パンチの独り言

(2023年12月18日〜12月24日)
(茶番劇、収集法、疑わしい、疑り深い、聞く耳、幅広く、品質保証)



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12月24日(日)−品質保証

 何が求められるか。答えられる人が、どれ位居るだろう。と言って、これから書く答えが、必ずしも、正しいものとは限らない。だったら、などと思わず、少し読み進めて欲しい。幅広い知識より、専門性を優先する、という考えから、教養過程を、廃した訳だが、さて、それでは。
 当時の大学では、そんな考えは、存在しなかったと思う。高度な人材を育成するには、高い専門性が、という話は理解し易い。で、そうしたのだが、結果は、惨憺たるものだった。追い求めた専門性だけでなく、教養さえも失い、さて、どうしたものか、という状況に陥った。その頃から、盛んに言われ始めたのが、質の保証だ。大学卒業という資格には、それに見合うだけの質を、保証する必要がある、と。それ以前には、そんな言葉が、大学からも、学生からも、発せられることは無く、また、社会からも、そんな保証があるなどとは、一切、要求されていなかった。ところが、状況の悪化が、露呈し始めた途端に、それまで、触れもしなかった事柄に、言及し始めたのだ。それにより、大学も、学生も、何方もが、その達成に必要となる、何かしらを準備する必要が出てきた。一方で、学生達は、保証という言葉に対し、与えられるという期待だけを、抱くようになり、それに必要となる条件については、一切、目を向けぬままだった。これが、状況を更に悪化させ、現状へと至っている。だとしたら、何をすべきか、互いに、求められるのは何か、改めて考える必要が出てくる。大学は、その為に必要となる、教養と専門を併せた、何かしらの教育科目を、取り揃えねばならず、それに対して、学生は、学習によって得た知識を、活用できることを、合格という形で、示さねばならない。保証とは、両方が揃ってこそ、出来上がる訳で、片方が足らなければ、何も達成できないことになる。では、今の状況で、どうだろうか。お互いに、胸を張って、主張できるか。

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12月23日(土)−幅広く

 今世紀に入る直前、大学に大きな変革が訪れた。基礎教育を担う部門を解体し、多くの場合、新たな学部を設置したのだ。新たな転換という意味で、新学部への期待が大きかった、との意見は殆ど無く、単純に、基礎教育を廃止し、専門教育に注力するという目論見があった、と言われる。
 その後の展開は、ある意味、予想通りだったのかも知れない。基礎教育を廃止、と言っても、結局は、大学で学ぶべき項目を、全面的に変えることはできず、単純に、専門教育に携わる人間が、専門に結び付く基礎を、学ばせることとなった。別の意見では、幅広い教養より、深い専門性が求められる、という風潮から、初期からその軌道に沿って、教育を進めるべき、との考えがあり、それに叶う仕組みとされた。結果は、どうだったのか。有り体に言えば、中途半端なものだった、となるだろう。その上、学生の気質も変化し、安直な形での学習を、好む傾向となって、教養はもとより、専門性まで失われ始めた。一方、新学部は、当時の風潮に沿った形で、要求された分野への進出が、模索された結果だったが、所詮、流行を追った結果は、悲惨なものとなり、寄せ集めという事情から、方向の定まらぬ組織は、自己崩壊へと落ちていった。そちらは、ある意味仕方ないとしても、では、教養の扱いは、その後、どうなっただろうか。専門も教養も、失った学生の生産に、危機を感じた人々は、改めて、大学が成すべき役割として、教養の再評価が行われ、幅広い知識こそ、次代を担う人材に、必要なものとされた。ただ、肝心の学生達は、単純で、短い過程を望み、その意義を、理解しないままとなっている。一方で、大学の体制として、一度投げ捨てた仕組みを、元通りに手に戻すことは、当然難しく、別の形で取り繕っているが、効率化やら、社会の要求やら、様々なものに、追い立てられている。その中で、肝心なことは、結局、学生の気質となるだろう。では、何を、互いに求めるべきか。

