子供の研究と、親の協力から、出てきた逸話が、語られていた。その後、当時の政府が、対策方法を立案し、国の感染予防の組織を、巻き込んでの、展開を記していた。そこまでは、今回の騒動で、各国が実施した施策として、よく知られる所だが、結果として、海の向こうは、多くの州で、多数の犠牲者が出て、失敗したとの結論が、紹介されている。ただ、その原因は、折角立案したものを、様々な要因で、実行に移さず、判断を誤ったことにある、とした訳だが、一方で、別の州では、被害が少なく、別の要因が、働いたとの見解もある。だが、著者は、そこに、全く触れることなく、犯人の糾弾と、封鎖を論じた人々への称賛に、終始するばかりで、これでは、失敗から学べることも、正しい選択を模索することも、できる筈が無い。都市でも、学校でも、封鎖することで、効果があるとの計算は、こちらでも、八割おじさんの論で、一躍、耳目を集めたが、結果は、惨憺たるものだった。現実に、多くの国々が、今回の騒動に巻き込まれ、それぞれに、異なる手立てを、講じた中で、微妙に異なる結果が、出てきたのだ。それを、検証することなく、ただの物語にして、何の役になるのか。

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7月10日(月)−評判倒れ

 読んだ本の感想を、独り言で取り上げるのは、これまで、月末か、次の月の初め、と限っていた。題名には触れず、読んだ本の項を、見て貰えば、解るから、というのが理由の一つだ。だが、今回は、読み終わったのが、月初めだったこともあり、取り上げることにした。
 もう一つの理由は、話題が、感染症騒動に関することで、内容が、あまりに劣悪で、悪書と呼ぶしかない、と思ったからだ。残り、この月も、半分以上あるので、題名を伏せるのは、適切でないと思う。「最悪の予感」と題する、海の向こうの顛末を、書き記したものだが、短い感想にも書いたように、魔女狩りの如く、失敗した、とされた者達を、徹底糾弾した内容だ。それだけなら、ここで、何度も書いたのと、変わりないものだが、書籍では、同時進行ではなく、ある程度の結論が、出た後での、話となる。失敗した人物を、結果が出てから、その過ちを含め、批判するのは、卑怯なやり方、とも言われ、本でも、それに類する言説が、盛んに出されるが、そこに問題がある、とは思わない。この本の最大の過ちは、失敗した人間を批判する一方で、正しいやり方、と思しきものを、紹介しており、彼らへの賞賛を、惜しまない姿勢なのだ。もし、結論が出ており、世界の何処かで、感染症を、それに似た方法で、抑え込んだ、という話があるなら、理解できるのだが、国内問題や、国内でも一部の州に限った、話に終始しており、こちらでも、観光船での状況を、成功の一つ、と称えたものの、実態を知る人間には、的外れとしか、映らなかったことを含め、誤った解釈の、連続でしかない代物で、無価値と断ずるべき、と思った。出版社は、売上を稼ぎ、文庫化した上で、人気報道者の解説を、加えていたが、これもまた、内容の精査もなく、的外れに終わり、両者とも、評判倒れとなった。こんな書き方をすると、称えた人々から、無理解の指摘があるかもだが、それに対する反論は、また後ほど。

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