パンチの独り言

(2023年9月11日〜9月17日)
(無駄か、選挙権、無関心、服用法、運次第、恣意的に、聞く耳持たず)



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9月17日(日)−聞く耳持たず

 騒動が、去ってしまい、皆の恐れも、静まったように見える。しかし、感染症の専門家は、全く懲りておらず、再来を、事ある毎に、叫んでいる。その上で、対策に関しては、決定打が無いまま、警戒心だけを、強調する。片手落ちとは、こんなものか、と思えてくる。
 では、現状は、どうだろう。まず、感染拡大を、防ぐ手立ては、唯一、人の行き来を、遮断するしかない。兎に角、接触さえ、無くせば、伝染は防げる、と言われるが、完全に遮断するのは、不可能とも言われる。特に、病原体が、騒動の最中に、盛んに喧伝されたように、何かしらの物体に、付着する形で、移動した上で、次の人間に、接触することを、考えると、この手法では、不可能でしかない。その一方で、何度も、取り上げてきたが、奇跡の救世主と呼ばれた、ワクチン接種は、どうだろうか。効用についても、盛んに議論されるが、そこに副作用の情報が、加わり、選択の余地が、あるような、無いような、不思議な状況にある。その上、流行性感冒で、これまでに、何度も議論されてきたように、病原体の変異が、効果の程度に、大きく影響するとしたら、鼬ごっこと言われる、捕まえきれない、競争のような状況に、なるかもしれない。現時点では、的確性だけでも、怪しげな状況にあり、絞り切れぬまま、議論が進まぬ。そんな状況では、次々と、繰り出される、新手のワクチンが、登場する度に、人々に、死への恐怖を、植え付け直し、接種者を、増やそうとする。こんな実験が、いつまで、続けられるのか、知る由も無い。その中で、本当に、この騒動が、再び起きたら、人々は、何をすれば、いいのだろうか。多分、何をしても、無駄かも知れず、一方で、何もしなくても、何のこともなく、無事に過ごせるかも知れない。さて、どうすべきか、今更、迷っていても、仕方ないのだ。日々の生活を、普段通りに、送るだけのことだ。雑音に耳を貸さず、に。

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9月16日(土)−恣意的に

 科学も合理も無く、ただ、感情に押し流される。そんな状況が、あの騒動の最中には、巷に溢れていた。その中で、人々は、惑わされ、あらぬ方へと、導かれていた。そんな光景を、どうやれば、科学的合理性、などと評せるのか、さっぱり理解できない。論理の欠片も、無しに。
 その中で、末期的と思われたものが、いつの間にか、平常へと戻り、皆の心が、落ち着きを、取り戻した。こうなると、誰もが、恐れを無くし、無謀な行動へと、回帰していく。折角、操作が行き届き、恐れをなして、従っていたのに、何故、と思うのも、無理もない。だが、所詮、無知蒙昧のすることは、その程度なのだ。表面的には、制御可能と、映っていても、現実には、都合の良し悪しで、ころりと変わり、暴走へと移っていく。仕方なく、制限を緩めた限りは、その中で、恐怖を煽るしか、手立ては残っていない。そこで、波の襲来を、訴えるのだが、その材料となるのが、定点観測での、数値しかない。ただ、その変動だけでは、大波の来襲を、表現するのが、難しいらしく、別の手法を、専ら使っているようだ。それは、以前の波の際に、定点観測だったら、どんな数値に、見做せるかという、数値操作を施し、その比較から、襲来を、表現しようとするものだ。しかし、この変換は、どの程度、正しいものなのか、誰にも、わからない。何故なら、数値を収集する条件が、大きく異なるからで、以前は、全数調査が行われ、その中で、今の定点に当たる、病院の患者数へと、数値の収集を行う。それに対し、今のやり方は、ごく単純に、自覚症状を、感じた人々が、患者として、その病院で、診察を受ける。この二つの数字が、互いに、同じ基準の下で、集められたのなら、今の脅しも、真実味を、帯びてくるのだが、どう考えても、そうは見えてこない。その中で、煽り続ける人々は、以前と同じ調子で、波の襲来を、訴えている。統計的には、同一条件と、見做せぬ中で、収集されたものは、比較できない、となっているが、そんなことは、知ったことではない。ただ、脅せればいいのだから。

