パンチの独り言

(2023年10月23日〜10月29日)
(介入か傍観か、火に油、解決法、がせねた?、仲裁役、飛び火、地に堕ちた)



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10月29日(日)−地に堕ちた

 情報社会、という言葉が、盛んに使われるようになって、かなり長い期間がある。では、情報とは何か。今更、そんな質問をしても、無駄かもしれないが、大衆はどう感じるのか。マスゴミと揶揄される、塵と化した情報源には、誰も耳を傾けず、社会媒体を、せっせと覗き見る。
 情報の重要性は、いつの時代も変わらず、的確で正確なものを、手に入れた者が、勝利を手にする。勝ち組などと、身勝手なことを、言いふらす人々は、その典型かもしれない。だが、そんな情報が、どこに転がっていると言うのか。今の世界情勢を眺めると、つい、そんな気が起きてしまう。例えば、ここ数日、独り言で何度か触れた、奇襲攻撃に端を発した紛争について、様々な憶測が飛び交うが、どれが、真実だと言うのか。世論調査さえ、軍事侵攻の延期を、望む人々の割合が、半分近くに及ぶと、この国の公共放送は伝えるが、残りが何を望んだのか、一向に伝える気配が見えない。その地域に居る記者も、煮え切らない情報ばかりを送りつけ、役立たずとしか思えないが、おそらく、放送局自体が、思考停止に陥っているのだろう。正確には、別の報道を見れば、すぐに理解できる。3割近くが、侵攻に賛同したとのことだ。一方で、別の情報では、ほんの10日程前には、6割を超える人々が、攻撃を支持していたと伝える。こういう数字の変遷や、全体の割合を、正確に伝えることこそ、情報源の役割だと思うが、そんなことは、塵ほどにも考えない。ゴミではなく、チリである。そこにこそ、塵と化した、と揶揄される所以がある。実際、報道方針が、先に決められ、それに沿った形での、情報のみを伝える。病院を空爆した、という報道が、その典型だったと思うが、その後の様々な情報に、触れることは少なく、奇襲を受けた国が、反撃に出ていることに、異論を唱えることに、話題を集中させている。客観的も、中立も、全く見えず、誘導としか思えぬ態度だ。これでは、駄目だろう。

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10月28日(土)−飛び火

 人の道とは、よく言ったものだと思うが、それにしても、外れた連中に対して、こんな言葉を使っても、何の役にも立たないのではないか。今の国際情勢は、まさに、その極みへと向かっており、どうにもならない、袋小路に入ってしまい、抜け出せなくなっている。
 にも拘らず、多くの国々は、窮地に追い込まれた人々に、手を差し伸べようと、工夫を凝らしているが、合意は得られそうにない。何の為の国際機関か、という点にも、目が向けられているが、枢要な立場にある国が、歩み寄る姿勢を見せないばかりか、互いに、批判し合うだけでは、答えは導き出せそうにない。国の利害が、複雑に入り組んでおり、合意に到達することは、ほぼ不可能とも思えるのだ。一方で、人の道、を考えてみると、国の利害とか、人の利害とか、そんなこととは無関係に、そこにあるべき事柄、と思えてくるが、どうだろうか。今更、こんなことを書いても、何の役にも立たず、解決の端緒さえ、見つかりそうにないことは、重々承知の上で、戯言の一つとして、書いておくのだが、人間として、どうあるべきかを考えねば、このような問題が、解決する可能性は、限りなくゼロに近づく。なのに、何故だか、互いの過ちを指摘し、矛盾だらけの議論を、しゃあしゃあと続けている。どうにもならない、と言ってしまえば、その通りなのだろうが、それでは、尊い命の数々が、次々と失われていくことを、止める手立ては、見つかりそうにない。さて、こんな議論が、自分にとって役にたつか、多くの人に尋ねたら、どんな答えが返ってくるのか。おそらく、大部分の人は、対岸の火事など、どうでもいいと答えそうだ。だとしたら、人の道云々を、持ち出したとしても、何にもならない。それより、自分の生活を、豊かにしたいと願う人の方が、遥かに多いからだ。まあ、所詮、人間とは、その程度のもの、と見るべきだろうか。それとも、こちらにも、火の粉が飛ぶと思うべきか。

