パンチの独り言

(2023年10月16日〜10月22日)
(使いよう、間違い無しに、妄言、目的があったら、気のせい、止める為に、大事なこと)



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10月22日(日)−大事なこと

 確定していないのだから、誤報と断じる訳にはいくまい。だが、直後の報道は、テロ集団の発表を鵜呑みにし、加害者も被害者数も、不確定なものを流した。今の圧倒的な反対運動は、そこに端を発した、と言ってもいいだろう。だとしたら、その後の流れは、どうあるべきか。
 その一方で、社会媒体で発言する人々は、挙って糾弾しているが、こちらも如何なものか。同一人物か否かは、確かめていないので、乱暴な主張になるが、軍事侵攻直後の、一部の発言者達は、それこそ挙って、攻め込まれた国の状況を、歪めた上での主張を繰り返した。国内での被害は、自作自演と断じ、一部の住民が、差別による被害を受けたと伝えた。全てが間違いとは言えないだろうが、それにしても、歪曲姿勢は、誰もが陥るもののようだ。ずっと昔に、独り言で書いたが、報道においての現場主義を、批判する人の講演を聴いた。彼の主張は、現場からの映像とて、撮影者の背後で、何が起きているのかを、知ることはできない、というもので、伝えられた映像を、数多く視聴して、遠くから伝える手法も、情報社会では、重要なものの一つ、というものだった。もう四半世紀程前の話だが、当時から言われたことは、今、厳しく受け止めるべきことのように思う。一部の報道、一部の発表、その上、国や勢力ごとに、利害に満ちた情報操作が、行われる時代に、純粋無垢に、誰かの発言や情報を、信じ込むことの危険性を、考えるべきということだ。動き出せば、戻ることは難しく、自己否定は、更に、困難を極める。時には、緊急を要することもあるが、その一方で、少し時間をおき、沈着冷静さを保つことも、重要なのだ。今回の紛争に関し、最大の被害者は、一部地域に押し込められた挙句に、救援物資の供給を止められた人々だが、だからと言って、暴力的な行為が、許される筈も無い。支援や賛同が、真の目的が、人道的なものであっても、暴力集団に、手を貸す結果となっては、無意味となる。

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10月21日(土)−止める為に

 二日前、国際紛争に関して、疑問に感じたことを書いた。その直後から、加害者と目された国から、反論が示されると共に、分析結果や無線傍受の内容など、様々な証拠が示された。少し触れたような陰謀説は、流石に曲論に過ぎるだろうが、証拠の数々は、信じるに足るものだった。
 にも拘らず、当事国を、一方的に批判する勢いは、収まりそうにない。直後でさえ、異常と思える程に、拡大する批判の渦に、群集心理の典型を見る思いだったが、その発端とも言える事件に対して、新たな事実が明らかになっても、その勢いが衰えず、却って、拡大を続けることに、違和感と共に、危機感を覚える人も多いのではないか。今、世界は、分断の時代へと、突き進んでいると言われる。それも、冷戦時代とは異なり、国と国の対立ではなく、人間と人間の対立の図式が、際立ち始めることに、恐ろしささえ感じられる。物事を、理性的に捉え、冷静に分析した上で、判断を下すという、人間として、不可欠と言われる道筋を、見失った状態では、人としての営みは、維持できそうにない。差別下で、虐げられた人間が、それを脱しようと力の行使に頼るのは、他に選択肢が無いから、とはよく言われることだが、今の状況が、それに当たるかについては、賛否があると思う。だが、度々報じられるように、世界各地で起きる、反対運動の源には、そういう暴力的な行為でも、意を決して行った人々を、支援する気持ちが込められている。ただ、遠くから眺めるに、報道そのものを、何処迄信じるかは、こちらの判断に任されている。少し冷静になって、全体を見渡してみると、当事者の影は薄れ、何やら利害に満ちた考えが、凄い勢いで膨らむのを感じる。確かに、犠牲者が増えることは、極力避けねばならないが、一方的な暴力を、肯定するような考えに、囚われないようにすることも重要だ。一旦は、起きたことを棚に上げ、人質という武器を手放すことが、最善に思える。