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12月22日(金)−聞く耳

 主張する為には、科学的な思考に基づく、論理の構築が重要、と何度も書いてきた。世間の通説の多くが、薄弱な根拠に基づくものだったり、非論理的で感情的なものだったり、そんなものに、度々接してくると、議論に持ち込んで、やっつけようと、することもよくある。
 そんな場面を思い浮かべると、何やら頑固な人物の話、と思えてくるようだが、議論下手な人の考えと思う。議論とは、本来、意見の遣り取りであり、投げられたものを、投げ返すだけでなく、その前に受け止める必要がある。議論を面倒と思う人の一部には、受け止めを拒絶し、自分の意見に固執する、という人間が居る。彼らにとって、意見を表明する場は、一方的なものでなくてはならず、相手から反論が出たり、助言が出ることさえ、不快感を露わにする。論理の有無を、基準とする場合、その流れが円滑であれば、聞くに値するものとなるが、頑なな人の中には、そんな評価基準さえ、持ち合わせぬ人も居るようだ。そんな人の多くは、成功に辿り着くことができず、その原因を、他に求めることが多い。だが、こういう遣り取りの欠如が、大きな要因だとすれば、その原因は、自身にあると言わざるを得ない。それとて、認める気配も無く、相手の意見は、既に、自分で考えたものの内、と思う人は、傾聴に値せず、との判断を下す。結果的に、話し合いの場は持たれず、ただ、我が道を行く、となる訳で、それだけのことだ。でも、もし、そんな人でも、仲間が居て、彼らの支援を受けて、何かを進めていくのなら、こんな態度では、何も実現できないだろう。他人の話を聴く、という役割を演じていると、時に、そんな傲慢さに接することがある。困ったものだと思いつつ、でも、考えを改めさせよう、などとは決して思わない。所詮、その程度の人間を相手に、こちらが、あれこれ苦労をしても、何も変わらないからだ。本人が、自分で気付くまでは、何をしても無駄だろうから。

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12月21日(木)−疑り深い

 科学の進歩を、疑うような内容、と思った人も多いだろう。確かに、目の前まで来ている技術を、否定するような書き方に、懐疑的というより、否定的という印象を、覚えたのではないか。だが、実現可能性という観点では、単に、出来上がったというだけでは、不十分なのだ。
 交通手段に関することは、単に、それが走れるだけでは、不十分と言える。特に、電車のように、軌道上を走る場合には、他の電車との関係を、考える必要の無い時もある。でも、多くの場合、それだけの問題ではなく、他との関連も必要だし、乗客や荷物との関係も、出てくるに違いない。ただ、それについては、別の制御系との関係で、解決できる場合もある。自動車の場合、現状では、一台一台の能力で、相互の関係を保ち、事故などを少なくして、上手く運行している。中央制御が、必要となった場合、別の仕組みを導入し、膨大な資金が必要となる。自動運転について、そこまでの経費が、考えられておらず、個々の人間に課せられたものと、それぞれの機械に課せられるものが、上手く折り合いを、つけられるか否かが、重大な問題となる。電力供給も、その源となるものについて、考えないままに、導入を急ぐとどうなるか。隣の大国は、まさに、その道を驀地に突き進む。果たして、数年後の姿は、どうなっているのか、誰も、心配していないようだ。だが、既に、色んなことが破綻して、様々な歪みが、社会全体に広がりつつある。一見、携帯通信の導入初期と、似た状況が、生まれつつあるようだが、結果は、大きく異なるだろう。ゼロからの出発、という観点では、類似点もあり、自動運転にしても、同じような進展にある。だが、社会実験として見るなら、それでも構わないが、一国の状況がどうなるのか、という点からは、大きな違いが出てきそうだ。それが更に、別の先進国では、と考えると、容易には思えない。そんな見方から、懐疑的となるのだが、どうだろうか。

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12月20日(水)−疑わしい

 数日前、自動車の自動運転と電動化について、懐疑的と書いた。多分、多くの人々は、何を惚けたこと、と思っただろう。夢幻ではなく、今、現実に、何方も実現しているからだ。確かに、電気自動車は走っており、自動運転も、この国でさえ、社会実験と呼ばれる状況にある。
 だが、このまま、現状を一変させられるか、に関しては、多くの疑問が残る。自動運転は、海の向こうでは、実験どころか、一部の都市に限るとはいえ、営業運転を始めており、実現は間近に迫っている、と思う人が大部分だろう。でも、今の状況から、更に、導入が進み始めると、人間が運転する車と、機械が運転する車が、同じ道を走ることが、必要となる。その時、何が起きるのか、現状で、確かな予測は出ておらず、怪しげな見通しばかりが、持て囃されている。例えば、一時、自動運転の広告か何かで、危険を察知した車が、車線を華麗に変更する、という映像が流れた。その対応力と反応の速さに、驚いた人が多いだろうが、他の車は走っておらず、車線変更が、その他の交通に、どんな影響を及ぼすか、想像するしかなかった。あれが、混雑する道で、実施された時、何が起きるか、考えるべきだろう。ほぼ全ての車が、自動化すれば、こんな問題は起きない。が、そんなことが、突然起きる筈も無い、という懸念だ。一方、電気自動車に関して、確かに、燃料の転換は、素晴らしい出来事と思える。が、しかし、肝心の電力は、どんな状況だろうか。再生可能、などと持て囃されるものも、徐々に導入されつつあるが、現状では、依然として、化石燃料に頼るものが大半だ。その状況が、一朝一夕に、変わるだろうか。変えるべき、との掛け声も、この間の集まりで、消し飛びそうになった。楽観的に考えるのは、構わないことだろうが、実現可能性を論じる場合に、楽観だけでは、事は進まない。懐疑的になるのは、そのものだけでなく、周辺技術も含め、様々な要素が絡むからだ。

