盥の縁が見えた、という話は、幾ら何でもと思うが、多くの人々は、幼子の頃の記憶は、定かではないだろう。ただ、相手をすれば、すぐにわかるように、自分中心で、何事も考える、という姿勢がある。これは、まさに主観であり、他人がどう見るか、などとは無縁だ。
そんな子供達も、学校という社会を、経験するに従い、自分だけでなく、他の子供達や大人達が、どう考えるかという問題に、接することとなる。それが、積み重なり、多くの主観を、集めた結果として、客観という考え方を、身に付けていくのだ。大人になるのは、時に、苦しいもので、自分の考えが、他の人々と異なれば、孤立するか、あるいは、相手に合わせるか、という選択を強いられる。それが、精神的な不安定を、引き起こすことから、この時期は、危険を伴うなどと言われ、時に、腫れ物に触るように、慎重な対応を要する。ただ、だからと言って、本人の思うがままに、という訳には、いかないものだ。勝手な行動は、社会規範を、破るものになり、道徳的にも、倫理的にも、問題視される場合がある。だが、救いを求める声に、弱者としての扱いを、強いる場合もあり、現代社会の歪みは、この所、強まるばかりと見える。その一端が、間違いを指摘しないとか、依頼のような指示をするとか、そんな行動に、現れているようだ。そこに、問題があると思うのだが、大真面目で、救済を訴える人々は、そんなことは、戯言と思うようだ。手を差し伸べ、支援をすることこそが、当人の為と称して、その他大勢の迷惑を、無視したり、誤りを正さぬままに、放置することへと繋がる。大人の対応、などと呼ばれるが、どうかと思う。真の大人は、真偽や正誤に対して、厳格に対処し、皆の範となるべき存在だ。それを、面倒だからと、避けて通ったり、可哀想だと、甘やかしたりでは、困った社会が、出来上がってしまう。無責任なだけの、大人とは、要らぬ存在、と見えてくる。
主観を優先、という考えに対し、どんな印象を、抱いただろうか。一人の人間として、当然のこと、と思った人も居れば、それでは、危険な思想へと、走ってしまう、と思った人も居るだろう。他にも、考えは様々だが、これを、若気の至り、とすることに、違和感を覚える。
と言うのも、自分が、そんな年代だった頃、その言葉は、大人達からの揶揄だけでなく、厳しい叱責、と共にあった、と思えるからだ。今も同じ、と考える若者が、多いのは事実だが、その一方で、肝心の大人達が、態度を、一変させたと思える、節がある。つまり、誤りは誤りとして、指摘すべき所を、逆に、擦り寄るが如く、同意を示したかのように、同じ用法を使うのだ。これでは、範を示すことにならず、間違いを、放置するばかりか、まるで、正しいかの如く、同意を示したこととなる。特に、今の若者の風潮として、周囲の状況に、目が向くことから、そこに、厳しい指摘や、叱責が無く、却って、自分達の過ちが、そうでないと思えるような、そんな状況が、作り出されることに、正当化の理由を、見つけ出すことになる。現代の、社会的風潮に、そんな状況が、産み出されているのは、まさに、大人の情けなさであり、成功を、手にすることなく、何十年もの間、低迷を続けた歴史の、反映とも思えてくる。そんな自信の無さが、若者や子供への、接し方に現れており、遠慮がちな声掛けや、依頼のような指示が、横行することへと、結び付いているようだ。その背景には、社会規範を、定めるべき組織や人間が、掛け離れた行状や言動を、続けていることにあり、その最たるものが、報道や情報機関に、現れているようだ。何度も強調した、論理的思考の重要性も、その類いの厳密性が、不可欠となるのだが、こんな環境での要求は、強制としか、思われないのだろう。だが、嘗ての姿を、思い起こせば、厳しい大人からの、指摘や叱責に、不満を抱きつつ、対応してきた。その過程が、重要だ。
単位について、誰もが知っていると思うが、最近、軽視、時には、無視されている、のではないかと思える。最も単純で、いち早く馴染むのは、所謂個数で、物の数を、数える為に、使われるものだ。幼子だと、数の概念が、確立されておらず、いち、にい、さん、沢山となる。
