パンチの独り言

(2023年10月9日〜10月15日)
(何処に消えた、置き去り、御涙頂戴、冷たいのは、他人事か、自分事、加担)



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10月15日(日)−加担

 現代の鍵となる単語は「不安」である、と聞いて、否と答える人は少ない。では、その理由は何か。こちらについてはどうか。独り言を読んでいる人には、さほど難しくはない、かも知れない。ヒトという生き物が、持って生まれた性質だから、と答えたくなるからだ。
 確かに、そう書いたこともある。それは、人類の歴史にあって、常に存在した考えだろう。だったら、何故、今、これ程までに、「不安」が取り沙汰されるのか。その答えには、持って生まれた性質だけでは、十分とはならない。徐々に、その傾向が高まり、今に至ったとしても、高めた原因は何か。ヒトそのものだとしたら、何故、今なのかという疑問が、残ってしまう。一つ浮かぶのは、社会媒体の存在だろう。人の噂という意味では、井戸端会議は、昔からあったから、大した違いはない、と思う人も居るだろうが、対象となる集団の大きさには、かなりの違いがある。ただ、それだけでも、やはり不十分と思える。一方的な形で、伝播するだけでは、多くの人々は、すぐに忘れてしまう。確かに、社会媒体は、何度も同じ情報が流され、それによって、記憶が蘇り、強化されるから、単純ではない、という意見もあるだろう。でも、参加者の数でも、いかに急激に増えたとは言え、社会全体への浸透という意味では、それ程の力を持つとは、言えそうにない。だったら、それに加わるのは何か。社会媒体と呼ばれる仕組みが、普及する前から、社会の中で存在し、大多数の人々が、触れるものと言えば、新聞やテレビ、ラジオといった、マスメディアとなる。以前なら、それぞれ独自の路線を持ち、各自が、独自の論戦を張っていたが、最近はどうか。社会媒体に押され、市民の共感が得られにくくなると、どれもが、社会媒体に流れる情報を、せっせと掻き集めている。その結果、何が起きたか。不安を煽る情報が、社会媒体を源とし、流され始めると、それを強化する形で、マスメディアが、となる。

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10月14日(土)−自分事

 多少の変化は、起きていたのだろうが、紛争は、長く続いていた。しかし、独り言を書き始めた、20年程前とは、今回の状況は、大きく違っている。当時、世界の人々は、紛争地に関して、ある意味、対岸の火事を眺める気分で、議論していた。だが、今回は、自国民が巻き込まれた。
 人の往来が、盛んになっていたが、ここ数年は、馬鹿げた感染症騒動により、厳しい規制が敷かれ、多くの楽しみが、奪われていた。やっと、一息つける、とばかりに出かけた人々が、紛争に巻き込まれ、拉致されたようだ。その上、生活の糧として、現地に出向き、働いていた人々も、多く居たと言われる。こうなると、他人事とは言ってられない。各国政府も、自国民の救出に乗り出し、拉致された人を、救い出そうと苦慮している。しかし、この展開は、紛争の範囲を、拡大する方に向かわせる。これでは、冷静な対処は難しくなる。かと言って、見殺しにできる訳がない。どうすべきか、結論は、簡単には見出せない。唯一の方法は、拉致した側に、与する国々が、対応することだろう。国際機関においても、議論を進める手立てが、残っているかもしれないが、例の軍事侵攻以来、世界的な合意が、得られる可能性は、殆ど無いに等しい。これでは、様々な意味での二極化が、進行するだけではないか。となれば、紛争が、拡大することは、止められないかも知れない。そんなことを、一般市民が、考えるべきかは、はっきりしない。本来、国の外交の手段として、こういう手立ては、講じられるべきだからだ。ただ、巻き込まれたのは、軍事関係者でも、政府関係者でもなく、一般市民である。これを、他人事として、片付けることに、違和感を覚えるのは、その辺りの事情もありそうだ。さて、世論はどう動くか。それも、国毎に異なり、それぞれの事情で、利己的な結論へと、導かれるかも知れない。でも、妥協案が出されなければ、どうなるか、誰もが知る所だ。さて、どうする。

