パンチの独り言

(2023年7月17日〜7月23日)
(意見交換とは、二の舞、確認する、無作為か、作為の有無、進路、真の役割)



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7月23日(日)−真の役割

 では、この国の社会が、大学に期待する、役割とは何だろうか。殆どの人が、人材育成、と答えるのではないか。だが、肝心の大学は、どう考えているのか。更に、肝心の学生達は、どうだろうか。改めて、これについても、考えてみたいが、がっかりしそうな気が、しないでもない。
 教育機関、それも、社会に出る前の、最終段階として、と考えれば、人材育成しか、あり得ないと思う、のが普通だろう。だが、現状は、どうだろうか。囀りの中でも、様々に議論されていたが、研究の場、としか考えない人が、あまりにも多いのに、驚いた人も居るだろう。それも、外部からの期待ではなく、内部の人間が、自らの役割を、そう任じていることに、驚かされたのだ。確かに、世界的に見ても、研究を進める人間の、多くの割合が、大学に属している。研究と学問は、密接な関係にあり、相互に作用し合いながら、進歩するのだから、大学が、大部分を占めるのも、当然となる。しかし、研究の場、と自任する人々の多くは、学問は別としても、教育に関しては、重視していないのが、実情のようだ。特に、最先端の研究を、行っていると思う人には、そんな人間が、多数あるように見える。極端に言えば、研究において、戦力となる人間を、確保する為に、大学という存在が重要で、学生は、教育の名の下に、安価に使える、人材と見做している。必要となる、最低限の教育は、施すべきだが、各自の能力を、伸ばす為という考えは、あまりないように見える。こんな状況では、人材育成と言っても、教え育むとは名ばかりで、実際には、本人次第としか、考えていないようだ。ただ、初等中等教育と違い、高等教育では、手取り足取りは、面倒なだけで、効果を上げられず、それより、自覚を促すことで、自らの可能性を、最大限に伸ばす努力を、引き出すことが、重要と見る向きもある。だとしたら、大学の役割とは、実際の所、何なのか。関係者は、どの位、考えているのだろうか。

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7月22日(土)−進路

 大学教育に、魅力はあるのか。改めて、問われたら、関係者は、何と答えるか。昔なら、学問の府、と呼ばれたように、学問を究める場であり、それを糧として、社会の礎を築く、という思いがあった。今や、単なる資格の為であり、如何に容易く、手に入れられるかが肝心だ。
 目指す人々が、そんな思いを抱き、大した期待も持たずに、やってくるが、果たして、迎える人間は、何を思うのか。囀りでも、盛んに、意見を交わすのだが、どうにも、自分のことしか、考えておらず、やってくる学生に、何を与えよう、と思っているのか、さっぱり見えてこない。教育を、生業とした場合、働く目的が、何処にあるのか、今一度、考えてみると、答えが見つからない、という人が多いのではないか。教え育むことにおいて、与える側は、何を差し出せるのか、明確な答えは、示されていない。だから、来る人々は、卒業という資格を、第一の目的、とするのだろう。だが、それだけなら、授業料を、支払うのみで、事が済む大学で、十分だろう。一流を目指す人は、場違いな期待は、抱かぬものだが、最下層の学校では、そうなっているらしい。一方で、世間では、人材育成が、喫緊の課題と言われて、久しい訳で、今だに、その勢いは、衰えていない。理工系の充実、という話を、何度聞かされたのか。今度もまた、そんな調子なのか。だが、学問を、という目的なら、理系も文系も、何の違いも無いが、人材を目的とした場合、そこに、大きな違いが生まれる。製造業を中心とした、企業がひしめく国では、理系の知識が、不可欠となる。営業とて、それを武器とすれば、成績向上も、見込めそうだ。そんな事情から見れば、理系優位は、当然至極に見える。ただ、嘗ては、営業成績こそが、企業経営の核と見做され、経済や法科を、出た人材が、出世すると言われた。でも、現代では、この事情にも、大きな変化が起きている。但し、理系の知識だけでは、役立たずに終わる、かもだが。

