パンチの独り言

(2023年8月7日〜8月13日)
(答えは、移ろい、過剰期待、間違いの元、理解の道具、窮余の策、本末転倒)



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8月13日(日)−本末転倒

 昨日の話は、事情を理解しない人には、それで良いという結論だけが、伝わったのではないか。今の時代、自己責任が、当然と受け取られるから、こういう問題も、自分で解決すべき、と思うのだろう。だが、そこには、大きな間違いがある。共有の財産は、皆で支えるものだからだ。
 と書いても尚、それでも、寄付したい人がすれば、事が済む、と思うのではないか。こんな考えの人々に、では、あの博物館の収蔵品は、国民全体のものではないのか、と尋ねたら、どう答えるだろう。別に、どうでも良い、とでも返答するか。この考え方が、間違いと思うのだが、おそらく、そんな論法は、通用しないのだろう。勝手にしろ、とでも言いたくなる。だが、元に戻って、共有という考えからすれば、それを管理する為には、そんな考えの下で、支出する必要があり、その財源は、当然ながら、国の税収となる。本来、こんな考えで、公的機関は、運営されるべきものだ。以前なら、文化財の多くは、篤志家が、自らの判断で、購入し、管理したものだが、今は、そうでないものが、増えてきた。今でも、個人所蔵の文化財が、数多くあるが、それらの殆どが、指定されており、自由な売買が、制限されている。同様に、博物館にあるものも、人間が作ったものに限らず、多くの貴重な品があり、それらを、購入する為にも、管理する為にも、必要な資金は、国民皆で負担するのが、ある意味、当然となると思う。そこに、今回の話が、大々的に紹介され、その手があったか、と思った人も、多く居たと思う。しかし、目標額は、博物館の年間予算に比べれば、僅かなもので、それが、ある意味、収蔵品の管理に、不可欠なものだから、寄付を募った訳だ。だからこそ、意識の問題として、共有性を、忘れてはならない、と思う。逆に言えば、これまでの、削減の連鎖が、どんな思惑で、進められたかに、目を向けるべき、と思う。支える為には、寄付ではなく、税金が、必要なのだ。

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8月12日(土)−窮余の策

 何度か、大学の窮状について、書いてきたが、公立の機関は、その殆どが、同じ状況にある。予算は、年々削減され、今回の物価高騰の波を、もろに被った、と言っていいだろう。政府は、下々の者達のことを、考えたのかも知れないが、お上直属の組織は、埒外だったようだ。
 これも、政治家特有の、票に繋がるか否かが、分かれ目となった、と言えるのだろう。先日、その中の一つが、遂に、叫び声を上げた。通称「かはく」と呼ばれる、国立科学博物館は、その名に恥じぬ程、多くの収蔵品を持ち、そのほんの一部を、展示している。恐竜の話や、隕石の話が、出てくる度に、紹介されるが、近年は、来館者数も、減り続けていたようだ。そこに、今回のことで、大学同様、以前から、予算削減され続け、節電も、限界に達していた時に、値上げの嵐に、見舞われた。職員の労働環境が、劣悪化しても、耐えればいい、と言われるだろうが、収蔵品には、温度や湿度の維持が、欠かせぬものも多く、損失の危機に、外部資金の獲得が、喫緊の課題となった。だが、研究と言っても、新技術や新規材料の開発とは異なり、何も産み出さない、と思えるものだ。通常の方法では、無理と見込んだからか、所謂、クラウドファンディングに、乗り出した。ふるさと納税と同様に、何かの権利と交換、という仕組みが、幸いしたのか、目標額を、たった一日で達成し、六日経過した時点で、6倍に到達した。3ヶ月の募集期間は、継続するとのことだから、一体全体、何処まで増えるのか、ある意味、楽しみではある。一方、寄付額と支援者数から、平均の寄付は、2万円と算出でき、皆の意気が、感じられる。では、他の機関も大学も、同じことを、と思うかも知れないが、どうだろう。問題は、明らかに、別の所にあり、そちらを、考えるべきと思う。予算削減を、国是として、推進した省庁は、恥ずべきことと、強く反省すべきで、不可欠なものを、維持する大切さを、痛感すべきだ。

