では、電動自動車に関して、何が問題なのか。隣の大国は、率先して、その開発を進め、生産を伸ばしている。遅れてはならじとばかり、先進各国も、そちらの開発や生産に、舵を切っているが、そこでの論理に、綻びは無いのか。実は、多くの課題が、山積している。
何度か、取り上げたが、この駆動方式に関して、海の向こうでは、数回、取り沙汰になった。西海岸のある州では、その方式の車を、販売しなければ、全ての方式の車の販売を、禁止する、との動きがあった。しかし、余りに早過ぎたのか、どの企業も、本腰を入れられず、そこに混合方式という、新手が登場して、導入の勢いが、失速した。だが、環境悪化に対する、対策の必要性に関して、何も変わらず、燃料方式には、限界があるとの見方に、変化は無い。再び、火がついた開発競争は、単に、現時点での、保有台数の首位だけでなく、他の先進国にも、飛び火していった。だが、一部の国を除けば、電力供給に、化石燃料を使わぬ所は、殆ど無い。この矛盾への答えを、出さぬままに、勢いのついた開発競争は、激化の一途を辿るが、規制を導入する国々は、解決の糸口を、見出せぬままに、突き進んでいるように見える。隣の大国は、多くの事柄について、自己満足の答えを、示すだけで、将来への課題には、蓋をしたまま知らぬ顔だが、その他の先進国は、そういう訳にも、行かぬ事情がある。さて、この顛末は、どうなるのか。再生可能と称するもので、発電すれば問題無し、とする論理も、多くの矛盾を、抱えているように見える。慌てて、対策を講じたつけが、将来に渡る大問題を、産み出す可能性も、十分にあると思える。論理的思考とは、そんな矛盾を、一つひとつ解決し、全体として、整合性を重視することが、大切なのだが、どうも、考えの浅い人々には、似合わぬものとなる。どう進むかは、もう暫く眺めねば、判断が付かないだろうが、その為にも、猪突猛進は、控えたいものだ。
論理的な思考を、重視しているから、絶対的なもの、と思っているのでは、と考えるかも知れないが、そんなことは、決して無い。論理を構築するには、前提や仮定など、多くの要素が、絡んでくるからだ。間違った前提を置けば、折角の論理も、あらぬ方へと向かうのだ。
この国では、西洋の考え方の一つとして、論理的思考を、挙げる人が多い。確かに、議論をすれば、ある道筋に沿って、説明がなされ、自らの主張を、押し通そうとする一方、こちらの説明に対して、論理の綻びを、指摘しようとする。それによって、論破しようとする意図が、見えてくる。だが、論理そのものは、整然としたものだろうが、前提や仮定は、必ずしも、整っておらず、出発点で、破綻しているものも多い。注意を要するのは、この点であり、論理そのものを、検討する前に、前提や仮定が、間違っていないかを、点検する必要がある。例えば、自動車の駆動方式でも、ガソリンではなく、軽油が好まれたのは、燃費の良さだったが、その一方で、大型の輸送車などで、排気ガスの規制が、遅れたことがあった。全体に、厳しい規制が、かけられ始めると、製造会社は、合格を目指して、新たなエンジンを、開発したと言われる。だが、規制の厳しさから、達成不可能と見るや、別の手立てを、講じたようだ。検査に合格する為に、その条件でのみ、規制値を下回る、排気をするように、仕掛けられた車は、確かに、合格はしたものの、通常の条件では、以前と変わらぬ、劣悪な数値を、示していた。世界最大の企業の一つが、そんな小賢しい手段を、取ったことは、社会に衝撃を与えたが、役員が、知らなかったとの報道には、疑いが残る。一方、同じ規制に、こちらでは、合格する車を、生産していたことは、努力不足を、強く感じさせた。その後、燃料系の駆動方式そのものが、禁止予定となり、電気駆動を、最優先させるが、これとて、論理的には、可能でも、多くの問題を、抱えている。
貴賎に関係なく、手にした端末から、誰もが、自分の意見を、社会媒体に、掲げられる時代となった。だが、それで、何が、どう変わったろうか。以前なら、井戸端でしか、聞かれなかった妄論を、誰もが、目にするようになり、時に、誹謗中傷となり、時に、偽情報となる。
