昨日取り上げた本に関して、一点しか、驚きを指摘しなかったが、他にもある。著者と編集者の志の高さは、指摘したように、評価すべきものだったろうが、反面、著者の資質と、編集が抱える問題は、深刻な水準になっていた。出版業界が、厳しいのは、その辺りが原因だ。
教育現場に身を置くからか、新書には珍しく、この本には注が設けられていた。初学者も含め、興味を抱いた人間が、直接その出典に当たれる、という意味で、非常に重要な配慮だ。しかし、その中身は、ここでも、志の高さに反して、酷いものだった。本文で引用された文を読み、ふと首を傾げたのだが、引用文の著者は、前の世紀への変わり目の頃、活躍した著名な数学者である。件の本の著者も、数学者が活躍した国に留学した経験を持つから、興味を持ったのだろうが、原典に当たると、肝心な文章が出てこない。首を傾げた理由は、その翻訳がなされた時代にある。当時、現代文なのだが、少し古い時代の言い回しが、使われていた翻訳本は、由緒正しい文庫の一冊だったが、読みにくさを感じた。それに対して、引用文は、今時の文章となっており、違和感を抱いたのだ。案の定、と思いつつ、その注の内容を、更に精査すると、発刊年まで間違っていた。出版社は、真面目な所で、各新刊本に対して、コメントできるようにしている。そこで、昨日の感想に加え、明らかな間違いを書き記し、送っておいた。一方通行な仕組みだから、反応が無くても当然だが、少なくとも、修正が必要だろう。新書とは言え、恥晒しと思う。その原因は、当然、著者の不徹底にあるが、もう一つ、業界の抱える問題として、編集体制もある。校正について、多くの書籍が出ているように、業界では、重要な役割とされるが、近年、その水準の低下が著しい。校正は、単に文章の間違いを修正するだけでなく、出典などの情報を点検する役目を負う。志の高さを謳う為に、不可欠なことなのに、だ。
月末に紹介するが、世の中には、劣悪な書籍がある。それも、あとがきから察するに、社会の趨勢に落胆した著者と、その意見に強く賛同した編集者によって、作り上げられたもので、ある意味、世相を反映したものだが、彼らの主張とは正反対に、向かった問題として、だ。
通常、書名を取り上げて、意見を書くことは無い。だが、酷いと思う点が、多々あったので、敢えて書き記すこととする。「客観性の落とし穴」は、著者が教育現場で感じた、異常な傾向に危うさを感じ、その問題点を指摘したもの、とされる。だが、本自体の問題の方が、こちらには、重大と感じられ、更に、何度か取り上げたように、客観性を無視して、少数意見を優先させることこそが、重要だとする世相が、反映したものと思えた。一つ目の驚きは、彼が、社会に蔓延する客観性重視の傾向が、如何に重大な問題を生じたか、という主張とした事柄だ。話題を集め、今でも、件の研究者の正当性と、実験結果の正しさを、信じる人が居るという、それ自体、客観性の欠片も無い、事件の話だが、そこで、問題の本質は、「図像が客観性を保証するという社会的な合意を逆手に取るものだったといえるだろう。」と主張した。だが、核心は、そんな紛い物の信心に、ある筈もなく、単に、犯罪的な捏造の連鎖が、問題を生じたことにしかない。その上で、客観性を全否定したかと思えば、後の方では、煮え切らぬ論調となり、自らの主張は正しいとする一方で、客観性も必要と論じる始末。如何に、未消化の意見か、呆れるしかない。だが、少数派の意見を、重視する考えは、今や、社会媒体をはじめとして、多くの場で、当然の如く語られる。感染症の後遺症や、ワクチンの副反応は、その最たるものだろう。その直接の原因は、公衆衛生や疫学において、十分な調査と解析を行い、経過報告や結論を導くことを、怠った専門家達の怠慢にある。的外れな意見は、無益なばかりか、害悪でさえある。
穿った見方、と一蹴されてしまうだろうが、この所の紛争地域の情報に、極端な偏りがある、と見るのは間違いだろうか。元々、報道は、一つの見方だけを、紹介するものであり、仮令、事実に基づいたとしても、その解釈が様々で、何方に与するかで、変わってくる。
