パンチの独り言

(2024年1月15日〜1月21日)
(なるように、禍の元、どんな責任、確かめる、規制する、無駄玉、新たな難問)



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1月21日(日)−新たな難問

 温暖化を防ぐ為、と称して、化石燃料の使用が、厳しく制限され始めた。その中で、大量消費は、当然ながら、製造業が槍玉に上がるが、庶民にとっては、普段使う自家用車の燃料が、最大の標的となっている。四半世紀以上前から、転換を迫られているが、未だ達成できていない。
 おそらく、当初は、燃料の問題というより、大気汚染の解決こそが、最優先とされていた。それが、達成できぬままに、突然、舵が切られたのは、温暖化の問題と、その元凶としての、二酸化炭素削減が、喫緊の課題となったからだ。以前から、化石燃料ではなく、電気で駆動する車の開発が、政府主導で叫ばれたが、困難に直面した企業は、苦肉の策として、燃料と電動の混合という車を開発し、それが、大半を占めるようになった。だが、病的な程に、化石燃料の排除を図る人々は、こんな状況に、満足する筈も無い。電動こそ、唯一の解決策として、実現に向け、車自体の開発だけでなく、電池や給電設備にも、力が注がれてきた。現在、一部の国では、多くの電動自動車が、走り回っており、愈々、化石燃料車の排除が、現実的なものとなった、と思う人も居る。だが、温暖化と結び付く、気候変動の問題は、実は、寒冷化にも繋がる。今冬も、その問題が起きたが、前年との違いは、電動車の普及率の向上で、逆に言えば、問題が起きれば、重大化する程の水準に、到達したということだ。以前から、極寒地では、電池が機能しなくなり、撮影できなくなるなど、問題が指摘されてきた。そこで、解決策として、使用者達は、電池を保温して、ある温度以上に保ってきた。化学反応の温度依存性は、ある意味、当然のことであり、車とて電池頼みとなれば、同じ難問に当たる。実は、化石燃料とて、同程度の低温では、燃料に混入した水が凍り、動かなくなる。水抜きとして、アルコールを混入させるのは、その為だ。電動車の問題は、規制と関わる話だが、寒冷地では、別の問題が生じる。

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1月20日(土)−無駄玉

 規制に問題がある、と取り上げたが、そんな筈は無い、と思った人も居るだろう。確かに、世の中は、種々雑多な規制に溢れており、その中で暮らすことが、安全・安心を手に入れる為に、不可欠と思う人も多い。だが、制限を掛けても、的を外せば、何の効果も無いことは明らかだ。
 その例として、感染症の拡大に対する、世界各国での、都市封鎖などの規制や、ワクチン接種などの対策が、講じられたのに対して、感染も、死者数も、抑制できなかったのではないか、と指摘した。だが、これとて、十分な調査が行われ、その結果が報じられれば、効果の程も明らかになる、と信じる人が多い。ただ、現時点では、何方の結論も、明らかになっておらず、身の回りの変化からは、対策の効果を、実感することができない、と思う人の方が、多いようだ。一方、規制の成功例として、公害対策を挙げ、一つひとつの汚染に対して、講じられた対策が、功を奏したと論じた。ただ、これとて、実際には、一つ解決すれば、別の問題が表面化し、一種、鼬ごっことしか、思えぬ状況にあることも、事実だろう。逆に言えば、何か、問題点が明らかになれば、それへの対策も、可能となるということだ。では、人工知能の問題は、どうだろうか。将来の進歩で、何がどうできるようになるのか、不明なうちから、規制を掛けるのは、やはり不可能だろう。数撃ちゃ当たる、とばかりに、乱発したとしても、肝心要のことに対し、抑制できなければ、無駄玉でしかない。これとよく似た状況は、今の地球規模の環境対策にあり、温暖化を抑制と称して、様々に講じられる対策が、効果を上げる保証は、実は、一切無いのだ。というのも、温暖化そのものが、科学的な仮説に過ぎず、その中で、問題として挙げられたものも、確定的なものではない。そこへの対策は、確かに、目的を果たすだろうが、肝心の温暖化が、防げる保証は無く、また、仮令、抑えられたとしても、その効果か否かは、定まらない。規制とは、所詮、その程度のものとすれば、気楽なものだが、現状は、そうはなっていない。

