パンチの独り言

(2024年1月29日〜2月4日)
(伝達能力、疑い深い、無用の長物、過剰な要求、何の権利、不具合、新装開店?)



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2月4日(日)−新装開店?

 昨日書いたように、証券サイトを格納している、無料サーバーに不具合が発生した。昨年後半から、数回、こういう場で機能するソフトが、働かなくなっていた。今回は、おそらく、設定のみの調整で、解決したと思われるが、前々回は、かなり長時間に渡り、復旧しなかった。
 こういう場の面白さ、と書くと不謹慎極まりないが、そんなものの一つに、別の形で何度か取り上げた、噂の問題がある。その時も、数日経っても、管理者から反応が無く、どうしたのか、という類の書き込みが、掲示板に、次々と貼り付けられたが、その内、死亡説なるものが、出てくるようになった。特に、無料の仕組みの利用者には、誰が管理しているのか、知る人は殆どおらず、当然、状況を確認する手立ても無い。となれば、否定も肯定もできず、自分達のサイトが、どうなるのかという心配のみが募る。で、結局、死亡説へと至ったのだろうが、それが、ある程度、信憑性を帯びてくると、何やら、語り始める人々が出てくる。有る事無い事、様々に書き込むのは、それぞれの勝手なのだが、何とも無責任に思えた。こちらは、それ以前には、何度か遣り取りをしたり、困っている人の手助けはしたが、やはり、管理者の正体は知らず、何ともしようが無い。当然のことと思うが、掲示板が、賑やかになるにつれ、覗くだけで、何もしなかった。すると、徐々に、利用中止の宣言まで、飛び出し始めた。時に、別の無料サーバーの紹介を、書き込んだ人も居たように、記憶している。ただ、それでも、何もせずに、静観を続けた。結局、旅行から帰ってきたのか、管理者が、謝罪の書き込みをして、徐々に、機能回復が図られ、正常に復旧した。その途端に、心配していたが、何も書き込めずに居た人々が、安心を伝え始めた。この社会も、不思議なものだ。何かしらの関係で、互いに結ばれていても、結局、互いに匿名のまま、正体を知り得ない。でも、恩恵を受けている。近々、装備一新のようだ。

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2月3日(土)−不具合

 証券サイトは、無料のサーバーに、設置してある。前任者から引き継いで、もう20年以上経過するが、その間、サービスが打ち切られる度に、転々と、新たな場所に移ってきた。広告提示を、常とするなら、無料も理解できるが、ここは、そうではない。直前の所と同じだ。
 なので、何か問題が起きても、じっと待つだけとなる。権利の話を、ここ数日してきたが、それこそ、対価を支払わず、何の権利も生じそうにない。始める時も、脆弱性からか、データ保存をしておくように、との注意書きがあったような気がする。何れにしても、こんな場所が、提供されるのは、独り言を描く身として、有り難いと言うしかない。さて、改めて、こんなことを書くのは、現状、不具合が生じているからだ。独り言のページは、単純なhtmlで、書いているので、一つを除けば、何の問題もなく、提示されている。問題は、訪問数を掲示する、カウンターと呼ばれる仕組みが、htmlではなく、cgiで動いており、それが機能していない。昨年暮れにも、同じような症状が見られ、一部の利用者から、報告の掲示があった。ただ、今回は、他には何の報告もなく、どうなっているのか、知る由もない。データは、独り言に関しては、先週と今週のものが、別の形で保存しておらず、少々危うい状況にある。種々の掲示板は、一部を除けば、殆ど、新規の書き込みが無いから、あまり心配せずとも良さそうだ。個人的には、無料の場を、設けてくれるのは、大変助かることで、感謝するしかないが、このままでは、また、次の場所を探す必要が、出てくるかもしれない。暫く、様子を見るしかないが、どうしたものか。一方で、以前は、世間を賑わせていた、ブログは、それらの殆どが、姿を消したようだ。社会媒体に、せっせと書き込むのが、最近の傾向かもしれないが、それぞれに、一長一短があり、独り言のような形式では、今のやり方が、最善と思っている。読む人には、どうだろう。