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10月20日(金)−気のせい

 物価上昇は、家計にどんな影響を及ぼしているのか。生活が厳しい、との訴えを、盛んに取り上げるが、困窮という意味で、どうだろうか。人それぞれなのは、当然のことであり、貯蓄を切り崩し、何とか生き延びている人も居れば、収入が増え、一息ついている人も。
 何方にしても、この状況が何時迄続くのか、気になる所だろう。その意味では、値上げの原因や理由を、突き止めることも大切だ。平日早朝に、放映される経済番組で、海の向こうとこちらで、物価上昇に、違いがあるかないかを解説していた。リンクを貼っておくが、現時点では今朝の内容は、掲載されておらず、一方で、何時迄保持されるかも、不明だ。何れにしても、その中で、専門家の主張は、上昇した物品に違いがある、というものだった。こちら側は、主に食料品、あちら側は、主に家賃という結果で、前者は、原材料価格や輸送費の影響、と見るべきであるのに対し、後者は、生活費全般の上昇の影響、と見るべきとされた。原因として、確かに、そのような見方はあるだろうが、それ以前に、心理的な影響と見るべき、とも思える。つまり、家賃の上昇にとり、原因となるものは、存在していないのだ。この国で、盛んに使われた言葉では、便乗値上げ、が当てはまると思う。それに対し、値上げを嫌悪する風潮が、根付いてきたこの国では、便乗はあり得ず、確かな理由が必要となる。その為に、原材料が、とか、輸送費が、とか、必ず取り上げられる。ただ、その実態については、不確かな部分が多く、その通りか否かは、判然としない。にも拘らず、こういう解説で、納得しているのは、如何なものか。一方で、生活費全般として、物価上昇が起きておらず、一部の物品に限るとしたら、それはそれで、今後の成り行きに、大きな影響を与える。解説では、金利との関連を取り上げていたが、庶民にとっては、あまり関係無さそうに見える。合理を優先する国が、心理、という点が気になるが。

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10月19日(木)−目的があったら

 軍事侵攻が始まった時、不安に思った人は、少なかったのではないか。ただ、この戦いは長引くことが予想され、食糧危機を含め、様々な問題が噴出するに従い、徐々に不安が高まっていた。そこに、中東での衝突が起きた。これも、単独では、大きな不安要素とはなりそうにないが。
 当事者にとり、どちらの問題も、民族や国に関する、大きなものとなってきた。ただ、局地的なものであり、それが、世界を巻き込むかは、かなり可能性が低い、と見る向きが多い。だが、勝敗を決するべき、と当事者達は、お互いに思っているだろう。その為には、仮令長引いても、決着がつくまで、戦い続けねばならない。一方で、軍事侵攻で、明らかになったように、他の国々の関与が、不可欠なことも確実だ。その観点で、衝突の流れを眺めると、少し乱暴で、妄言とも思えるが、穿った見方をしてみたくなる。当初、境界線を越えて侵入した武装組織は、人質を確保して、自分達の地域に戻り、交渉を有利にしようと世界に働きかけた。ただ、この行為自体は、典型的なテロ行為であり、非難が集中したのも当然だ。それを、支援と受け止め、侵入された国は、軍隊を進め、地上戦も辞さないと言われている。これはこれで、多くの国々が懸念を示し、戦いを止めて、交渉に入るべきとの意見が出ていた。そこに起きたのが、病院爆破の事件だ。互いに、関与を否定する中、別組織の誤爆との報道があるが、真偽の程は確かではない。ただ、この事件に関して、注目を集めたいと願う人々が居たら、と考えてみると、誤爆かどうかさえ、怪しげに思えてくる。元々、押し込まれていた地域には、複数の組織があり、それぞれに、他国の支援を受けていると伝えられていた。一方で、地域に住む人々の、全面的な支援は、どれも受けておらず、不安定な情勢だったことは、確かだろう。その中で起きた事件は、意図的なものと見えないこともない。乱暴だが、国際情勢、外交とは、そんなものと見ておくべきか。

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10月18日(水)−妄言

 異常気象、今年も盛んに取り上げられた。が、例年と異なるのは、世界的に、という点で、それも、局地的なものではなく、全世界的に、異常だったという点だ。その一方で、毎回、取り上げられる、男の子や女の子の話題は、少なかったようだ。流行遅れなのか。
 何れにしても、異常の程度を、如何に大きく見せるかが、こういう話題において、最も重要となるようだ。だから、温帯に属する地域が、亜熱帯から、熱帯へと移行する、などと宣う輩まで、登場するに至った。さて、これも、例の如くだが、喉元過ぎれば、というが如く、夏が去り、気温が下がり始めると、いつも通りに、秋がやってきた。四季の移り変わりが、この国の特徴の一つであり、それが、豊かな自然を育むと言われる。それに対し、異常気象を懸念する人々は、四季が失われ、それにより、自然の豊かさも失われる、と主張する。確かに、異常な高温が続き、農作物への悪影響も、かなり出たと言われる。だが、四季が無くなるとの主張は、流石に極端過ぎて、相手にする気も起きない。だが、注目を浴びたい人間にとり、今回も、千載一遇の機会とばかり、声高に訴えていた。で、どうなったのか。何事も無かったかの如く、今では、知らぬふりを決め込む。所詮、この程度のものであり、科学的論理性の欠片もなく、発言への責任は、皆無なのだろう。そんな連中を、重用する人々は、不安材料さえ手に入れば、こちらのものとばかり、極端な主張を、大いに推奨する。こちらもまた、過ぎてしまえば、知らぬふりだ。こんなことに、簡単に振り回される大衆は、一体全体、何を考えているのか。無知蒙昧は、言うまでもなく、その結果として、世論が靡けば、また、何かしらの報酬に浴せる、とでも言うのか。全く、何を考えているのか、さっぱり分からない。でも、兎に角、季節は巡り続ける。馬鹿げた論などに、耳を貸さずに、それを楽しもうではないか。

