パンチの独り言

(2024年1月22日〜1月28日)
(憂いあり、身近な存在、ぶっ壊す、議員とは、評価能力、取り戻すには、救いよう)



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1月28日(日)−救いよう

 子供達の機会を奪ったのは、一部の愚かな人々とはいえ、大人達だ。人の命を救う為、と称して、様々な愚策を繰り広げ、益も無いことを、さも正しいかの如く、吹聴した人々の責任は、重大だ。だが、世の中は、それだけで済まぬ、愚の骨頂を、し続けていることに、気付かぬのか。
 子供達が、学校に行きたがらない状況を、嘗ては、登校拒否と呼んだが、積極的な理由でなく、周囲との軋轢から、致し方ない状況と、不登校と呼ぶようになった。子供同士の虐めや、教師からの虐待が、主な原因とされたが、現実には、大多数が、原因不明とされる。彼らへの対処を、学校が余儀無くされ、個別の対応が、不可欠との意見が、専門家と称する人々から、出されてきた。確かに、一部の学校では、適切な対応が、功を奏したのだろうが、依然として、減る気配さえ見えぬのは、根本的な解決が、見えないからと言える。一方で、個別の対応は、社会性を築くという、学校教育の目的を、逸脱させるものであり、集団教育の意義を、蔑ろにするものとなった。確かに、一部の悩める子供達は、それらの措置により、生き生きし、目的意識さえ、取り戻したのだろうが、一方で、失ったものが、多々あることには、誰も目を向けない。と言うより、目を向ければ、差別との批判が、再燃するに違いなく、誰も触れられず、根本解決が、遠ざかるのも、無理もないと思える。落ちこぼれ、という言葉が、差別的に使われるようになり、それらの人々を、救うことこそ、教育の本質と、見誤った人々が、強い発言権を行使した結果、今のような歪みが、生まれたのではないか。弱者保護とか、救済とか、そんな言葉に惑わされ、全体の状況に、目を向けなくなった結果、学校の目的が、打ち捨てられ、個性という言葉で、誤魔化すことが、増えたように思う。教育水準の低下を、愁う意見が、増えている一方で、救済こそが、教育の本質と見るのは、どうだろうか。能力とは何か、考えねばならない。

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1月27日(土)−取り戻すには

 正体の知れぬ相手に、どんな対処が考えられるか。以前なら、神や仏に祈るしかなく、手の施しようが無い、とされたが、医学の発達により、人の往来を無くし、免疫獲得の手立てを講じれば、となったのだ。だが、結果は、どうだったのか。総括も無く、正体は知れていないままだ。
 その無力感もあり、また、度々変更される方針に、不信感が募った結果、世界中、と言っても、その殆どが先進国だが、大混乱の末に、猛烈な反発が起きた。と言っても、大人達にとっては、生活の糧を奪われたとか、不当な損失を被ったとか、その程度のことであり、嵐が過ぎ去れば、徐々に、元通りの生活を取り戻した。だが、この混乱により、甚大な被害を受けた年代がある。学校に通い、知識だけでなく、社会性を身に付けよう、としていた年頃の子供達だ。知識に関しては、確かに、様々な方策により、伝達が行われたものの、社会性については、集団行動が、厳しく制限され、対人関係など、本来、学校で経験する機会が、奪われた結果、重要な能力が、失われた子供の数は、急増したと言われる。初等中等教育において、この観点は重要であり、徐々に広がる行動範囲と共に、人との関わりを構築する術を、身に付けさせることが、大きな目的の一つとなる。だが、個人個人で、画面に向かって、学ぶやり方では、直接的な関係が築けず、結果的に、社会性の喪失となった。更に、高等教育でも、同様の問題が指摘されており、今後、少なくとも、それらの期間を合わせた、15年程度が、解決に要する時間、となり得るのだ。命より大事なものは無い、との掛け声で、断行された措置は、こんな負の遺産を残し、対処法を見つけられぬままに、時が過ぎていく。誰の責任、と言っても詮無いことで、子供達それぞれが、失われた時を取り戻し、更に、欠けている能力を、獲得する為の努力を、する必要があり、大人達は、支援をせねばならない。何から始めるか、さえ、見えぬ中でのことだ。

