対価という言葉がある。本来、物の価値として、正当な値段を付ける、という所から、使い始められたものだが、盛んに使われるようになった頃には、正当なものは、激減してしまい、不当な値段を、押し付けられていた。だから、対価とは、そんなものとの受け止めがある。
物価高騰は、確かに、生活を苦しくし、経済を停滞させる。だが、それを抑えておけば、人の生活が安泰か、と問われれば、否と答えるしかない。それは、この所の経済停滞において、何が起きていたかを、振り返ってみれば、理解し易い。物価を抑える為に、劣悪な材料を使い、すぐに使えなくなるものが、市中に出回っていた。確かに、値段は抑えられたが、長い目で見た出費は、増していたのではないか。それに加えて、悪影響が及んだのは、確かな商品を、作り出している、企業や職人に、強い圧力がかかったことだ。これにより、それらの商品には、正当な対価が支払われず、結果的に、従業員や職人の生活を、強く圧迫した。そんな時に、特に強く、対価という言葉が、使われたように思う。最近、事故や手違いで、子供や老人の命が、奪われるような事件が、多発している。その中で、一部の人々が、対価という言葉は、使わないけれども、それに似た表現を使い出した。命に関わる仕事には、それなりの給与が、支払われるべき、という話だ。一見、妥当な話に思えるが、現実には、事実誤認に基づく、暴論に思える。彼らが問題視する職業は、現実には、命に関わるものではなく、単に、人の世話をするものだ。但し、日常的な世話とは言え、過ちを犯せば、子供や老人の命を奪う。問題は、基本となる仕事の中身ではなく、その結果のみに、目を向けていることで、勝手な論法を適用し、主張を押し通そうとする。これは、はじめに書いた、商品の話と似て、その価値の判断を誤り、極端な論理を、社会に押し付けるものだ。一方で、対価とは何か、それらの職業について、考えねばならない。
誰に、賞を授けるかは、それを決める人々だけの、判断に違いない。だから、誰が選ばれたかについて、批判をしても、無意味なのかもしれない。しかし、そこに、経済活動が絡み、儲け話が転がると、話が違ってくるのではないか。所詮、そんなことに、耳を貸す必要はないのだが。
一方で、事を大きくするのは、教育行政や研究開発に対する、考え方の問題だろう。確かに、教え育むことは、人類の発展にとり、重要な事柄の一つであり、科学技術の発展も、その上に立っている。また、研究開発についても、同様のことが言え、どの分野に、どれ程の資金を、注ぎ込むかにより、発展の速度が、変わってくると言われる。今回のように、自国の受賞者が、皆無だった時には、突如として、厳しい批判が飛び交い、行政の責任を、問う声が高まる。と言っても、教育と研究は、同等に扱うべきものか。そんな根本問題に対し、議論が高まることは、殆ど無いようだ。まあ、所詮、浅慮の結果として、他人の批判を、繰り返す人々に、根本を論じることなど、できる筈も無い。だから、表面的な事柄、今回の場合は、受賞者がいない、という点に対して、批判の声を上げるだけだ。発表直前には、あれ程盛り上がっていたのに、掌を返して、酷評するのは、どんな心持ちからなのか、全く理解できない。とは言え、現状が、満足できるものか、と問われれば、それに関しては、常に、不満である筈で、改良の余地は、数多あるに違いない。但し、教育の力は、確かに認めざるを得ないが、一方で、個人の能力に、研究開発の進歩は、頼らざるを得ないのも、事実だろう。個性を重視する考えが、突如として台頭した時、一部の人々は、それを伸ばす手法を、盛んに掲げていた。その一方で、猛反対をする人々は、個性とは、個人の中に存在するもので、外からの働きかけで、芽生えるものではない、と繰り返す。自明に思える話だが、大真面目の議論に、終わりはありそうにない。
毎年恒例の発表が、この時期に行われる。最先端の科学技術で、何が評価されるのか、世界の耳目を集めるが、この国では、それはそれとして、別の問題が取り上げられる。今回は、自国の受賞者が居らず、また、その問題が取り沙汰され、俄か評論家が、登場するのだろう。
