パンチの独り言

(2023年7月24日〜7月30日)
(希望的観測、お節介、知識と知恵、詐欺事件、失ったもの、先見性、教育問題)



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7月30日(日)−教育問題

 教育に対する予算を、どう考えるかは、人材育成も含め、国の将来を、左右するもの、と受け取る人は、多いだろう。だが、この国は、高度成長期において、成長の裏には、育成の成功がある、と他国から、高く評価されていたにも関わらず、今や、その影も見えぬ、と言われる。
 教育に向ける予算は、削減され続け、一方で、競争社会を、生き抜く為に、必要な経費として、家庭には、私立学校や、塾に通わせる為、と称して、大きな負担が、降りかかっている、と伝えられる。嘗ての栄光は、失われてしまったのか。教育水準についても、青少年の水準を、危ぶむ声ばかりが、強まっているようだ。現場からも、過剰な負荷が、教育にかかる一方で、世界水準から、大きく落ち込んだ、などと批判され、一体全体、この国の教育は、どうなってしまったのか、と危惧する意見が、大半を占めるように、報道は、盛んに伝える。現状が、どうなのか、確かなことは、何も言えないようだが、依然として、大学への進学率は、下がることなく、資金不足を、指摘する声が、出てきたとしても、相変わらず、苦学というより、学生生活を、楽しむ姿の方が、大勢を占めている、ように見えている。ここでも、悲観的な筋書きが、好まれるようだが、実態は、どうなのか、知る由もない。ただ、一部を除けば、大半は、義務教育課程も、その後の高等教育でも、問題を、抱えているようには、見えていない。それは、金銭的な問題でも、同様のようで、課題山積、と言われる一方で、問題は、顕在化していない、ように思える。予算は、大部分が、税収で、賄われており、増やす必要があれば、増税もやむなし、となる筈だが、それ程には、危機が迫っていないようにしか、見えてこない。ただ、物価高騰の波が、押し寄せる中、次に、どんな問題が、起きるのかについて、そろそろ、真剣に考える必要は、ありそうだ。何を、どう考えるべきか、誰が、と問うべき時が、来ているのか。

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7月29日(土)−先見性

 物価の高騰が、様々な所に、悪影響を及ぼす。食材の値段も、色々な要因で、上がっており、これまで、優等生と呼ばれた、卵でさえ、急激な値上げに、消費者の驚きは、広がった。一方で、生活に欠かせない、電気、ガス、水道についても、値上げが続き、悲鳴が聞こえる程だ。
 しかし、それでも、庶民にとっては、政府が決めた、支援策によって、家計への直接の影響は、減じられている。原資が、税金であることを考えると、安易に喜べないが、一時的な救いとなった。しかし、その影で、甚大な被害を受けた、組織があることは、あまり知られていなかった。昨日の夕刊で、取り上げられたが、大学での研究が、危機に瀕している、という話だ。特に、電気代の高騰は、一般庶民と異なり、事業所では、何の対策も、講じられなかった。営利企業では、原材料の高騰は、商品の値上げで、解消するものとされ、今回の物価高に関しても、多くの企業が、人件費と共に、商品価格を、引き上げることで、対応したと言われる。だが、大学、特に、国立大学では、営利を目的とはせず、人材育成が、主たる目的となるから、出費が嵩んだとしても、それを解消する手立ては、殆ど無いに等しい。精々、節約を心がけ、出費を減らすしか、方法が無い。だが、従来から既に、電力供給の問題などから、節電は、徹底されており、一方で、研究などに不可欠な、環境維持への、電力使用には、限界があると言われてきた。そこに、今回の変動が、襲い掛かり、多くの大学は、苦慮していると記事にあった。ただ、この問題には、更に重要な要素があり、役割の中で、最も重要な教育に関して、どんな影響が、及んでいるのか、全く触れていない。最先端の研究は、確かに、重要なものだろうが、人材育成が、停滞するようでは、存在意義さえ、危ぶまれることとなる。確かに、大学には、選挙権が無いから、政策決定の、見返りが無いだろうが、将来の人材確保を、忘れてはならない。

