パンチの独り言

(2023年12月11日〜12月17日)
(自覚せよ、伯楽、短くして、繁栄への道、お節介、不確かさ、様子見)



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12月17日(日)−様子見

 悪役の復権があるか否かについて、今の所、確かなことは一つも無い。だが、その一方で、皆が持て囃す話題の科学技術についても、推奨された側面以外に、多くの要素が絡んでおり、鵜呑みにするのは危険に思う。では、どうしたら良いのか、何を選べば良いのか。
 不確かなのだから、現時点で決めることは出来ない。でも、よく考えなくても、今までのことを振り返れば、一つの技術に頼り過ぎた失敗は、数え切れぬ程にあっただろうし、その一方で、悪者呼ばわりされたものが、実は、有益なものだった、となったこともあるだろう。要するに、正義一辺倒で、何事も推し進められぬもので、代替案も含め、様々な可能性を検討し、それらを並行して進める必要がある。と言っても、庶民にとっては、どうでもいいことだろう。安価だからと飛び付いても、皆が選ぶからと飛び付いても、結果は、然程違わない。ただ、今の社会は、世界的に見ても、異常な程の偏りがある。それも、仮想的な考えに基づき、提案されたものを、正当なものとして、推し進める人々がおり、彼らが掲げた掛け声に、皆が同調する流れが、非常に強くなっている。環境問題は、その最たるものだが、公害に悩まされた時代と違い、明確な害は示されず、ただ、将来の危険として、次々に並べられ、それぞれの害悪を、示しているように見せる。科学的、と称しながら、現実には、何の根拠も証拠も無いままに、一方で、経済的な利益を、重視する考えが、蔓延っているように見える。正当性も、現実には、人々の健康を慮ったものより、暮らしを豊かにする為の、利潤追求としか思えぬものが、次々に登場する。冷静に見渡せば、一長一短あるものだし、所詮、団栗の背比べで、大差無いものばかりだ。それでも、当事者達は、大真面目で、自らの意見の正当性を、訴え続けている。要するに、末端にある人間としては、静観を続け、結論が出るのを、待つのが最善かも知れない。

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12月16日(土)−不確かさ

 科学技術の発展に関する、人々の期待には、首を傾げたくなるものが多い。特に、一般庶民からのものより、技術者や専門家と呼ばれる人々からのものの方が、遥かに、非常識に思え、常軌を逸するとさえ、思えてくる場合が殆どだ。こんなことでは、科学への信頼は、揺らぐばかりだ。
 やっと実現の可能性が出てきた、量子計算機は、長きに渡り、期待だけで現実が伴わず、厳しい叱責の嵐に、見舞われ続けてきた。原理を、幾ら主張しても、現実にある電子計算機は、日に日に進歩し続け、目標の数値を達成し続けるのに対し、何時迄も、夢物語を語る人々に、罵声が浴びせられたのは、当然のことだ。溜飲が下がる思いに、達したと安心しても、大規模な装置と適用性の狭さに、専門家の間の批判は、静まる気配を見せない。過大評価とか、過剰な期待とか、そんな言葉が、似合う分野の一つだろう。では、人工知能は如何か。こちらも、期待が膨らみ続け、事例の羅列が、止まる所を知らないが、推奨側の主張は、割り引く必要がある。それ以外にも、最近の話題として、自動運転と電気自動車が、盛んに取り上げられるが、これとて、問題山積であり、実用化実験が、何処迄進むか、整備と共に、電力供給は、解決できるのか、不確定なものばかりだ。個人的には、両者共に、実現したとしても、限定的に留まり、現状の大勢を変えるには、至らないと見ている。脱炭素に関しても、つい先日、国際会議が閉幕し、それなりの成果を上げたと、議長国が主張したが、根本の考え方について、疑問が山ほどあり、未解決の問題だけでなく、それが急がれる事情についても、根拠の確かさには、多くの疑義が残されている。本来なら、科学の営みとして、仮説を立て、その検証にあたり、実験や調査が行われるのだが、そこで得られた結果には、不確定要素が数多あり、結論を導くには、程遠い状態にある。となれば、悪役にされたものも、復権を見る可能性もあるだろう。何事も、そんなものだ。

