パンチの独り言

(2023年9月25日〜10月1日)
(責任?!、説明は?、季節通り、壁の高低、申告制度、面倒なの、原点)



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10月1日(日)−原点

 では、問題の本質は、何処にあるのか。それに触れる前に、まずは、税制の歴史について、繙いていこう。国家が、成り立つ為には、国が必要とする、支出に見合う額を、集める必要がある。その主な財源が、税収ということだ。多種多様な税の中で、今問題となるのは、所得税だ。
 所得税には、ここ数日、取り上げたように、控除という、税の対象から、外すものがある。この所、盛んに議論されるのは、その内でも、配偶者控除と呼ばれるものだ。この歴史について、検索してみると、こんな文献があった。そこでは、導入の端緒となったことや、その後の変遷、更には、政治の道具として、如何に扱われてきたか、等が論じられている。控除額についても、今、壁として扱われる制限額についても、変遷が記されている。少々、政治論に偏り過ぎだが、こんな論説もある、といった程度に、受け止めて欲しい。一方、配偶者に限らず、扶養家族を対象とした、控除については、もっと昔から、導入されていた。公平性を保つ為、というのが、その理由の一つなのだろうが、税の公平性は、かなり複雑な問題であり、今回の議論でも、様々に論じられている。しかし、これら制度の問題は、実は、本質的なものではない。制度を定め、そこから、関係する数値を、導き出すのだが、そこには、確固たる根拠は、殆ど存在しない。それより、運用や印象を、重視した形で、妥協点を見出すだけだから、理論的な根拠が、存在する筈は無い。では、何が、根本であり、本質なのか。触れておきたいのは、配偶者が、働く必要があるか否か、という点である。より高い生活水準を求めて、より多くの収入を、という動機については、論じるまでも無いが、一方で、一人の収入では、家計を賄えない、という状況が生まれたことについて、論じられることは稀だ。だが、ある時代まで、単一収入で、成立した話が、立ち行かなくなったのは、何故か。そこにこそ、問題の原点がある。

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9月30日(土)−面倒なの

 多少の手間、と書いたが、この国で、確定申告を、したことのある人には、そんな馬鹿な、と思えただろう。混雑した役所に出向き、様々な数値を、書類に記入した上で、その証拠も残さねばならない。演算だけでも、大変な作業だった、と思うからだ。だが、どうだろう。
 海の向こうでは、おそらく、半世紀前から、書式に、必要事項を記入し、役所宛に、郵送すれば、という仕組みが、実施されていた。それに対し、こちらでは、あの混雑に、何度も出向き、面倒を極めた、と思う人も多い。だが、ここ数年は、簡略化が、驚く程に進んだようだ。下々のことを、考えもしないのが、役所の傲慢とまで、揶揄されたが、この所、対応を重ねることで、逆に、税収の確保が、図れるという、見通しが主流となった。手にした端末から、書式の記入が、簡単にでき、その上、多くの演算も、仕組みの中で、済ませてくれる。これなら、あちらの方式と、殆ど変わらない、と言えそうだ。ただ、全体の仕組みは、まだまだ複雑であり、専門家の助けを、借りる必要があるので、出向くことは、省き切れない。とは言え、随分と、進歩したものだ。だったら、全員に、申告の義務を、とすると、おそらく、猛反対が起きるだろう。理由は、面倒、というものだ。やりもせずに、面倒とは、と思うが、庶民感覚は、その程度のものだ。そうだとして、では、壁の問題の本質は、何処にあるのか。少なくとも、手続き上の問題ではなく、家族という単位の考え方にある。扶養を、当然と見做していた時代、そこに、ある制限をかけることには、何の問題も無かった。だが、それに対して、共働きが、当たり前となる中、前時代的な考え方、と批判されるのは、当然かも知れぬ。だったら、扶養控除という仕組みを、廃止したらどうか。その議論は、始まりそうにない。理由は、何処にあるのか。海の向こうとこちらで、基本の考えに、違いがあるようだ。その原因は、何だろうか。