確かに、多くの数字が、この国の科学の進歩の停滞を、表している、と言われる。だが、何度も指摘したように、その見方は、偏ったものであり、筋書きのある物語、といった感が否めない。批判を常とする人々は、ここぞとばかりに、総攻撃を始める。だが、その批判の目的は、自らの責任を、免れようとするものでしかない。科学行政において、何度も繰り返される失敗の数々は、確かに、批判の対象とすべきだが、批判する側も、同じ方を向き、過ちに加担し、繰り返しているのだから。さて、それはそれとして、今回の受賞者の顔触れを見て、感じるものはないだろうか。というより、もう、何年もの間、その傾向が強まり、科学技術の進歩というより、何だか、学問への寄与より、経済への寄与ばかりが、強調されているように映る。今回も、世界中の命を救った技術、と持て囃されたが、ここでも、疑問を呈したように、確かに、何らかの反応が、接種者に起きただろうが、それが、命を救う結果を、導いたか否かについては、検証が不十分に思える。特に、医学に関する分野では、命との関わりが、重視されるのは、当然のことなのだが、この所、受賞対象を見ると、そちらに向こうとするばかり、軽率な判断が、下されたとしか思えぬことが多い。賞が設置された当初、そんな失態が、度々あったとの批判が、過去を振り返る形で、なされているが、科学の進歩が、かなりあったにも関わらず、十分な検証や成果を、待つことなく、大慌てで決めるのは、如何なものか。これは逆に、学問そのものではなく、経済効果を重視する姿勢の、現れように見える。冒涜にならねばいいのだが。
過去最高の税収、という報道を、どう感じただろう。愚民政治の典型などと、指摘するまでもなく、以前から、選挙対策しか頭に無い、愚かな政治家達は、早速、減税の話を始めた、との報道もある。だが、今年度の予算を、眺めてみれば、田分けの極みとしか思えぬ。
一方で、一部の報道からは、その辺りの事情の説明が、見えてくる。国民一人あたりの借金、と批判の的となる、国債発行額は、予算が膨らむ中で、増え続けている。昨年度の税収は、過去最高となり、71兆円を超えた、とされたが、では、昨年度の国債発行額は、と見てみると、62兆円に達した。毟り取る税金を、下げるとしても、借金は、増やし続けますよ、というのでは、何を言われているのか、普通の頭には、理解ができない。ただ、朝三暮四のように、目の前の数字を、ちらつかせることで、人気を獲得したい、というのであれば、いかに、愚かな国民と雖も、馬鹿にし過ぎ、ではないか。一方で、昨年度の決算では、予備的な予算が、執行されなかった為に、国債の発行を抑えた、とさえある。その見込みからか、今年度の発行額は、35兆円となり、少しはましな状況、と見えなくもない。但し、これで、減税を見込もうとすると、元の木阿弥、となりかねない。にしても、支持率が下落するのは、御免だとばかり、減税の話を、始めたのだろう。所詮、口先だけのことで、何の約束も交わさず、なのだ。その中、早速、マスゴミ達は、取らぬ狸の皮算用、を始めている。つい先日も、壁の話で、盛り上げようと、躍起になっていたが、そこでも、的外れの議論ばかりが、目立っていた。今回も、減税という魅力に、惹きつけられるだけで、全体の懐事情を、議論するつもりは、毛頭無いのだ。命に関わることだった、あの騒動でも、他人事のように、好き勝手な意見を、飛ばしていた。命の次に大切、と言われるものでも、どうせ、同じことなのだ。傾聴の価値は、全く無い。
今、社会媒体で、重要視されるのは、生成人工知能などで、作成された偽画像や偽動画が、恰も、事実かのように、扱われることと言われる。確かに、世界的に見れば、偽情報が拡散し、世論が誘導されたり、国の判断が、誤った方に向かうことは、重大な問題だが。
庶民にとり、それらは、所詮、雲の上の話でしかない。自分達に、影響が及ぶのは、それらの過ちが、その後も放置、看過され、混乱が市中にまで、及んだ時であり、それまでは、何処か遠くの出来事、でしかないのだ。それに対して、社会媒体に、蔓延している、詐欺紛いの広告や、事実と異なる情報は、直接、自分達の生活に、悪影響を及ぼす。ここでの問題は、規制の有無だろう。公共電波も、社会媒体も、それを管理する側は、社会に対して、責任を有すると言われるが、どうも、後者は、まだまだ、気の緩みが否めず、更に、拡散速度の問題から、事前審査が、不十分な状態では、被害が拡大してから、やっと、重い腰を上げる、となるしかないようだ。例えば、ごく最近に、見かけたものでも、肌の染みや疣などが、簡単に取れる、という映像は、どう見ても演出でしかなく、歯の白さを、訴えるものも、同様に感じる。特に、最近の映像技術では、皆が知るように、ソフトを使えば、画像の色彩は、自由自在に変更できるし、染みや疣は、化粧のように、無いものを、あるようにしたり、あるものを、無いようにしたり、思うがままである。こんな広告は、規制当局が、きちんと取り締まれば、すぐに、摘発されるだろうが、現状は、社会媒体にまで、手が回らないようだ。そのうちに、善良無垢な人々は、簡単に、騙されてしまう。確かに、規制の強化は、喫緊の課題だろうが、その一方で、この場で何度も、強調してきたように、そういう誤魔化しを、見破る思考力を、庶民が、身に付ければ、そんなものは、一蹴できる。騙す奴が、悪いのは当然だが、騙されぬように、身構えるのも大切だ。