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7月21日(金)−作為の有無

 昨日書いた、統計の話に、読者から、意見が寄せられた。初めてのことで、驚いたが、考えを書いておきたい。通常、千人を対象とすれば、どんなに巨大な母集団でも、その傾向を、知ることができる、という話だ。統計の世界では、有名なものだから、多くが従っている。
 読者の意見は、その千人が、果たして妥当か、という話についてだった。昨日も書いたが、無作為抽出が、基準となるから、作為的に選ばれた集団では、この論理は適用できない。そこで、巷で行われる調査が、それに、見合うものか否かは、どう判断されるのか、という疑問が出てくる。報道関係は、何とか、千という数値を、超えようとして、それに達するまで、調査を継続するようだ。だから、無作為に抽出したとした対象に、多くの場合、電話を掛けて、回答数を、千に到達させる。ここで浮かぶ疑問は、無作為は本当か、という点と、回答した集団に、一切の偏りは、存在しないのか、という点だ。電話番号を、乱数として提示させ、そこに掛ける手法は、既に確立されており、理論的には、問題無しとされている。但し、これも、固定電話だけだった時代から、携帯電話が、大勢を占めるようになり、変更されたらしい。固定では、市外局番で、地域を限定できるが、携帯では、できないからだ。その為、地域性の反映は、放棄したのだろう。つまり、無作為とは、言い切れない訳だ。一方、回答するかどうかに、偏りが反映することも、当然考えられる。その為、ここでも、作為と見做されることが、起きている。結局、今の世論調査とは、その程度のもの、となる。おそらく、このことが、調査の信頼度を、落としており、世界各地で、見込みと異なる結果が、選挙などで出ているようだ。所詮、調査とは、その程度のもの、と見るべきで、一喜一憂も、錦の御旗も、無意味と見るべきだろう。当然、報道が多用する、世論の操作も、同じ根っこであり、疑ってかかるのが、常識となる。

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7月20日(木)−無作為か

 ある企業が、広告で、10万人の調査結果を、瞬時に、集められる、と述べていた。統計を知る人なら、千人の調査で、価値を見出せるから、この人数なら、と思っただろう。だが、統計では、そう簡単には、事は運ばない。数字の大きさだけが、物を言うのではないからだ。
 では、ここで触れた、10万と千には、どんな違いがあるのか。一般に、統計上、どんな母集団でも、そこから抽出した、千を超える集団から、得られた値は、母集団と、同じ傾向を示す、と言われる。確率的に、有意な差と、見做すことができる、という話だ。では、何故、広告で出された、10万に、その価値が無いのか。無い、と断言できる訳ではないが、何を母集団と見做すかで、できる場合とできない場合がある、というのだ。広告では、手にした端末に、企業が提供したアプリを、搭載した人々から、10万人を、抽出できる、と謳っていた。千人を、選び出す過程で、よく耳にする、無作為という縛りが、適用できるかが、実は肝心なのだ。もし、アプリの使用者が、無作為抽出と、同じ分布を示せば、見做せることとなるが、ある年齢層や、ある性別に、偏っていたら、適用できなくなる。無作為とは言えず、国民全体の、という話には、拡張できないのだ。その代わり、偏った集団を、母集団とすれば、調査結果は、統計的に、妥当なものとなり、そこに現れたものは、有意な差として、扱うことができる。統計とは、様々な仮定に、束縛されており、その中での有意性を、論じるものとなる。そんな前提を無視して、都合よく集めた結果では、何も主張できないのだ。その意味では、各国政府が、毎年示す調査結果の多くは、その規則を守り、統計的にも妥当と、判断されるものとなる。一方で、開始から、既に数年を経過し、多くの調査が、実施されたにも拘らず、依然として、結論が出されないのは、この根本の問題と、政府や国際機関が、抱える問題がある。おそらく、妥当な結論は、出ない。

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7月19日(水)−確認する

 感染症騒動以来、報道を、鵜呑みにしてはいけない、と思う人が、急増したようだ。だが、それ以前からずっと、その状態にあったとしたら、どう思うだろう。多くの事件や出来事に対し、様々に見解を述べるのが、報道の役割だったが、その状況は、一変したようだ。
 これは何も、恐怖に駆られて、盲目的に突っ走る、そんな状況とは、異なっている。直接、害が及ばずとも、何事も、流れてきた情報を、確認することなく、垂れ流しているからだ。それについては、殆ど変化のないまま、単に、恐怖の度合いが、増したことで、受け取る側が、従順になっただけだ。それにしても、騒動は、既に過ぎ去ったのに、今だに、同じような状況が、続くのは何故か。不思議に思う人が、居るのではないか。でも、それが、ずっと以前から、同じだったとしたら、何の不思議も無いことだ。報道する側も、それを受ける側も、何方も、確認せずに、鵜呑みにする。騒ぐことこそが、目的なのでは、とさえ思えてくる。つい先日も、農産物の輸送に関して、軍事侵攻の影響で、厳しい状況から、回避の手段としての合意が、一方的に、破棄されたとの話が伝わった。途端に、小麦の先物価格が上昇し、それが、更なる物価上昇を、招くとの報道が、盛んに行われた。確認の為に、海の向こうの価格変動を、二つのグラフで、示しておく。5年間5日間だが、長期の中での急上昇は、軍事侵攻の影響で、それが、回避策で落ち着いたことがわかる。一方、短期では、破棄が伝わった途端に、反応したことが、はっきりと解るが、すぐに落ち着いたようだ。この国では、国産小麦の価格を、調整する目的で、輸入小麦の価格は、政府が決めている。直近のものでは、この所、上昇が続いていることが、解るのだが、これは、輸送経費の問題、ともされている。確かに、家計への圧迫は、大きいのだろうが、今、ここで騒ぐべきことか、明らかではない。でも、騒ぎたい人が、居るようだ。