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8月11日(金)−理解の道具

 感染症騒動の時、かなり執拗に、取り上げたから、ここを読む人は、ある程度理解していると思うが、改めて、書いておきたい。社会問題の重要性を、指摘する際に、感情や心理を、強調するばかりで、科学的根拠に、乏しい主張は、殆ど価値が無く、却って、害悪に似たものだと。
 同様に、原子力発電所の事故から、排出される冷却水を、様々な放射性核種を、取り除く処理の後、最終的に、除去の難しいものを、希釈の上で、海洋放棄することに関しても、隣の大国を始め、科学的根拠を、掲げながら、反対を唱えるのに、強い違和感を覚えるのは、科学の乱用とでも、言うべき論法に、警戒すべきと思う。特に、風評被害という、姿の見えない怪物を、前面に押し出して、反対を唱える国内勢力には、心強い味方との、大きな過ちを抱き、騙されることが、無いように願いたい。これらのことは、現実には、多くの問題を、如何に科学的に解釈し、その理解から、正しい判断を、下すことが大切であるか、という考え方に繋がる。だからこそ、高等教育で、科学を学ぶことが、如何に重要か、国民全体で、理解する必要があり、更には、中等教育でも、統計の考え方が、数学や情報という、科目に採り入れられ、更に、全国の高校全てで、探究が、科目として、採用されたことにも、理解を促して欲しい。現代社会では、確かに、種々雑多な問題が、現在も、将来にも、影響を及ぼすが、その理解において、科学を優先せずに、感情や心理を、最優先と置く主張には、かなりの危険が、伴うことは、ほぼ自明である。にも拘らず、好悪を根拠に、科学を毛嫌いし、好きや嫌いを中心とした、感情で、判断を下すのは、大きな失敗を、犯すことに繋がる。教育の重要性は、この問題についても、当てはまっており、義務教育でなくとも、国民の大半が、進む学校において、この理解を、促進させることは、国の力を、養う為にも必要だろう。最初の暴挙が、繰り返されては、ならないと思う。

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8月10日(木)−間違いの元

 科学の恩恵について、否定する意見は、無いと思う。ただ、良いことばかりではなく、様々な悪影響もある、とすべきだろう。こう書けば、多くの人々は、あああれだな、と思い当たることがあるだろう。環境汚染に始まり、最近では、地球温暖化や、循環社会の達成など、色々と。
 確かに、科学技術の進歩で、生産性が、急激に向上し、その副作用として、環境の汚染が、深刻化した。半世紀程前のことだが、当時、汚染の酷さを、伝えることに、注目が集まったが、その一方で、汚染の評価自体も、科学の恩恵の一つ、だったことには、誰も注目しなかった。実は、温暖化や循環社会、という問題を論じる上で、科学技術の寄与は、非常に大きい。評価自体が、できなければ、何も始まらず、また、評価と対策の組み合わせが、その後の展開を決めるからだ。ただ、社会問題として、これらの問題を、取り上げる人々の多くは、実は、そこにある科学そのものを、理解していないことが多い。評価によって、示された数値を、正しく理解することなく、ただ、宣言のみに力を入れ、それによって、大衆を説得しようとする。大衆も、科学に疎い人が多く、例え話のように、分かり易く、改竄された話に、心が奪われることも、そのせいだと思う。本来、この手の問題に対して、対処する為には、科学への理解が、不可欠であり、それなしに、批判したり、反対したりすることは、間違いでしかない。しかし、現代社会では、そんな理解より、問題を取り上げ、その解決に向けての努力を、進めることの方が、遥かに重要と見る。だが、科学なくして、根拠が示せる筈もなく、更に、対策に至っては、無力でしかない。これらの点に対して、難しいからと、避けて通ろうとするのは、愚の骨頂だろう。基礎知識を、身につけさせようと、教育現場では、日々、努力が続いているが、肝心の科学より、時事問題を、重視するようでは、本末転倒であり、的外れに終わる。どうにも、不思議な状況だが、そこには、やはり、分かり易さ、という判断基準が、誤解の元となっているようだ。

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8月9日(水)−過剰期待

 人工知能の能力は、如何程のものなのか。生成人工知能が登場し、それが作り出した、文章や描画は、確かに、それなりの水準を、満たしているように、素人目には、恰も、素晴らしい技術発展、と見えたかもしれない。だが、その後の展開は、結局、空想の世界、となったようだ。
 そんな書き方をすると、反論が飛んでくるだろう。機械が作り出した、文章も描画も、十分な水準であり、時には、芸術的なものにさえ、なっていると。だが、所詮、既存のデータを、ある意味、巧みに扱い、それぞれの作品を、作り出したものだが、それでは、ただの真似事に過ぎず、そこから、芸術が生まれるとは、誰も信じていない。確かに、人間も、学ぶを、まねぶということから、初期段階では、模倣が殆どで、その域を脱するまでに、かなりの時間を要する。だから、人工知能も、その過程にあり、将来、人間と同じように、成長できる筈、と見る人も居るだろう。だが、その期待に対して、見込みは、薄いと思う。仮令、全く新規のものが、産み出された、と思えても、それは、こちらの認識が甘く、何処か辺境の地から、集めたものに過ぎず、今の、大量なデータを扱う事柄と、よく似た状況にあるだけだ。では、今回の騒動は、単なる空騒ぎと見るべきか、と問われたら、別の利用法が、ありそうと答える人も居る。検索と同様に、大量のデータを元に、情報を提示することが、この仕組みの得意とする所で、その意味では、人間が、書き上げたものや、描いたものに対して、それらが、独自なものかを、調べることが、できると思えてくる。更に、文章の誤りを、点検する道具として、使える可能性も、指摘されている。既存のものとの比較こそが、この手の道具の、得意とする所だろうから、こんな使い方が、推奨されるようだ。ただ、ここでも、過信は禁物であり、人ではないものの、他人任せの姿勢は、失敗を繰り返すことに、なりかねないのだ。最終的な責任は、どちらにしても、創作をした人間にあり、機械は、所詮、補助的な存在に過ぎない。