老後の資金が奪われたとか、苦労して蓄えたものが、台無しになったとか、そんな話が、巷を賑わす。詐欺とは、古今東西、絶えることなく続く、犯罪の代表格だが、一向に無くならないのは、何故なのだろう。誰しも、嘘に騙されることはあるが、金が絡むと話は違う。
と思うのは、少数派なのだろう。人助けと思い、なけなしの金を、困っている人に与えた、という話や、災害後の寄付にと、街頭での呼び掛けに、応じた話は、詐欺事件より遥かに多く、聞こえてくる。助け合いの精神が、何処から来るのか、よく分からないが、善良な心が、害を及ぼすことは、無いのだろう。だが、騙された本人にとり、被害甚大な場合も多く、放置しておくことは、やはり百害あって一利なし、となる。突然、かかってきた電話で、親族の窮地を知らされ、という手口は、既に、誰もが知る所だが、手を替え品を替え、新たな場面設定に、今度は違うかも、と思わされるのだろうか。一方、歯列矯正や美容に関する、被害の数々に、驚かされることも、度々ある。こちらは、有り体に言えば、見栄えを良くしようとする、気持ちに火を点けて、かなりの額を、騙し取るのだが、詐欺事件として扱われることは、少ないようだ。それは、騙すことを、はじめから計画するのではなく、ある程度の治療を続け、その後に、事業破綻という結末を迎えるからで、詐欺の前提が、置かれていないから、と言われる。公共電波に、載せられた宣伝では、このような事例は、少ないようだが、それは、ある程度の監視が、あるからなのだろう。では、一方で、最近、多くの人々が、情報収拾に用いる、社会媒体はどうか。様々な場面で、表示される広告を、眺めていると、その悪質さに呆れさせられることが、度々ある。おそらく、規制対象として、確立されておらず、多くの抜け道が、存在しているのだろう。だが、頻繁に見られるからには、嘘も多くあるに違いない。騙されぬには、を考えねば。
経済の高度成長期の始まりは、所得倍増計画だったろう。これにより、国民の生活は、大きく向上した、と言われる。だが、全体が成長すれば、成立する仕組みも、当然、翳りが見え始めると、破綻を来すか、はたまた、調整に入るか、ぐらいしか、抜け道は無くなる。
そこに、単一の収入で、家計を賄うより、複数の収入を、という働きかけが、起きたのだろう。相前後して、外から、女性の社会的権利の解放、という運動が、入ってきた。これと、同じ流れだと、考える人が居るが、現実には、後者は、女性の自立が主眼であり、共働きと言っても、配偶者が、控除対象に留まる、この国の大勢とは、大きく異なっていた。では、何故、この戦略が、選ばれたのか。単純には、企業をはじめとして、嵩み始めた人件費を、抑制する為の手段に、使われたと言える。配偶者が、働き始めれば、一人の収入が、家計を支えきれずとも、何とか、生活が成り立つという訳だ。もし、更なる収入を望めば、当時、海の向こうから持ち込まれた、DINKsという言葉通り、Double Income No Kidという方式に、移行すればいい。何れにしても、この方針変更が、その後の、人件費抑制と物価抑制という、負の連鎖を、招くこととなった。経済停滞の原因は、確かに、不動産不況からの、泡が弾けたのが、主因だろうが、その後、長く続いたものについては、今取り上げたものにこそ、原因がある。生活が、成立するという、状況が維持され、一部の新興国のように、厳しい物価上昇に、悩まされるより、ずっとましという、受け止めから、こんな状況に、甘んじてきたが、今回は、流石に、外圧が強過ぎた。極端な、物価上昇に対し、昇給を余儀なくされ、窮地を、何としてでも脱しようとしている。しかし、これまでに蓄積した歪みは、多方面に及び、制度の軋みとして、表面化している。根本的な解決を図るか、はたまた、例の如く、小手先の誤魔化しで、対応するか。何方だろう。