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7月18日(火)−二の舞

 歴史は繰り返す。だから、歴史に学べば、大過なく過ごせる、という話を、よく聞くけれど、どうだろうか。他国への、軍事侵攻は、人間が、国という単位で、動くようになってから、何度も繰り返され、甚大な被害を、双方に及ぼしてきた。だが、今回もまた、である。
 権力を、振り翳す人間は、独裁者となれば、その範囲を、広げようと動く。その結果、他国の領土も、自らのものと見做し、占領を、当然と決めつける。この暴挙を、押さえ込む為に、国際機関が、設けられたが、先の大戦でも、今回も、成果を、上げられなかった。繰り返すからと言って、予防策が、可能となる訳でもないし、互いの力を、競い合う中で、均衡を保つことも、容易ではない。力の行使、という意味では、歴史は、単に、繰り返しているだけ、なのかも知れない。しかし、経済は、違う筈だ、と主張した国が、お隣にある。一党独裁体制で、何度も、危機に瀕したものの、その後、自由経済の導入という、一種、矛盾に満ちた決断から、繁栄の道を、歩み始めた、と言われる。その中で、首脳達は、成長を続ける経済への、危機の兆しを、指摘する批判に対し、自らの立場を、以下のように説明した。つまり、先頭を走り続ける大国や、嘗ては、それをも脅かすとさえ、言われた国が、頓挫から停滞へと、変貌した歴史から、学ぶべきことは、数多あるものの、それを参考に、この勢いを、保つことが可能、という訳だ。確かに、工業国への移行と、経済発展による、資金力の行使が、驚くべき成長を、支えていたことは、事実だったが、ここに来て、陰りが見え始めた、と言われている。特に、後者の国の、破綻へとつながった、不動産投資と、よく似た現象が、表面化し始め、二の舞との指摘が、盛んにされている。それでも、制御可能を、高らかに謳う、主席をはじめとする、首脳達は、まだ、自信を失っていない。歴史は繰り返す、とは、何方を指すのだろうか。

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7月17日(月)−意見交換とは

 囀りで、大学教育の話が、盛り上がっていた。的外れなことも含め、様々な論説が、並んでいたが、どうも、しっくりと来ない。多くの意見は、当事者からであり、教員と学生の双方からのものが、散見されていた。それが、的を、見事に外している、と見えたのだ。
 以前から、論理構築の重要性を、度々、書き記してきた人間として、書きたいことは、一杯あった。だが、それぞれの意見に対して、異論を並べても、賛同の上で、もっと深い考えを、書き記しても、総じて、反応は鈍かった。批判的な意見も、同調する意見も、殆ど出てこず、その流れは、徐々に下流へと移り、消えていった。意見交換の場として、社会媒体の多くは、存在している、と思ってきたが、ひょっとすると、全く間違っていたのか。かつての、掲示板でも、そんな兆候が、見えていたが、今の状況は、その極端さが、際立ってきた、といった所のようだ。つまり、自分の意見を、書きたい場所であり、誰かの意見を、聞きたい場所でも、自分の意見に対する、反応を見たい場所でもない。ただ単に、言い放つことだけが、目的なのでは、と思えてきた。確かに、多くの人々が、注目する場であり、時に、爆発的な既読が、入ることがある。その意味で、重要な情報源の一つ、と数えられるのだ。だが、現実には、そんな代物は、ほんの一握りで、その他は、単なる塵であり、誰も、注目しないものなのだ。意見交換とは、名ばかりのもので、典型的な放言の場、でしかない。そこで、耳目は集めずとも、偶には、覗いてくれる人が居る、独り言に、意見を書き記した上で、こちらへの誘いを、囀りに書き込んだのだが、何の反応も、起きなかった。一瞥するだけで、情報を得ようとする人間に、もう一段の手続きは、面倒でしかない。その結果だったのだろう。改めて、一週間に渡る、大学教育に関する独り言を、細切れで、囀ってみたが、こちらも、反応が薄い。意見交換は、土台無理なのか。

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