パンチの独り言

(2024年1月8日〜1月14日)
(見極め、遠近両用、閉じ籠もり、傾聴の価値、運用実績、真の懸念、人間の仕業)



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1月14日(日)−人間の仕業

 人工知能の脅威として、偽情報の供給を上げるが、まだ、機械自体が、自らの意思で、悪事を行うとまではいかない。現時点では、人間が介在し、どんな理由にせよ、偽情報を出すことで、社会に混乱を招いたり、人々から金銭を巻き上げたりする。では、何が心配なのか。
 以前なら、人間が捏造しても、余程の玄人でなければ、すぐに見破れた、と言われる。それに対し、膨大なデータに基づき、贋作や贋物を作り出すと、一見にしても、一聞にしても、俄には見破れず、騙されてしまう、と言われる。並の人間には、見破るだけの洞察力が、身に付いておらず、特に、混乱に乗じた時には、鵜呑みにしてしまうことが多い。だから、それを見破る為に、別の形で人工知能に頼る、という話だったのだが、その安易な考え方には、大きな落とし穴があるように思う、一方で、報道機関は、この時ばかりと、偽情報の話を紹介し、警戒の必要性を論じる。だが、肝心の報道機関は、果たして、真実しか伝えていないのだろうか。人間が介在する以上、そこに、意図や意識が入り込み、時に、恣意的な伝え方や、意識的な歪曲が、なされる可能性がある。感染症騒動でも、屡々そんなことがなされたし、軍事侵攻に関しても、多くの脚色がなされてきた。急襲により、人質をとった勢力に対し、彼らが潜む地域への攻撃を、続けている国は、多くの国から、厳しく批判されており、遂には、国際裁判において、ジェノサイドの罪名で、訴えられた。原告被告双方からの、弁論を見る限り、決定的なことは、言えないように思うが、連日の報道では、被害の大きさを、伝えている。その常套句には、何かしらの意図があるのでは、という指摘を、何度か独り言にも書いたが、それ以外にも、例えば、女子供の被害を、強調する伝え方があり、そこにも、何かしらの思惑が、あるように思えてしまう。非戦力という括りでの、伝え方なのだろうが、どうなのか。割合に触れず、伝える姿勢も、疑問だ。

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1月13日(土)−真の懸念

 人工知能が登場したのは、前世紀の末頃だったろうか。当時、期待はされたものの、その後の変遷は、必ずしも芳しいものではなかった。学習能力を有すると言っても、人間同様、教えてやる必要があり、教師の能力を超えることは、不可能と見られた。だが、一変した。
 生成系とか、生成とか、どう呼ぶのかも含め、登場した当時、皆の戸惑いが広がり、期待と不安が入り混じった意見が、世界に広がった。課題を与えると、存在するデータベースから、最も適切と思われるものを選び出し、それを組み合わせて、まるで人間が考えたような、文章を作成する。それが、他の媒体にも広がり、データと呼べるものが存在すれば、それらを引用して組み合わせ、創造的な作業さえ、可能となったと言われた。だが、実態は、それ程でもなく、今は、ある程度落ち着いた状況にある。その一方で、寄せ集めの情報は、出典が定かでなく、また、元の文章の権利の所在も、明らかとはなっていなかった。その為、近年話題となっていた、著作権の問題に、注目が集まった。これに対しては、引用先を明らかにする、という設定を設けることで、ある程度の解決を見たようだ。だが、次に起きた問題は、深刻となりつつある。純粋無垢な計算機は、その善悪に関わらず、司令された通りのものを作り出す。それが、文章だったり、絵画だったり、そんなものであれば、捏造が懸念されたが、それとて、すぐに犯罪に結び付く訳ではない。そこに、詐欺と思しきものが、登場するに至って、皆の懸念が現実化した、と言われた。音声再生において、著名人を発言を、捏造する行為が、生成人工知能により、可能となった。まるで本人が、発言しているかの如く、滑らかに語る内容は、嘘や詐欺、捏造の類で、犯罪そのものだろう。それを見破る手段に、同じ人工知能を用いる、という報道に、期待の声が上がるが、これこそ、マッチポンプではないか。更に、自己学習すれば、綻びも消せる、との懸念も。