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1月19日(金)−規制する

 生成人工知能が登場し、世界中に衝撃が広がった、と言われる。当初、その万能性から、期待が膨らんだが、その一方で、既存の情報源から、適宜、適切な情報を集め、要求に応える形式に、近年取り沙汰された、著作権侵害の懸念が広がり、正反対の反応が、入り混じっていた。
 更に、不安を煽ったのは、その万能性から、人間の能力を超える、という評判となり、職を失う懸念が広がり、また、教育現場の混乱が、その勢いに拍車を掛けた。だが、徐々に明らかとなったのは、万能性でも、人間を超えるでも、どれも当てはまらず、結局は、それなりの仕事を、それなりに行うだけ、といった能力に過ぎない、ということだった。しかし、可能性は否定されておらず、開発にあたる人々は、依然として、その可能性が無限であり、場合によっては、人類の脅威となり得る、と指摘している。その為か、当初から、規制の必要性が、強く掲げられており、実現の可能性も、出てきているようだ。だが、と思ってしまうのは、疑い深い性格からか、規制と称しても、何をどうするのか、何も決まっていない状態で、どうしようというのか。特に、問題となる能力が、開発されてから、規制を掛けるのでは、間に合わない場合が、考えられるように思う。となれば、後手に回った規制は、何の役にも立たず、暴走を止められないのでは、との懸念が広がる訳だ。一方で、感染症騒動を思い出せば、規制が、何の効力も示せず、結果的には、自然の成り行きに任され、その方向での鎮静化が起きた、とする見方もある。公害が顕在化した時、様々な規制が、次々に掛けられていったが、これらの多くは、問題となる汚染を、如何に軽減するかを目的とし、目標値を含め、多くの現実的な指標が、示されていた。それに対して、感染症では、どんな効果が見込まれるか、何の指標も示されないまま、極端な反応ばかりが実行され、混乱を招いた。同じとは言わぬが、同様のことが、起きるだけと思う。

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1月18日(木)−確かめる

 何故、原因がはっきりしない内から、こんな議論が始まったのか。その原因は、報道にある。航空事故に関して、以前から、取り沙汰されていた問題を、取り上げたからだ。各紙により、取り扱いは異なるが、概ね、調査と捜査が、同時並行に行われることに、異論を唱えている。
 それに呼応するように、囀りに書いた人が居た。ただ、それらの意見の多くは、報道同様に、無理解に基づくものであり、ある意味、権力への反抗によるもの、と言えるのだろう。法律の専門家からは、全体の事情を俯瞰した意見が、出されており、国毎の事情の違いも、論じられている。にも拘らず、こんな形で、一方的な意見を出してくるのは、社会媒体が、世に出てからの典型なのだろう。無知な大衆にとり、手にした端末に届く情報は、どれもこれも、重要なものと思えるらしい。その上、耳目を集める意見であれば、「いいね」の数も、閲覧数も、膨大なものとなるから、鵜呑みにしたくなるものだ。だが、それによって、何かしらの不利益を被れば、その責任は、発信側にあるのではなく、受信側にあると言われる。その上、その情報を転送すれば、そこにも、大きな責任が生じる。鵜呑みにすることも、同意することも、支援することも、どれも、心理的には、大層なことでない、と思うかもしれないが、時に、犯罪に加担することさえ、起き得ることを思うと、軽率な振る舞いは、避けるべきと思う。では、どんな対応策があるのか。耳や目を塞ぐ、というのは、極端なものだが、情報遮断が、最適策となる場合が多いだろう。だが、情報弱者を忌み嫌う人間には、折角の機会を逃すのは、耐え切れないとなる。では、情報を手に入れた後、どうすれば良いのか。簡単には、確認を怠らない、ということだろう。今回の問題でも、既に、前例が数多あり、その中で、専門的には、多くの議論が交わされた。その結果を眺めるだけでも、少しはましな状況となる。批判に必要なのは、確認なのだ。

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1月17日(水)−どんな責任

 殺人事件が起き、犯人が逮捕されると、その後、様々に取り調べが行われ、最終的には、裁判で罪を問うこととなる。その際に、最重要となるのは、殺意の有無だと言われる。意図の有無が、罪の重さを決定し、有れば殺人罪を問われるのに対し、無ければ、傷害致死や過失とされる。
 罪の重さだけでなく、罪か否かの判断も、意図的か否かを基準とする。刑法上は、そう決まっているようだが、庶民感覚として、理解に苦しむ場合も多い。更に、近年では、精神障害や心理的抑圧の有無が、罪を問えるか否かの基準となり、凶悪事件を起こしても、それだけで、罪が問えなくなる。意図の有無と、心の問題とが、関係するとの判断だが、だとしたら、そんな人間を野に放つのは、如何なものか、と思えるから、庶民に理解できないのだ。さて、こんな話を持ち出したのは、殺人云々の話をしよう、とする思惑ではない。事故直後に、囀りを賑わしていた、ある意見に対して、疑義を唱えたことについて、今一度、取り上げようと思ったのだ。交通事故では、以前から、事故の結果として、被害者を死に至らしめた場合、過失致死が問われ、特に、免許を有する関係から、業務上過失、となっていた。しかし、近年、重大事故が多発し、飲酒運転などのように、明らかに、運転者の意識が、確かな場合に限り、より重罪を問えるようになった。一方、先日の飛行機事故のように、職業操縦士として、多くの命を預かる人間や、それと同等の役割を追う人間にも、同様の処分が有り得る、と書いたのは、囀りの主が、否定的な意見を、海の向こうの事例を引きつつ、語っていたからだ。人身事故を起こした場合、自動車事故では、被害に掛かる費用を、加害者が負担するが、それが、職業上のものとなると、扱いが異なる。その点に関して、異論を唱えるつもりは無いが、業務上の責任は、問われるものと考えるからだ。意図的か否かとは異なる、判断基準となるが、それでも、ということになる。

