パンチの独り言

(2023年7月31日〜8月6日)
(風評の主、直視せよ、期待する、自立とは、見極め、確認を、口先外交)



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8月6日(日)−口先外交

 詭弁とは、間違いを、正しく見せたり、その為に、説得したりすることを、指すと言われる。囀りなどの、社会媒体でも、最近盛んに、先の大戦が、始められた意図を、書き連ね、当時の政府を、正当化しようと、説得する動きが、見られるのも、その一つだろう。
 一方、軍事侵攻を始めた、独裁者に似た存在は、自らの動機を、主張しているが、これは、詭弁と呼べるか、疑問が残る。何しろ、説得など、微塵も意図せず、ただ、主張を繰り返すだけだからだ。ただ、同じ国が、穀物などの輸出に関して、周辺国との取り決めを、打ち切った理由は、まさに、詭弁と呼ぶべきものだ。それも、説得ではなく、論理としてである。世界機関をはじめとして、多くの国々が、穀物輸出が、ある地域の食糧難の解消に、結びつくことを、取り決めの理由として、挙げているのに対して、侵攻国は、その多くが、先進国へと運ばれ、食糧難の解消には、結びつかないことを、打ち切りの理由とした。従来から、市場原理に従えば、正当な額を、支払ったものが、先に手に入れ、残ったものを、困っている地域に、という図式が、描かれており、その状況は、侵攻後も、変わらず続いている。その状況を、無視した上で、自分に都合のいい論理を、築き上げて、自国の輸出規制を、外させようとするのは、まさに、詭弁の典型なのだ。確かに、侵攻された国は、巨大な穀物輸出国であり、嘗て、連邦を築いた中で、外貨の一番の稼ぎ手だった。その地位は、今も変わらず、この紛争が及ぼす、最悪の影響の一つ、となっている。海上輸送は、効率の上からも、代替の無い方法だから、紛争中と雖も、継続の必要性がある。それを、弱みの一つとして、交渉の材料に、持ち出すのは、侵攻そのものも含め、あの国と、現在の政府、独裁者の、卑劣さを、示すことにしか、なっていない。何が、正しいのか、という点には、どちらに立つかが、深く関わるけれど、口先だけでは、通用しない。

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8月5日(土)−確認を

 情報社会において、重要なことは、集めることではない。確かに、何も、手にしなければ、情報弱者となり、不利益を、被りかねない。だが、仮令、集めたとしても、それらが、種々雑多なもので、中にある、塵のようなものに、惑わされるだけだと、被害者になるだけだ。
 今の社会、これを理解せず、ただ、嘘やまやかしに、振り回される人が、何と多いことか。その中で、特に重大と思うのは、騙されたことを、その発信源の責任と、追求する人が、多いことだ。少し考えれば、確認を怠り、自身が、騙されるだけでなく、それを、更に拡散して、混乱を広げた責任は、自身にもあることに、気付ける筈だが、そんなことは、微塵も感じず、被害者然として、開き直りにも似た、悪質な態度を、とり続ける。拡散が起きるのは、確かに、多くの人々が、端末を手にして、そこに表示される情報に、依存するからだろうが、それにしても、確認を怠るのは、明らかに、自身の責任でしかない。特に、軽率な伝達者が、安易に、情報を、垂れ流すことから、この状況は、悪化の一途を辿っている。一方で、端末を利用する、伝達の仕組みを、運営する側が、確認を代行すれば、という考えを、主張する人々も、居るのだろうが、これもまた、責任転嫁の一つ、でしかない。各自が、行えば済むことを、代行させることに、どれ程の意味があるのか。情報量が、異常な程にまで、膨れ上がる時代に、防衛策を講じるのは、当然のことだろう。嘗てのように、一部の報道機関だけが、大半の情報を、握った時代と違い、今や、街ゆく人々全てが、発信源になれる時代で、その変化に、受け手が、対応するしかないと思う。今後、更に、この状況が、著しくなれば、他人に依存する人々は、情報遮断を、決断するしか、身を守る手立てを、持ち合わせない、となりかねない。そんな事態に陥るより、自分で、判断できる手段を、持つことの方が、遥かに重要だと思う。