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1月12日(金)−運用実績

 相場の動きが、年初から急となっている。昨年は、海の向こうの相場が、急激に上昇したのに比べ、此方では、物価上昇の勢いに比べ、冴えない状況が続き、やきもきさせられたが、愈々、その展開に入ったのだろうか。新制度も始まり、条件が揃ったと言われるが、さて。
 半世紀程前には、経済成長が続く中、貯蓄の利率が上がり、ある制度では、十年で倍になる、という状況に至ったが、その後の崩壊により、利率は、ほぼゼロの状態となり、今では、十年預けても、微々たる利息しかつかず、更に課税されるから、その衝撃が強まる。この状況では、この国の人々が好む、貯蓄という習慣では、資産運用とはならず、物価上昇の中では、目減りが大きくなるだけだろう。その中で、新たな制度は、別の形の運用に向け、月々積み立てたりと、多くの選択肢があり、非課税となれば、魅力が増すということだろう。ただ、所詮、株式投資は、元本が保証される訳でもなく、不安定な部分を、理解する必要がある。こんな時代に、海の向こうと同様のやり方が、全体に広がるか否かは、今後の成長にかかっている。元々、経済は、成長を基本としており、その為に物価上昇率を設定してきたが、この間まで、実現できぬままだった。ところが、喜ぶべきことではないが、異様な感染症騒動と、様々な紛争の結果、物価の上昇が、世界的に顕著となり、この国でも、遅ればせながら、対応を余儀なくされつつある。その中で、相場が堅調なのは、ある意味、有り難いことなのだが、何時迄続くのか、誰にもわからない。それでも、制度開始と相俟って、資金の流入が続けば、自ずと相場も活況を呈し、庶民の資産も、それなりの成長を、見ることができそうに思える。ただ、不安定要素は、悲観的にならずとも、数多ある訳で、その中で、どう振る舞うかが、肝心なのかもしれない。とは言え、運用よりも、収入確保が重要なのは、明白である。そちらに必要なのは、能力だろうか。

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1月11日(木)−傾聴の価値

 評論家には、二種類の人間が居る、と言われる。今、実際に行われていることに対して、批判するという人間と、それに加えて、将来の展望を述べるという人間だ。前者は、所謂、後出しの形式で、ああ言えばこう言う、だけで済むが、後者は、そこに独自の考えを加えねばならない。
 何方が簡単かは、誰にでも判ることだが、それだけで、仕事が済むのなら、前者が楽に決まっている。感染症騒動でも、専門家と称する、結局は評論しかできない人々が、説明と批判を繰り返し、結果的に、何の展望も開けず、社会全体、というより、世界全体が混乱に陥った。世界機関までもが、評論家集団となったのには、驚かされたが、どうも、世の中の研究機関には、その類が溢れているようだ。一方で、混乱の最中、経済の行方に、人々の興味が集まった。命の次に大事なものは、金だから、だろうか。それとも、施しを受ける為には、その原資が必要と、理解していた為か。何れにしても、経済の世界でも、多くの評論家が居り、それぞれに、勝手な意見を吹聴している。ここでも、二種類は確かにあり、批判一辺倒という人間からは、何の役にも立たない戯言が、毎度吐き出される。確かに、政府の方針の問題点を、指摘することは、重要なのかもしれないが、彼らの口から、展望が出てこないままでは、役立たずと呼ぶべきかも知れない。一方で、今後の展望を、語る人々からは、有益な意見が出てくるが、されとて、的を外すことが度々だから、鵜呑みにする訳にもいかない。難しいところだが、無益と決まった批判一辺倒よりは、何かしらの参考になるのでは、という方に、耳を傾けたくなるのは、当然なのだろう。多種多様な意見を、掻き集めた上で、自分なりの結論を導くのが、資産運用でも、重要となる。それでも、当たることもあり、外れることもあり、というのが、投資の常と思わねば、一喜一憂どころか、反省しきりから、落ち込むばかりとなり、困ったことになる。

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1月10日(水)−閉じ籠もり

 視野狭窄が顕在化し、他への悪影響が目立ち始めた。例えば、最近の流行りから言えば、多様性という見方が、重視され始めたが、それ以前に、好悪の区別が置かれ、多様性の幅を狭めた上で、物事を考える傾向が、高まっている。身近な話題は、実は、深刻な問題なのだ。
 人間は、社会性の生き物である、と言われる。その中で、教育が果たす役割が大きく、その過程で、子供達は、社会性を徐々に獲得していく。家族から、近隣の話になり、町全体を見て、都市へと移り、国に広がる。そこから先は、更に、世界の地域としての国々となり、全体へと広がっていく。この過程は、この国では、義務教育が整ってから、初等中等教育において、施されるものとされ、視野が、徐々に広がるにつれ、子供達の見方も、変化していく。そういう能力を備えた上で、それぞれの違いに目を向け、それを受け入れるのが、多様性の基本の筈だが、その出発点で、頓挫する場合が、増えているのではないか。にも拘らず、世間では、多様性を重視し、それに則った形での考えが、推奨されている。この乖離は、既に、無視できぬ程に広がり、落ちこぼれた人々は、より一層、自分の殻に閉じ籠り、他を拒絶する。何が、悪かったのだろうか。おそらく、成長が止まった頃から、視野を広げることの意味を、見失い始め、そのまま、成長を止めてしまったり、逆に、幼児化する方に、向かい始めたのだろう。改めて、社会性という問題を、考えてみる必要が、出てきており、閉じ籠もる人々を、引っ張り出す必要がある。だが、事はそう簡単ではない。ここでも、近年、問題となっているものが、壁となって立ちはだかる。手を差し伸べることの重要性が、高まれば高まる程、その手を払う傾向が、強まっているからだ。一度、負の連鎖に入ってしまうと、こんなことが起きる。放置が、必ずしも良いとは限らないが、自ら動くことの大切さを、認識する必要があるのではないか。