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9月29日(金)−申告制度

 では、議論は、何方に向かえば良いのか。様々な要素があり、国毎に、事情が異なる。その中で、今回のような場合、何をどう考えれば良いのか。答えは、一つではなさそうだ。だからと言って、迷走して、良い筈がない。まずは、税制について、考えてみたい。
 今回、議論の的となるのは、通常の給与所得家庭である。主たる収入を、得ている人間は、自営業ではなく、企業などの組織に勤める、労働者である。その場合、家族構成にもよるが、扶養家族が、居る場合が多い。そこで、給与にかかる、税金について、控除対象となるか否かの、判断が必要となる。その上で、通常は、年末調整という仕組みで、様々な控除の手続きが、行われることで、年間の税額が、決定される。これにより、特別な場合を除き、改めて申告する必要は、無くなる、という訳だ。この制度自体、何の問題も無い、と見做されている。だが、家庭の単位での、控除対象の有無を、調べているにも関わらず、年末調整という申告では、個人単位のものとなる。そこに、家族単位の話は無く、世帯主などの関係も、直接には、影響しない。そこで、配偶者控除の問題が、今回のように、取り沙汰される。家族単位で、考える一方で、個人単位で、審査するのは、何処か、ずれを感じるが、長年、続いてきた制度であり、問題無く運用されている。だが、今回の問題は、深刻だとされる。何故なら、物価上昇に伴い、家計の均衡を、保つ為に必要な、賃上げが、歪みを生じ、各所に、問題が生じるからだ。だとしたら、どんな解決法があるのか。一つは、海の向こうのように、住民全てが、年末に、税の申告を、行うというものだ。申告は、個人ではなく、家族単位で行い、全ての収入を、合算した上で、必要経費を差し引き、納税額を、決定する。年末調整に比べると、多少の手間は、必要となるが、大したことはない、と言われる。これなら、扶養控除も、単純になるだろう。どうだろうか。

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9月28日(木)−壁の高低

 壁は、何処にでもある。目の前に聳える、壁に対して、立ち向かおうとするか、はたまた、撤退を余儀なくされるか、それは、人と場合による。だが、何故、これ程までに、殊更に、大袈裟に、取り上げるのか。それも、問題の本質を、見定めぬまま、右往左往するが如くに。
 人生の壁、と取り上げれば、誰もが、様々に思い当たるだろう。だが、この壁は、その類いのものではない。単に、人間が、と言うより、政府が、都合に合わせて、設定したものであり、そこに、理由や論理は、存在しそうにない。家庭において、主たる収入を持つ人間に対し、他の人間は、扶養家族とされる。その数に応じて、控除される額が、決められており、税制における、優遇策と目される。但し、収入は、一つとは限らず、また、それを担う人間も、扶養家族にも、該当し得る。その場合に、扶養の対象か否かは、その人物の収入の多寡により、厳しく区別される。ある額を超えれば、扶養から外れ、独自の家計を、営むものとされる。この額を、壁と呼んでいるらしい。事は、単純ではなく、扶養から外れれば、年金や保険の制度においても、別枠と見做される。この国では、雇用主が、ある割合を、負担する制度となっており、そこにまで、影響が及び、複雑な様相を呈する。さて、その中で、額は、一定となっており、長年、保たれてきた。物価が安定し、給与も、据え置かれた時代には、何の問題も、生じなかったが、ここに来て、世界的な物価上昇から、賃上げが、重要な課題となり、その中で、時間労働にも、その影響が出てきた。時間給は、一昔前に比べ、2割程、上がっただろうか。当然、同じ時間働けば、支給額は、2割上がる。壁を目前として、働き方を、調整してきた人々にとり、この状況は、困難を、招いているようだ。その上、雇用主には、人手不足が、問題となる中で、この状況は、更なる困難を、招くこととなる。この壁、どう扱うべきか、議論は、あらぬ方へと向かう。

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9月27日(水)−季節通り

 暑さ寒さも、と昔から言われるように、四季のあるこの国では、昼夜の長さが、等しくなるこの時期に、気候が大きく変わる、と言われる。今回も、国内のみならず、世界各地で、猛威を振るった暑さも、愈々、山を越したらしい。春に、花冷えがあるように、絶対ではないが。
 この時期に、畦道などで、よく見かけるのが、彼岸花、別名曼珠沙華だ。検索してみたら、独り言でも、7回も、取り上げているから、やはり、気になる花の一つなのだろう。確かに、異常気象と、盛んに喧伝されても、今年も、ほぼその時期に、咲いていた。却って、猛暑だったから、少し開花が遅れた、とも言われたが、誤差範囲だろう。取り上げた中でも、何故、時期を、定められるのか、不思議だと書いたが、この植物は、通常のものとは、全く異なる挙動を、示している。ある日、突如として、花茎が伸び始め、その先端に花をつける。それまで、草としての痕跡は無く、光合成を行う葉も、全く付けていない。植物が、日の長さを、計ることは、よく知られているが、葉が無ければ、そうもいかない。となれば、気温というか、地温だろうが、異常気象が、取り沙汰される中、季節の変わり目を、どう捉えるのか、不思議なものだ。まあ、人間が、計測結果の数値に、振り回されるのに、植物は、そんな指標ではなく、全く別の変動を、捉えているのだとしたら、理解不能も、当然のことだ。叡智などというものは、所詮、そんなもの、と見るべきなのだろう。分かって仕舞えば、ああ成る程、となるやも知れぬが、それまでは、未知なのだから。と言っても、以前書いたものの中には、二週間以上早く咲いた、とある。その位のずれは、許容範囲内なのか、それとも、これこそが、異常の表れ、となるのだろうか。流石に、一部で言われたような、秋が来ない、という話は、もう、忘れ去られたことだろう。異常が、大好きな人間とて、何時迄も、戯れ言を、続けられる筈も無い。