それによって、被害を受けた、と訴える人もあり、社会秩序が、乱されたと思う人も、多いのではないか。だが、それとて、巨大媒体と比べたら、一欠片の瑣末に、過ぎないだろう。本来、公共電波を、介して伝えられる情報は、確認が取れ、正しいものとの認識が、普通ではないか。ところが、最近では、そんな信頼性は、殆ど失墜してしまい、巷の戯言と、何ら変わらぬ程度に、なっているようだ。何を、何処で、取り違えたのか、と思う人も、多いのだろうが、主たる原因は、弱者保護と、大衆迎合に、あるように思える。被害を、受けた人間を、殊更に取り上げるのは、最近の流行とも思えるが、読んだ本でも、何度か取り上げたように、被害の大きさを、強調するものが、極端に目立ち始めた。特に、社会において、大多数の利益を、追求すべき事柄に対し、その被害を受けた人に、光をあてる手法が、好まれる傾向にある。社会媒体では、個人の見解が、主たるものだから、その状況も、当然と思えるが、公共性を有する媒体では、軽々しく、行うべきものではない。そこにはまた、大衆迎合の思惑が、明確になるものが多く、全体の利益という観点が、蔑ろにされる一方で、個人、特に、弱者と目される人々に、寄り添う姿勢こそが、重視されるのは、どうかと思う。その過程で、屡々犯される過ちは、裏を取らず、不確実なことを、さも事実かの如く、伝える姿勢だろう。さっきも、住宅問題を取り上げる中で、8年前に死亡した人に触れ、親族が、関係を絶った理由に、感染症騒動で、葬儀が行われなかった、と述べていた。もう、そんなに、時間が経過した、とでも言いたいのだろうか。
理由は、一つではないだろう。馬鹿げた感染症騒動により、世界各地、特に先進国で、行動制限を敷く為に、様々な補助金が、市中にばら撒かれた。そこに、狂気の沙汰の、軍事侵攻が起こされ、当事国への制裁が、資源や食料の、供給不安や値上げに、結び付いた。
というのも、見方の一つに、過ぎないだろう。要因は、様々にあり、特に、一部の人々の思惑から、今の状況が、引き起こされた、との見方に注目が集まる。だが、安心安全ばかりを、強調し続け、それさえ、求め続ければ、将来への不安が、払拭できる、という考え方には、同調できない。特に、今回の変化は、単純なものではなく、これまでの、固執する考えが、通用しないことを、明確にしている。投資の世界では、分散が、最適な手法と言われるが、それとて、経済破綻が、起きてしまえば、無に帰するものだ。その覚悟は、常に必要であり、何かしらを、手元に残すのも、投資の一つと見るべきだろう。物価高騰が、長く続くと、人々の生活は、脅かされ始める。だが、物価の変動には、多くの要因が絡み、解決の手段は、簡単には見出せない。その中、例えば、電力供給に関しては、どんな状況だろう。電気料金が、上がり続けており、庶民の生活は、厳しさを増す、と言われるが、その一方で、依然として、発電方式への考え方は、呪縛から、解き放たれぬままだ。事故以来、原子力の危険性を、声高に訴える人々が、急速に、その数を増した。だが、ここでは、科学的な見解より、心理的な感想ばかりが、強調されており、冷静さを失ったもの、と見えている。確かに、起きた事故の、後始末には、膨大な時間と経費が、掛かるものだ。だが、それは、確率との掛け算で、考えるべきことだろう。自動車事故と、飛行機事故の比較、と言えば、分かりやすいか。その上で、対策を、どう講じるかが、重要となる。一時の感情で、流されていては、核心を、見誤るだけだ。
国を治める為に、重要なことは、何だろうか。庶民の立場からは、安定した生活と自由が、重要な要素となる。但し、順序としては、生活の安定が、一番に来るのではないか。自由が、奪われた時に、どんな反応が、生じるかは、そうなってみないと、わからないものだが。
多くの国の施政者は、まず、生活の安定を、保証することから、始めていると思う。その為に、必要なものは、財源であり、税金は、その目的で徴収される。一方で、国民としては、時に、奪われたとさえ、感じることのある税金が、どんな目的で、使われているのかは、気になる所だ。成る可くは、生活の安定を、図る為にも、毟り取られるのは、少なくと願うものだ。では、施政者にとり、治める為に重要なのは、何だろうか。政治の安定が、その一つだが、選挙を勝つ抜く場合には、人気こそが、重要となる。但し、愚民政治のように、庶民が、喜ぶものだけを、与えるようにすることは、簡単ではない。求めるものが、何になるかが、施政者にとっても、重要となるが、自由に選ばせたら、際限なくなりそうだ。そこで、人民統制なるものが、頭に浮かび始める。独裁政治や社会主義において、好んで使われる手法だが、情報が、盛んに飛び交う時代には、難しいと思われるものだ。だから、最近も、盛んに、新型兵器の開発を、国際社会から禁じられる中、続けている国では、情報統制と恐怖政治を、専ら用いることで、実現している、と言われている。流石に、極端な例に過ぎず、他では、と思う人が居るだろうが、実は、あの国を、支援する二つの大国は、歴史的にも、使ってきたとされる。最近も、軍事侵攻の正当化に、情報操作が、用いられたし、貿易摩擦から、経済状況の悪化が、伝えられる国も、隣国の国際放送を、妨害するだけでなく、社会媒体などで、掲げられる、不都合な意見を、せっせと削除する。洗脳の一種、なのだろうが、さて、いつまで通用するのか、危ういものだと思う。
