パンチの独り言

(2023年12月4日〜12月10日)
(皆友達?、四季、教育水準、肝心なこと、溝に捨てる、誰の責任か、検証作業)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月10日(日)−検証作業

 科学的根拠の無い話、あるいは、論理の飛躍により導かれた、根も葉も無い話に対して、ただ、非科学的と批判するだけでは、昨今の状況を打開できない。一つには、間違った結論の多くは、人々の関心を誘い、何度も囀られるだけでなく、果ては、報道まで取り上げるからだ。
 その過ちを正す為には、かなりの労力を要する。ただ、第一歩として、やるべきことは決まっている。その話題に関して、科学研究で発表された事柄を、地道に探っていくことだ。その手法は、非科学的な論陣を張る人々と、何ら変わりは無い。ただ、彼らの多くは、研究に基づいたとしても、検証不可能な結果や、誤った解釈による結論を、好んで取り上げるのに対し、こちらは、ただ単純に、再検討が可能で、多くの賛同を得ている、妥当な結論を引くことにある。例えば、昨日のカビ毒に関しても、簡単な検索で、様々な情報を手に入れられる。ただ、中には、非論理的なものもあり、総じて、論文という形で発表されたもの以外には、公的機関と雖も、鵜呑みにしてはならない。毒性に関しては、医療衛生を担当する官庁や、農作物を監督する官庁から、情報が発信されており、更に、耐熱性に関して、検索を進めると、その一つの中にある委員会の記事に、行き着くことができる。そこから更に、耐熱性などの結果を含む、論文に辿り着けば、汚染された小麦を原料とした、パンの製造過程での、分解の有無に関する結果が、論文の表4に示されているのを、見つけられる。こんな手順で、誰もが、原典に当たることができ、情報の真偽を、確認することが可能だ。ただ、昨日の評論家が、引き合いに出した、300℃という数値は、この論文には無く、別の情報源であると推測できる。結果として、毒性を示す分量や、耐熱性の有無、水溶性であることなど、様々な情報が得られるが、だから、どうしたというのか、となる。何れにしろ、科学的か否かを調べるのは、些か退屈な作業なのだ。

* * * * * * * *

12月9日(土)−誰の責任か

 科学的に物事を論じる人間にとり、非科学的な話は、邪魔でしかない。以前なら、無視するだけで、大した問題ともならず、根も葉もない噂も、暫く放置すれば、何処かに消え去った。だが、情報社会では、そんな塵屑が、各自の端末に届き、多くの無知な人間を混乱させる。
 嘗ても、眼に余るものに対し、憤りと不満を感じたか、寺田寅彦やその弟子の中谷宇吉郎が、一般大衆を対象とした、読み物を書き、科学随筆などと呼ばれていた。誤った解釈を、世に広める元凶は、実は、報道機関であり、分かり易い話として、間違いを盛んに広めていた。新聞はその典型であり、中には、記者が曲解した記事もあったが、時に、専門家の話として、大間違いを流布することもあり、同業として、捨て置けなかったのだろう。この点は、今も同じであり、似非専門家も含め、何か事が起きる度に、奇怪な解釈が、世の中に流される。一方、更に厄介なのは、手にした端末から、間違いを流す人々で、無垢な人間の行いも含め、愉快犯と呼ばれる、悪質な輩が撒き散らす、非科学的な話は、害でしかない。騒動がある度に、科学者の中には、捨て置けぬとばかり、いちいち誤りを指摘し、潰していくが、無数の誤りが、増殖するのに、対処し切れない。無駄で有害な拡散を、防ぐ手立ては、唯一つ、鵜呑みにせず、自分の所で止めることだ。一方、専門家の中にも、非科学を平気で述べる人間が居る。先日も、小麦のカビ毒に関して、耐熱性の話をする中、300℃でも死滅しない、と宣うていた。毒は物質であり、生き死にとは無関係で、分解とか、毒性が無くならないとか、そう表現すべきだ。と言って、話した人間の肩書には、評論家とあったから、科学の知識が不十分とも思える。だったら、話を聞く人間が、その間違いを指摘すれば済む。報道の責任放棄が、目立ち始めてから、こんなことが繰り返される。話を聞くのは、受け手の立場であり、大衆同様、気を付ける必要があるのだが。

