パンチの独り言

(2023年10月30日〜11月5日)
(傲岸不遜、人として、知る必要、参考まで、何ができる、卑怯者、本当に必要か)



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11月5日(日)−本当に必要か

 感染騒動を経て、多くの人々が実感したのは、情報の正確さだろう。特に、報道を介して伝わったものに、ある人々の目論見が加えられ、情報自体が、改竄されていたことに、不信感が広がった。その際に、社会媒体に、信頼の声が寄せられたが、それもどうだったか。
 同時進行だったが、軍事侵攻に関して、報道が、ある偏りを見せて、世論誘導を繰り返すのに対し、社会媒体では、正反対の意見が盛んに聞かれた。だが、それとて、同じ穴の狢の如く、別の意図からの情報操作が、行われていたに過ぎない。こうなると、何を信用したらいいのか、何に頼ればいいのか、といった問題が浮かび上がってくる。隣の大国のように、若い人々が、政府に全幅の信頼を寄せ、民主主義とは、大衆によるものではなく、その方針を示す政府によって、作り上げられるもの、とさえ思うのも、止むを得ないのかも知れない。だが、徐々に、体制が崩れ始め、一部の人間が、強大な権力を握ると、どうだろうか。民衆の為と称して、私利私欲に走ったのは、嘗ての社会主義国に見られた、捻じ曲がった体制の典型だが、そうならないとも限らない。一方、大衆の意見が、反映されるとされる、自由主義の国とて、これほどまでに、情報操作が著しくなり、人工知能を介さずとも、改竄が頻繁に起きると、懸念が広がるのも、無理もないことと思える。力の差が、歴然としている、二つの勢力の間で起きた紛争は、大多数が、力の弱い方の味方に、なっているように見えるが、それとて、どれだけの操作が、加えられたものか、知る術は無い。援助物資が届かぬ中、制限を外せと、世界中から訴えが起きるが、一方で、その中で略奪が起きたことを、報道は伝えるものの、仕方がないかのように、扱っている。そんな無秩序状態に、追い込まれた人々に、救いの手を、と盛んに訴えるが、どうにも、理解し難い状況に見える。本当に、何が必要なのか、考えなくていいのだろうか。

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11月4日(土)−卑怯者

 報道の姿勢は、常に、権力に抗うものとされてきた。だが、歴史を振り返ってみると、それが、大きな誤解であることに気付ける。嘗て、この国が、世界大戦に加わり、絶望の果てへと突き進む中、報道は、権力に寄り添い、軍部の方針を、何の検証も加えずに、垂れ流し続けた。
 敗戦直後から、反省の声は上がったが、占領下で、再び同じ轍を踏み、半世紀を超えて、やっとの事で、総括と猛省を掲げ始めた。しかし、それとて、表面的なものに終わり、世界的な感染騒動では、恐怖を煽ることを繰り返し、政府や世界機関の方針に、盲従していた。所詮、その程度の輩と思えば、腹も立てずに済むが、何度繰り返しても、懲りないばかりか、喉元過ぎれば何とやらの如く、頻りに反省を口にする。性加害の問題は、全く別の次元だが、これとて、当事者の一つとして、何をすべきかを考える兆しは見えない。それに加えて、軍事侵攻や地域紛争が、起き始めると、彼らの弁の迷走ぶりは、更に際立ってくる。世論を味方に、という手法は、得意とする所だが、肝心な所で、敵前逃亡を繰り返したのは、毎度お馴染みのものだ。人道を口にすることで、絶対的な主張ができる、と思い込むのは勝手だが、多様性の時代に、たった一つのものを、絶対とする姿勢には、反吐が出る。一方で、風見鶏と呼ばれたり、どっちづかずの態度に終始する姿勢が、盛んに批判される、この国の政府は、少なくとも、紛争のきっかけとなった、奇襲攻撃に関して、断固とした態度を表明した。それも、双方との会談で、大臣が明言したことで、確固としたものと、見做せただろう。今では、風見鶏は、報道の態度にこそ、当てはまるように思える。それも、何方が有利か、という打算的なもので、筋が通らない。軍事侵攻が、一方的な攻撃に対する、反撃であったのに対し、紛争からの地上侵攻を、一方的な攻撃と見做すのは、危険極まりない。冷静に見れば、見守る姿勢も、一つと思えてくる。

