名称変更、と聞いて、どんなことを、思い浮かべるだろう。それまで、日常的に、使ってきた呼び名を、急に変えられて、困ったという経験を、持つ人も多いと思う。その一方で、変更を、強く願った人々が居て、彼らの声が、強まることで、何らかの組織が、変更を認める。
人の名前の場合、大元の記録を、変更することは、かなり難しいらしい。が、その一方で、日常使用する範囲では、皆に覚えて貰えば、それで問題無し、となる場合が多いようだ。では、病名については、どうだろうか。最近の例、と言っても、既に20年以上経過しているが、それは精神的な病名だった。それまで、精神分裂病と呼ばれていたものを、統合失調症と呼ぶ、と定めたのは、関係する学会で、そのウェブページに、経緯と内容が、説明されている。ざっと読んでみると、その経緯として、医師が、患者に伝える際に、困難を感じた、とあることから、要望したのは誰か、という点がはっきりする。説明にもあるように、確かに、精神が分裂する、という言葉には、極端な受け止め方が、なされる場合がある。だが、それにしても、統合失調と言われて、すぐに、状況が飲み込めるか、と問われれば、否と答える人が、大部分だろう。事ほど左様に、呼び名、呼称、名称については、それだけで、全てを理解することは、難しいものが多い。当然、伝達する時に、説明を要する訳だ。その意味で、医師が望んだというのは、説明の困難を、和らげたいからなのだろう。何れにしろ、ちゃんと説明して欲しい、と思うのは、患者の常ではないか。生活習慣病は、様々な疾病を、総合して、表現するものだが、その中で、糖尿病が、今回、問題視された、と報じられた。症状を、的確に表していない、とか、誤解を招くとか、この場合も、同様の背景が、ありそうに思う。だが、だからと言って、片仮名での名称を、採用しようとの動きは、如何なものか。単に、暈しや誤魔化しの一種、としか思えない。
争議権は、労働者の権利を、守る為にある、と言われる。がしかし、ついこの間までの状況は、どうだったろう。物価が抑えられ、物の値段が、上がらぬ中で、製造に携わる人々は、我慢や辛抱を、強いられてきた。企業の収益が、上がらぬ中では、賃金上昇は、望めないと。
その中で、労働者の権利を、守る為に結成された、組合の活動は、不可思議なものだった。まるで、経営者の側に、立つような発言が続き、物価と同様に、据え置きや、時には賃下げにまで、及んでいたのだ。権利を守る為には、雇用の確保も、重要な要件だ。だったら、経営方針にも、口出しする必要があるが、とんと、そちらの発言は無く、悪循環が、続けられていた。そこに、今回の騒動から、市中に、金がばら撒かれ、更に、軍事侵攻に、端を発する、物価上昇が、庶民生活に、重く伸し掛かってきた。では、ということで、急に、労働争議が、世界各国で本格化し、国内でも、百貨店の組合が、別の理由とはいえ、権利確保の争議を起こし、海の向こうでは、自動車業界が、ストに踏み切ったと言う。だが、どうも、盛り上がりに欠けており、報道機関が、煽っているだけ、と見える。理由は様々だが、賃上げの割合が、組合の主張では、五年で40%と、耳を疑いたくなる程で、確かに、当初の物価上昇は、年率8%強で、単純計算では、合致するものだが、今では、3%程度まで、低下しており、法外な要求と見える。更には、他業界から見れば、自動車業界は、高収入が確保され、恵まれた労働環境、とも言われる。この状況は、40年前も同じで、当時、盛んに争議を繰り返す、組合員達に、冷たい視線が送られ、凋落の原因が、経営者にあるとする主張にも、賛同が、得られていなかった。組合が、肥大化するに従い、労働者で構成されるものが、運営に、専従者が、携わることとなり、組合活動の為、という図式が、出来上がっていた。同じ嫌悪感が、社会にあるように、思えるのだが、どうか。
脅しに、屈しない為に、論理的思考が、重要となる。それには、情報を集めることが、最も大切であり、それらに基づき、論理を組み立てていく。だが、肝心の情報が、操作されては、如何ともし難い。では、その正誤は、何をもって、判断すればいいのだろうか。