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8月4日(金)−見極め

 脅し、という手法は、犯罪では、屡々、用いられてきた。一方で、現代社会は、優しさに重点を置き、弱者保護を、最優先とする。だが、以前紹介した悪書で、取り上げられたように、大衆を動かす為には、心理的に揺さぶることが、必要となる。恐怖を与え、脅す訳だ。
 大衆の扇動において、この手法は、古今東西を問わず、度々、用いられてきた。特に、災害の最中や、落ち着きを、取り戻した頃に、効果的と言われる。最近では、大衆が手にした、通信端末から、発信される情報が、その典型となっている。ただ、多くの場合は、根も葉もないことであり、後に検証すれば、発信源も、その真偽も、簡単に確かめられる。一方で、厄介なのは、権力を握る側が、発信源となる場合だ。大震災後の、発電所事故では、深刻な事態が、起きているとされ、海の向こうでは、自国民の避難を、真剣に検討したらしい。一方で、当事国では、時の政府が、先頭に立って、盛んに伝えたのは、安全の確保であり、事態が悪化しても、どこまで進むかを検討した上で、国民に、それを伝えていた。だが、恐怖を煽る人々は、それらの言説を、完全否定し、最悪の事態を、訴えていた。当時、状況が伝えられ、見解が明らかになると、知識を有する人々に、両極端の反応が、現れていた。今になれば、最悪の事態を、想定した人々や国は、見込み違いを、犯した訳で、個人的には、もっと非難されても、いいと思う。では、感染症騒動は、どうだろうか。前の話と違い、今回は、国は、最悪を想定して、様々な対策を、講じてきた。その過程で、恐怖を煽り、脅しをかけたのは、事実だろう。結果として、被害者は、確かに出たものの、想定とは、大きく異なり、平穏を取り戻しつつある。こちらに関しては、世界機関も、各国政府も、専門家達でさえ、当時の過剰反応を、非難されるべき、と思う。一方で、大衆にとり、重要なことは、脅しの中身を、吟味することだが、次はできるだろうか。

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8月3日(木)−自立とは

 何度も書いているが、若者への批判は、的外れなのか。自分の頃より、だいぶまし、と歌ったものもあるが、何をどう比較して、そう結論付けたのか、首を傾げる。特に、自立を考えると、数々の疑問が、湧いて出てくる。親の保護から、抜け出せぬまま、体だけと見える。
 教育においても、義務教育期間は、致し方ない、とも思えるが、その後も、何ら変わらず、依存体質を、維持したままの人間が、巷に溢れている。経済的な自立は、暫く先としても、その前に、精神的なものを、手に入れる必要は、無いのだろうか。そんな筈は、と思いつつ、こんなことを、書き綴っているが、本人達は、大真面目で、自らの権利ばかりを、主張し続ける。自ら切り開かねば、ならない状況でも、ただ、漫然と、手を出して、何かを求める。空威張りでも、無理して、自己主張をするが、その際にも、昔なら、殆ど見かけなかった、要求が、前面に押し出される。教育現場で、その最たるものは、教えてくれない、との一言だろう。手取り足取り、全てを与え、それを飲み込むのを、待つ姿勢が、最近の、初等中等教育現場では、度々、見られるという。授かり物は、恵みの一つだが、いつまでも、という訳には行かぬ。成長に従い、与える立場へと、変貌する必要があり、その為に、必要なものは、自分で手に入れねば、ならないこととされる。だが、甘やかしの結果、そんな状況が、永遠に続くと思い込み、施しと共に、経済的な自立も、余所事としか、思えなくなる。まずは、心の問題と、周囲が、厳しく当たらねば、何事も、始まらないだろう。今と昔が、大きく違うことは、当然として、その中で、歩むべき道筋には、大した違いは無い。だが、傾向と対策を、追い続けるばかりでは、単純な、すべきことさえ、見えなくなるのか。何事にも、身勝手な考えが、注目されるばかりで、常識が、見失われつつある。そんな中、精神的自立は、手に入れられるのか。はてさて。

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8月2日(水)−期待する

 株式市場が、久々の活況を、呈している。いつもながら、理由は定かではないものの、投資の世界に、首を突っ込む人々には、朗報と映っている。おそらく、世界中で、騒動への対策として、ばら撒かれた資金が、だぶついた挙句に、市場へと、流入したのだろう。
 それにしても、物価高騰となり、市民の生活は、厳しさを、増している、と言われる。ただ、一方で、経済成長の観点から、ずっと目標とされた、ある割合を、上回ったことは、金利の上昇など、様々な副作用を、引き起こしており、一時のことと言え、暗黒に押し込まれた、騒動からの脱却を、想起させる。その上、この国では、何十年ぶりでの、最高値の更新と言われ、また別の暗黒を、抜け出したかの如く、映る面もありそうだ。それにしても、空白は、何十年続いたのか。当初、十年と言われたものが、その後も、様々な梃入れにも関わらず、低迷を続け、既に、三十年を超えた。その中で、暗殺された元宰相が、始めたとされる、経済対策は、功を奏したと、評価する向きも、あるにはあるが、実態としては、下げを、止めただけで、今の回復は、別の要因によるものだ。将来への不安を、盛んに口にする人々は、相場などという、遠い世界のことに、目も向けず、依然として、減税や支援など、新たな駄賃を、期待するのみだろうが、さて、どうなることか。少なくとも、この活況の恩恵を、自ら受けようと、動くべきではないか。ただ、漫然と、待ち続けるのは、何の努力もせず、施しを期待するだけで、空白の時代と、何の違いも無い。このまま、成長が回復するとは、誰も思っておらず、そちらに関しては、何の期待も抱けないが、それにしても、では、どう変えて行くべきか、自分の周りだけでも、見渡してみては、どうだろう。悲観が、大勢を占めた頃とは、明らかな違いが、起き始めたとして、では、自分には、と考えるだけで、何かしらの変化が、起きるかもしれないのだから。