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2月2日(金)−何の権利

 何故、そんなことを言うのか。今の時代、権利を主張するのは、当然のことだ、と思う人がいるだろう。確かに、基本的人権の保障は、この国でも、憲法で謳われるように、人それぞれの権利として、明確なものだ。だが、はじめに書いた権利は、それとは違うように思う。
 問題点を指摘し、整理した上で、それを解決する為に、必要となる権利を掲げる。そんな論法は、以前から使われ、常識となってきた。その筋道で語られる話は、誰もが、論理的なものと受け止め、納得するとされた。だが、最近の傾向は、かなり異なったものとなっている。問題点の指摘も、その整理についても、ごく論理的なものであり、納得できるものだが、そこから解決へと導く為に、必要となる権利とか要求へと、話が移った途端に、論理が歪曲され、飛躍した挙句、出鱈目な結論となり、法外な要求が並ぶ。こんな話が、巷を賑わせるようになったのは、いつの頃からか。常識という仮面をつけた、極悪人達が、非常識な話を作り上げた。報道は、それまでなら、論理の綻びを突き、非常識を戒めたものだが、今では、耳目を集めるのに躍起となり、話題性のみを優先させる。彼らが誇った慧眼は、いつの間にか、覆い隠されてしまい、批判的な視点は、失われてしまった。そのせいか、社会媒体の世界では、報道は、忌み嫌われてしまい、信頼は失墜したままだ。その中で、評論家に転じた庶民らは、問題点を指摘するだけでなく、そこから要求を組み立てる。何方にも、論理性が不可欠となるが、何故か、後者には、全く異なる物差しが、当てられるようだ。特に、権利に言及し始めると、築き上げねばならない、論理の積み木の数々は、ゆがんで重ねられ、今にも崩れそうになる。だが、悦にいった人間には、そんな矛盾に気付く気配はなく、一方で、好奇心のみで、眺める人々は、そんな代物を賞賛する。危うい限りと思うが、当人達は、酔い痴れている。困った時代になったものだ。

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2月1日(木)−過剰な要求

 国際機関の存在意義は、人権を保障する為だろう。だが、彼らの論法を眺めると、首を傾げたり、反論したり、したくなるものだ。感染症の時も、そうだったが、今回の軍事侵攻、紛争についても、納得できなかった。そこに、これでは、偉そうなことを言っても、所詮と思いたくなる。
 このこと自体、機関の存続を、危うくしかねないと思うが、当事者達は、相も変わらず、同じ論調を続ける。懲りないのか、はたまた、最重要事項のみを、主張し続けるのか。だが、こんな態度の取り方が、社会全体に広がっている、と感じることがある。先月読んだ本で、罰点をつけたが、そこに書いたように、指摘は、論理的で、ごく真っ当なものだが、そこから出てくる要求は、過激そのものであり、論理の飛躍どころか、反社会的とさえ思える、酷いものだった。だが、これが、海の向こうでは、新聞書評などで、絶賛されたようで、驚く程の売れ行きとのこと、このことが、今の世相を反映している、と思うのだ。問題点を指摘し、その解決に向けての提言をする。そんなことが、指導者の間で、常に行われてきたが、今や、その立場は、発言権の拡散に従い、一般的な人々、大衆の間に広がっている。はじめに書いたように、国際機関に属する、専門家達の提言が、的外れとなったり、逆効果を及ぼすようになり、社会全体に、好き勝手な意見が、氾濫する中、耳目を集めるのは、この類の極端な意見を、鏤めたものとなり、百害あって一利なし、という状況が、様々な所で生まれている。その原因は、確かに、識者と呼ばれる人々の、指導力の減退にあるのだが、一方で、大衆が手にした、端末からの発信も、巨大な力を獲得し、世論を誘導するように、なりつつあることが、大きな問題となる。論理性が重要なのは、言うまでもないが、一方で、様々な意見が、どのような論理に基づき、何処まで正当性を有するかを、吟味する力を、失いつつあることが、深刻な問題を生じている。どうすべきか。

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1月31日(水)−無用の長物

 国連職員関与の報道に、驚いた人も居るだろうが、ここを読んできた人には、やはりとの反応もあるだろう。少なくとも、パンチは、驚くより納得した。人道的に、と称して、難民達弱者を、救済する役目を負ってきた、国連内の機関は、地元の人間も関与し、今回の話となった。
 弱者保護が、特に重視される時代に、国連は、何事につけ、それを殺し文句のように、使い続けてきた。今回の紛争も、元はと言えば、国際社会が、解決の糸口さえ見出せず、暫定政府なるものを、認めてきたものの、実効支配は、攻撃を始めた組織が、行ってきた。その意味では、難民達にとり、その組織は、敵ではないかも知れないが、味方でもないものだ。その中で、起きた急襲により、多くの人質を取られた国は、反撃に出た。ただ、今の宰相は、以前から強硬派で知られ、今回の措置も、その線に沿ったものと言える。その中で、反撃の標的は、難民ではなく、組織であり、その基地であった。当初、病院や国連機関の建物の地下に、基地が隠されている、という主張の下に、猛烈な攻撃が、行われたが、当時、国連は、完全否定をし、事実無根と断じていた。だが、今となっては、それらの言葉が、果たして真実を指していたのか、疑わしく思える。支援をしてきた各国は、今回の事態を重く見て、資金拠出を停止、との判断を下した。だが、此の期に及んでもなお、事務総長は、その判断の誤りを、指摘するばかりで、自らの問題に目を向けないようだ。一方で、非人道的措置と、厳しく批判された国とその宰相は、集団虐殺の疑いをかけられる中、手を緩める気配は無い。逆の見方をすれば、当然のことであり、世界を敵に回してもなお、自国の安全を取り戻そうとするのは、ごく当たり前のことだ。こんな事態に陥ったのは、専ら、国際機関の不明によるものであり、二度の大戦後に、戦勝国主導で、再編されたものが、限界に達したことを示す。無用の長物と、なりつつあるのではないか。