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12月15日(金)−お節介

 数年前かと思ったが、調べてみたら、一昔より更に前だった。電子端末に話しかけると、指示通りの動作をすることから、始まった機能は、その後、別の企業が携帯端末などに搭載し、指示だけでなく、会話の相手もこなせる、人工知能となっていった。ただ、これは便利なのか。
 使った経験の無い人間に、判断ができる筈も無い。だが、最近では、自殺直前まで、人工知能を相手に、悩みを打ち明けたり、解決法を尋ねたりしていた、などという報道もある。どんな遣り取りがあり、最終的に、決断したのは何故か、知る由も無いが、原因の一つと言われるらしい。その一方で、生成人工知能が、少し前に登場したと思ったら、凄まじい反響があり、その能力の高さを、評価する人々が沢山居る。ただ、懐疑的な人間には、実力の程は、不確かとしか映らない。創造性の有無を、問題視する人も居るが、それについても、反論は、山のように押し寄せる。一つ尋ねたら、こんなに多くの回答を出し、更に要求すると、もっと多種多様な答えを示す。そんな能力を、高いと見るかは、人それぞれだろう。多くの推奨者の弁からは、自分で答えを探さずとも、人工知能が、それらの殆どを提示し、そこから選ぶだけで、事が済む、という訳だ。この点に、一部の人々は、懐疑的になる。何故なら、優秀な人間は、数多ある答えの中から、正答を選び出す、決断力を備えており、現時点では、その代わりを、人工知能が務められるとは思えぬ、ということだ。もう一つ、自殺願望の人間を相手に、どんな答えが、思い留まらせる為に、役立つかという、心の機微は、人間にしか理解できぬもの、という意見もある。最近、問題となっている点も、如何にも、と思えるのは、社会媒体や、通信販売のサイトで、ある話題や買い物をした時、そこから、お薦めと称する、押しつけの宣伝が、盛んに舞い込む。この迷惑を、訴訟対象とする話もあり、今後、どんな展開となるのか。人間にも、居る訳だが。

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12月14日(木)−繁栄への道

 嘗て、この国を離れて、海の向こうに移り住んだ頃、思い付いたことがあった。自由な資本主義の国が、繁栄を築いてきたが、当時、中核だった自動車産業は、こちらの繁栄に押され、斜陽となっており、社会制度を含め、再考を促す風潮が、盛んとなりつつあった。
 何故、敗戦後に、これ程の繁栄を築けたのか、手を差し伸べた筈が、いつの間にか、追い抜かれた身として、知りたがっていた。そこで返したのは、この国は、唯一成功を収めた、社会主義の国だと。当時、まだ、崩壊寸前だったとは言え、死に体を、必死で支えていた国々と違い、こちらは、国の制度として、社会主義を採り入れた訳ではなかった。だが、国民それぞれが、努力を積み重ね、当時の繁栄に向かって、経済成長を続けており、共産主義、社会主義の体を成していた。こんな話を、思い出させたのは、ある知り合いから、同じ主旨の話を、聞かされたからだ。彼曰く、経済の回復には、国民へのばら撒きが必要で、嘗ての、成功した社会主義を、取り戻すと言う。即座に尋ねたのは、その原資は如何に、ということだ。その意見の主体は、マルクス主義経済学者だそうで、現行制度から言えば、国債発行が原資であり、借金をしてでも、国が国民の生活を支えるべき、というものだった。仕組みは違うが、それでは、崩壊した国々と変わらず、馬鹿げたやり方だ、と一蹴したが、成功は、国民それぞれが、税を納めることで、社会を支え、その中で、繁栄を続け、収入を倍増させていったことが、重要だったのに、何を惚けたことを、主張するのかと。その意味で、今必要なのは、増税、それも、所得税と法人税を、上げることしかない。その上で、そこから、貧しい層に対して、ばら撒けばいい。この意見は、一部の評論家も述べており、妥当なものと思える。それに対して、愚かな学者共は、崩壊へ向かう手立てを、さも重要と見る。施しを欲する、今の風潮と同じで、嘗ての姿は影も無い。

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12月13日(水)−短くして

 倍速再生という言葉を、聞いたことがあるだろうか。元々、録画したものを、短い時間内に視聴する為に、再生速度を変更する、という手段が、若者を中心に行われてきた。それが、コロナ騒ぎで、教育現場に大変革が起きた時に、学生の間から、退屈な時間を減らしたい、と始まった。
 変革は、二つの全く異なる形式で、始まったと言われる。一つは、人が集まることを、避ける目的で、講義や授業を、同時配信するもので、もう一つは、録画された教材を、好きな時間に視聴できる、という形式だった。同時配信では、録画再生が行われず、別の選択肢は無いが、録画配信では、退屈と考えると、再生を速められないか、との意見が多く出たという。だが、何方にしても、受講する人間の多くは、集中力に欠け、理解度は下がったと言われた。ところが、ある研修に関わる企業のサイトには、正反対の結果が引用されている。海の向こうの大学での調査結果だが、再生速度での、理解度の変化は、無かったとされた。調査方法により、違いが出てくるだろうが、こんな結果が、出たこと自体、疑問を覚える。だが、大真面目な意見なのだろう。それを支えにして、倍速再生による教育を、取り上げるべき、というのが、その企業の主張らしい。ただ、以前から、問題視されている、講義形式について、何の言及も無いから、信頼度は低いと思う。例えば、提示資料について、映像での提示の場合、内容量に対して、提示時間を短縮すると、理解度が落ちるし、進捗速度に関しても、複雑な話になると、全く理解できないという事態さえ、起きかねない。その中、倍速再生を、有用な手段と紹介するのは、どんな思惑からなのか。一つには、教育を受ける側の、集中力の維持に関して、重要な問題がある。時間も、程度も、下がっているようなのだ。だったら、全体の時間を、短くする方が、遥かに効果的ではないか。自らを、過大評価する人間を、相手にするのは、無駄だと思うのだが。