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7月28日(金)−失ったもの

 人材育成について、以前とは、かなり違った考えが、優勢のようだ。人を育てるのは、教育の役割と、学校と名の付く、現場に、全てを任せた、という主張だ。以前なら、基礎的な知識や、考え方について、学校が教え育むとしても、人材として、役立つ為の、最後の一歩は、社会となっていた。
 確かに、即戦力、という言葉が、使われ始めた頃、他とは異なる、少し先に立つ能力を、有する人材が、持て囃されていた。だが、そこには、別の考えも、あったのではないか。つまり、確かに、少し先なのだろうが、現実には、全てを有する訳でもなく、更に、先へと伸ばす必要がある、というものだ。この状況は、それ以前と、何ら変わらぬもので、組織の一員として、必要な能力は、そこに属してから、身に付けさせる、という考え方だった。だが、高度成長期の終わり頃、状況に、変化の兆しが、現れ始めた。どんな人間でも、数さえ揃えば、何とかなる、というもので、新入社員の争奪戦、などと呼ばれたものが、激しさを増すにつれ、そんな状況となっていった。今、振り返ると、当時の採用者は、一部の例外を除けば、素質だけでなく、その後の成長も、滞った挙句、使えない、と揶揄されている。そこには、人材獲得だけでなく、その後の措置に関しても、問題があったことが、示されている。問題は、社員教育にも起き、効率追求と称して、外注が盛んとなり、各社が、それまでに構築してきた、独自の手法を、投げ出す結果となった。一度、忘れたことを、思い出すのは、難しい。その後、問題が起きる度に、社員教育の見直し、という文言が、出されるものの、何も変えられぬまま、今に至っているようだ。この問題こそ、低迷から、衰退へと移る中、回復の糸口を、見出せぬまま、数十年が、経過した、主因と思えてくる。今、問題が起きる度に、企業の体質が、問われる一方で、法令遵守など、別の問題が、掲げられるのは、その辺りの歪みが、大きな原因と思う。本気で、考え直すべきだ。

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7月27日(木)−詐欺事件

 企業の不祥事が、起きる度に、不思議に思うことがある。世間一般、庶民感覚では、不祥事の多くは、単なる失敗ではなく、意図的な隠蔽や、利益追求を目的とした、事実の歪曲や不正行為が、殆どだからだ。有り体に言えば、詐欺紛いの行為、というべきものと考える。
 これまでにも、産地偽装をはじめとして、数々の嘘が、企業から、ばら撒かれていた。食肉の偽装では、肉の種類を偽り、安価な材料から、高級食品を、仕立て上げる、などといった詐欺行為が、横行していた。だが、これらの犯罪は、その多くが、普通の刑事罰ではなく、企業それぞれの、属する業界に、適用される法律や法令で、取り締まられてきた。そこに、不思議を感じるが、世間一般には、どうだろうか。詐欺や殺人は、その意図の有無が、犯罪の認定において、重視される。だが、企業不祥事の多くは、会社ぐるみで、様々な手を施し、発覚しないように、複雑な仕掛けを、作り出すと聞く。これはまさに、歴然とした意図の現れであり、その点において、通常の詐欺事件と、何ら変わらぬことに、思えてくる。しかし、警察も含め、集団での行為には、誰の意図で、誰が指示したのか、という点の認定が、難しいとの思い込みからか、業界に適用される法令を、遵守したか否かを基準に、企業への罰を、下すやり方が、常とされてきた。だが、今回の、中古車販売業者の、一連の行為に関しては、会社ぐるみは、言うまでもなく、仮令、何らかの忖度や、上司からの圧力が、かかっていたとしても、行為そのものは、明らかな詐欺行為であり、それにより、保険金を、騙し取るのは、犯罪行為でしかない。にも拘らず、誰の関与が、とか、指示の有無は、とか、そんなことを、優先して論じるのは、馬鹿げたことに、思えてくる。詐欺犯罪において、加担した人間は、末端と雖も、罰を下される。同様に、今回の事例も、同じ扱いをすべきだろう。その上で、責任者には、相応の罰を、下すべきだ。

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7月26日(水)−知識と知恵

 誤字・脱字の話は、人それぞれの反応がある。恥の一つとして、なるべく減らしたい、できれば、無くしたい、と望む人が居る一方で、そんなことは、くだらない、何の役にも立たず、文章の中身で、勝負すべき、とする人が居る。何が、違うのか、という点も重要だが。
 その中、作り話だろうが、業績への影響が、本当にあるとしたら、大ごとだろう。特に、これから、社会に出る人間にとり、それは、昇進や出世に、直接、影響するかも知れず、知らぬ顔は、できないのかも知れない。一方で、自身では、かなり注意深く、点検を繰り返しても、一向に減らない間違いに、困り果てる人も居る。もし、これが、才能だけに、よる話だったら、気の毒の一言で、片付けるしかないが、果たして、そうだろうか。確かに、同じ文書を眺めても、すぐに、誤植を見つける人と、何の反応も、示せぬ人が居る。そんな所から、才能云々の話が、出てくるのだが、新聞記事を見る限り、それだけとは、言い切れぬようだ。地道に、努力を積み重ね、自分なりの、発見法を編み出せば、誰もが、ある程度の水準に、達するとあるからだ。但し、そこに示された方法は、まさに地道であり、徹底したものだけに、それなりの覚悟が、必要となるだろう。そんな努力は、真っ平御免、と思う人々には、最近の、生成人工知能の話は、天啓のように、思えたのではないか。膨大な知識の上で、点検を繰り返せば、間違いを、皆無とすることも、可能に見える。でも、と思うのは、何事も疑ってかかる、性向の故だが、種々雑多な情報に、基づく判断には、何方とも言えない、不確定なものが、ある場合がある。その時、人工知能は、どんな判断を、下すのだろうか。可能性を示して、判断を仰ぐのか、はたまた、一方に断定し、それしかない、と結論づけるのか。当初の雰囲気からは、後者の可能性が、強く感じられたが、情勢は、ぐらついている。人間の知識は上回れても、知恵は、まだまだか。