人道を、前面に押し出して、議論を重ねることに、異論を唱えることは、とても難しい。仮令、当事者でも、その点に関して、極端な反論を出せば、世界中を敵に回すからだ。だが、人道と言っても、それが、誰に有利に働くかは、検討する意味がある。今回の紛争も、まさに、そこにこそ、問題の核心があり、人道だけで、全てを解決することは、ほぼ不可能に違いない。という状況下で、何故、報道は、ある勢力を、敵対視するかの如く、振る舞うのだろうか。何度も書いてきたが、そこにこそ、理解し難い状況が、生まれる原因があるように思う。テロを、あれ程までに嫌ったのに、今回の報道では、そちら側の情報については、何の検証もなく、ただ垂れ流しているだけだ。あり得ない、の一言で、病院内に本部があることを、全否定するのも、全く理解の外にある。決め付けで、物事が解決するのなら、それでも構わないだろうが、今の状況は、とてもそんな事態とは思えぬ程、深刻さを増している。一番の被害者が、難民達であることは、確かなのだろうが、かといって、人質になった人々が、どうでもいい訳ではない。更に言えば、激しい攻撃を行う側も、人質の命を軽視している訳ではなく、様々な状況を鑑みて、今の戦略を取っているのだろう。それら全てを、理解することが難しいのは、当然のことだが、その中で、一方的な情報や解釈を、繰り返す姿勢には、呆れるしかない。何故、自分達で書いた筋書きを、押し通そうとするのか、不思議に思うのは、こちらが、穿った見方をしているからか。論理で考えるに、その辺りまで、目を配る必要があると思うが、どうだろう。
情報の活用法は、人それぞれだろう。日々の生活においても、参考になることは多く、例えば、最近は日曜大工も、様々な映像を見ながら、となっているらしい。それも、勘所を押さえてあり、素人でも中々の出来とのこと、本に頼っていた年代には、隔世の感と共に、成る程と。
だが、手にした端末で、何でもかんでも情報が手に入ると、それはそれで、邪魔なことも多々ある。例えば、食事の場所に関して、最近は、地図上での表示だけでなく、評判も含めて、様々な情報が、簡単に手に入る。それも、最新のもので、便利に使う人も多いと聞く。だが、誰もが、手軽に情報発信を行える、ということは、情報の質の違いが、明確に現れている、ということになる。社会媒体では、この点に関して、様々に議論が進み、投稿者だけでなく、関わりを持った人間全てに、責任があるとなりつつある。しかし、評判を書く欄は、何も、社会媒体だけでなく、その店の宣伝を担う場にも、設けられている。最近、問題となりつつあるのは、そんな所への、悪意に満ちた投稿らしい。根も葉もない噂は、そんな便利な道具が、登場する前からあり、悪意に満ちたものも、数え切れぬ程あった。この状況は、便利になったとて、何も変わらず、驚くべき嘘に、満ち溢れたものが、堂々と掲載されている。その状況は、まさに、社会媒体で問題視されたものと、そっくりそのままであり、人間の心の浅はかさが、現れたものと言える。だが、被害を受けた人間には、それを笑って済ますことなど、出来る筈も無い。これは、情報社会が抱える、重大な問題となりつつあるようだ。では、どうしたら良いのか。確かに、法律で制限し、厳しい罰則を設け、管理者の責任を重くすれば、少なくなるだろう。だが、その手間たるや、膨大なものであり、便利になったから、仕方ないこと、などと言って済むものでもない。聞き飽きただろうが、受け手の判断に委ねるのが、一番なのではないか。罰則は罰則として。
ここでは、何事も論理的に考える、という主旨の話を、続けてきた。だが、この所の独り言では、違和感を抱いたのではないか。何故、困っている人々に、手を差し伸べないのか。何故、死に瀕する人々を、救おうという動きを、頑なに拒絶するのか。そんな印象に。
確かに、被害者と目される人々を、救う手立てを考えることも、論理の一つに違いない。だが、それを最優先とした時、他の論理を崩して構わぬか、考える必要は無いのか。そこに、目を向けるべき、というのが姿勢の一つだろう。それに対して、何故と思うのは、多分、日々伝えられる情報が、難民という被害者や、爆撃などで怪我をした人々に、重点を置いたものだからだ。そこに、異論を唱えるつもりはない。でも、彼らを救うことが、奇襲攻撃を仕掛けた勢力に、どのような利益をもたらすかを、考える必要は無いのか。人道を、最優先に掲げる人には、こんな瑣末なことは、無意味となる。だが、その地域の安定を本当に願い、それを目指して活動するのなら、別の見方をすることは、無意味ではないのだろう。論理とは、道徳や倫理とは、かなり違ったものになることが、多々ある。時に、ある面で、冷酷としか映らない、そんな意見が、論理から出てくることもある。ただ、それは、一時のことであり、長い目で見れば、解決の端緒となった、という場合が殆どだろう。だが、そうは言っても、当事者にとり、何が利益で、何が損害か、目の前のことが優先されるのは、止むを得ないことだ。逆に言うと、今、情報を操作する人々は、実際には、その場に居合わせた訳でも、当事者である訳でもない。単に、自分達が、人道的に正しいと信ずることを、実現させる為に、情報の操作を行い、筋書き通りの展開へと、導こうとしている。そこには、論理ではなく、道理のようなものがある。ただ、これは、厄介なものであり、だからと言って、振り回されるのも、どうかと思う。