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1月30日(火)−疑い深い

 端末から目が離せない、という状況が、病的な程となると、流石に、問題だろう。情報を手に入れようと、躍起になる余り、社会媒体から、洪水のように流れ出る、真偽不明の話を、次々に信じ込む。気になると、夜も眠れず、不安定な精神は、その病状を、更に悪化させる。
 こんな書き方をすれば、自分は違う、と反論したくなるだろう。確かに、一部の重症者と比べ、多くの人々は、そこまで深刻な事態とはなっていない。だが、噂に振り回され、嘘八百に惑わされ、精神の不安定は、増すばかりだとしたら、もう既に、すぐそこまで来ているのだろう。だとしたら、そろそろ、意を決して、下らない情報源を、投げ出す時かも。所詮、種々雑多な情報が、垂れ流される世界では、真偽入り混じるだけでなく、恣意的な情報操作さえ、行われていると見るべきだ。それに、まんまと乗せられて、片棒まで担ぐとしたら、ひょっとすると、犯罪に手を染める、とならないとも限らない。情報弱者が、忌み嫌われる存在となり、そうならぬように、と願う人々は、せっせと端末を覗き込み、賛成の意を投じ、時に、その拡散に手を貸す。だが、そんな行為が、本人の為になるとは、とても思えないし、社会に役立つとは、決してならない。本来、論理的とか、科学的とか、そんな思考をする為には、物事を、批判的に捉える必要がある。critical thinkingと言われるものだが、簡単には、疑ってかかることだろう。まず、異論を挟んでみる、という態度で、他人の話を聞いたり、何かを読んだりする。そこでは、単純に、真偽を確かめるだけでなく、一つひとつの事柄に、別の可能性の有無を、考えてみる必要がある。大したことのない話だが、今の世の中、多くの人々が、それを怠り、自ら穴に落ちていく。理由の一つは、多数の原理だろう。皆が信じるなら、と思う人には、批判はできない。もう一つは、心地良さ、とでも言うものか。何方も、役立たずと思うべきだ。

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1月29日(月)−伝達能力

 社会媒体が登場する以前から、既に、一部の人々は、世界に向けての発信を、行っていた。では、当時との違いは、何だろうか。この独り言も、その類のものに当たるが、読んだことのある人には、分かり難いとの感想を、抱いた人が多いだろう。理解の有無とは、何処から来るのか。
 ここでは、分かり易さを目指しておらず、読み手に考えて欲しい、と考えている。意図的な操作だが、社会媒体以降に、この世界に参入した人々は、情報収集の一方で、発信に重きを置いているだろう。だが、自らが収集する際に、端末に表示された文章の、分かり易さを優先していないか。つまり、読み始めた時に、行間を読み取るとか、裏を考えるとか、そんな面倒なことは、御免と思っており、そんな書き手とは、二度と出会いたくない、と思ったりするのだ。その意味で、人気のある書き手は、兎に角、分かり易さを優先し、漢字が少なく、難しい言葉も使わずに、平易な文章で書こうとする。これ自体、悪いことではなく、歓迎すべきだろうし、心掛けるべきことだろう。ただ、それで、内容が薄っぺらになっては、何にもならない。難解な事情を、分かり易く伝えることは、重要なのに、中々に難しいことだ。一方で、平易とか難解とかとは違い、論理の飛躍が著しく、ついていけないという文章もある。こちらに関しては、始めと終わりで、書いていることが、正反対となったり、途中で、真逆の主張を展開し、書き手自身が、混乱している場合もある。これでは、他人に読んで貰うには、失格だとしか言えず、書いている最中も、書いた後も、点検を繰り返して、一貫性の有無を確かめる必要がある。話し合いでも、そんな人を相手にすると、困り果てることが多く、仮令、指摘したとしても、憤慨するばかりで、埒が明かない。この点にも、注意が必要で、情報発信に携わる人間には、不可欠な能力となる。ただ、これ程の流行では、大勢の人が書いており、無価値なものが氾濫している。

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