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1月26日(金)−評価能力

 泡が弾けた時、経済の成長は止まり、景気は、停滞から下降へと、移っていった。その結果、物価上昇は止まり、物価抑制へと舵が切られ、安価な商品に皆は飛び付いた。結果、給与も抑えられ、生活全体に、閉塞感が広がった。そんな頃、新たな評価の仕組みの導入が、試みられた。
 年功序列が当たり前で、どんな成果を上げようとも、一方、何の成果も上げられずとも、給与がある一定水準に保たれ、それがある意味、生活の安定をもたらしていた。ところが、景気後退がはっきりすると、特に、優秀な層からの不満が、噴出することとなる。年功序列と、終身雇用という、安定した仕組みが、保証できたのは、安定成長が約束され、国民の生活水準が、向上し続けたからだ。だが、悪いことが起き始め、一度勢いを失ってからは、回復の兆しが見えず、人々の焦燥感は、強まり続けた。となると、働きの悪い人間は、不要と見做され、不況の中でも、好成績を上げる人間は、それに見合う評価を欲するようになる。結果、給与に関する評価の仕組みが、大きく変わったのも、この時期だったろう。ただ、それは、自己評価であり、給与の自己申告制と呼ばれ、好奇の目が集まった。他人の評価もできないのに、自身の評価ができる筈がない、と言われた上で、この制度は消え去ったが、これを端緒として、年功序列は廃止され、個人それぞれを、評価する制度が、当たり前となった。ところが、評価はするものではなく、されるものとの認識が広がると、別の問題が、生じ始めたようだ。他人の評価を頼みとし、自分自身の能力を、測れぬ人間が、大部分となったようだ。転職云々を、仲介する企業が増えたのは、何かしらの因果関係が、あるのかもしれないが、それによって、この傾向は、更に強まったように見える。他人を評価する為には、まず、自身の評価をすませるべき、と思うのだが、どうだろうか。要するに、評価そのものが、できない人間が多いことに、何の変化もないのだ。

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1月25日(木)−議員とは

 国会議員の無法ぶり、倫理観の欠如は、今に始まったことではないが、それより、今回の騒動では、言われた通りにした、という点が、最大の問題だったろう。主体性の無い人間が、政に携わるのは、何とも情けない。選ばれし者、という自覚は、微塵も感じられなかった。
 この状況は、議員の社会では、ある意味、常識なのだろうか。地方自治体も、大合併を経て、大きな変化に見舞われた。議会は、合併後には、過剰な定数と、本来目指すべき、経費削減とから、定数減が当然と見做され、多くの自治体が、当事者の不満を残したまま、断行したと言われる。新たな選挙で、選ばれなかった者達は、一体どうなったのだろう。特に、近年は、議員職を副業ではなく、専業で行う人が増え、それこそが、民主主義を保つ為に、不可欠と論じられてきた。副業で行えば、出身業界の利害を、優先させることから、不正の温床となる、との意見や、専念することを優先し、片手間では困る、との意見から、専業議員が、大半を占めるようになったからだ。住民の代表として、という考え方が、悪いとは思わぬが、種々雑多な人々から、構成されるからこそ、議会政治が、保たれるという話は、何処に行ってしまったのか。確かに、土建屋の代表が、関わることで、工事の提案や、その請負の決定などが、一部に偏ることが起きたのは、事実だったろう。しかし、一方で、全体の均衡を保ち、利害の調整を図ることは、不可欠なのではないか。また、専業とする人々は、失職の憂き目に遭わぬ為に、住民中心の政策を、優先させることが、度々起こるようになった。納税者だからこそ、その権利があるとの主張もあるが、それが、必ずしも、市町村にとって、利益に繋がるとはならない。全体の均衡を、如何に保つかこそが、政の判断には、重要となる筈が、有権者とはいえ、一部の利益を優先させれば、失政へと繋がる場合も多い。税金政策は、その典型であり、選挙の具としてはならない。

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1月24日(水)−ぶっ壊す

 庶民感覚で理解できぬ、と盛んに批判されるが、法に反することに、庶民も政治家も、何の区別も無いのではないか。更に、批判を躱す為か、母体となった組織を、解体するとの結論に、誤魔化しやすり換えを、感じた人も多い。秘書が、という常套文句と同じに、見えてくるのだ。
 唐突な展開に、戸惑った人も多く、仲間内からの批判も、絶えないようだが、違反行為と組織の問題は、同等に扱うべきでなく、それが仮令温床となったにしても、解体すれば、解決するとは、誰が考えても、結び付きそうにない。元はと言えば、資金の獲得において、歴史的にも、数々の不正が起き、それを、取り締まる為の法律を、自分達で作ろうとすること自体、矛盾に満ちた暴挙だった。政治家たるもの、その位の良識は、持ち合わせている、との主張が、度々繰り返されたが、今回のことで、嘘八百だったことが、露呈しただけだ。一方、その資金稼ぎに、組織が加担したことは、誰の目にも明らかだが、各自が、自らの活動を、維持する為に、必要だと考えたのなら、組織の存在は、助けとはなっても、主因とはなり得ない。かと言って、嘗ての過ちを繰り返すかの如く、法改正を、自らの手で、と進めれば、またぞろ、ざる法が作られ、抜け道が設けられるだけで、根本解決には、程遠いこととなる。しかし、立法府は、自分達でしかなく、自らの手で、仲間の首を絞めねばならない。一方で、組織の必要性は、何度も論じられたように、不慣れな新参者を、教え諭す為とあるが、それを捨てて、何の得があるのか、理解に苦しむ。外交に長けた人物として、高い評価を誇ったものの、現実には、自らを律することさえ、叶わぬのでは、お先真っ暗、となるのも当然だろう。思い起こせば、ぶっ壊すとまで、叫んだ宰相は、結局は、組織を存続させ、都合のいいように、運営する形を残した。所詮、その程度の人物だったが、さて、今回の宰相は、どこまで破壊できるのだろうか。