嘘を吐くのならまだしも、騙すとなると、犯罪となる場合も多い。だが、世間に溢れる情報の多くには、犯罪とは言えなくとも、事実と異なるものだったり、世論を操る為に、言い回しを変えたものだったり、そんなものがある。平和で安定した時代には、気をつけるべきだ。
何度も触れているが、報道には、そんな側面があると見た方がいい。最近、度が過ぎると思えるのは、事実を報じる中で、見解を入れ込む手法だ。二つの例を引いてみたい。同じ姿勢で書き上げられたもので、殆ど違いは無いが、反復することで、その信用性を高めようとしている。一つ目は、紛争地域の病院の窮状を、訴える内容だ。病院側の発言には、「訴える」とか、「明らかにした」とか、ただ単に、そういう話をした、という論調だが、反撃に出た国の発言には、「主張した」とか、「アピールする」とか、意図や思惑が、前面に出るような、論調を重ねる。もう一つには、「正当化する」という表現があり、全体として、軍を侵攻させた側に、責任があると思わせている。影が薄くなったが、軍事侵攻の場合も、同じ図式が展開され、攻め込んだ国の暴挙を、伝える姿勢が見えた。だが、何方の場合も、実際には、二つの勢力ではなく、もっと多くが関わっている。紛争地域に暮らす人々が、窮地に追い込まれているが、そこで活動する組織が、奇襲攻撃を仕掛け、人質をとって地域に潜伏したことが、今回の発端となった。報道は、この勢力を、見えない形で伝え、反撃に出た側を、悪と見做しているようだ。一方、軍事侵攻では、侵攻した国を悪と見做し、情報操作も、そこに焦点を当ててきた。力を行使した者が、悪者となるのは、当然のことだが、善と悪の二極ではなく、多極化した場合に、どう情報を伝えるかは、非常に重要なものとなる。今回の二つの紛争について、固定化した見方で扱うことに、違和感を抱くべきと思うが、どうだろうか。答えを急ぐ必要が、本当にあるのか。
絶対に確実な方法は、無いのかも知れないが、少なくとも、嘘を見抜く方法は、身に付けたいものだ。これもまた、簡単ではない。ただ、子供の嘘を見破るには、という話を、思い出してはどうか。純粋無垢な子供が、大人を騙すなんて、と思う人が居たら、諦めた方がいい。
人間は、大人も子供も関係なく、嘘を吐いている。大人と子供の違いは、その罪の重さも当然だが、嘘の周到さに、違いがあるのではないか。子供を相手にしていると、時に、びっくりする嘘を話し始める。ただ、彼らの頭の中では、自分にとって、都合のいい話を作っているだけで、所謂、騙そうとする気持ちは、それ程強くはない。但し、大人が、何度も簡単に、騙され続けると、これ幸いと繰り返すようになり、狼少年の話のようになる。何れにしても、都合のいい話には、論理の破綻が、数え切れぬ程鏤められる。二、三度遣り取りをすれば、破綻は、自ずと露呈し、辻褄が合わなくなる。こんな話は、子供相手の時だけ、と思う人が多いが、実際には、大人達も、同じように底の浅い話を、軽々しく作っている。詐欺師は、もう少し手が込んでいるだろうが、それでも、論理の破綻が、全く無いということは、少ないようだ。この手の話は、実は、ここ数年の騒動でも、報道が度々作ってきた。少し考えてみれば、矛盾に気付けることも多く、また、巷に溢れる情報を、繋ぎ合わせてみれば、辻褄の合わないことが、殆どとなる。事実でさえ、うまい話には、別の見方があり、ただ一つのものとはならず、検証が必要となる。感染症でも、幾度となく流れていたが、軍事侵攻では、正反対の見方が登場し、何れかは、自作自演と訴えていた。それも、報道が自ら作り上げ、恰も事実であるかの如く、紹介する場合が多い。では、奇襲攻撃から起きた紛争は、どうだろうか。今も、病院の危機が、伝えられているが、それとて、誰の攻撃か、見方は様々だ。誰の嘘か、見破るには、何が必要だろうか。