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1月16日(火)−禍の元

 今、目の前にある危機を回避する為に、様々な努力が傾けられている。多くの事象で、同じ手法が用いられるが、その結果、全く異なる結末を、迎えることとなる。四年前、突然届いた警報に、政府を挙げて、対策が講じられた。最重要とされたのは、人と人との接触を避けることだった。
 だが、実際には、それから数ヶ月は、従来通りの生活が維持され、人々は、死の病の脅威に、恐れ戦きながら、見えない病原体への対策に、四苦八苦していた。今となっては、何が功を奏し、何が過ちだったのか、本来ならば、少しでも明らかにすべきだが、何への配慮か、はたまた、蓋をしたいのか、何の情報も漏れてこない。一方で、対策の影響は、甚大だったとの意見もあり、そちらに対して、現場の混乱は続いており、解決策も見えていない。特に、年度末が迫る中、学校への働き掛けが、突然決定され断行された。あらゆる催事が中止され、楽しみにしていた子供達は、落胆の色を隠さず、心理的な影響も、大きかったと言われる。だが、事は、それで終わらなかった。ある意味、当然と言えるだろうが、感染症の流行が収まる為には、かなりの時間を要する。その上、姿を変え続ける相手に、為す術無し、とも思える状態が続き、長期化の一途を辿った。結果、三年余りの間、世界中が門を閉ざし、互いに触れ合うことを避け、間接的な交渉術が、忽ち発達していった。一部のことは、それでも十分に補えるとされたが、結果はどうだろうか。教育現場は、少なくとも、大きな痛手を負ったままとなり、子供達は、戸惑ったまま、時には、次の段階を迎え、新たな出発をし、新たな環境で、勉学を始めたろう。その現場では、深刻な問題が起きている、とも言われている。接触を避けたことで、人間関係の構築が、より難しくなったこともあるが、それ以上に大きいのは、課題への取り組み姿勢と言われる。何もせずとも許されたのが、こんな禍根に繋がるとは、と思える事態は長く続きそうだ。

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1月15日(月)−なるように

 年明けの震災から二週間、以前の生活は、取り戻せていない。三十年程前も、十年余り前も、簡単には取り戻せなかった。だから、少し考えれば、遅々として進まぬ状況も、毎日繰り返される、悲惨な状況の報道も、そんなものと思うしかない。でも、何から始めればいいのか。
 経験者達が、色々な意見を出してくれるが、状況の違いをはじめ、個々の事例の違いに、当てはめることは難しい。では、どうしたらいいのか。真剣に考えれば、何かしらの糸口が、見つかると思うかもしれないが、どちらかというと、そう簡単に、結論を急ぐべきではなさそうだ。ただ、悲観的に考えると、結論が出せなければ、もっと悪いことが起きる、と思えてくる。だからこそ、何か良いことが起こらないかと、期待したくなることもある。でも、それとて、期待を抱くことこそが、悪影響を及ぼす場合もあり、安易な考えは、やはり禁物としか言えない。ただ、二週間も経てば、何かしら見えてくることもある。それぞれに、別々の考えがあり、それに従って、先々の計画を始める。すぐに、結果が出てくることは無く、すぐには、成果が得られないことも多い。でも、長い人生の中で、焦ることはないのかもしれない。何もかも失い、手に何も残っておらず、途方に暮れるかもしれないが、それでも、これ以上には、悪化することはない、と見ることができるかもだ。その一方で、良いとか悪いとか、誰がどう決めるかで、同じことでも、全く異なる見方ができる。これまで、良くても悪くても、平均を望んできた人間には、難しい状況かもしれない。が、結局は、人それぞれであり、その中で、違いを受け入れ、できることをやる、そんな生活に、暫く強いられるかもだが、それで良しとするのが、こんな窮地と付き合う為に、必要となるかもしれない。何だか、悲観的な見方に思えるかも、それでも、ここを脱すれば、と思うことこそ、今必要なのかも知れない。難しいことかも、だけれども。

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