社会媒体が、整備されたことで、確かに、日々流される、情報の量は、格段に増加した。では、増えればいいのか、と言うと、そうでもない。確かに、多種多様なものに、接することで、吟味を繰り返せば、論理に役立つものを、選び出すこともできる。だが、何から何まで、全てが、偽物となると、どうにもならない。軍事侵攻を、行う国で、政治的な発言が、繰り返され、国民を、誘導しようとする動きは、まさに、その典型だろう。ただ、今は、公共放送などの、操作可能な媒体だけでなく、多様なものが、全く異なる情報源から、流されているから、冷静に分析をすれば、取捨選択は、可能となる。一方で、大多数の、高齢層の国民は、放送を受信するしか、情報収集の方法を、持ち合わせておらず、国外から見たやり方は、できないということらしい。旧共産圏では、そんな古臭い方法が、今だに、通用しているが、多くの西側諸国では、冷静に行えば、取捨選択は、簡単にできるし、妨害されることも無い。但し、現状を見れば、多くの人々が、可能である筈のことを、一切しないままに、脅され、惑わされている。比較対象を、見つけ出すだけで、簡単に、見破ることができる、嘘でさえ、いとも簡単に、騙されてしまう。根本的に、物事の考え方に、欠陥があるとしか、思えないのだ。だからこそ、こういう場を使い、どう振る舞うべきかを、重ねて論じているが、大勢に、影響は無い。というより、誤った方向に、走り出した勢いが、どんどん増すように見え、様々な指摘に対して、耳を傾けることさえ、やめてしまった、愚かな人々に、届けることができない。では、どうすべきなのか。おそらく、何の手立ても、残っていないのだ。波に乗れば、それで大丈夫、と思う人には、何も聞こえないから。
情報社会では、大量の情報を、収集して、それを基に、賢く、効率よく、生きることが、大切だと言われる。だが、昨日の話のように、公的機関が、供給する情報に、間違いがあると、無駄なものとなる。技術の進歩から、多種多様な情報源が、作られているのだが。
感染症騒動でも、世界機関を筆頭に、あらゆる専門機関が、情報収集に尽力し、それに基づいて、指針を決めていたが、結局は、徒労に終わったと言える。原因は、様々にあるのだろうが、根本として、対象に対する、理解不足と共に、収集能力が、明らかに不足していたことが、原因だろう。要するに、情報社会と雖も、肝心の情報が、正確に、的確に、集められなければ、何事も、正常に、動くことがない。その上、誤った情報が、垂れ流されると、混乱が、強まるだけで、収拾がつかなくなる。特に、大多数の人々が、情報端末を手にし、それぞれに、必要な情報を、掻き集めた上で、行動決定すると、理路整然として、行動が行き渡る、と思われたが、現実には、その大部分が、嘘や出鱈目に満ちた、偽情報に、振り回されたり、時に、権威ある筋の情報が、間違った為に、あらぬ方へと、誘導されることとなる。最近の集団行動における、事故の多くは、こんな傾向を、示しているようだ。集団行動では、情報の多寡が、重要となると信じられ、情報社会の確立こそが、問題解決に、結び付くと思われたが、現実には、百年前の大震災後の、デマに振り回され、暴動に走った人々と、何ら変わらぬ、誤った判断と暴走を、繰り返している。情報は、状況把握の為に、重要な要素に違いないが、一方で、その真偽を、確認する方法は、あまり無い。その為に、多数の情報源を、確保することが、肝心と言われてきたが、もし、源の部分で、操作されたり、誤認があれば、その後に続く、情報の流れは、全て間違いとなる。逆に言えば、鵜呑みにせず、疑うことが、肝心となりそうだ。
厳しい制限が解かれ、人々が、街に繰り出すと、各所に、混雑が戻ってきた。列車は、満席となり、押し合い圧し合いの状態で、移動の最中、心も体も、休めることができない。一方、車の往来も、以前と変わらぬ状態に、戻りつつあり、動脈の多くは、渋滞となった。
研究者や評論家は、渋滞の原因を、運転者の技量、と決め付けているようだが、本当に、それだけだろうか。今回、巻き込まれた渋滞は、確かに、その要素も感じられたが、どう見ても、管理側の問題、としか思えぬものがあった。以前なら、車の中で、手に入る情報は、ラジオからのものに、限られていた。しかし、今では、殆どが、ナビと呼ばれる、情報端末を装備し、更に、手にした端末から、他の情報も、手に入れている。前者は、交通情報に、特化したものであり、進行方向に対して、必要な道路状況を、逐次伝えるのに対し、後者は、それ以外の情報や、一個人の見解が、多く含まれるので、信頼性に欠ける、とも言われる。だが、お墨付きの筈が、どうも、前者の誤った情報が、渋滞を悪化させた、としか思えないのだ。この連休に、二つの渋滞に、巻き込まれたが、どちらの場合も、その中を、のろのろと移動する中、渋滞表示に、誤りがあった。一つは、突然、渋滞が消え失せたもので、当然、突然、再表示され、何事かと思わされた。ただ、どの道、状況に変化はなく、それ以上の実害が、生じた訳ではない。もう一つは、酷いもので、渋滞表示の誤りが、更なる渋滞を、誘発させたと思われた。発端は、あるICを越えた所での、工事だったらしいが、原因が、事故でもあると伝え、その地点が、表示されないままで、憶測を呼んだ。ただ、渋滞表示は、そのICの前後に、移動を繰り返し、ICを過ぎれば、解消している、と思った人が多いだろう。だが、現実には、工事現場での渋滞であり、情報を信じ、安心して、侵入してきた車が、巻き込まれていた。誤表示が招いた、人災だった。