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10月27日(金)−仲裁役

 人道、という言葉が、盛んに使われるけれど、首を傾げることが増えた。確かに、貧しく、厳しい生活を、強いられている人々は、何かしらの救いの手を、差し伸べる必要がある。だが、最優先ですべきかどうか、考えるべき事柄も、非常に多い。大賛成、とはいかぬものだ。
 今回の紛争では、それが話題の中心とも思える。避難せよ、と命じられても、簡単には決断できず、戸惑うばかりの人々に、救いの手を差し伸べようと、国連は、盛んに動き回り、事務総長も、その方向の発言を繰り返す。だが、この戦いは、単純なものではなく、困っている人を救う、という人道的なものが、却って、混乱を高めるようにも見える。そういう事情から、多くの国々が、別の提案を捻り出し、解決への道筋を、つけようとしている。だが、国家間の利害が絡むだけでなく、端緒となった奇襲攻撃の責任追及を、棚上げにせよとの話には、一部の国は、納得できないだろう。結果として、仲裁役の筈の総長が、双方から、批判されることとなる。機関として、人道を最優先にする、という考えに、拘ることに対して、賛否両論があるのは、誰に対する配慮か、という点に目が向くからだ。被害者は、双方の側におり、彼らを救う為の措置は、何れも人道的な見地に基づくものとなる。だが、最優先されているのは、片方の難民のみとなり、人質の扱いは、という点に批判が集中するのも、当然のことだろう。停戦という措置に関しても、同様の意味合いがあり、最優先として、掲げられたものには、かなりの偏りがある。元々、地域の問題として、長年の間、継続的に起きてきたことが、突然の奇襲により、一方に傾いた結果として、今の状況が生まれた。そこに、いつも通りの人道を、持ち出すことに対して、違和感を覚えるのも、当然のことだろう。かと言って、放置することは、何の解決にもならない。だとしたら、何処に向かうべきか、仲裁役には、見えていないようだ、軍事侵攻同様に。

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10月26日(木)−がせねた?

 報道の不確かさの原因は、何処にあるのだろうか。最近、屡々指摘されるのは、裏をとることの重要性が、蔑ろにされている、という点だ。報道の速さや他社との競争で、焦るあまりに、確認を取らずに報じ、様々な過ちを犯す、という話だ。事件報道に、よく見られる。
 だが、緊急性を要するか否かではなく、別の要因で、誤報や不確かな情報を、流す場合もよくある。例えば、ここ数年、世界が巻き込まれた、感染騒動において、数え切れない程、怪しげな情報が垂れ流された。今は、落ち着きを取り戻し、多くの人々が、安心して暮らすが、その一方で、未だ多くの人々が、口を覆い続けており、真の解決には、程遠い状況であることが判る。その中で、騒動の原因を探る動きも、数多くなされているのだろう。ただ、その手の報道は、耳目を集められず、紙面や画面を賑わすこともない。一方、研究の分野では、潤沢な資金が、供給されたのだろう。多くの研究が、進行中のようだ。その中で、ある新聞報道があった。重症化の原因を、突き止めたとの内容だが、読んでみても、さっぱり理解できない。理由は単純で、関与する遺伝子が、見つかったとの内容では、何故、重症化した人が、ある割合に限られたのか、理由にならないからだ。もし、遺伝子の変異が、原因となったのなら、理解し易い。しかし、その手の記述は、一切見つからず、遺伝子という言葉だけで、表現されている。これだと、全ての人々が、同じ遺伝子を有するのなら、全ての人が、重症化する危険性を、負っていることになる。だからこそ、新薬の開発が重要との記述も、納得できる。だが、何故、一部の人だけが重症化するのか、という理由にはなっていないのだ。どうしたものかと思うが、記者は、何の疑問も抱かなかったのか、はたまた、研究者達が、的外れな研究を、行ったというのか。何れにしても、不確かなものでは、役に立たない。評判を落とすだけ、か。

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10月25日(水)−解決法

 人気取りでしかなく、合理性が無いとの批判がある。だが、その主さえ、掲げた提案は、違った形とは言え、所詮、人気取りでしかない。その上、後者が魅力的に見えるのは、財源のことを、一切気にしないからだ。こんな論争に耳を貸しても、無意味なことはわかっている。
 先日も、経済番組で、減税そのものには、合理的な理由がないとの指摘があった。何しろ、税収を減らせば、その分、将来への借金が膨らむことは、火を見るよりも明らかなのだ。と言って、国民から借りたお金について、借金と見做すべきか否かは、はっきりとは言えぬようで、そちらに目を向けるのは、憚られるようだ。にしても、普通に考えれば、ばら撒けば、その見返りは、となるのは当然であり、如何に魅力的に見えても、財源はどうするのか、将来はどうなるのか、などを気にするのが、当然ではないか。何故、皆が挙って、施しを欲しがるのか、解せない。日々の生活に困窮し、少しでも足しになるものが、欲しいのだとの主張も、大前提であるべき、日々の生活に困窮、という部分に関して、何の検証もないままに、鵜呑みにするのは、如何なものかと思う。だが、そこも触れてはならぬ、腫れ物の一つらしい。この所、愚民政治が、一つの当たり前となり、誰もが、人気取りに走っている。生活が安定すれば、気持ちも落ち着く筈だが、その中で、人間同士の啀み合いは、程度を増すばかりで、誰もが、被害者然として、救いの手を求めている。一方で、所得の格差は、増すばかりで、被害妄想の症状も、重くなるばかりだ。何故、格差が広がり、羨望の気持ちが高まり、それが、妬みや恨みへと転化し、憎しみ合いが高まるのか。人の性、と言ってしまえば、その通りなのだろうが、それにしても、である。その中で、施しを求める声が、高まるばかりとなり、国の財政は、厳しさを増している。解決法は、簡単には見つからないが、それにしても、お互い様、とでも思わないと、と思う。