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9月15日(金)−運次第

 科学的合理性、という言葉に、耳を疑った人が、多かったのではないか。確かに、待てど暮らせど、届かぬ情報に、痺れを切らした場面も、一度や二度では無い。その上、感染症の病態自体、軽度から重度まで、余りの違いに、驚かされ、救世主と目された、ワクチンへの落胆も。
 定まらぬ正体に、四苦八苦していたことは、誰もが認めるが、その上で、編み出した対処法が、果たして、科学的であり、合理的だったか。その問いには、否という答えが、山のように、飛んできそうだ。対策を、決定する機関が、十分な情報を、得ぬままに、決断せねばならぬのは、ある意味、致し方のない所だ。だが、その結果を、鑑みながら、総括として、科学的合理性を、高々と掲げるのは、如何なものか。それこそ、科学を理解せず、合理の欠片さえ、持ち合わせぬ人の、発言としか、思えない。まして、興が乗ったからか、現状分析まで、口出しする始末、さっさと退場せよ、と思った人は、同じ位居ただろうか。決定のみを、役割と任じ、調査解析の指針を、示すことは、業務外と決めたのか、情報不足に対して、何も口出しを、しなかったのは、何かしら、別の事情があったのかも知れぬ。にしても、その状況が、長く続くことで、苦境に立たされたのは、事実だったに違いない。にも拘らず、知らぬ存ぜぬを続け、結果として、実態調査に対して、大きな禍根を、残すこととなった。これは、何も、この国に限ったことではない。国際機関自体が、まさに、その極みとなり、他国の機関も、同じ病に冒され、綿密な調査解析を、投げ出してしまった。そうなれば、病魔再来となっても、何の対抗措置も成せず、徒手空拳で、立ち向かうしかない。特に、救世主と目された、ワクチンの効果たるや、何の確証もなく、次々に、新手を繰り出す始末。所詮、生き物として、先天的に、獲得した力で、対抗するしかない。淘汰とは、これを指すのか、とも思えるが、個人には、宝籤の類いなのかも。

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9月14日(木)−服用法

 最近、薬屋で、呼び止められた経験は、無いだろうか。医師の処方とは関係なく、ごく一般に、市販された薬を、購入しようとすると、何かしらの説明を、受けるのだ。販売の規則で、定められたものだが、暫く前までは、そんなことがなかった。突然、始まったように感じる。
 実際には、規則の変更ではなく、徹底ということらしい。それも、あの騒動の最中、様々な事情で、受診できない患者が、市販の風邪薬や解熱剤、果ては、痛み止めなどを、大量に、そして、頻繁に、購入する事例が、出てきたから、との説明がある。症状に合わせて、薬を選び、その効用で、緩和を図る、という、ごく常識的な方法が、混乱の最中、極端な方に、動いたようだ。薬の注意書きには、服用量や期間への、指針が示されている。それを守れば、問題も起きないが、非常識な上に、恐怖に駆られる中で、大量、頻繁に、服用した人間が、救急搬送されたらしい。そこで、指導を徹底せよ、との通達が、届いたのではないか。この状況では、藁にもすがる思いで、あらゆる市販薬を、試した人も、居るだろうし、例の如く、社会媒体を通して、嘘や出鱈目が、ばら撒かれたのだろう。所詮、注意深い行動を、怠ったという点では、自業自得に違いない。では、何故、量や期間への注意が、必要なのか。効き目の強い薬は、当然ながら、それなりの効果を有する、化学物質を含む。中には、多量に摂取すれば、副作用を及ぼすものや、依存性を、生じるものもある。国内で、市販される薬にも、他の国では、規制対象となる成分を、含むものもあり、注意を要するのだ。一方、大量服用に関しては、海の向こうでも、以前、話題になったのは、解熱剤の一つで、特に、強力なものが、市販されていたが、これを、効果を期待して、大量服用して、死に至ったという事件が起きた。常識とは、自己防衛の為でもあるが、恐怖との天秤は、どうだろうか。まあ、普通に生活すれば、起きないことだが。

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9月13日(水)−無関心

 塵と揶揄される、情報機関は、大衆を対象としており、報道機関とも称される。騒動の最中、情報統制を計り、操作のための偽りを、盛んに流した人々に、与するように、大衆を扇動し、恐怖を煽っていた。興味が無い、と断言した話題では、自らの所業を、棚に上げてもいた。
 良識ある市民からの信頼を、完全に失ったのは、自業自得なのだが、懲りない連中は、次々に、新たな問題、と称する、瑣末な事柄を、引き合いに出し、自らへの批判の矛先を、躱そうと躍起になる。感染症騒動は、ある意味、既に、終わったことなのだが、それでは、人心を弄ぶことが、できないのか、ここでも、あらゆる手を尽くして、情報操作を、繰り返している。定点観測は、長く続く、流行性感冒の、感染状況を把握する為の、簡便法として、使われてきた。これにより、流行の気配を、感じ取ると共に、どの種類のウイルス株が、中心となるかを、確定させようと、編み出された手法だ。分類変更により、死の病とまで、伝えられた感染症も、同様の調査手法が、適用されたが、この動向に関して、不正確な情報が、流され続けている。それも、恐怖を煽る為に、欠くことのできない、大流行の兆しを、示す数値の変化を、把握したとの報道が、盛んに行われる。流行性感冒は、何年にも渡り、同様の調査が、実施されており、その動向は、前年との比較においても、信頼し得るものとして、評価されるが、全数調査を終了し、定点観測に、切り替えたものでは、前年との比較が、妥当なものかの保証は、一切無い。にも拘らず、ここぞとばかりに、大きな数値を掲げ、既に、流行が始まった、とさえ言い募る。だが、それ自体の信頼性は、ここでもまた、未検証であり、確率的にも、怪しげなものでしか無い。その上、感染症自体が、当初の恐怖とは、比べ物にならぬ程にまで、威力を失いつつある。としたら、一体全体、何を主張したいのか。もう、誰も、注視していないのに。

