科学への無理解は、一層、深刻さを増している。悪化の勢いを増しているのは、本人達の理解力の減退が、最も大きな原因と言われるが、それに加えて、近年、重大となっているのは、社会媒体の問題だろう。以前から、新聞や雑誌、テレビが、悪質な情報を垂れ流していたが。
それらとは、比べ物にならない位、社会媒体の影響力は、大きいと思われる。何しろ、受信者の多くは、自らの選択で、正しい情報を、世界中から集めている、と信じて疑わないのだ。だが、実際には、難しいものや、自分の考えに合致しないものは、次々に排除され、ある意味、都合のいいものだけが、選択されている。その中には、話題となっているものや、衝撃的なものという、科学とは無関係の、全く別の尺度から、判断されるものが多く、それにつられて、更に多くの間違った情報を、かき集めることになる。論理を重視すれば、それらの情報の、一貫性の無さに気付けるし、論理の破綻をきっかけに、一度は引き寄せられても、明らかな間違いに気付き、無間地獄から、抜け出すことも可能だが、それだけの論理力も判断力も、備わっておらず、自ら招いた苦しみに、苛まれることとなる。この状況は、悪化の一途を辿っているが、抜け出す手立ては、あるのだろうか。いい大人に対して、その過ちを指摘し、引き戻すことが、最優先とも思えるが、その一方で、彼らの犠牲となる、子供達の扱いこそ、将来を考える上で、優先すべき課題と思える。既に、殆どの子供らが、端末を手に、日々、膨大な情報に接しており、そこに、取捨選択が入る可能性は、少なくなり続けている。嘗ての子供らの行動に、こんな「便利な」道具は存在せず、大人から発せられる、断定的な言いつけだけが、情報となっていた。今もそうだが、当時も、新聞を読む子供はおらず、身近な大人からの情報のみが、頼りとなっていた。だが、今は、何処の誰とも知れぬ存在から、種々雑多なものが与えられる。どうしたものか。
理科教育に携わる人間が、分かり易さを追い求めた挙句、物事を断定的に伝える。その罪は重いと感じるが、では、どうしたらいいのか。温暖化や脱炭素の問題は、人々の注目を浴びる話題だから、理科教育としても、重要なものだと考えるのは、当然としても、注意を要する。
特に、昨日取り上げたように、通説と異なるものに、どう接したらいいのか。惑わされる人間は、助けを求めたくなる。だが、問題の核心は、そこには存在しない。通説と思われたものが、実は、確定的なものではなく、断定するには、検討不十分だからだ。教育現場では、教科書に従い、多くの知識を身に付けさせる。そこでは、断定的な物言いが、重要となり、全ての可能性を挙げて、それらを検討させることは、適さないと考えられる。だが、耳目を集める話題に、どう対処したらいいのか、担当する人間は、理解しきれていない。そこにこそ、重大な問題がある。まず、断定できることを、大前提として伝える。これらの殆どは、教科書に掲載されており、十分に検討された事柄で、問題は生じない。例えば、太陽の光が、地球に届くことで、その熱量を受けていることや、石油や石炭などの燃料は、炭素を含んでおり、それを酸素と反応させることで、必要な熱量を得ていることに、疑問を挟む余地は無い。だが、仮令、平均気温の上昇が、日々集められる記録から、確かめられたとしても、それが将来に渡って、継続するかの保証は無い。また、上昇の原因の一つに、二酸化酸素濃度の上昇が、考えられるとしても、確実な証拠がある訳でもない。一方、脱炭素として持て囃されている、再生可能と呼ばれるものも、環境への影響や、素材製造に係るものを、含めた時に、全体としてどう見るべきかを考えずに、検討することが、妥当だとは言われていない。これら一つひとつを、様々な可能性を検討し、考えることは、教育現場にとり重要だが、それには手間暇がかかる。その上で、何をすべきか。
科学の重要性を、何度も説いてきたが、その一方で、重大な弱みの存在も、折に触れ、説明してきた。記憶に新しい所で言えば、感染症絡みの話は、多くが、断定的に語られるのに、事例には数多の例外があり、不思議に思う人や、関係者の中には、強い憤りや怒りを表す人も。
