パンチの独り言

(2024年1月1日〜1月7日)
(解決法、目に見える、守ること、安易では、欲惚け、何の価値、割合)



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1月7日(日)−割合

 報道の役割が情報伝達であることに、異論を唱える人は居ないと思う。だが、現状、その役割は果たされているのか、この疑問に関して、否と答える人が多いだろう。何故なのか。一つには、情報操作が露呈しており、伝達よりも演出が優先されるからだ。それ以外にも、問題山積だ。
 特に目立つのは、悲惨な報道を好む姿勢であり、災害時に、その傾向は極まる。本心は兎も角、不安や心配を好んで口にする大衆に、迎合するかの如く、悪い話を優先させる。遠く離れた人々には、対岸の火事としか見えぬ話も、当事者達には、泣きっ面に蜂のように、より一層の痛みを強いる。真実を伝える、という意味では、そんな負の効果も、止むを得ないもの、と見えるだろうが、現実には、脚色が施され、より一層の効果を、狙っているとしか思えない。例えば、震災後の被害を伝えるにも、倒壊した家屋の数を、どの局も新聞も、盛んに伝えているが、当事者以外には、実態が伝わらない。何故なら、同じ地域の幾つの家屋のうちに、崩壊したものが幾つなのか、割合として伝えないからだ。これにより、二つの解釈が、可能となる。一つは、報道が意図した通りに、甚大な被害があり、それ程多くの家屋が、倒壊したと受け取るが、もう一方には、残りの数は、少なくとも倒壊を免れており、その数の大きさを、実感できることから、安堵に繋がる場合もある。その機会を奪う形での報道が、余りにも多く、割合としての実態を、掴ませないようにしているのは、演出や脚色の一つなのだろう。元々、算数で習った比率や割合という感覚は、正しく身に付かず、いつまでも、的外れな受け止めをするのが、大衆の大多数のようだが、それは、社会に出てからも、このように極端な情報の伝え方に、接しているからなのではないか。日常的に、比率や確率と接し、その意味を十分に理解する癖がついていれば、こんな時にも、冷静な判断ができる。今のやり方は、百害あって一利なし、なのではないか。

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1月6日(土)−何の価値

 論理的に考えることの大切さを、何度も論じてきたが、どうだろう。合理性、という言葉で、議論の相手を、牛耳ろうとする人が沢山居るが、彼らの合理は、論理に欠けるものが多く、非合理ではなく、単なる屁理屈に過ぎない。論理の破綻を見破るより、別の手立てで応じるべきか。
 例えば、間違いを犯した人間を、皆が総攻撃する中、ある一定の数の人々が、その矛盾を突いている、つもりになっている。要するに、重責を担う人間を、過剰に攻撃すれば、誰も、その職のなり手が居なくなる、という論理のようだ。この手の論法は、別の場面でも、屡々用いられ、命を預かる人間に、責任を負わせるべきでない、との主張が起きる。理由の一つに、なり手の問題があり、どうも、この論法を好む人間は、責任に押し潰されることや、その重さに見合う収入を、設定したがるようだ。でも、日常的には、命を預かるという意識より、遥かに大きな比重を、指示を守ることや、全力を尽くすことに、向けている。確かに、全力を尽くしても、救えない命があり、それを重圧と感じる人が、居るに違いないだろうが、彼らには、その壁を乗り越えるしか、選択肢は残っていない。もしできないのなら、不適格とされるのも、止むを得ないことだ。ところが、そこに、はじめに挙げたような、論理を適用して、様々な屁理屈を、作り上げてくる。極端な意見は、例えば、車の運転は、人を殺すかもしれないものを、動かしているから、責任が重いとなる。公共交通機関の運転士は、その範疇にあるとされ、その責任に見合う収入を、保証すべきと言う。だが、運転士や操縦士が、ある程度の収入を保証されるのは、特段の技能を持つからであり、それへの対価が支払われている。嘗て、花形と言われた職業も、彼らの色眼鏡にかかれば、別の判断基準を押し付けられ、あらぬ方へと話を進めさせられる。捻くれた考えで、論理を立てても、それは、所詮屁理屈にしかならない。わからないのか。