感染の拡大を、抑制する為の、唯一の手段として、人の往来を、厳しく制限した。接触を、限りなくゼロに近付ければ、それも、可能だったろうが、結果として、世界各地に広がった、死の病は、猛威を振るった、ということになっている。現実には、かなり違った様相だったが。
何にしろ、感染症の専門家も、公衆衛生や疫学の専門家も、これしか、手立ては無い、ものとしていた。一方、免疫の専門家は、救いの神として、従来とは異なる仕組みの、ワクチンを開発し、世界に届けることで、死の恐怖を、打ち消した、ということになっている。何方にしても、何の確証も無く、頼みの検証も、進んでいるようには、見えていない。科学は、ある考えに基づき、仮説を立てて、それを実証する為に、データを集める。それによって、未知の現象を、明らかにしてきたが、今回の騒動は、騒ぎの一方で、そちらの備えが、不十分なまま、時間だけが、過ぎていった。これでは、何の役にも立たず、議論を戦わせようにも、互いに、想像の産物を、持ち出すしかない。十中八九、結論は導けず、次の対策も、確証なく、実施するしかない。所詮、この程度のもので、ある程度の被害は、止む無し、となるのだ。だが、一方で、恐怖が過ぎ去り、日常を、取り戻した人々は、以前と同じように、街を往来し、外の国へも、出かけ始めた。観光立国を、目指していた話も、元通りに、成立することとなり、猛暑の中、各地で、混乱が起きている。心の中では、まだ、不安が残るものの、楽しみたい気持ちが、勝っており、観光客は、電車の混雑も、現地の混雑も、意に介さず、出歩いている。肝心なのは、体調管理であり、無理は禁物の筈だが、それとて、以前同様、なるようにしかならない、とでも言いたげだ。では、これで、いいのだろうか。おそらく、不安を煽る人々は、依然として、警告を発し続けるが、それ自体が、役立たずだったことを、考えてみれば、自分のことは自分で、となる。
まもなく、未曾有の大震災から、百年を迎える。甚大な被害を、及ぼした震災から、学ぶべきことは、多数あると思うが、ここでは、その中の三つについて、取り上げてみよう。歴史から、学ぶべきことは、数多あるのに、愚かな人類は、一向に、学ぼうともしない。
と言っても、本当に賢ければ、既に、と思うことばかりだ。一つ目は、地震による、大きな揺れへの対策だ。被害を、最小限に留めるには、強固な建物を、作る必要がある。自明の筈だが、その備えは、不十分であり、四半世紀程前の、大震災の際も、最大の被害は、脆弱な文化住宅で起きた、と言われている。建築基準は、徐々に改められ、新築の住宅は、全てが、合格していたが、古いものには、適用されなかった。補助金などで、補強工事は、進められたものの、不十分な状況にあったことは、被害の大きさから、認識できる。地震への備えも、地域による違いから、足らなかったとも言われる。今は、どうだろうか。二つ目は、火災への備えである。あの大震災では、避難した人々が、集まった場所に、火災旋風が起きたことが、特に、深刻な被害を、及ぼしたと言われる。地震直後に、発生した火災は、一気に広がった、と言われるが、集中した場所に、起きた旋風が、甚大な被害を、及ぼしたと言われる。仕組みは、定かではなく、当然、防ぐ手立ても、無いと言われるが、広い空き地に、避難することが、重要と言われる。その意味では、今の状況は、避難場所を指定することで、被害の可能性を、少なくしている。但し、避難経路など、課題は残っているようだ。三つ目は、発生後に、拡散したデマの問題だ。井戸に毒を、などという、根も葉もない噂が、真実味を帯びて、伝達されるにつれ、事実とされ、一部の人々の殺害に、至ったということだが、これに関しては、今の方が、遥かに危うい状況にある。社会媒体は、その元凶となり、深刻化しそうだ。防ぐ手立ては、冷静な判断だけだ。