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11月3日(金)−何ができる

 昨日までの進歩の話とは違うが、人工知能の話題は、ある年齢より上の人々には、古い記憶を呼び覚ますものとして、届いたのではないか。製造現場の自動化により、一層の省力化が図られ、職を失う人が増える、という話題は、多分、半世紀程前のものだった。その再来か、と。
 だが、半世紀前は、全く異なることが起き、しかし、職を失う人が増えた。利益追求の結果、国内生産を諦め、海外に向かったのは、海の向こうの大国も、同じだった。生活の向上に伴い、労働賃金の上昇が起き、物価上昇が著しくなる。当時、それによって起きた出来事は、こちらでは、輸出製品の高騰から、売れ行きが鈍り、生産性の向上か、あるいは、労働賃金の抑制が、喫緊の課題となった。前者は、当時はまだ、十分な機械化が進まず、結局、海外の途上国に、生産拠点を移し、労賃の抑制によって、製品価格の上昇を抑える手立てが、講じられた。となれば、国内の労働者を、減らすしかない。輸出よりも、輸入に頼っていた海の向こうは、何れにしても、日用品の生産を、海外に移転させ、輸送費を加えても、安価に保つことができる、選択をしていた。結局、自動化に関しては、それより四半世紀程遅れて、始まっただろうか。今度は、製造現場だけでなく、あらゆる仕事に対して、人工知能の進出が、期待されている。確かに、日常業務の多くは、日々の繰り返しであり、単純作業の一種と目される。それらは当然のこと、更に、開発や新規業務に関してさえ、置き換えが可能と言われ、事務労働の多くも、機械化が進むとされる。確かに、それまでなら、人間が行なっていた、過去の実績や他の事例を参考に、新たな組み合わせをする作業も、蓄積されたデータから、必要な事柄を選び出し、組み合わせることを、得意とする機械は、多くの業績を、挙げると期待できる。そんな事例が、次々に紹介されるが、さて、決断は誰がどのようにするのか。人間の役割は、元々そこにあるのだが。

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11月2日(木)−参考まで

 科学の進歩、と言っても、絶対的なものは無い。常に、ある確率で、という話になるのだ。遺伝子検査も、御多分に洩れず、その程度の決め手にしかならない。だが、信じたい人達には、全く別の効果をもつ。その兆しさえあれば、そうなると信じ、避ける為に、講ずる訳だ。
 その結果の一つが、有名女優の例だろう。だが、彼女の持つ、家族性の変異でも、そのがんを発症するかは、ある確率でしか決められない。科学だから、絶対は無い、というだけでなく、重要なことは、調べた範囲で、発症しなかった人が居る、という点だ。そこに、重きを置いて、話を展開すると、ある意味の望みが、出てくるのだが、反面、それを嫌う人々も居る。現時点では、どちらに属するかは、人それぞれとなる。舞踏病も、全く同じことで、反復の数を、調査した結果から、ある範囲を超えると、発症の確率が増す、とは言えるものの、どれだけ多くても、発症しない人が居る、とも言える。これらのことは、科学が無力だからではなく、指標とした事象が、一つだけでは、発症に至らないという意味になる。他の要因が、見つかれば、それらを全て満たした人間では、かなり確率が上がるだろう。それでも、例外は残る。こちらは、逆の要因が、あるからかもしれない。つまり、ある要因があれば、発症の確率が抑えられる、という訳だ。がんにおいては、そういう効果をもつ遺伝子の存在も、知られているようだ。何れにしても、遺伝子の形質が、何かを決めることは、あり得るのだろうが、単純なものではなく、複雑に入り組んだ関係の中で、それを考える必要がある。だとしたら、知ることは、どんな意味があるのか。人によっては、生活習慣病や心臓疾患などの可能性を、知ることによって、食生活やまさに生活習慣を、真剣に考えて、より良いものとする、という場合もあるだろう。そんな場合には、意味があるのかも知れない。今の時点では、その程度と思う方が、気楽だろうか。

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11月1日(水)−知る必要

 今年は、集団健診を受けただろうか。多くは、春先に実施されるが、ある年齢からは、集団ではなく個人として、人間ドックを受ける人もいる。では、集団健診の目的は、何だろうか。学校で、児童、生徒、学生が受ける場合、健康状態と共に、成長を測る意味もある。
 では、職場の場合はどうか。従業員の健康を、保つのが目的、という点は、何となく了解しているだろうが、元々は、伝染病の関係が強かった。結核は、今では稀な病気とされるが、戦後暫くの間は、多くの患者が居た。それが、集団の中で発生すれば、何が起きるのか、誰でも簡単に理解できる。最近では、稀な病気となり、胸部X線写真の意味も、理解され難い。ただ、一人発生すれば、何が起きるのかは、今も昔も変わりは無い。その上で、健康状態を保つことが、重要と見做される。では、がん検診はどうか。がんは、伝染性でないが、発症し、重症化すれば、大切な労働力が、失われる。そこで、初期の軽いうちに見つけて、というのが、検診の目的だろう。だが、患者の扱いが、酷かった時代は、見つかれば失職、とまで言われていた。今は、少し違っているが、それでも、様々な負担が患者にかかる。科学の進歩は、そこに一石を投じた。遺伝性ではないものの、多くの病気にかかる確率は、遺伝形質によるとされる。そこで、遺伝子検査をし、検診以前に、その兆候を、という訳だ。海の向こうで、有名女優が検査で変異が見つかると、乳房切除をした話は、有名だ。それと同じこと、とは言うものの、病気によっては、深刻な状況に陥る。まるで、舞踏するように、手足の制御が効かなくなる病気は、その遺伝子に、短い反復配列が生じることが原因、と言われるが、発症までには、数十年かかり、ある確率で起きる。親が発症し、子が検査を受けた時、兆候が見つかると、決断を迫られる。確実な治療法も無い。長期間の時限爆弾を抱え、何をすべきか、悩むしかない。知らなければ、と言っても遅すぎる。