* * * * * * * *

12月8日(金)−溝に捨てる

 減税の話が出てきた時に、論外と指摘したが、その後の展開は、論理の欠片も見えぬ、愚かなものだった。将来への借金を、減らそうとせず、今ばら撒ける駄賃を、人気取りに回そうとしたら、今じゃなけりゃ無意味、と返されたようだ。朝三暮四じゃあるまいに、猿以下とか。
 とにかく、駄賃や施しを、無闇矢鱈に欲する国民に、その原資は何か、と問うてみたい。今回も、高等教育の経費を、国が賄うべき、との意見が出ているが、これも、その極端と言えそうだ。初等中等教育は、国民の教育水準を、向上させる為と、義務教育となっているが、それとて、原資は何処に、と問われて気付く人が、どれ位居るのやら。まして、義務期間を過ぎ、上級学校に進学する人間が、大多数を占めたら、その経費を、本人家族ではなく、国や自治体に負担させるのは、どういう魂胆なのだろう。水準を、上げられるだけ上げて、と望む人が、多いのかも知れないが、向き不向きを無視して、押し付けるのは、如何なものか。まして、それが、最高学府となると、何をか言わんや、としかならない。もし、大の大人が、自分の不明を恥じて、学び直そうとしたら、誰が、その援助を買って出るのか。一方で、教育現場の荒廃は、言われて久しいものがある。好きでもないものに、しがみつかされ、机に縛り付けられて、誰が、楽しく過ごせるのか。そんな状況が、日々、現場から伝えられ、荒廃ぶりに、批判の矢を向け、散々に、こき下ろす一方で、無償化の話を、さも大事と伝えている。町の講演会でも、無料の会だと、舟を漕ぐ人が、溢れるという世情に、無料にしたら、どんな素晴らしい未来が、やってくると思うのか。純粋無垢な人間なら、まだ理解できるかもだが、こんな話に精を出す人間に、私利私欲が無い筈もなく、次には、何の努力も無しに、証書を寄越せと迫るだけだ。年金などの、誰もが受け取る施しに、必要な観点を、こんなものに適用とは、世も末としか思えぬ。

* * * * * * * *

12月7日(木)−肝心なこと

 到達度とは、何を調査する為か。国際機関の常として、各国の政策に、口出ししたいのだろうが、それをして、何とするのか、理解に苦しむ。多くの人々は、嘗て、学校に通っていた頃、どんな理解度だったか。覚束なかった、と思う人が大部分だろう。でも、今の姿は、と考えると。
 通過点の一つに過ぎない、ある年代の学力を、測られたとしても、本人の人生が、決まる訳では決してない。というより、そこから更に成長し、社会に出てから活躍した、という経験の持ち主の方が、遥かに多いだろう。逆に言えば、嘗て、天才と持て囃されたのに、今やただの人、となった人間も、数え切れぬ程にいる。だったら、何故、そんなものを、手間と時間をかけて、調べるのだろう。人間としての力が、身に付いているかを、調べているとしたら、そんなものに優劣をつけても、所詮、人それぞれの能力でしかなく、殆ど意味を成さない。一方で、高等教育の場では、まさに、ここで測られた能力に、大きな欠陥を有する学生が、問題を起こしている、と言われている。それとて、四苦八苦した挙句に、社会に出てしまえば、別の能力を発揮し、活躍するとなると、学習能力とは何ぞや、とさえ思えてくる。人間の能力は様々で、それぞれに、発揮できる場面も異なり、適材適所であれば、何事も収まると言われる。そう考えれば、能力の高さを測るより、最低限のものを、満たしているかを、確かめる方が、遥かに重要なのではないか。その意味で、順位付けが、意味を成すとは思えぬ。だとしたら、この騒動は、何事ぞ、とさえ思えてくる。一方で、役人の指摘のように、学校に通うことが、必要条件となるのなら、やはり、人と人との関わりは、一部の人間が宣うより、遥かに重要だとなる。作業をこなすことで、知識を豊かにするだけが、教育の意義と考える人には、とても信じられないだろうが、関わりを持って、周囲の人間との営みを続けるのが、不可欠なのかも知れぬ。

* * * * * * * *

12月6日(水)−教育水準

 また、一喜一憂を繰り返すのか。外からの情報に弱い、と散々叩かれるが、懲りない人々は、こういうものが発表される度に、喜んだり悲しんだり、どんな意味があるのか、などと考えてしまう。学習到達度調査は、世界機関が実施するもので、3年毎に行われる。
 今回の結果で、この国の子供達は、良い成績を挙げた、とされた。喜ばしい、とばかりに、報道は挙って取り上げたが、さて、どんなことなのか。三つの指標での調査は、国内の教育行政が、正しく行われているか、ということを検証する、と言われている。「ゆとり教育」と呼ばれた悪政で、その時代の子供らの成績が、急降下したとされ、その後も、挽回しようと働きかけ、結果として、回復した時もあったが、低迷を続けてきた。それが、順位を上げたことで、喜んだ訳だが、監督官庁の解釈は、少し異なっていた。感染症騒動で、世界が混乱する中、この国では、学校閉鎖などの措置が、他国と比べて短縮化し、それが好成績に結びついた、というものだ。一方、低迷を続ける、欧州の先進国では、騒動の最中、厳しい制限を、学校を含めた各所に課し、国民からの反発も大きかった。で、解釈は、貧富などの格差が、社会に蔓延しており、その結果として、低迷が続いたというものだ。過ちを、決して認めようとしない、断固たる姿勢を示したが、愚かとしか言えない。特に、初等中等教育を対象とする調査では、教育の機会均等が、先進国では謳われており、その点から、格差を持ち出すのは、的外れでしかない。一方、こちらの解釈も、他国との違いがあったとして、では、自国の過去の成績と、どう変わったかを、論じるべきだろう。順位は、所詮、相対的なものであり、理解度を、本当に測っているのなら、前回と比べて、影響の有無を見るべきだ。全ての情報が報道された訳ではないが、例の如く、報道の扱い方には、呆れるしかない。的当ての練習でも、したらどうだろうか。