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10月24日(火)−火に油

 紛争解決に向けて、何をすべきか。難しい問題と思う。だが、世界で多くの人々が、訴えているような、即時停戦という答えは、簡単には導き出せそうにない。安易に、拙速な結論を急ぐと、却って、遠回りになりそうだ。その意味で、各国の姿勢は、揃っているようにも見える。
 だが、それこそが、感情に流され、不安や心配を訴える人々には、不満の元となり、更なる混乱が、引き起こされる可能性もある。この流れは、他国での戦争に、駆り出されることへの抵抗から、学生運動が起きた時代とは、大きく異なっているように見える。運動の大きさは、当時の方が、遥かに巨大となったが、そこへの道程は、長いものだった。それにより、人々の考えは、徐々に固まっていき、何が妥当か、何が正当か、といった点にも、目が向けられた。今は、大きく異なり、渦の広がりは、急速なものとなり、社会媒体に乗せられ、一気に勢いが広がっている。誰もが、感情的になり、心理的なものばかりに、注目が集まる。落ち着いて考え、冷静に分析することこそが、今、大切なのだと思うが、渦中の人々は、そんな大事なことにさえ、気付く気配がない。それを煽っているのは、報道の輩であり、したり顔で伝える内容も、不確かなものが多く、失われた信頼は、取り戻せそうにない。紛争地の状況も、多面的な取り上げ方は、鳴りを潜めて、専ら、感情に訴える内容が、扱われる。それは、数字にも表れており、紛争前に起きた、近隣の地震の死者数を、盛んに伝えた時も、数字の大きさを、強調していたが、紛争が起きた途端に、その数字が、小さなものと見えてきた。にも拘らず、同じ調子で伝える姿勢には、事を大きくしようとする思惑だけが、目立っている。一方で、紛争地の死者数についても、直後には、どちらの地域も、急激に増加したが、数日後、片方の数字に、変化が起きなくなった。なのに、全数の増加を、強調するのは何故か。数字は冷たいものだが、温めようとでも。

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10月23日(月)−介入か傍観か

 連日書いていることに、異論を唱える人も多いだろう。確かに、世界情勢として、難民の保護を第一に、紛争解決として軍事侵攻を目論む国を、総攻撃しており、独り言の意見は、まるで、そちらに与するが如く、映っていると思う。だが、全体として何を考えるべきだろうか。
 時代の趨勢は、何度も書いてきたように、弱者保護を第一とする。この問題でも、一番の弱者は、あの地区に押し込められた難民であり、紛争の激化は、彼らの中の被害者を、増やすだけと思える。このことに関して、異論を唱えるつもりは無い。どうやって、この問題を解決すべきかは、重要な問題なのだが、かと言って、一方の暴力に訴える勢力を、野放しにすることに、賛同する人は居ないだろう。だとしたら、この時点の解決策は、何だろうか。前に書いたように、人質という武器を放棄すれば、ある程度の沈静化は図れる。但し、それでも、奇襲攻撃を仕掛けたことで、行われた虐殺の事実が、消え失せる筈も無い。弱者保護の考え方の難しさは、強者と目される人々に、生じた被害に関して、どう考えるか、という点にある。世界の趨勢として、その点に目を向けず、一方的な意見を発する人が、数多く見られるのは、何故だろう。理由の一つは、感情の問題だ。事実を、冷静に捉えることなく、可哀想とか、救いたいとか、そういう感情を、最優先にさせることで、実は、問題解決を難しくする。この点に関して、批判は憚られるようで、何処からもそんな意見が出てこない。一方で、強者に与すると断じられた人々は、ある意味、冷静な判断を下しているが、それは、強い者の論理と断じられる。もう一つの軍事侵攻では、攻め込まれた側が、一方的な弱者と目され、そのような流れが出来上がった。その中で、攻撃側に与する国々は、どちらかと言えば、劣勢に回っている。何方の場合も、複雑な問題が存在し、当事者以外には、簡単には解決できないと思う。だとしたら、他人はどうすべきか。

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