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10月31日(火)−人として

 医師や教師は、昔なら、尊敬の対象となっていたが、最近はどうか。毎日のように、犯罪の話が伝えられるが、その首謀者が、医師だったり、教師だったりする。そうなると、尊敬の対象どころか、普通の人間より下、と見られそうだ。ほんの一握りに、過ぎないだろうが。
 専門職は、庶民と違い、高度な能力を持つ、と一般には信じられている。だが、人間性に関しては、以前は、問題視されず、変わった人、と見られることもあった。しかし、今の時代、それでは、仕事は務まらない、とされるようだ。社会性をも有した人間でなければ、尊敬に値せず、人の命を預かったり、将来有望な人間を育てたり、そんな重要な役割を、果たせないものとされる。そんな所から、高等教育機関でも、専門性のみならず、倫理観、道徳観は、当然のこと、人間としての温かみさえ、重要な要素として、教え育むことを、目指す所が増えてきた。逆に言えば、そうでない人間が、巷に溢れており、場合によっては、大問題を引き起こしかねない、と思われるからだ。傲慢で身勝手な考えでも、専門性が高ければ、致し方ない、と見る向きも、嘗てはあったのだろうが、今では、全く通用しないものとされる。他の職業でも、倫理観を重視し、職業倫理などという内容を、教えるべきとの風潮が高まってから、既に四半世紀が過ぎようとしている。昨日の人物は、その意味では、職務に熱心である余り、軽率な発言をしたのだろう。だが、それだけだろうか。よく考えてほしいものだ。一方で、同じ会場からの質問で、患者の死に対して、どう接するべきか、あるいは、その痛手から、どう回復すべきかを、問うていた学生が居たが、これも最近の風潮だろう。職業上、避けることのできない事象に、どう対処するかを、悩む人々が、最近頓に目立つ。これもまた、倫理や道徳同様に、人間としてあるべき姿が、ありそうに思うのだが、世間では、そうでないのだろう。何故、と思うのだが。

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10月30日(月)−傲岸不遜

 多様性の時代、などと言うまでもなく、世の中には様々な意見があることは、承知しておかねばならない。分断や断絶など、そこから生まれる問題を、解決することは、今に限らず、過去からずっと、不可欠なことだった。だが、今の状況は、余りにも酷く、醜い争いと見える。
 ただ、この問題は、国家間の争いに限らず、日常にも横たわっている。例えば、臓器移植の問題は、宗教や人の考え方の違いから、深刻なものとなっている。特に、当事者にとり、それしか救う道が無い、との見解が、専門家から出されれば、逃げようのない問題となる。肝臓や腎臓は、親族などの提供により、生体からの移植となるが、それ以外の臓器は、複数も再生も、当てはまらないから、脳死者からの移植しか、道が無いとされている。先日、生体肝移植の専門家の話を、聴く機会があった。それ自体は、ごく穏当なもので、現場の努力を伝え、後進に呼びかけていた。が、会場からの質問は、不穏当としか言えないものだった。生体間の移植だけでは、全ての患者の命を救えず、現場での悩みが募る、との話の後、脳死の家族からの、移植を決断した人を、先進的な判断と評したのだ。傲慢な考えが、度々指摘されるにも関わらず、依然として、現場の人間が、軽率な発言を繰り返す。医療教育の重要性を、論じた会の中での、こんな発言は、病院関係者が多い中では、当然のものと思われたのかもしれないが、講演者が述べたように、宗教や考え方の違いから、一部の国では、殆ど認められぬ状況で、一種、差別的な発言が、行われたことに、今更ながら、呆れる思いがした。かといって、糾弾するつもりは無い。個人の選択の自由を、色々な意味で、奪うことになるからだ。臓器移植しか、という言葉で、全てを押し切る態度を、医療従事者が取ることには、異論を唱えるが、その場で論じるべき事柄かは、別の話だろう。死という、避け難いことに、どう向き合うかは、自身で考えるべきことだ。

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