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9月26日(火)−説明は?

 論理を重視する考え方では、説明責任が、非常に重要となる。物事の真理に、迫る為には、細々とした説明が、不可欠であり、それを、順序立てて並べ、論理を構築する。もし、説明無しに、結論を急げば、誤った方向に、進むこととなり、論理は、破綻し兼ねない。
 そんな背景から、説明責任を、強調する流れが、作り上げられたが、現実には、それにより、正反対の方に、向かうこととなった。つまり、責任を、回避する為に、的確な表現による、十分な説明ではなく、あやふやな表現で、矛先を躱そう、とした訳だ。責任が、強まる程に、それを果たすのではなく、回避に終始し、的確な説明を、省くこととなった。典型的なのは、毎度お馴染みの、感染症騒動だ。騒動の発端となった、隣の大国での発生も、諸説紛紛とし、何の確証も無いまま、感染を抑制するどころか、世界各地に、飛び火することとなった。当初の措置は、一国の責任で、決められるものでは、決してなかっただろうが、結果的に、世界機関の力は、全く及ばぬまま、あっという間に、死の病が、先進国各地に、蔓延することとなった。その意味では、世界機関が、盛んに用いた、パンデミック、という言葉は、正しい使い方だった、とも言えるが、一方で、病態に関しても、十分な説明の無いままに、犠牲者の数で、論じられるだけで、治療法に関しても、効果の程を、精査する動きは、結局、最後の最後まで、起きなかった。ワクチンに至っては、当初の誤解が、今だに、残存しており、こちらの効果も、正しい理解には、程遠い状況にも関わらず、開発と推奨が、続いている。これら全てが、説明の欠如として、重大な過ちの結果、と見做すべきなのに、その流れは、起きてこない。理由は明白で、責任ある人々が、自らの過ちを、認める訳には、いかないのだ。ただ、その一方で、盛んに批判する人々にも、同じ傾向は強く、感情や心理ばかりが、強調される。失われた論理は、何処へ。

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9月25日(月)−責任?!

 投資の世界では、自己責任、という言葉が、何時頃からか、盛んに使われるようになった。今から、始める人には、自分で決めるのだから、自分の責任に、決まっている、と映るのだろうが、以前は、全てを、証券社員に任せ、金を預けるだけ、という習慣があったからだ。
 預金の利率が高く、預けるだけで、利益を上げられた時代、証券投資は、違った世界に、見えていたのだろう。だから、何もしなくても、利益が上がる、という言葉に、多くの人々は、魅力を感じ、資金を預けた。だが、大手証券会社が、破綻したのは、まさに、その問題が関係していたし、制度の変更で、確認と決定が、不可欠となると、状況が変わり、そこから、自己責任なる言葉が、使われるようになった。でも、基本的には、仮令、全面的な信頼を置き、預けたとしても、最終責任は、自分自身にあることは、明白ではないか。今更、こんなことに、触れるのは何故、と思う人は、特に、若年層に多いと思う。だが、彼らとて、自分の責任、と言われた途端に、手を引っ込め、立ち去ろうとする。人間の性の、一つなのかも知れぬ。そういう意味では、説明責任も、屡々聞かれる、言葉だろう。名称変更で、目先を変えようと、する動きには、そんな気持ちが、反映されており、誤解を招く言葉で、細々と説明する手間を、無くしたいと、願うからではないか。だからと言って、意味不明な呼称に、変更しようとするのは、余りにも無責任だろう。病態説明や、治療方針などを、説明する責任は、医師にある、とされている。その過程で、誤解を解く必要が、出てくるのは、手間が増える、とでも言いたいのだろうが、だからと言って、煙に巻く名称で、というのは、如何なものか。このやり方は、特に、医療現場で、よく見られる。今回の騒動でも、権威ある筋の説明が、理解不能で、不明瞭だったこともあり、現場の人間が、更なる責任を、負わされる場面が、多かった。患者には、目の前の人間が、頼りだ。

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