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1月9日(火)−遠近両用

 自分が住む地域の情報だけを、追い求めることの危うさを、指摘する声が上がっている。嘗て、高度成長を続けた時期には、世界各地の情報を、手に入れようと努力し、全国紙も、その姿勢を貫いていたが、泡が弾けた後、徐々にその輪が縮まり、遂には、国内どころか、近隣にしか目が向かぬと。
 海の向こうでは、全国紙は一つだけで、残りは地方紙ばかり、という現状に、唖然としたことがある。と言っても、一部の都会の地方紙は、全国どころか、全世界の情報を掲載し、国内でも、東海岸から西海岸まで、何処でも売られていた。ただ、地域に暮らす人々にとり、重要なのは、見ず知らずの国や土地の話ではなく、すぐそこに住む人々の話であり、日々の暮らしにとって、遥かに重要と見ていた。今も昔も変わらず、この調子で動いているのが、海の向こうの人々だろう。その一方で、資産運用など経済に関しては、相手国だけでなく、世界全体の情勢を、把握する必要がある、とされている。ただ、それとて、嘗て斜陽となった自動車業界でさえ、国内産業優先の考え方は、露骨なものがあり、その動きが、世界経済の動向に反映する、と見ている。世界水準で、物事を考えるべき、と教えられつつ成長した世代には、現状は、何とも歪曲したもので、捩れの度合いが増すだけでなく、偏った見方を当然と見る、身勝手な考え方が、多くを占めている。経済が破綻してから、改めて、世界に目を向けるべく、掛け声が叫ばれてきたが、人心は、却って逆行し、殻に閉じこもり始めた。確かに、日々の生活において、周囲の変化を見定めることこそ、重要となるのだが、長い目で見ると、やはり世界情勢は無視できない。その見方を残しつつ、自分の周りのあるべき姿を、模索することこそが、今の時代に、不可欠となるのではないか。何方か一つでも、欠けてしまっては、結局、自分の生活も、国の状況も、そして、安全や安心も、思い通りの形に保つことは、できないように思う。難しいことではない。

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1月8日(月)−見極め

 世の中では、弱者保護が強く叫ばれるが、どうも、情報に関しては、放置されているようだ。例えば、精神的な抑圧に関して、弱者を護ることの大切さが、機会ある毎に、訴えられるのに、何故だか、情報に関しては、そんな配慮が全く感じられない。不安なら、納得できるまで集めろとでも。
 報道の為体は、今更取り上げるまでもないが、かといって、放置できる状況には無い。だから、断片的にでも、書いておこうとするが、当然のことながら、改まる気配は見えてこない。配慮という意味では、マスゴミの悪質さは、呆れ果てる程だが、だからと言って、一般大衆が、せっせと書き連ねる、社会媒体はと言えば、更に状況は悪化する。こちらも、気分を害したり、不安に陥るのなら、見なければいいとされる。その一方で、情報弱者の問題は、放置されたままとなる。できる限り多くの情報に、接続すべきとの主張からすれば、この矛盾は、かなり大きいと思うが、当事者達は知らぬ存ぜぬだ。そこで、単に収集力が劣るだけでなく、精神的に弱い人々は、気分が高揚する媒体や、当たり障りのないもの、果ては、自分が納得できる媒体へと、移っていくようだ。その結果、多くの誤った情報が、巷に溢れるだけでなく、そういった人々が加担することで、誤報が蔓延ることとなる。一度、根付いた印象は、簡単に払拭されず、復活を繰り返すことで、恰も、事実だったように扱われ、良識ある人々から、何度も指摘を受ける。しかし、この類の悪意を、壊滅することは、殆ど不可能となっている。人の噂も、と言われた時代と異なり、多くの当事者が忘れ去ったとしても、それらを掘り出した人々が、再び、社会媒体の表に、引き上げるからだ。この繰り返しが、多くの事柄で、何度繰り返されたか、検証ができない。兎に角、データ量が急激に増え、それらを調べ上げることさえ、不可能となっているからだ。だったら、どうすればいいのか。吟味力を培うしか、無いように思う。

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