パンチの独り言

(2023年11月20日〜11月26日)
(存在意義、一点集中、非科学的、何が本当か、蛮行、解決法、受け手)



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11月26日(日)−受け手

 差別に苦しむ人達に、光が当てられている。弱者と目されるのも、彼らの中の一集団だが、それにしても、何故、差別が起きるのだろうか。こう書くと、すぐに、それは差別意識を持つ人々が、社会の中で権力を有し、弱者を虐げているから、との答えが、返ってくるだろう。
 確かに、それも一つには違いない。そして、問題視され、厳罰が下されるのは、大多数が、それに当てはまる。でも、そんな事例は、ほんの一握りに過ぎない。無意識に、差別を繰り返す人も居て、彼らを罰することは、ほぼ不可能だから、というのが理由ではない。差別という意識において、反対側に居る人々の感覚は、どうだろうか。差別しない人、という意味ではなく、差別を受けたと感じる人のことだ。男女差別は、その典型だろうが、不当な扱いを受けた、と感じると、そこに差別の意識が芽生える。それも、被差別の意識である。確かに、それに合致する場合もあるが、他の人々から見れば、取るに足らない事柄で、何処に差別があったのか、と首を傾げる場合も多い。受け取り方、という一言で片付けると、この問題を重視する人々からは、猛反対の声が上がる。そんな態度だから、差別が無くならないのだ、と。彼らの視点からは、その通りだろう。だが、別の視点で眺めることも、多様性を重視する社会では、重要なのではないか。唯一つの見方を、全ての人に押し付ける、そんな風潮が蔓延り始めてから、既に、四半世紀を越える時が、流れてきた。平等を目指す為に、不可欠とも思えるものだが、それが、他人への圧力となり、全く別の人々を、虐げていることに、活動家達は気付くことが無い。何しろ、目の前の問題を、解決することこそが、彼らの目的だから。根本の問題に、目を向けることも、排除にとっては、重要とはならない、らしい。言いたいことは、差別問題の多くが、加害者側だけでなく、被害者の側にもある、という点だ。受け取り方も、解決法も、一方的では困るのだ。

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11月25日(土)−解決法

 先日、魚介類の輸出に関して、理解できない、と書いた。多分、多くの人々は、でもそんな作業はきつくて、給料も低いから、人気が出ないのだ、と思っただろう。確かに、単純作業は、辛く、厳しいものだが、だとしたら、どんな職業が、楽で儲かると言うのか。
 同じ事情が、様々な職種に起きている。例えば、これも最近話題にしたが、白タクの問題は、運転手不足から来ており、長時間労働の上、不況に入ってからは、実入りも少ないとされる。同様の事情は、公共交通機関にも当てはまる。バスの運転手は、嘗ては花形であり、幼稚園児、特に男児の、なりたい職業の一位だった。だが、今や、バスに乗ることも少なくなり、乗客対応に追われる姿が、報道される度に、きつい職場の代表格として、紹介されるのだ。その上、職に就く為の条件として、タクシーもバスも、客相手の運転には、特別な免許が必要となる。折角、苦労しても、この程度の給料では、生活ができない、との訴えが起きているようだが、何故だろうか。根本的には、客の減少があるが、もし、不可欠な交通手段なのだとしたら、それに見合う運賃を設定すれば、いいのではないか。そこにも、長く続いた、物価高騰を、悪と見做す考え方が、強く影響している。対価という言葉は、最近になって、屡々使われるようになったが、設定法を決めぬままに、その話を持ち出しても、無意味だろう。問題を指摘する報道も、一部の事柄を、殊更に強調するばかりで、解決法は、一切示さぬままに、次の話題に移る姿勢では、存在意義は無いに等しい。魅力的な職業とは何か、また、社会的に意味のある職業とは、そんなことを話し合い、その上で、妥当な給与を設定しなければ、解決の糸口さえ、見出せないだろう。今の状況は、まさに、そんな所にある。ただ、騒ぐだけで、誰かが解決してくれたのは、遠い昔のこと。親方日の丸ではないが、上に頼るばかりで、何も起きないのは明らかだ。