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9月12日(火)−選挙権

 早朝から、目が覚めるような話、というのは言い過ぎだが、目を疑う話が、流れてきた。南米の国の選挙で、また、極端な流れが、起き始めた、と伝えたのだが、その中身に、驚いたのだ。有権者、と書かれた項には、18-69歳とあり、高齢者の権利は、と思ったのだ。
 慌てて調べてみると、状況は、全く異なるものだった。彼の国では、投票の義務が、国民に課されており、その年齢が、上に書いたものなのだ。現実には、選挙権は、16歳以上に適用され、18-69という年齢層(画面ではそうなっていたが、引用する所は70歳まで、とある)に対して、義務が課されている。いつまでも、投票率が上がらず、国民の意識の問題が、取り沙汰される国では、義務化も、議論されていると聞くが、さて、どの程度の効果が、あるのだろうか。義務と称しても、その罰則は、どうも、国ごとにバラバラで、意に介さぬ場合も、多いようだ。70年前に、女性の参政権が、認められた時、このような状況を、想像した人は、皆無だったろうが、今では、投票率は、半分にも満たず、その内の半分以上で、当選となると、一体全体、どれ程の支持か、と思えるが、内閣や総理大臣の支持率から、何となく、思い当たる節もある。所詮、その程度のもの、との見方もあるが、一方で、全員が、賛否を表明したとして、どんな結果になるのか、それはそれで、全く異なる状況、ということが、彼の国の話から、想像される。民主主義とは、どんな代物か。最近は、誰もが、発言する権利を、有するだけに、種々雑多な意見が、巷に流されている。その中で、どれが妥当で、どれが不適切か、という問題も、あるだろうが、その一方で、何方の勢力に、与するかにより、状況が、一変する事態は、海の向こうの大国でさえ、まざまざと、見せつけられた。その後も、不安定な状況が、続くとなれば、さて、政治への関与は、国民の義務なのか、はたまた、と考える余裕は、無いように思えるのだが。

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9月11日(月)−無駄か

 街ゆく人の姿に、変化は、あったのだろうか。騒動の真っ只中、口と鼻を、覆うものを、着けていないと、街を歩くことは、憚られた。だが、今は、そうではない。でも、と思う人が、多いのではないか。何故、いつまでも、外さずに、歩いているのか、と。
 反対派にとっては、やっと、溜飲が下がる思い、となった筈だが、どうも、全てにおいて、とはいかぬものらしい。何故、と思う人が多いだろうが、では、別の質問をしたら、どうだろう。何の目的で、着用していたのか。感染症の原因である、ウイルスと呼ばれる代物は、一部の人によれば、生物ではないとなる。何故なら、宿主となる生き物に、感染しなければ、自らの命を、保つことも、次の世代に、繋ぐことも、一切できないから、と言われる。まあ、それはそれとして、その大きさから、かなり目の細かい、物を通さないと、取り除くことが、できないと言われる。更に、口や鼻を覆う場合、何処にも、隙間ができぬように、装着しないと、効果が無くなるとも。これらの点が、反対派が、主張してきた論点であり、その難点故に、余程注意深く、行動しないと、効果無しとなる、という訳だ。当初、専門家達も、異常な程の厳しさで、注意点を、並べていたが、肝心の彼らでも、普段の行動からは、失格の烙印を、押されていた。では、猛暑の続く中、何故、何時迄も、覆い続けるのか。人それぞれの、理由があるらしいが、最中と同様に、不確かなものばかりで、すっきりしない。外国からの旅行者も、当初は、物珍しい視線を、送っていたものの、ずっと以前と同様に、そんな人種としか、思わなくなったようだ。だったら、この国の人々も、同じようにすれば、と思う人も居るが、そうではないだろう。論理からすれば、非常識の極み、とも思える行動に、何かしらの反応を、示す必要があるのではないか。何方の方向にも、強制する動きに、実は、確たる理由は無い、とは言えぬだろう。

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