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12月12日(火)−伯楽

 人間の才能は、先天的なものか、後天的なものか、議論になることがある。結論としては、本人の努力も含め、生まれてからの環境による、とする意見が優勢のようだが、自分自身を見て、皆さんはどう思われるだろう。この結論の理由は、教育の意義を、評価する為なのだが。
 才能の議論では、多くの教育関係者が、加わっており、自らの役割を、評価させる為に、誘導しているとも言われる。でもまあ、そんなことは、どうでもいいのだ。教育者の多くが、支援や助言の重要性を、強調しているが、その立場は、見方を変えると、傲慢の一言で片付けられる。成功体験も、その一つだが、教えてあげる、という言い回しも、以前なら、教えてやるの一言で、済ませていたものが、慇懃無礼な表現により、傲慢さを薄めようとする意図がある。また、教育の力を、絶対的なものに見せようと、様々な事例を引き合いに出し、如何に、才能を伸ばしたか、主張しているようだ。だが、もしそうなら、才能は、教育以前に存在しており、後天的ではなく、先天的なものにならないか。などと、言い掛かりをつければ、当然、猛反対の声が上がり、囀りならば、炎上となるのだろう。でも、多くの人々は、薄々感じているのではないか。どう転んでも、かなわぬ相手がおり、明らかに、才能の違いだと気付いている。だが、それを認めたら、自分を成長させることができず、仮令、ちっぽけな成功と雖も、手に入れられない、と。成功体験も、お膳立てされたものでも、与えてやるべき、との意見もあるが、相手の能力を、過小評価した結果に過ぎず、傲慢としか言いようがない。にも拘らず、持て囃されるのは、何故だろうか。ある意味、優位に立ちたい人間が、そんな立場に居座り、傲岸不遜な態度を、とっているからではないか。そんなことより、目の前の人間の才能を見抜き、それを引き出す手立てを、講じることこそが、教育者に課された役目だろうに、困ったものと思う。

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12月11日(月)−自覚せよ

 自作自演だな、と思えたのは、衣料品のある製造販売企業のことだ。起業家として、大成功を収めたことで、知られる人物のことではなく、そこで、商品開発に携わる人物について、ある番組が取り上げ、別の大成功物語を作り上げた。だが、その解釈は、彼らの創作でしかない。
 企業が成功する為には、次々と新商品を開発せねばならない。とは、経済の原則の如く、語られる話だが、どうだろう。この国では、使い捨て文化が定着し、購買意欲を掻き立てる為に、魅力的な商品を、送り出す必要がある、と言われている。そんな風潮から、遥か離れた所に暮らす人間にとり、理解不能なことだが、大多数がそうなら、そうなのだろう。その中で、新商品開発とその展開で、件の企業を牽引する、と言われる人物を、番組が取り上げていた。成功戦略を、三択で出演者にやらせていたが、「今でしょ!」で一世を風靡した、予備校講師も含め、的外れを繰り返したのは、演出だったのか、はたまた、その程度の人間だったのか。一方で、件の人物が、人気を博した商品を、送り出せた理由を、番組では、成功体験をリセットする、と称していた。当初、意味が理解できなかったが、主旨は、何度成功しても、それに浸らず、次の成功を目指す、ということらしい。馬鹿げた論調だ、と思ったのは、以前から何度も書くように、成功体験自体が、下らない話だからだ。まして、成功体験をさせてあげると言い始めるようでは。一方、褒めて育てる、という話が、海の向こうから来た時も、所詮、劣悪な人間を、育てるだけにしかならず、本人の資質を伸ばすことには、決してならない、とも主張した。これと同様だが、成功体験を、お膳立てすることに、強い違和感を覚えるのは、相手を、下に見るだけで、育成の一歩にも、なっていないと思うからだ。所詮、マスゴミが作り上げた幻想を、ここで引き合いに出し、強調するのは、自作自演に過ぎず、無益なものでしかない。

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