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1月23日(火)−身近な存在

 論理的に物事を考える上で、目標となる点は何だろうか。一つひとつ、論理を組み上げて、ある目標に到達するのだが、それが見えてこないようでは、心許ない。一つの階段を上がるのに、何処に向かうかを考えることは、殆ど無いのだが、それでも、目標を設定しないと。
 考える上では、問題の核心に向かう、という感覚が重要となる。僅かずつ進むから、一段で、どれ位近づいたかを、実感することはできないが、それでも、ある程度、考えを進めれば、接近の実感を掴める。時々、後ろを振り返り、歩んできた道を、確認することで、迷走したり、誤った方に向かったり、時には、正反対に戻ったりと、過ちに気付くことも、重要となる。ところが、多くの人は、このような考え方の道筋を、歩もうとせず、ただ闇雲に走り出したり、時に、何処か遠くに飛び跳ねてしまう。これでは、後ろを見ても、何も見えず、自分の間違いに気付くことなど、できる筈も無い。ちょっとしたことだが、論理の道筋を、一歩一歩確実に進むことこそ、大切な心掛けとなる。だが、世の中は、そんなに重要なことに、目を向けることなく、自分の主張を押し通そうと、論理を崩し、道筋を破壊する人が、満ち溢れている。特に、枢要な立場にある人に、そんな傾向が強まるのは、周囲に居る人間が、同調するばかりで、問題点や論理の破綻を、指摘しないからだろう。地位を上り詰めれば、力が伴うこととなり、そんな人間が、多くなるのも止むを得ない。それを防げるのは、周囲の人間ではなく、誰を身近に置くか、それを決められる本人しか居ない。判断の過ちを、繰り返さないように、注意深く、頼りになる人間を、配置することが、最重要課題となる。ただ、これは、簡単なことではない。成功の道を歩んでいる人間に、厳しい批判の目を向けるのは、邪魔な存在となることが多く、結果として、排除することが多い。心して掛からねば、成功を続けることが、難しくなるのだ。

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1月22日(月)−憂いあり

 忘れた頃にやって来るから、備えをせねばならない、と言われ、本当に震災に遭うと、その通りとばかりに、備えあれば憂いなし、と連呼する。だが、その繰り返しは、何度起きても、同じに思える。自身を見れば、心理的な備え以外に、特段、何の備えもしていない。
 そんなことを書けば、ほら、こんな所にも、愚かな人間が居る、と厳しく批判されるか。だが、ほんの一握りを除き、大部分の人は、そんな程度の意識しかない。だから、被害が甚大になるのだ、と断じるか、それとも、だからこそ、社会的な整備が、重要となる、と思うのだろうか。何れにしても、大した違いは無い。所詮、十分な備えなど、出来る筈が無いからだ。不謹慎と思うかもしれないが、そんなものだろう、と思う。多くの人々が、揺れた直後には、今度こそ、備えをせねば、と思ったのかもしれないが、いつの間にか、忘却の彼方へと、追いやられる。人間は、確かに、大きな痛手を負った時に、深刻に考えるかもしれないが、いつまでも、それに囚われることなく、次の段階へと進む。その為に、優先することがあれば、備えは、二の次へと押し込まれる。その内に、日々の生活に追われ、何の準備もせずに、突然襲ってくる災害に、唖然とする。で、同じことが繰り返される。懲りない、と言ってしまえば、その通りと思う。だが、多くの場合、精神的な衝撃を、長く抱えることは、肉体にとっても、好ましくない。できる限り、早い内に回復することこそが、優先されるべきだろう。ところが、備えを持ち出す人の多くは、直後程、効果的だと考える。三十年近く前に起きた震災では、まさに、そのことが論じられた。それが、被災者に与えた心理的な圧力が、どれ程のものだったのか、考えたことがあるだろうか。次は、自分の番だ、と思うことで、備えをする、という考え方に、異論を唱えるつもりはないが、被害が拡大する最中、そちらに目を向けるのは、どうかと思う。

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