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1月5日(金)−欲惚け

 何か、大きな事件や災害がある度に、この国の人々を称賛するのは、如何なものかと思う。いや、打ちひしがれる中、冷静な行動を取ったり、互いに助け合ったりするのを、下らないこと、などと揶揄する気は毛頭無い。それ自体は、良いことだが、的外れな称賛は、大概にした方がいい。
 こんな思いを抱いたのは、新年早々の震災に、多額の寄付が集まった、という報道からだ。「捨てたものではない」という意見があった、とされるが、どの部分がそうなのか、と思う。特に、急増したことへの意見が多いようだが、額は、個人から見れば大きくとも、国民全体から見れば、大したことはない。年末に取り上げた来年度予算には、税収が、その一万倍を超え、国民一人当たりで見れば、寄付が、報道時点で10円にも満たず、現時点でもやっと上回った程度であるのに対し、来年度の税収見込みは、その四万倍ほどとなる。一時的な資金として、寄付が、強く意識され始めたのは、面倒な手続きを省いた、電子的な操作が始まってからで、昨年も、国立機関が募集し、多額の寄付を、集めたことで話題となった。だが、それとて、一機関で見れば、確かに、多額と見えるものの、毎年度、歳入不足を補う為に、発行される国債の総額とは、比べ物にならない。「捨てたものではない」と言うのは、勝手なのだが、全体として、国を支える姿勢を、もっと真剣に考えねば、という論点は、どうなるのだろうか。その意味で、今回の話題は、単純に、物事の本質を、理解できない人が、増え続けている証左であり、愚かな人間達が、自らの不明を棚に上げ、自画自賛しているだけなのだ。それをまた、美談の如く、取り上げる報道の姿勢は、厳しく批判すべきで、もっと、本質を取り上げるよう、努力を重ねるべきではないか。個人の話として、現場で動く人々を、取り上げるのは、構わぬと思うが、こういう形で、全体として取り上げる話の中には、疑問を感じるものが、多過ぎる昨今なのだ。

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1月4日(木)−安易では

 国民的な休みが明け、皆が職場に急ぐ日常が、戻りつつある。だが、稀に見る事象の数々に、出鼻を挫かれた人も、多いに違いない。ただ、長い目で見れば、稀と言っても、確率的には、いつか起きるものと言える。それが、今なのか、はたまた、ずっと先のことなのか、知る由もない。
 それにしても、被害に遭った人々は、たまったものではない。突然、襲ってくるという意味では、震災も、飛行機事故も、同様のものと思える。しかし、天災は、いつかは起きると言っても、それを防ぐ手立ては無く、単純に、備えるだけのもので、起きてしまった時に、どう行動するかにより、その後の結果が、異なってくる。それに対して、事故は、防げるものだ。にも拘らず、何故、こんな事故が起きたのか、人が関わるものだけに、誰の過失か、明らかにしたとしても、個人の問題に過ぎず、その経験は、本人以外には、役に立たないかも知れない。ただ、今回の報道で、気になったのは、前者の方であり、避難を余儀なくされた人々から、届く救援を求める声に関するものだ。支援物資は、次々に届いているようだが、当然ながら、不足する面がある。そこに対して、報道は、力を入れているようで、盛んに、不足の声を伝えるが、どうなのだろうか。一時的なこととして、安易に扱うのは、どうかと思う一方で、あれが足りない、これが足りないと、一つひとつの事例を挙げ、盛んに強調すると、また、とんでもない結果を、招くような気がする。足らないよりは、余った方が、良いという意見もあるが、こういう事例で、何度も起きる現象を、何の反省もなく、引き起こす姿勢には、人道的という言葉に借りた、強い押し付けと、その後に起きる、混乱に対する無責任を、感じさせられるからだ。当事者にとり、肝心なことは、今募る不安や不満に対して、自らがどう処すかであり、それによって、随分と違った結果が導かれる。弱者保護が、あらぬ方に向かうのは、いつもとは言え、考えるべきかと。

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1月3日(水)−守ること

 自動車の自動運転は、実現しそうにない、と書いた。技術的に、できないという意味ではなく、その他の人間が動かす車の中で、自動運転車が、増えてきた時に、破綻を来すだろう、と考えたからだ。中央制御などの形で、全体を統制しないと、事故を避けることが、大惨事を産むだろうと。
 少し離れた話題だが、かなり昔になるか、飛行機が、空中衝突する事故が、増えていた。その中で、回避手段として開発されたのが、機械による警告装置だった。単に、警告を発するだけでなく、回避行動を、操縦士の意思に反して、行うというもので、緊急時の人間の判断が、熟練した者でも、及ばないと仮定したからだ。この際に、複数のコンピューターによる、演算からの決定を、多数決として結論づける、というものだった。瞬時の判断が、及ばぬ場合があるのは、日常の行動を、考えるだけで、何となく理解できるが、それが、多くの乗客の命を預かる、旅客機の操縦士となれば、一層深刻な状況となる。ただ、この仕組みの開発途上で、別の問題が生じ、機械と人間の反作用が、重大な事故へと、繋がりかけた話もあったようだ。人間の関わりを、一切断ち切るべきとの意見もあり、自動操縦は、多くの場面で、実用化されているが、離着陸時には、実現していないのではないか。その中、起きた事故については、今後、調査が実施されるから、結論が導き出されるだろうが、現時点では、やはり、人為的な過誤によるもの、だったと考えられる。それにしても、何百人もの乗客が、一人の死者も出さずに、避難できたことは、驚くばかりだ。事故の発生そのものは、人間の過失によるだろうが、避難誘導もまた、人間によるものだ。事故や震災が、大災害に結びつくか否かは、多くの場合、人為的な要因による。疑うことが、大切となる場合もあるが、一方で、想定通りに、全ての行動をすることが、大切な場合もある。ただ、殆どの条件は、設定されており、遵守することが不可欠となる。