学校で習った、科学に関することは、その殆どが、決定的なことであり、ただ一つの事実がある。だから、という訳でもないが、殆どの人が、断定を当然と受け取り、安心材料にしようとする。だが、科学の営みにとり、確率は不可欠なものであり、大多数が当てはまっても、時に例外が生じる。そこに、注意が必要なので、誠実な科学者は、概ね、断定するのではなく、可能性を語ることとなる。だが、報道を含め、筋書きをもって、状況を語ろうとする人々は、断定を絶対とし、不確実な話を排除する。その結果、くどい説明は省かれ、一部を切り取ったものが、社会に届けられる。発言者は、時に賞賛され、時に罵倒されるが、流した人間は、何の責任も感じない。こんな茶番が、度々繰り返され、人々は、情報への疑いを抱き、確率で語られる話さえ、否定するようになる。騒ぎが収まった頃には、多くの人が、一つひとつの事象を取り上げ、時に、些末なことを、重大事象と見做し始める。これはこれで、重大な過ちだが、それを招いたのは、何処の何奴だろう。逆に、断定によって蔓延した、可能性の一つでしかないものが、真実と見做されることも多い。先日も、子供の理科教育に携わる人間が、温暖化の原因や脱炭素の問題を、通説とは異なる形で、取り上げた記事に、惑わされたと訴えていたが、そこには、同じ問題が横たわる。所詮、確率でしか語れぬ話を、子供らに、事実の如く伝えてきて、大丈夫かと不安になったようだ。科学を語る人間も、現場では、あやふやな事柄を、分かり易さを主眼に、断定的に伝える。これでは、科学が誤解されるのも、当然となる訳だ。
詐欺事件が起きる度に、騙されてはいけない、相手の言葉を鵜呑みにするな、よく考えよう、などと盛んに喧伝するが、自分事となると、話が違うのだろうか。感染症騒動でも、出鱈目な情報を垂れ流し、浅はかな解釈を披露し、視聴者を、誤った方に誘導していた、マスゴミが。
この所、紛争に関して、不確かな情報を流し、独自の調査を怠る、愚かさに関して、ある放送局を、糾弾してきた。だが、国内の放送局の多くは、別の情報源からの話を、伝えるだけで、その裏にあるものに、目を向けることが無い。現代社会に巣食う弱者保護の観点も、そこでは、呆れる程に蔓延しており、一方からの主張だけを、恰も真実の如く、垂れ流し続ける。先日も、奇襲攻撃への反攻として、軍事侵攻に出たことで、病院が標的となったことが、議論の的とされた。理由は簡単で、隠れ蓑として、病院を利用したから、というものだが、そんな強者の主張には、一瞥もくれない。その一方で、被害に遭う病院からの情報は、誤爆の時も含め、様々な偽情報が、さも真実のように流される。例えば、病院への燃料提供も、あれこれ文句を付けて、無意味と断じる報道があった。そこで、病院が必要とする燃料量が、示されていたが、目を疑うものに見えた。調べてみると、国内の病院の災害時の備蓄として、示されたもの(百頁辺り、最後から24頁)があったが、おそらく、あちらの病院関係者の話にあるものの、1割にも満たない。規模の違いがあるから、一概には言えないが、こういう話題となると、一方の話は疑い、もう一方は鵜呑みにする、という図式が繰り返される。これでは、情報源としての責務は、果たせていない。裏を取れ、と散々言われ続けてきたが、当局の発表を、鵜呑みにして、誤った情報を流すのも、弱者からの訴えを、信じることこそ重要と、まんまと騙されるのも、何も変わっていない。こんなことの繰り返しで、庶民が振り回されるのは、やめにして欲しいものだ。
ふた昔前の話となり、関係者は、感慨一入かも知れぬ。だが、当時の顛末は、記憶違いでなければ、監督官庁の筋書き通りの展開であり、被害を受けたのは、増資募集に応じた、投資家達だった筈だ。確かに、破綻から一時国有化を経て、今の姿となり、健全経営が保たれているが。
当時、郵政事業の改革も含め、乱暴な政治が、罷り通っていた。宰相にすれば、その位の荒療治でなければ、泡が弾けた後の始末が、達成できる見込みは、立たなかったとなるが、国の肩代わりの前に、庶民に直接的な被害を、押し付けたことは、許される筈も無い。銀行にせよ、郵政にせよ、役人共の勝手な都合が、押し通されただけのことだ。その上、何方の場合も、結果的には、負の連鎖を止められず、ただ一部への歪みを、大きくしただけで、経済学者の机上の空論の、最たるものとなった。宰相の要請の下、鉈を振るった当人は、経済界で、一部の利益を得た集まりと、懇意となった上で、教育界、経済界で、確固たる地位を得た訳で、その点も含め、忘れてはならない暴挙、と見るべきだろう。何れにしても、徐々に回復した経済は、あの頃と比べて、遥かに良い状態となっている。その中で、件の銀行も、他行と変わらぬ経営状態となり、地元の振興に、如何に寄与するかが、課題の一つとなりつつある。だが、痛みを伴う、という掛け声で、身銭を切らされるのは、誰もが、御免蒙りたいものだ。確かに、その後の一時国有化で、税金の投入が行われ、国民全体の負担という形を、取ったものの、その過程で増資に応じた人々には、二重の負担となっていた。身勝手なやり方と、当時、かなりの批判が集まったが、健全化に向けての荒療治、との一言で、片付けられていた。今は昔、そんなことを、思い出す人も少なく、日々の生活に追われる毎日。だが、暴挙を許す体質は、改める必要がある。結果良ければ、という考え方も、利を貪る人々を、のさばらせることになる、場合もあるからだ。