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12月19日(火)−収集法

 情報収集を、どのように行っているだろうか。弱者にならぬ為に、努力する人も居るが、古い人間だと、定番の新聞、テレビ、ラジオ辺りで、その後に、社会媒体などの、ネット情報となる。但し、重要なことは、情報源を複数持ち、自分の考えを、しっかりと保つことだ。
 そう考えると、この独り言は、どんな位置にあるだろうか。個人的な意見を、日々書き連ねているから、偏りは否めない。ただ、囀りの紹介にも書いたが、上に挙げた情報源の、間違いやおかしな所、更には、恣意的な内容について、指摘することを心掛けている。その意味では、一般大衆にとっても、情報源の一つとして、他との比較対象になる、と見ても良さそうだ。二週間程前から、突然、接続数が増えた。記録を残すようにしてあるから、どこからの接続かは、ほぼ全て確認できる。それまでも、囀りに書いた所から、接続した人が居たが、今回のものは、そうではないらしい。ボットと呼ばれる、機械的にネット上を、調べ回る仕組みの居所が、示されていた。これまでも、月に一度か二度、そういう接続があったが、毎日、それも日に二度三度、となると疑わざるを得ない。調べてみたが、そういう記録は、何処にも無いようで、詳細は不明だが、もしかしたら、検索大手のように、検索結果からの接続を、仲介するものと、類似のものかも知れない。にしても、毎度検索してから、というのは、手間が掛かる。となれば、別の方式があるのかも、と思うのだが、何も思い当たらない。ただ、週が明けてから、その動きがぴたりと止まったので、興味が失せたのだろう。週が明けたら書こう、と思っていた所に、拍子抜けしてしまい、今日は、特に書くことが浮かばなかったので、こんな書き方となった。情報収集として、どれ程の役に立つのか、書いている本人は、特に意識はしていないが、読み手が、何かに気付けば幸いと思う。そんな書き方を心掛けており、読み難いと思うかも、だが。

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12月18日(月)−茶番劇

 政局の話題になった途端、勢いを増すのは何故か。おそらく、大多数の人々が、そんな目で報道を眺め、諦めの境地と、呆れにも似た心境に、至っているのではないか。今回も、まさに、そんな姿を曝け出し、意味不明な遣り取りを続ける、政治家共を、徹底批判する。
 だが、こちらから眺めるに、何方も何方であり、そんな体質の政治家から、何らかの情報を得ようと、躍起になっていたのは、彼奴らではないか、と思えてくる。まして、反社会的勢力では、当然となっている、金転がしの一種を、続けてきた理由に、殆ど触れることなく、金額の多寡のみを、取り上げるのにも、首を傾げざるを得ない。表に出ない金を、どう使ったのかという点に、もっと目を向けるべき、と思うのは野次馬根性でしかないが、それにしても、使途不明金といえば、あの派閥では、一時耳目を集めた、支持者を集めての、豪勢な会合が、毎春催されていたから、そちらとの関係は、と思えてくるのは当然で、もっと厳しい指摘があって、然るべきと思う。だが、この話題に関しても、知らぬ存ぜぬの体を決め込み、証拠不足が指摘されて、結局、有耶無耶となった。でも、その原資がこんなものなら、帳簿に載らず、書類の遣り取りも無く、証拠の欠片さえ、残さずに済ませる。そんなことを、ふと思い付いても、報道では、全く話題にもならず、闇のままなのだ。金額の多寡と、違法性の問題は、本来無関係であり、関係者全てが、法律に基づいて罰せられるべき、と思うのも、世の常を知らぬ、平凡な国民だけだろうが、特権階級として、政治家が振る舞うべき矜持は、これ程に馬鹿げたものでもあるまい。また、彼らに擦り寄り、利益を享受する情報屋も、田舎芝居を、いつまで続けるのか、とさえ思えてくる。では、一体全体、何をどうすればいいのか。答えは、端から決まっている。関係者全員が、後ろめたいことを止め、金の授受に、正直になることだ。


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