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1月2日(火)−目に見える

 先々月だったか、客観性への批判に、的外れな指摘をした、本の紹介をしたが、著者は、その原因の一つに、画像や図表という形の、証拠を重視する姿勢がある、と指摘していた。的を外したのは、その問題の本質を、見誤ったことで、証拠の検証を、怠った上での盲信が、原因だからだ。
 新年早々の震災に、驚いた人も多いが、翌朝になり判明しつつある、被害の大きさに、その驚きは、更に拡大した。報道では、刻々と、それらの情報を伝える一方で、偽情報の問題を、早々と伝え始めた。ありもしない情報を、垂れ流し続けたのは、あの大震災を、彷彿とさせるが、その後、これらを拡散することに、強い注意喚起が為され、法的措置まで行われたのに、緊急時には、同じ轍を踏む。懲りない加害者だけでなく、懲りない善意の人々に、別の形の驚きを感じる。はじめに書いた、客観性批判から見れば、まさに、そこにこそ、問題があると言うだろうが、それは、大いなる誤解というものだ。鵜呑みにする人にとり、緊急事態は、無思慮に行動する、機会の一つに過ぎない。確認を怠り、冷静な判断を下す、余裕の無さを憂う。そんな人々にとり、今回の震災も、その一つとなったようだ。一方で、何時迄も無くならぬ、悪質行為の頻発に、断固たる法的措置の必要性を、強く感じる人も多い。それも、懲役等の刑ではなく、罰金という形の、それも多額のものを科す必要が、あると思われるのだ。政治家となった人間の、公開の情報提供による、脅迫行為は、結論がまだだが、社会媒体による、これらの行為に対して、古い法律が、十分な罰を適用できないのは、ある意味、致し方無い所だろう。だからこそ、今の時代に、法律改正の必要性が、論じられるべきだが、一方で、懲役刑が、殆ど意味を成さない、とも考えられる。金銭的な報酬を、望む人間が、違法行為をするのなら、彼らへの懲罰は、同じ形で行うべきと思う。愚かな人間は、目に見えるものしか、理解できないからだ。

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2024年1月1日(月)−解決法

 元日と言っても、普段の一日と、特に違いがある訳でもない。でも、世界各地で、新たな年を迎え、様々な催しが行われ、また、心新たに、何かを願う人も多い。特に、荒れた年が、過ぎたからこそ、これまでとは、何か違う日々が、訪れるのでは、と思う人も、それを願う人も。
 その一方で、期待を抱かぬ人も、多いに違いない。長年続いた紛争が、一部組織の暴挙とは言え、新たな局面に入り、死者数は、日々増え続けている。報道は、恰も、加害者と被害者の如く、数の変化を扱うが、どうにも、解せない状況が続き、国際機関の動きも、方向が定まらず、全体として迷走を続けている。もう一方の軍事侵攻は、泥沼化したまま、疲弊する状況が、続いているように見える。こちらは、抑圧下の反発とは異なり、一独裁者の気紛れによるものだけに、被害と加害の関係だけでなく、全体として、理解不能な状況が続く。さて、何方の紛争も、どんな展開と結末を迎えるのか。識者達は、それぞれに持論を持ち寄るが、解決への道は、閉ざされたままだ。ただ、世界の他の地域にとって、これらの話は、所詮、対岸の火事に過ぎず、物価高騰や資源不足などの、新たな問題が生じない限り、自分事として、受け止めることは難しい。手を差し伸べたり、一方に加担したりと、様々な関係が結ばれるが、それとて、自国の利益との関係に留まり、世界を巻き込んだ戦いに、突入する気配は、一切見えていない。そこに、国際機関の存在意義が、反映されているのか、そんな愚問に、答える術は無さそうだ。ただ、局地的なものとは言え、このような不安定状態が、長く続くとなると、やはり、全体の状況も、悪化する可能性が強い。そうだとしたら、自分達に、何ができると言うのか。その一方で、そんなことさえ、考えないままに暮らすことは、もしかしたら、罪悪なものなのか。この不安定が、消え去ったとしても、別のものが、降ってくるのは、当然なのだろうけれど。

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