長ずるにつれ、多くの単位を、覚えねばならない。他人との間でも、共通のものとして、使うことが多くなるからだ。外国人にとり、難物と言われるのが、物の数であり、対象により、使う単位が異なり、面食らうこととなる。とは言え、この国では、それらを、習慣として、使ってきたので、簡単には、捨てられないものだ。典型は、兎だろう。他の動物のように、匹や頭ではなく、羽と数えるのは、耳の形状から、とも言われている。さて、単位全般については、現代社会では、世界標準が、定められており、嘗て、この国では、尺貫法が使われたが、今では、メートルとグラムが、基準となる。本来、身近な基準から、決められてきたものを、客観的なものに、変更したからだ。人間の体の一部を、基準とするのは、手っ取り早いものの、個人差が、反映されて、混乱を来す。そんな事情から、世界標準が、決められた訳だが、一部の国は、依然として、日常生活には、異なる単位を使い、そこを発祥とするスポーツにも、まだそちらを使うものが、続いているのは、頑なさだけが、理由でもあるまい。温度については、科学では、摂氏と絶対温度、という単位が使われ、共通の目盛り幅を、使っている。ここでもまた、件の国では、別の単位、華氏を、日常生活に用い、訪問先で、混乱すると言われる。問題にしたいのは、そこではなく、表記の部分で、最近の報道で、℃ではなく、度を使う場合が、屡々見られる。度を用いる場合には、数字の前に、摂氏か華氏かの付記が、必要となるが、抜け落ちており、誤記とみなすべきだ。この背景には、主観を優先する、風潮があるのでは、とも思えるが。
ヒト、という動物が、この星を支配し、これ程の繁栄を、築いた理由は、何処にあるのか。色々な意見が、あるだろうが、一つには、不安を抱き、それに対処したから、というものがある。哺乳類が、全体に、そういうものとの考えもあるが、その中で、何故、ヒトが。
多くの人々が、知能のおかげ、と見ているだろうが、それだけでは、ここまでの繁栄は、築けなかったのでは、と見る向きもある。ただ、不安説にも、欠点が無い訳ではない。今の世の中、全体を見渡せば、理解できるだろうが、不安に苛まれ、その重圧に潰され、精神を病んだり、時に、死を選んだりと、悪いことが、沢山あるからだ。確かに、不安と言っても、その程度によって、状況は、大きく異なる。様々な危険を、察知する為の用心として、必要となる不安と、過剰な反応としての、過度な不安には、大きな違いがあるからだ。その境目は、何処にあるのか、誰にも分からない。用心している、と思われた人が、いつの間にか、過剰反応から、体調を崩す例も、多くあるからだ。ただ、そういう極端に、走らないようにするのも、一つの用心であり、そこには、別の不安感が、あるのではないか。常に、小さいもの、大きいもの、何方にしても、危険を察知して、それを回避する準備を、整えることが、生き抜く為の、手立ての一つとなる。そういうことを、微塵も考えず、ただ、突っ走ったり、闇雲に進んだり、そんな人の多くは、何処かで、障害に出会し、時に、大きな被害を、受けることもある。用心深く、何事にも、別の可能性を、考えることには、単純な論理だけでなく、不安にも似た、ありそうにない可能性を、考えることが、必要なのかも知れぬ。それが、全体として、種の存続だけでなく、繁栄に結び付いたというのが、不安説の概要だろう。ただ、これにも、別の悪い面がある。猜疑心という、感情からの、周囲への悪影響だ。独裁者特有のものも含め、良いことは殆ど無い。
友達の定義は、何だろうか。馬鹿な話を、し合える存在、と言う人が、多いと思うが、困った時は、どうだろうか。実際に、経験した人からは、そんな時に、助けてくれるのが、本当の友人、と聞くことが多い。もしそうなら、友達作りも、かなり深刻なものになる。
春先、新たな学び舎で、期待に胸を膨らませ、明るい笑顔を、見せる学生達は、その多くが、進学の目的に、友達作りを、上げるようだ。ただ、その大部分は、馬鹿話の相手として、そして、情報源として、という目論見がある。要するに、自分の利益を、優先する考えで、そんな存在を、欲しがっているのだ。だが、困った時は、お互い様、と見れば、全く違う状況が、生じてくる。最初の話も、本当に困った時に、助けてくれたのは、友達と思っていた人々の、ほんの一握りにすぎず、そんなものか、と思った上でのことで、人間関係の難しさを、表しているとして、紹介されることが多い。特に、大学では、環境の変化から、適応できなくなる学生が、毎年、かなりの数に、上ると言われる。入学直後で、誰も、知り合いが居ない状況では、適応不能に陥ると、脱出の手段さえ、見つからないことも多い。そんな時、偶々、隣に居た同級生に、声を掛けることで、危機を脱した経験の持ち主も、多く居るだろう。だが、それ自体は、友人関係によるもの、とも言えないように思う。人を助ける行為は、必ずしも、友達関係でなくても、することが多いからだ。援助を受けた人間は、助かったということから、友達と思ったとしても、相手は、必ずしも、そうとは限らない。こんな誤解が、後々、問題を生じることもあり、気をつけねばならない。こんなことばかり、書いていると、何を、堅っ苦しい話を、と思われるだろうが、本人達は、意外な程に、大真面目で考えて、行動する。社会に出て、働くようになれば、状況は、大きく変化する。あんな時も、と思い出すことも。人間関係は、難しいのかも、だ。