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10月17日(火)−間違い無しに

 文書作成は、あらゆる仕事の基本であり、不可欠なものと言われる。一方で、教育現場では、作文の時間は退屈で、読書感想文は、諸悪の根源の如く扱われる。結果、社会に出てきた人々は、何の武器も持たぬまま、戦いに乗り出さねばならない。何が悪いのだろうか。
 もう一つ肝心なことは、文字は、人類の発明であり、これによって、歴史の上では、文明が築かれてきた、と言われる点だ。その重要な道具を、まともに使えぬ人間が、社会を動かすことは、確かに、危うさを感じさせる。にも拘らず、教育の重要性を訴える人々でさえ、作文を蔑ろにしたり、文書作成を面倒と見る。こんな状況では、早晩、破滅が訪れる、などと物騒なことさえ、書きたくなるのだ。この状況は、実は、この国に限ったことではない。世界各地で、同じ問題を抱え、悩みに沈む人も居るが、それでも、高等教育の場で、何とか解決に導いている。この国との違いは、意思疎通能力と発表能力を、初期段階から教える点だろうか。その上に立って、文書として、他の人々に読んで貰うのは、少し違った能力が必要となる。前の二つは、その場だけのもので、今では、記録に残すことも可能だが、基本的に、その瞬間瞬間で、相手に伝えるものだ。しかし、文書は、元々が、記録として残す為のもので、受け手は、何度も読み返すことができる。瞬間的で、すぐに理解できることが、条件となるものに対し、何度も読み込み、納得するまで考えることができるのは、大きな違いとなる。娯楽としての小説や、芸術としての詩歌のように、華麗さや美しさが、求められるものと違い、業務上の文書は、ただ単に、必要最小限のことを、漏らさず伝えれば、その役目を果たせる。事実だけを記せばいいのなら、簡単なことと思うだろうが、いざ書いてみると、意外に手間取るものだ。その上、間違いが許されないから、誤字脱字は、禁となる。実際には、この点が、最大の難関とも言われる。

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10月16日(月)−使いよう

 不安の種を蒔くのが、社会媒体であり、その後を継ぎ、話を大きく広げるのが、マスメディアだ、という意見なのだが、どうだろうか。されとて、原因さえ取り除けば、根絶できると思うのか、それとも、媒体全体が、諸悪の根源であり、根絶やしにせねば、ならぬとなるのか。
 流石に、全ての情報源を、破壊してしまうと、情報そのものが、一切流れなくなる、というのは自明だろう。だが、不安に駆られる人々を、救う道が、他に無いとすれば、どうすべきだろうか。一つは、やはり、根源の問題を、解決することだが、現状からすると、ほぼ不可能と見える。となれば、やはり、受け手がどうにかせねばならぬ。では、どうすればいいのか。事は、単純ではない。人々の受け取り方は、それぞれであり、その多様性こそが、全体として重要である、となれば、強制的に何かをする、という訳にもいくまい。となれば、個人の選択として、不安に駆られ、死を選ぶのだとしても、それを妨げることは、断じてならぬ、となってしまう。そこに手を付けるのは、憚られる訳だ。極端は、致し方ないとしても、では、そうでない大多数に対して、何をすべきか。こちらは、社会の混乱を鎮める為に、重要な手段となり得る。不安の根源を断つ代わりに、受け止め方を、どうにかする訳だ。と言って、これもまた、一つの答えがある訳でもない。まずは、受け止め方として、鵜呑みを避けるのは、当然のことだが、上に書いたように、情報源だけでなく、それに続く媒体が、盛んに煽り続けるとなると、よく考えた上でも、飲み込まざるを得ない、となりかねない。肝心なことは、最初の印象だが、それとて、覆されることもある。となれば、何度でも、吟味を続け、否定することが必要となる。ただ、周囲が、何方に与するかで、様相は大きく異なる。できれば、否定に賛同する人を、増やす必要がある。社会媒体は、その手立ての一つなのだ。結局、諸刃の剣となる訳だ。

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