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7月25日(火)−お節介

 文書における間違いを、どの位犯しているのか、気になる人も居るだろう。独り言も、一旦入力し、表示したものを、もう一度、読むことで、間違いを、無くそうとするが、皆無とは、いかないものだ。数年前に、新聞で、この問題を、取り上げていたが、面白いと思った。
 間違いを、減らす為に、何をすべきか、という内容の記事だったが、何故、それが重要か、という点に言及して、発注の際に、見積もりを依頼したら、ほぼ同額の回答があり、契約した相手と、競合との違いは、メール上の間違いの数、だったというのだ。作り話かも知れないが、営業成績を、気にする人には、耳が痛かっただろう。事程左様に、どんな文書も、間違いを減らす努力を、怠るなとは、よく言われることだ。最近は、男も化粧を、という話になるから、頬にばつ印をつけるとか、目の化粧を、唇にするとか、そんな顔で、外に出るようなもの、と喩えたりするが、恥を晒す、という意味を、伝える為には、極端な表現も、必要となる。何れにしても、間違いを、無くしたいものだが、独り言では、読み返した時に、おやと思うことが、度々起こる。書いている時には、正しく、漢字変換できたのに、出来上がりでは、違う字に、置き換わっているのだ。慣れた人なら、思い当たると思うが、今の入力ソフトでは、ほぼ自動的に、漢字変換が行われ、入力途中でも、その状態が続く。しかし、少し厄介なのは、文章の前後関係で、選択すべき漢字を、変更する場合があり、それによって、入力直後には、正しい漢字だったものが、いつの間にか、別に置き換えられるのだ。お節介なのか、何なのか、作製者ではないので、事情は、判らないが、気をつけるべきこと、と最近は思っている。読み直しは、そういう意味でも、重要なことだ。だが、人によっては、これが、見つけられない、という場合があると聞く。おそらく、向き不向きもあるだろうが、その多くは、思い込みによる。気をつけよう。

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7月24日(月)−希望的観測

 昨日書いて、気になったので、週を跨ぐが、付け加えたい。大学の役割、と言っても、立場の違いで、異なることだ。その中で、昨日までは、大学側の考え方を、紹介した。では、そこに進む、人々の考えは、どうなのか。自分の頃と比べ、かなり、変化したように思う。
 安定した時代に、傾向と対策が、重要との見方は、何度も紹介した。その中で、情報を、確実に手に入れることが、強調されている。だが、手に入れた情報を、どう活用するかについては、あまり語られていない。手に入れただけで、満足したり、身勝手な解釈で、期待を裏切られたり、様々な過ちを、犯しているようだ。子供の数が、急激に増し始め、そこに、学歴の重要性が、取り沙汰される中、進学率は、鰻上りとなった。押し寄せる希望者に、受け皿は、特に、何の手立ても講じず、ただ、漫然と、受け入れを、続けてきた。隔世の感があるのは、大学の広報姿勢で、何の情報も、発信せずとも、希望者が、殺到するから、必要性を、感じなかったのだろう。それが、若者人口が、頭打ちとなり、少ない牌を、奪い合う状況が、強まるにつれ、初めは、私立から、すぐに、地方国立へ、遂には、旧帝大と呼ばれる所まで、広報に、力を入れ始めた。結果、情報が溢れ、希望者達は、手に入れたものから、何かを糧に、希望校へと、進学してきた。だが、彼らは、何をしに、やって来るのか。その疑問に、答えは示されず、落胆や失望の声が、届き始めた。改めて、昔を見れば、右も左も分からぬままに、進学した人々は、不安や心配が、戸惑いへと変わり、苦悩に陥ってもなお、自分なりの努力を、重ねることで、社会へと飛び立っていた。それが、右も左も知ったかの如く、期待と希望に溢れ、門を潜った途端に、失望と落胆に、襲われ始める。この乖離は、何処から出て来るのか。ほぼ全てが、誤解であり、思い込みだろう。その中で、身勝手で、都合のいい、見通しを持っただけだ。どうすべきか。

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