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11月24日(金)−蛮行

 弱者保護の問題は、何度も書いているが、先日も、典型的な例に出会し、不快を感じた。確かに、保護が必要な弱者に対して、何らかの措置や気配りは必要だが、明らかに、誤った認識で、弱者を押し通そうとする人間には、別の対応が必要と思う。これ以上、荒廃させない為に。
 弱者とは、飽く迄も相対的なもので、誰と誰を比べるか、どう比べるかにより、強弱は変化する。その点で、本人の主張が、正しいとは限らず、また、一部の人間が、配慮溢れる発言をしても、それが正しいとは限らない。その上、時と場合により、使い分ける必要が出てくる。その辺り全てが、事実誤認や誤解に基づく、横暴な行動に繋がり、辟易とする周囲が、馬鹿げた心理的抑圧を、受けることともなる。先日の例は、屡々聞くことのある、子供連れの問題だった。乳母車、最近は、別の言葉で表現されるが、子供連れで使う人は、確かに多い。だが、満員電車や、混雑する百貨店のエレベーターで、当然という態度で、使われると困ることが多い。平日の、乗客の少ない電車では、通路にあっても、乗降客にとって、邪魔となることは少ない。だが、席が埋まっているだけでなく、立っている乗客が、通路を埋める状況で、乗降口に居座るのは、迷惑以外の何物でもない。乗降口に居座る人間が、時に、叱責されるのは、当然のことだが、乗り降りの際に、一度降りて譲るなど、立っているだけなら、何とか対応も可能だ。だが、乳母車は、そうはいかない。二親が揃い、一人だけの子を、乗せて動き回るのは、駅の構内も含め、思慮の足りない行為、と思えてくる。少し観察すると、乗せられた子供も、不快感を露わにし、暴れていることもある。子育てにおける、接触の重要性が、指摘される一方で、あからさまな放置は、別の意味でも不快に思える。社会媒体でも、激論が交わされるが、全てを悪とする訳にもいかない。ただ、弱者でない人間による蛮行には、厳しい目も必要なのだ。

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11月23日(木)−何が本当か

 今や、漁業には、科学が必須となっている。養殖技術の進歩は、当然のことながら、それ以外にも、様々な漁業に、科学技術が反映され、食卓に上る魚が、確保されているのだ。だが、科学の知識そのものが、間違っていた、という事実もあり、科学を盲信することは、危険かも知れない。
 秋の風物詩の一つである、例の魚の不漁に関しても、様々な意見がある。だが、これまでにも、御殿を建てたとまで言われた、魚に関しては、当時の活況は見る影も無い。また、先ほどの魚同様、庶民の食卓に欠かせない、と言われたものも、肥料に回される程の豊漁は、遠い昔のこととなった。これらの事象の原因に関して、資源が枯渇する程に、漁を繰り返したから、という理由を、挙げる人々も居るが、真偽の程は、明らかではない。一方、生まれた川に戻る、と言われて、子供の頃に習った魚も、当時とは、全く異なる事実が、明らかとなったらしい。回帰性を利用して、産卵の為に遡上する魚を、捕獲して、卵と精子を混ぜ合わせ、孵化した幼魚を、放流する水産事業は、半世紀前には、既に始まっていた。当時は、回帰性を理由として、事業が盛んに推奨されたが、最近の調査では、必ずしも生まれた川に戻る訳ではない、と言われている。科学的に正しいと、信じられており、その上で、事業を展開した筈だったが、徐々に、戻ってくる魚数が減ることに、危機感を抱いた上での調査で、どの程度の確かさかは、調べていないけれど、こんな話だったとは、と思った人も多いだろう。世界的には、この魚については、養殖を始める地域が、徐々に増えており、そちらが食卓に上っている。天然物では、生食が禁止されており、伝統的な寿司では、ネタとして使われなかったが、今では、回転寿司の定番で、人気の一つらしい。それはそれとして、科学の営みを考えると、こういう経過に関して、考えさせられることは、沢山ある。事実としても、それが必ずしも、真実となるかは、不明なのかも。

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11月22日(水)−非科学的

 現地の言葉では、「小大人」とでも言うのだろうか。大国らしからぬ、態度の数々に、悩まされる人も多い。最近の話題では、「科学的」と称して、お互いに正反対の主張を、ぶつけ合っている。何方が正しいのか、明らかだと思うのは、お互い様なのだろう。下らないことだ。
 科学の営みにおいて、唯一無二の結論がある、というのは間違いだ。これまでも、結果が定まるまで、正反対の主張が交わされた。また、結論が出ても、新事実が出れば、簡単にひっくり返り、別の結論が導かれる。だから、「科学的」と称して、自らの主張が正しいと、激昂するのは、如何なものかと思う。それより、驚かされたのは、大国が決めた海産物の輸入禁止の影響だ。確かに、漁業者として、買い手が居なくなれば、路頭に迷う。養殖された貝を、彼の国に輸出していたものが、今回の措置で、全くできなくなった。だから、国内で消費せねばならず、価格の下落もあり、物価高騰の中、厳しい状況に追い込まれた。という話は、筋が通っている、ように見える。だが、輸出した先で、何が行われてきたかが、明らかになった途端に、首を傾げざるを得ない。輸出した貝は、現地で加工、冷凍され、商品は別の国に輸出される。つまり、彼の国では、単純な加工賃を稼ぐのみで、何も特殊な作業は施していない。その工場を、何故、こちらで作れないのか、と不審に思ったのだ。働く人が居ないから、というのが、理由なのだろうが、雇用の確保を含め、多くの問題を抱える国で、何故、ぶん投げるだけのことを、繰り返してきたのか、不思議で仕方がない。一方、この騒動で、遙か東の海洋で、この季節になると盛んに行われてきた、ある魚の漁に関して、昨年までと状況が変わった、という。だが、その報道では、彼の国の関与に触れることがない。不漁となった時に、あれ程騒いだのに、静か過ぎないか。事実があっても、科学的となるかは、定かではない、ということか。