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10月13日(金)−他人事か

 冷戦終結から30年を経て、新たな諍いが始まった。と思えたのは、例えば、貿易戦争のようなものもあるが、実力行使の表れ、と思えたのは、やはり軍事侵攻だろう。二国間の歴史の結果、と見る向きもあろうが、それにしても、何故、と思える部分は、沢山ある。
 その終結も見通せない中、次は、世界の火薬庫と呼ばれる地域の、紛争の開始だ。暴力に訴えるという意味では、上の軍事侵攻と同じだが、互いの立場という意味では、全く異なる事情がある。その歴史については、意見は様々だろうが、ここに来て、何故、実力行使という手段に、踏み切ったのかについても、諸説紛紛だろう。一つ、興味深いと思うのは、海の向こうの政権との関わりで、あの地域に入植した人々が、築いた国の首都を、初めて認定した、前の大統領は、彼の国の地位を、高める為か、はたまた、紛争解決の糸口、というつもりか、何も定かになっていないが、アラブ諸国との関係を、築かせようと動いた。その結果、主要な国々が、互いに政府機関を設置し、関係良好が、見通せるようになった、とも言われるが、その一方で、占領され、虐げられた人々からは、強い反発が起き、愈々、窮鼠猫を噛む、という状況に至った、とも言われる。だが、その行為は、暴力としか見做されず、更に、厳しい立場に、追い込まれ兼ねない。テロ組織の常として、こういう極端な行動が、選択されるようだが、上の軍事侵攻と異なり、攻めた側も、大衆が紛争に巻き込まれ、更に、酷い状態へと追い込まれる。民衆の支持が、こういう行為において、不可欠となるのは、以前、この地域で、絶大なる権力を誇った、ISと呼ばれる勢力の、その後の衰退を見れば、明らかだろう。長く続けば、互いに、不利な材料が増えるのみだが、この紛争が、世界規模へと結びつくことも、有り得ない訳ではない。対岸の火事と、高みの見物を決め込むのは、愚の骨頂なのだが、果たして、どうなるのだろうか。

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10月12日(木)−冷たいのは

 賠償の話で、論理を優先と書いた途端に、炎上などという話が、最近は非常に多い。この独り言は、そんな社会媒体を、通していないから、馬鹿げたことは起きないが、それにしても、異常な状況だろう。不幸な人々に、寄り添う姿勢を、見せるのが当然、という風潮なのだ。
 だが、感情的にも見える、こういった行動には、実は、本当の意味での感情は、含まれていないだろう。寄り添う、という言葉に、酔い痴れた人々が、盛んに、そして声高に、訴えているが、金さえ渡せば、といった感覚での判断、としか思えない。普段から、不幸な人々、恵まれない人々に、そういった姿勢を見える人間は、ごまんと居るのだが、その中で、実際に、目の前にして、手を差し伸べる人間が、どれ程居るのか、心許ないと思う。問われれば、本人は大真面目で、普段から心掛けている、と答えるに違いない。だが、社会媒体で、反対者を糾弾したり、幸福そうな人間を、盛んに批判したり、そんな言動以外には、大したことをしている訳でもあるまい。自身の言葉に、酔い痴れることはあっても、目の前の人間に、手を差し伸べるという、行動に出ることは、殆ど皆無に違いない。そこが、今の世の中に、幻滅する部分と思うのだが、飽く迄も、芝居をしたい、と思う人々には、そんなことは、頭の片隅にさえ無いのだろう。温かい言葉は、意味があるが、論理に基づく、冷たい言葉は、無意味と断じるのも、論理の中にある本質を、見抜けないからこそ、なのだろうと思う。一見、冷酷そうに見える言葉も、そこにある配慮を、感じ取ることさえできれば、全く異なる印象が持てる。表面的なものだけに、目を向けるばかりで、連想力がなく、別の方向への妄想に、駆られた人々に、説明は、意味を成さない。だからこそ、仮想空間での、馬鹿げた遣り取りには、目を向ける必要も、耳を貸す必要も、無いのだ。余計な心配をせずに、安穏な日々を、送りたいものである。

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10月11日(水)−御涙頂戴

 賠償を命じる判決が出た時、良かったと思った人も居るだろう。だが、そう思わなかった人も居る。被告やその関係者ばかりでなく、認定の基準を考えると、強い疑問が残る、と思った人々だ。全ての被告が、判決を不服として、控訴の手続きを行ったのは、ある意味妥当な判断か。
 公害の典型例として、事あるごとに、引き合いに出され、最近も、外国製の映画として、上映された程だ。関係者が、外国人であった為、であろうが、それにしても、注目に値したのだろう。特に、認定までの過程は、科学のあるべき姿を、関係者達に、深く考えさせる端緒となった。当初、専門家と呼ばれた人々は、奇妙な症状を示す病気の、原因は不明と断定していた。既に、多くの症例が知られ、疫学的にも、限定された地域という点から、工場廃水と、その海で育った魚介類、という関係が露呈しても、調査結果を曲解し、元凶たる企業を擁護した、と今では伝えられる。そんな背景や事情もあり、その後も、公害病の認定において、二転三転を繰り返し、政治的な決断も、度々行われた。その中での今回の判決は、見落としを残さず、といった感もあり、更には、原告の高齢化が、心情的な部分を、かなり占めていたようだ。だが、科学的な証拠に基づき、基準を決めたのであれば、それに従うのは、重要な論理である。世界的にも、各地で同様の事例が報告され、それらに基づき、基準が定められたのなら、尚更だろう。だが、そこに、感情が乱入する。論理を重視する、海の向こうでも、裁判は、陪審制度であり、感情への訴えが、重要な武器と言われる。戦後間も無くは、この国でも、占領下で同様の仕組みが、実施されたが、その後、立ち消えとなった。それが、最近、裁判員制度で、形を変えて始まり、感情の関与は、確かに拡大している。一方で、裁判官の非常識が、取り沙汰され、その解決の端緒とも見做される。何方にしても、人を裁くには、まずは、論理を優先すべきだろう。