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8月1日(火)−直視せよ

 甚大な事故が、発生して、その被害の補償に、莫大な金額が、必要となった。あの発電方式が、厳しく批判され、廃炉を、決定した国が、出てきたことは、それまでの推進姿勢を、考え直す端緒と、なったと言われる。だが、どうにも、理解に苦しむ所が、あるのだ。
 確かに、事故は起き、甚大な被害が、広がった。その事実を、打ち消すことも、その後の混乱を、否定することも、不可能だ。しかし、事故を、防ぐ手立てに関して、何故、議論が進まぬのか。そちらの不思議に、目を向ける人は、少ないようだ。特に、発言権を有する、識者と呼ばれる人々は、叫びを上げるが如くに、反対を表明し、懸念を並べ立てる。もし、一個人の危険性を、数値化したら、日常的に起きる、自動車や人の過失による、事故の方が、遥かに高い確率で、多くの犠牲者を、出しているのに、一度の過ちでの、被害の大きさでしか、物事を考えない。そんな批判には、おそらく、将来への負の遺産を、残す訳には、いかないとの、常套句が返される。確かに、人の死は、ただ、その個人と家族のもので、社会全体の損失、と呼べるものではない。それに対して、環境への悪影響は、確かに、後々まで、及ぶことだから、懸念は当然、と見るべきとなる。だが、それとて、種々雑多な悪影響の、一つに過ぎず、科学技術の発展に伴い、世界各地で、発生した悪影響と、大差ないものと思う。それらも含め、科学技術は、負の遺産を、取り除く為にも、発展しており、歪みが、徐々に解消しつつある、先進国では、嘗ての環境悪化は、かなり解消された。同じように、原子力の事故に関しても、対策を、講じておけば、防げた筈との意見も、確かにある。想像に難くないのに、何故、行わなかったのか、という点には、依然として、疑問が残るものの、今回のものを含め、これまでの事故は、防げたものと言われる。長期に渡る懸念を、論じるのも大切だが、今目の前の懸念を、解決してこそだろう。

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7月31日(月)−風評の主

 時宜を捉えた話題を、取り上げて、世論を操作する。報道が、常とする手法の一つだが、今回のものは、どうなのか。何しろ、発言者は、被害者とされる、漁業者であり、彼らの発言として、伝えているからだ。事実を、伝えたのか、あるいは、創作の一つ、なのか。
 被害が、急速に拡大した時、風評という代物は、大衆が、作り出すもの、との解釈が、専らだったが、その後、何度も繰り返される、同じ筋書きに、報道の関与が、疑われ始めた。つまり、小さな出来事を、さも大ごとのように、取り上げることで、多くの人々が、不安を抱き、危険性を心配し、購入を控えている、という図式を、情報伝達の過程で、作り出したと言われる。検証自体は、ほぼ不可能であり、どちらが、正しいのかを、決める手立ては無い。だが、その後も、同様の流れが、繰り返されるのを、眺めると、やはり、と思いたくなるものだ。今回は、流石に、世論自体も、ある程度の理解を示し、危険性が、然程高くない、との受け止めを、表しているが、依然として、漁業者の一部には、頑なに、風評という怪物に、縋り付く人々が、居るようだ。ただ、風向きは、悪くなりつつあり、世界機関の見解が、発表されると、逆風を、強く感じただろう。だが、救う神として、隣の大国が、異論を唱え始めた。国を挙げての、不買運動とも、見做せる動きに、政府や関係者が、警戒を強めている。そこに、心強い味方の登場に、風評が、一地域に限定されず、国全体へ波及する、との意見を、述べ始めたとの報道は、さて、誰が、関与するものなのか。いつも通り、発言者は、特定されず、心配の輪が、広がるとの情報ばかりが、強調されるが、これもまた、創作に過ぎないのか、はたまた、自分のことしか、考えない人間が、他人への配慮を、口にするという、最近のやり方が、こんな所にまで、広がったというのか。何れにしても、明確な科学的根拠に、抗うことは、無駄骨と思う。

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