記念日だからと言って、殊更に、振り返る必要があるのか、疑問に思う。確かに、悲惨な歴史を、繰り返さぬよう、心に誓いを立てるのは、重要に思えるが、さて、振り返ったとて、何がどう理解できるのか。更に、それによって、繰り返さぬよう、戒めを銘じられるのか。
そんな考え方では、歴史からは、何も学べない、と思う人も居るだろう。だが、現代社会で、国内も、世界も、何を学んできたと言うのか、そんな印象を受ける。嘗て、学校で学んだ古典には、盛者必衰とあり、「おごれる人も久しからず」とあった。当時、権勢を誇った一族が、その後、戦いに敗れ、滅亡する様を、書き記したものと言われる。理とある通り、歴史が、繰り返すことを、明記しているが、だからと言って、理である以上、避けられぬこと、とも言えそうだ。こんなことを、書き始めたのに、もう思い当たる人も、居るのではないか。建国以来、独裁体制の中で、深刻な混乱に陥り、農業生産も、破綻したことから、ある意味、滅亡の危機に、瀕した国が、独裁者に、追放された人物の、復権から、急速な経済発展を遂げ、第二の大国へと変貌したことは、誰もが知る所だ。その過程で、嘗ての大国が、犯した失敗を、繰り返さぬよう、万全の準備と対策を、講じていると、自信満々に語っていた、歴代の主席達は、現状の体制を、予想だにしなかった。嘗ての、独裁体制では、多くの矛盾が生じ、その結果として、文化的にも経済的にも、危機に瀕した訳だが、今度は、そうならない、と本人を含め、側近達は、信じていたのだろう。だが、現状は、勢いを失い、成長を続けた不動産業も、まるで、泡が弾けたこの国の、嘗ての姿を見るかの如く、悲惨な状況が、見え始めた。他の産業も含め、世界の工場と呼ばれた、当時の姿は、他国への移転を含め、失われつつある。その中で、体制の強化は、何を意味するのか。こちら側より、悲惨な結末を、迎えようとするのか、どうだろうか。
物価高騰の嵐が、全世界を巡り、人々の生活は、厳しさを増している。と報道は、伝えているが、経済の理念から、この問題を、見てみると、全く異なる様相が、見えてくるのではないか。確かに、日々の生活は、出費ばかりが嵩み、厳しさのみが、拡大するように見えるのだが。
以前から、国の財政の問題を、考える上で、減税一本槍の施策は、愚策でしかない、と断じてきたが、今回の物価上昇には、多くの企業や組織が、昇給によって、対処している。国としては、公定歩合を、どう動かすかが、肝心なのだろうが、それとて、確かなことは、言えないままに、大多数の国が、金利上昇で、物価高騰を、押さえ込もうと、躍起になる。その一方で、こちらでは、一見、悠長に構えている、とも見える姿勢で、傍観を貫くようだが、どんな結果が、でてくるのか。さて、支出が増せば、それに対応する手段は、二つしか無い。一つは、月並みだが、節約という手段、だが、こちらは、公的機関の電気代に、現れているように、限度があり、その限界に、既に、達している。庶民の生活でも、困窮を極める、などと伝えられる人々の、一部には、確かに、節約の意味を、理解しない人も、居るのだろうが、それにしても、食費に至っては、削る所は、簡単には見つからない。となれば、もう一つの、収入を増やす方に、移るしかない。ということで、多くの国々で、私企業も公的機関も、総じて、給与の増額を、決定し始めた。今回は、流石に、国内の企業でさえ、重い腰を上げ、踏み切ったようで、歓迎する声が大きい。これを機会に、従来の低迷から、脱するのでは、との期待があるのも、当然なのだろう。更に、国の財政としても、消費税だけでなく、所得税も、税収が増えることになり、全体として、均衡が取れそうな、気配さえしてくる。一種、外圧によるものだが、それでも、一時的な混乱は、避けられないが、長期的には、改善に向かう、と見るべきと思うが、どうか。