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11月21日(火)−一点集中

 社会媒体の問題は、指摘し切れぬ程に、多種多様となっている。何かしらの方策を講じないと、更に程度は酷くなる一方で、多くの実害が出る中、その数も深刻度も増している。その元凶が何処にあるのか、論じる人は多いが、根絶やしにする為に、仕組み自体を無くせばいいのか。
 確かに、根元から絶つという意味では、それが一番なのかも知れない。だが、人の口に戸を立てられぬ、と言われるように、人の間で広がるものを、断ち切ることは、容易ではない。この事象は、まさに、それまでだったら、噂が広がることと同じだったが、手にした端末から、社会媒体を通して伝わる仕組みでは、井戸端会議とは、比べ物にならない位、急速で広範囲に渡り、更に、深刻度を増すのは、日をおいても、何度も繰り返し、話題になるからだ。先日取り上げた本では、客観性の問題を、取り上げることで、少数意見に目を向けさせることが、目的だったのだろうが、一方で、今問題となっているのは、社会媒体での、数少ない事例を繰り返し提示することで、その事実を、過大評価する間違いだ。多数の傾向で論じるべき事柄さえ、一つひとつの事例に目を奪われ、施策を講じられない状況が、続いている。そこに、端末から、日々せっせと送り出す、特異な例に、世論が振り回されるのは、決して正しい道とは言えない。にも拘らず、現状では、社会媒体の大多数が、そちらに目を向け、恰も、重大な事柄のように扱う。画像や映像を、客観的なものと思い込むのは、見る人間の勝手だが、仮令、事実だとしても、それが特異なことであれば、客観的に見て、些細なこととすべきだろう。こういう風潮が、強まった原因の一つは、少数派である弱者を、如何に保護すべきかが、強く論じられた上で、最優先課題と扱われてきたことで、心配や不安を強調し、不幸や困窮を重視する風潮が、作り上げられてきた。そこには、客観は一片も無く、注目だけが行われている。

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11月20日(月)−存在意義

 今回の紛争で、ある報道機関を、執拗に批判することに、疑問を感じる人が居るだろう。特に、他国の報道機関も、国際機関も、挙って、奇襲攻撃と人質略奪に対して、軍事侵攻を断行する国を、人道上という名の下に、厳しく批判する中、同様の姿勢を示すのを、何が問題かと。
 人道を、前面に押し出すやり方は、これまでにも、何度も行われ、ここ数年の話題だった、軍事侵攻に関しても、同様の報道が続いている。立場の一つとして、考える限り、そこには、何の問題も無い、と見えるだろう。だが、報道の基本は、一つの見方に拘らず、多様な見方や立場を、紹介することなのだ。その意味で、横並びの姿勢には、本来の責務に対する怠慢が、はっきりと見える。例えば、あの放送協会は、各国に特派員を送り、現地の情報を収集してきた。冷戦期には、鉄のカーテンと呼ばれ、厳しい情報統制が敷かれた国でも、特派員は、独自の情報網を築き、国の発表とは異なる、情報の収集を行っていた。特に有名な、当時の支局長は、現地からの報告で、世界で共有される情報ではなく、全く別の情報源からのものを、独自に伝えており、評価が高かった。退職後、ある大学に招かれ、教鞭をとっているが、それからも、維持し続ける情報源を頼りに、発信している。それに対して、今回の紛争地に居る支局長は、月並みな情報しか出せず、知る価値の無いものばかりを、送り続けている。現地に赴かずとも、手に入る情報は、特派員の存在意義を、貶めるものでしかない。それらを、連日送りつけ、役目を果たしている、と思っているのなら、大間違いだろう。独自の情報網で、現地政府の考えを、可能な限り収集し、そこから導き出した、国としての方針を紹介してこそ、そこに居る意味が出てくる。なのに、この為体は、どうしたものか。時代が変わったのか、はたまた、人間の資質によるものか。何れにしても、価値の無い情報を垂れ流すのは、止めて欲しい。

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