* * * * * * * *

12月5日(火)−四季

 この国には、四季の移り変わりがある。今更、こんなことを、書く必要があるとは思わぬが、世間には、否定的な意見が、蔓延していないか。異常気象とか、気候変動とか、その手の言葉を操り、破滅への道を、突き進んでいる、とでも言いたいのか、理解不能でしかない。
 確かに、以前と比べたら、夏の暑さは、異常と思える程、かも知れない。その原因を、星全体のこととして、捉える人々にとり、温暖化という言葉は、便利な道具のようだ。その上、それが、二酸化炭素という、大部分の生物が、排出するものによる、とする見方が、盛んに持て囃され、その削減に、先進国が挙って血道を上げる。使い方が違う、と言い出す人が、居るかも知れぬが、確定していないものに、全力を尽くすなど、道楽と変わらぬものだ。それはさておき、果たして、この流れは、何処に行き着くのか。多くの企業は、これを好機と見て、商売の種を、せっせと探し、各所に蒔いている。その立場からすれば、行き着く先など、どうでもいいことだ。今、この時に、利益を上げられるか、将来の商売の芽を、育てたいと願うだけだからだ。その中、自然は、そんな人間共の営みに関係なく、季節が変わり、猛暑も何処へやら、徐々に気温が下がってきた。だが、こういう状況では、実は、極端なものだけでなく、中間的なものにこそ、大きな変化が起きる。変動が大きければ、皆が望むような、温暖な気候は、長くは続かず、この時ばかりと、秋が無くなった、とまで言いだす始末。その一方で、自然は、少しのずれがあろうとも、曼珠沙華は、秋の彼岸頃に咲き、木々の葉の色も、変化している。移り変わりは、確かにあるが、期待通りでないと、あれこれ騒ぎ立てる。余程、こちらの方が、扱い難い。と言って、ただ無視すればいいのだが、日々流される情報では、あれこれ騒ぐばかりだ。放っておいても、秋は過ぎ、冬がやって来る。がなり立てる内に、春も、確実に訪れるのだ。

* * * * * * * *

12月4日(月)−皆友達?

 社会媒体の問題は、その内容の質にあるが、それ以外にも、様々な問題が指摘されている。海の向こうの前大統領の発言は、当時、囀りで盛んに流れ、その無軌道ぶりから、当初、なりすましが疑われたが、本人の資質が、その通りのものとされ、犯罪性は、別の方に流れた。
 その後、管理の困難さから、登録を抹消するなどの措置がとられ、色々と物議を醸したものだ。更に、経営者の交代から、囀りで親しまれた存在も、何を表すのか、即座に理解できない「X」と改称した。元々、匿名性の高さから、著名人のなりすましが横行し、管理責任が、取り沙汰されたが、そこにも手を入れる、とのことらしい。一方、信頼度としては、遥かに高いとされた、別のSNSは、当初、なりすましの難しさが、信頼を得ていたものの、当時から、乗っ取り問題が、度々取り上げられた。管理者の問題と言うより、登録者の管理の怠慢が、原因とされるものの、発覚後の対応などに、問題ありとされた。それでも、登録者が生存していれば、手続きをすれば、再生可能となっていた。また、死後の管理の問題が、発覚してくると、その辺りの整備も、進んだようだ。とは言え、犯罪の温床となっていることは、否めない。怪しい投資話を持ちかけ、詐欺を働く人間が暗躍するのも、結局は、便利な道具である故であり、騙される側の判断力が、必要となる。一方、最近は、別の怪しい動きが、盛んとなっており、管理企業の能力が、問われている。「友達申請」は、この手の媒体の特長で、それにより、強い絆が築けるとも言われる。が、何処の誰か、知れぬ場合に、どう対処するかは、個人の判断に委ねられる。増えているのは、申請元が、何の情報も存在せず、ただ単に、要求してくる場合で、乗っ取りの結果にしても、情報無しは解せないし、新たに登録したのなら、本人確認不十分も疑われる。騒動が収まり、再度、人との関わりが重視され始め、さて、この時期にこれは、何の意味か、と。

(since 2002/4/3)