物価上昇が、ある水準を超え、無視することが難しくなり、雇用者も重い腰を上げ始めた。政府が、あれこれ手を尽くして、促しても動かなかったものが、やっと動き始め、この国では、経済学者の机上の空論と見られた歯車が、回り始めたようだ。と言っても、微々たるものだが。
では、どんな水準に達したら、妥当と見られるのか。こちらについて、真っ当な議論は、一切行われていない。例えば、先日の報道で、年金支給の「モデル世帯」の見直しが、開始されたとあるが、世帯構成を考えれば、それ以前に、妥当な世帯収入は、如何程になるのか、という議論があって然るべきだ。特に、共働きばかりが、当然と見做されるが、嘗て、DINKsと呼ばれた、子供のいない共働きは、豊かな生活を送る人々の典型、と見做されてきた。でも、税制の問題もあり、短時間労働に甘んじて、ぎりぎりの生活を支える、配偶者を抱える家庭は、共働きとは見做されない。しかし、その支えが無くては、家計が成り立たないのは、一人の収入が、不十分になったことを、表している。そこに、長く続いた不況の波で、物価を抑える為に、人件費を抑えて、という企業戦略が、見事に重なったことが、現状へと結びついている。だとしたら、そこにこそ、目標値を定めるべきであり、離婚後の家計を、一人の収入でも、支えられるように、目指すべきだろう。社会の状況を、反映させることが、重要との見方が、はじめに取り上げた、見直しの背景にあるが、それは、給与体系そのものへも、広げる必要がある。半世紀前であれば、当然の考え方だったものが、男女平等という名の下に、別の圧力が掛かったように、見る向きもあるが、そこには、人件費抑制という、別の戦略が、大きな影響を及ぼした。一見、機会均等とか、能力を活かすとか、そんな魅力ばかりが、強調されてきたが、実は、別の謀略にはめられたのだ。元に返す必要は無いが、どうあるべきかを、考えねばならない時が来た。
大学での不祥事が絶えない。特に、以前なら、教員や経営側の問題が、取り沙汰されることが多かったが、今は、学生の不祥事、それも、犯罪行為が目立っている。これは、成人年齢の引き下げと、無関係ではないが、処分の仕方については、意見が分かれているようだ。
本来、大学が処分するのは、内部での行為に対するもので、違法行為などの社会的な問題は、刑に処するなどで、十分とも考えられる。だが、昔から、若気の至りとして、大目に見てきたことが、この所、問題視されている。部活動に対する処分も、その一つだろうが、どう見るべきかは、大学自身が考えればいい。それに伴い、ある大学の学長への処分に、興味が集まっているようだ。私立大学は、学校法人とされ、法律で定められた運営を、行わなければならない。私立大学法については、監督官庁から、説明が出されており、制定されたのは、昭和24年とある。この年は、戦後になって、新制大学が設置され、国公立私立全てが、新たな法制度の下に、始まった年だった。内容は兎も角、法人格となれば、一般企業と同等の存在で、運営にあたる組織が存在する。それが、理事会であり、企業で言えば役員会だろうか。だとしたら、意思決定は、この組織で行う必要があり、かの騒動は、それに反するものと言える。教育機関だからこそ、それにあたる組織が、権力を持つ場合もあるが、別の大学では、創立者である理事長が、絶対的権力を持ち、教授会には、検討する機会はあっても、議決権は無いとしていた。法律上は、こちらの方が正しい、ということになる。顛末は、決まりつつあるが、さて、改革はどうなるのか。一方、国立大学も、法人化から20年以上を経過し、見直しが図られている。改悪反対の声が、上がっているようだが、これまでの悪評からすれば、法人化したこと自体が、間違いと見るべきだろう。些末な改正に、反対すること自体、組織と構成員が、慣らされたとすべきかも。