物価上昇が続き、庶民の生活は、厳しさを増している。理由は違うものの、つい先日も、百貨店の店員が、労働争議の一環を、実施したとあった。一方、海の向こうでは、更に、急激な上昇率に、労働者から、悲鳴が上がっている。で、一斉争議が、始まったようだ。
あの業界の争議は、以前から、よく知られており、40年程前にも、こちらから、大量に届けられる、新車の山に、痺れを切らした、労働者達が、過激な運動を、起こしていた。自動車の街では、各所で、輸入車の破壊が、見せ物となり、労働条件の改善に、業務停止に、踏み切る所が、沢山あった。当時は、強力な組合として、名を馳せていたが、その後は、状況が変わってきた。輸入が駄目なら、現地生産を、という方針転換で、各社が、現地工場の開設と、労働者確保に、進み始めていた。その後、競争の相手が、変わったものの、依然として、厳しい労働条件が、残っているのだろうか。この所の、物価上昇から、賃金上昇を、望む声が高まり、遂に、労働争議が、復活したようだ。しかし、以前とは、状況が一変しており、同じ考え方は、通用しそうにない。だとしたら、どんな運動を、実施するのか。と言っても、業務停止以外に、方法は無いだろう。だとすると、今回の目標は、何処にあるのか。輸入車に、押された時代、結局、開発競争に敗れ、経営陣を、厳しく批判することで、納得していたようだが、その元凶の一端は、組合にもある、との批判が強まった。では、今回は、何処に争点を、見出すのだろう。物価上昇に見合う、収入確保は、確かに、その一つだろうが、それだけでは、長続きしそうにない。だとしたら、再び、新興の大国を、対象とした何かしらを、持ち出すのだろうか。何れにしても、組合活動そのものは、あまり効果的で無い、とも言われる中、どんな展開が待つのか。暫く、眺めておくのだろうが、あまり、期待できないようだ。
街中に、人々が、戻ってきた。制限を、大幅に緩和し、恐怖も、一旦は、鎮静化した、となることで、以前の明るさを、取り戻したように見える。ただ、心底から、その通りに、なっているか、と尋ねたら、どんな返答が、届くだろうか。あれ程の圧力を、かけたのに。
当然、人の往来が、国内で戻れば、国を跨ぐ往来も、戻ってくる。確かに、街角で見かける、外国人の数は、急激に、増え始めている。その上で、彼らに対する、おもてなしを、どうすべきかが、議論に上り始めた。常識とは、自分達のものであり、必ずしも、他の国で、育った人にも、適用できる訳では無い。これこそが、多様性の問題であり、多文化共生なる言葉が、使われるようになり、深刻に考えられるようになった。だからといって、来る人数は、減る気配も見せず、問題は、一つひとつ、解決されるどころか、山のように、積み上げられる。どうしたらいいのか。答えは、簡単には、見つからない。だが、問題を抱えた人間を、目の前にして、無視する訳にも、いかないのだ。規則は規則として、一方で、習慣は、それぞれのものとして、別々に、扱うしかないだろう。そこには、ある程度の論理を、展開する必要がある。感情だけで、議論をしても、結論は、決して導かれないし、自分だけの習慣を、持ち出しても、理解されることは無い。だったら、互いに理解できる、論理を立てて、結論を導くしかない。なのに、世間では、問題を掲げるだけで、何の議論もせず、感情に訴えることが、続いている。これでは、流れを起こすことは、できない。自明とも思えるが、騒動の時も、その後も、同じ状況が続き、困るのは、自分なのに、改めようともしない。まあ、そんなもの、と諦めるしかないのか。そうなのかも知れず、困り顔の人々に、どう処すべきか、考え所なのかも。でも、自分ができることを、考えれば、まずは、自分の前や周りから、手をつけていくしか、ないのだろう。だったら、何から始めますか。それとも、さっさと諦めますか。