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10月10日(火)−置き去り

 保育の問題は、子育てと関係するが、最近、ある自治体で、提案された規制に、猛反対が巻き起こった、と伝えられた。端的に言えば、子供を一人にするな、という制限だ。一緒に居る時は、常に手を繋ぎ、一人になんか、していない、と思う人が、大部分と思うが、その意味ではない。
 常に、一緒に居ろ、という意味だ。子供だけで、留守番させない、とか、車の中で、待たせておかない、とか、そんな意味なのだが、反対の理由は、ごく単純なものだ。「無理!」というだけだ。共働きで忙しく、子供を預けられないから、そんなことは無理だ、という意見とか、子供を連れて、何処にでも行くことは、不可能だ、という意見とか、そんな言葉が、発言者の映像と共に、流されていた。それに対して、多くの人々が、賛同したのだろう。流れは、反対に固まったように見える。だが、同じ規制が、40年程前に、海の向こうで定められた、という話は、誰も知らないのか、それとも、意図的に論じないのか、全く触れられない。社会的な事情は、多少異なっているが、子供だけで居ることが、何かしらの事件に、繋がるという話が、出ていたのは、ほぼ同じ状況と思える。一方、彼方では、当時から、共働きが多く、その為に、保育所やら、ベビーシッターと呼ばれる、子供の世話をする人々が、沢山居た。これについても、ほぼ同じ状況だろう。その中で、規制が始まり、厳しい罰則が、制定された時、多くの混乱が起きた。ある程度までは、子供の面倒を見る人を、配することができても、常に、となると、話が別となり、混乱したのだ。だが、その後、それが当然となり、今に至っており、おそらく、子供の事故は、ある程度、抑えられたのだろう。では、こちらの事情は、どうだろうか。彼方の事情を、考慮してみると、上に書いた反対意見は、ほぼ全てが、身勝手な言い訳、と見做される。整備不足に関して、自治体が、努力するのなら、尚更だろう。さて、どうなるのか。

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10月9日(月)−何処に消えた

 命に関わる、という極端な論法で、待遇改善を図るのは、明らかな間違いと思う。この手の論を多用する輩は、所詮、まともな論理を、構築することができず、場当たり的な議論で、主張を通そうとする。結果として、成果は見込めず、議論の為の議論が、続くだけとなる。
 そんな連中の口車に、安易に乗らされてはいけない。では、どう処すべきなのか。きっかけとして、今、この類の職業に関して、収入を公開せよ、という動きがあるという。これ自体は、実態を掴む為と思われるが、何の実態だろう。低所得の原因を、追及する為に、まずは事実を掴もう、という動きだとしても、この手の調査は、そこで終わることが多い。原因には、興味が無く、単に、どれ位低いかを、論じたいだけだからだ。一方で、保育や介護の現場で、劣悪な職場環境を、論じるだけでは、原因となるものを、見つけ出すことは、おそらく不可能となる。では、何をすればいいのか。単純には、企業の実態調査と同じで、収支を、詳らかにすることが、肝心だろう。特に、介護の現場では、一見すると、不思議な状況が、生じていることが、明らかとなるので、その点を、明らかにする為に、支出の行方を、確認することが、重要だろう。公的機関が、運営する施設では、そんなことは、起きていないと思うが、私的な施設では、高額な使用料や、入居にあたっての契約金が、支払われていても、その行方が、はっきりとしない。特に、介護士の収入が低い場合、それが問題となる。確かに、都会のど真ん中に、施設があれば、賃貸料は、かなりの額となるが、その必然性に疑問が残る。一方、そんな場所でなくとも、同じ水準だとしたら、どこに消えているのか、不思議でしかない。では、保育の現場は、どうだろうか。こちらは、全く別の原因が、ありそうに思う。特に、親の収入との均衡が、問題となりそうだ。ただ、この問題は、以前取り上げた共働きの必要性の話と、関係しそうだ。

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