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8月8日(火)−移ろい

 どんなに猛暑が続いても、この日を境に、残暑見舞い、としなければならない。古臭い習慣と雖も、季節の移り変わりを、常に意識することが、この国の文化では、必要とされる。春、夏、秋、冬という、季節それぞれに、人々の楽しみは変わり、その中で、生活している。
 季節感は、この国に生まれ育った人に取り、当然の権利であるが、一方で、何かしらの束縛を、感じさせるものでもある。だが、仮令、窮屈に感じても、それぞれの季節を、それぞれに、楽しむ心を失っては、何にもならない。感染症騒動の、厳しい制限を、撤廃する為の方策が、講じられる、と決められたとき、「春には」、と時期が決められた。しかし、巷では、春と言えば、桜の咲く頃と思う所を、暦の上では、立夏を超えて、やっと始まった。この季節感の薄弱さに、あきれたものだったが、今度も、同じことが起きている。何と呼ぼうが、各種の核種を、除去した後の、処理後の水を、世界各地の発電所同様に、希釈した上で、流出させる時期を、今度は、「夏に」と定めていた。だが、暦の上では、既に、秋へと季節は移り、依然として、風評だの、皆の理解だのと、何の役にも立たぬ戯言が、並べられており、またも、夏が過ぎてしまった。役人達に、常識が、備わっているかについて、議論するのも、無駄と思うが、こうも酷い状況とは、どうしたものかと思えてくる。気合いを、入れようとする掛け声か、はたまた、目先を変える為の方便か、真意の程は、不確かなのだが、それにしても、と呆れてしまう。それも、舌の根の乾かぬうちに、とは、どうしたものか。前回の騒動と同様、今回のことも、科学的には、何の問題ともならず、騒ぐことこそ、笑止千万、と思えるのだが、反対の声を、上げる人々は、何方の場合も、大真面目に、非論理的な言説を、投げてくる。まさに、季節の移り変わりは、そんな騒動など、知らぬ存ぜぬと、進んでいくものだ。

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8月7日(月)−答えは

 人間社会には、一つしか答えの無い、問題は無い、と言われる。子供の頃から、学校で教わることは、必ず、答えのある問題だし、そのほぼ全ては、一つしか答えが無い。だが、社会に出た途端に、様相は、一変する。幾つもの答えがあり、どれを、選ぶかが肝心、とされるのだ。
 それも、どの答えを、選んだとしても、それが、結果的に、正しいのか、間違っているのか、分からぬままに、事が進み、その過程で、選んだ理由を示し、その後の展開を、説明する必要が、出てくる。当然、その立場にあれば、責任を負うし、誤った選択をすれば、修復することも、必要となる。何方が、生き易いのか、人それぞれだが、幼い時から、正しい答えを、出すことを、強いられてくると、慣れたかどうかで、決まるようだ。順調に、歩んできた人ほど、正しさを求め、選択に窮する。やってみなければ、分からぬことまで、見通せる筈と、見込むことで、苦しむのは、自分自身だ。だが、はじめに書いたように、答えの無い問題を、解かされていると、無理矢理、正しいものを、選び出そうとすることに、嫌気が差してくる。結果として、間違いを繰り返し、取り返しのつかない所まで、進んでしまうこともある。ただ、仮令、失敗したとしても、それで、全てが終わる訳でもなく、挽回の余地は、十分に残っている。そんな考えで、物事に取り組めば、何事も、大したことなく、こなしていけるものだ。と思うのだが、世の中は、そうも行かぬ人が、多いようだ。簡単な問題から始め、徐々に、難問に取り組んで、それなりの成績を上げる。そんな所から、急に、解けない問題に、取り組まざるを得ない状況に、追い込まれる。成長過程で、誰もが、経験することと思うが、今は、そうでもないらしい。ここでも、傾向と対策が、十分に備えられ、失敗の可能性は、できる限り少なくされる。だが、答えのある問題なら、それでいいのだが、さて、社会では、と考えると、何とも覚束無いものだ。

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