パンチの独り言

(2024年2月5日〜2月11日)
(騙されぬ、不思議、突っかい棒、責任逃れ、忘れない、力を好む、力不足)



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2月11日(日)−力不足

 改めて、書いておきたいのだが、分かり易さとは、どんなことだろう。ここでも、度々書くことだが、パンチの独り言は、分かり易さを追求していない。何方かと言えば、読み手が、すぐに理解できずに、何だろうか、と考えてくれれば、との意図をもって書いている。
 一方、社会媒体の世界では、明らかに、分かり易さが、優先されているようだ。それも、理解そのものではなく、共感に近い感覚を、抱けるような内容が、好まれる傾向にある。つまり、自分の考えと、どの程度合致するかが、肝心な要素となる。だが、それだと、困ることが多いと思う。まず、自分の考えが、正しいか正しくないかを、吟味しないことが、重要となる。本来ならば、自分が抱く考えが、通用するか否かを、他人の文章を読んだり、他の人の意見を聞いたりして、判断するのだが、この世界では、そんなことは、行われていない。それより、共感が最優先となり、仲間を見つけることが、重要となっている。これでは、新たな情報が、手に入る筈もなく、ただ、同好の士が集まるだけで、確かに、盛り上がるのかも知れないが、それだけにしかならず、時に、大きな間違いを犯し、暴走するだけの集団となる。社会媒体は、まさに、そんな危険性を孕んでおり、警戒を要するものと言える。一方、高校までと違い、大学で使った教科書は、総じて、理解し難いもので、講義を通して、理解を進めるものだった。最近は、分かり易さが優先され、漫画まで採り入れられ、門戸を開こうとしているが、果たして、理解の程度は、深まっているのか、怪しいものと思う。一方で、難しい内容を、如何に分かり易く伝えるかが、肝心と言われるが、その点については、まだまだ発展途上としか言えない。多くの専門家は、分かり易さに心掛けるものの、現実には、専門用語を駆使し、複雑な話に終始する。たちが悪い場合には、意図的に、難しく話すことさえある。ここでも、実力の違いが、表面化する。

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2月10日(土)−力を好む

 軍事侵攻をした大統領と、海の向こうの前大統領は、熱烈な支持者が居る点では、共通しているが、その他の部分は、大きく違っている。何しろ、国の体制が異なり、あらゆる独裁が、妨げられる国と、望みさえすれば、思い通りになる国なのだ。この違いは、非常に大きい。
 だが、支持者にとっては、同じように、強大な力を誇る人間、と映るのではないか。そう考えてみると、今の社会媒体の世界では、そんな人間が、圧倒的な支持を獲得できる、と思えてくる。操り人形のよう、と揶揄される、この国の宰相や、海の向こうの現大統領は、確かに、権力を握っていても、それを、非倫理的、非道徳的に、行使することは、許されない。だから、絶対的な指導力を、手に入れることも、難しくなる。その点を捉えて、誰か、別の人間が、黒幕として存在し、彼らが、操っているというのだが、何とも馬鹿げた意見としか思えない。独裁政治は、確かに、それを利して、何かしらを得る人間には、都合の良い仕組みだが、その他大勢には、ただの圧政にしか、なり得ないのだ。でも、何故かは解らないが、そういうものを好み、それに近い、力を誇示する人間を、支援する人々が、囀りの世界では、存在するようだ。その上、賛同者を得て、勢いを増したのが、かの前大統領が、君臨した時代だったのだろう。しかし、それとて、民主主義の下では、力の維持も、地位の確保も、実現できずに、引き摺り下ろされた。そこに至っても、本人は、敗北を認めることなく、陰謀説を唱え続け、今に至っているが、それを支え続けるのは、社会媒体に巣食う、力を好む人々なのだろう。重要な決断を下すのに、力が必要なのは、言うまでもないことだが、一方で、独断で押し切るしか、方法が無い訳ではない。多くの賛同を得て、正しい道を歩むことこそが、施政者に託された務めだろう。それさえ、歪曲した挙句に、権力に擦り寄る輩は、所詮、何事も、批判的に捉えられぬ、愚か者なのだ。

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2月9日(金)−忘れない

 大震災や大きな事故がある度に、何度も情報が流され、「忘れない」と呟かれる。その一方で、精神的、心理的に強い衝撃を受けると、心の傷が残り、回復に時間を要する、と伝えられる。一見、矛盾することを、世の中は、どう受け止めているのか。はたまた、どうでもいいのか。
 確かに、自分を守る為に、何方も必要だが、両方共とはいかない、ような気がする。それを、報道は、使い分けており、あちらではこう言い、こちらではああ述べる。画面や紙面を通して、それらの情報を受け取る側に、選択の余地はなく、突然流れ始める、何方かの意見を、押し付けられる訳だ。一見、それぞれの人々に、配慮したかのような、言いようなのだが、実際には、正反対のことであり、聞く側が、それに応じて、演じ分ける必要が出てくる。しかし、はじめに書いたように、人間の心理は、そう容易くは、思い通りには動かせず、結局、積もり積もって、何かしらの問題を生じる。だったら、と思うのは、こんな適当なことを並べず、ただ単純に、その時の情報を、流すだけでいい。特に、配慮したかの如くの、言い回しを多用し、その上、同じような話を、手を替え品を替え、何度も何度も、繰り返すのだ。これでは、「忘れない」どころか、まるで、「忘れるな!」とばかり、強制されているように感じる。更に、労りの言葉を並べ、寄り添っていると、伝えているのだが、それは、ある人々に対しては、甚振りにしか思えず、苛めの一種とさえ、感じられるだろう。何を好んで、そんな暴力を、振り回すのか、とさえ思えてくる。しかし、当人達は、大真面目であり、「忘れない」ことこそが、全てのように扱っている。だが、災害や事故などで、危険に晒された時、どう振る舞うかは、覚えているかどうかではなく、単に、それに対する対処が、身に付いているかによる。そこには、記憶とは別の類の、何かしらの能力が働いており、世間が喧伝するような、代物ではないと思う。

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2月8日(木)−責任逃れ

 免責と聞けば、保険の話を浮かべるのが、庶民の常だろうが、今、話題となるのは、海の向こうの話だ。在任中に、罪を犯したとしても、その責任は問われない、との主張は、再び退けられた。すぐ隣の同盟国では、政権が交代した途端に、前任者が、収監されるのだが。
 この辺りの事情は、大きく異なっている。すぐ隣は、近年の大統領で、その憂き目を見なかったのは、ただ一人と言われ、交代時の習わしの如くなっている。だが、海の向こうでは、そんな話は、とんと聞いたことがなく、今回の騒動は、一体全体、どうしたことかと思う人も多い。更に、理解に苦しむのは、肝心の襲撃に関する裁判が、免責の結論が出ず、何も始まらないことで、訴訟社会の常として、自らに有利になるよう、手練手管を尽くすから、と揶揄されている。だが、立候補の資格の有無を含め、兎に角、話題だけは集めており、それが人気の源などと、馬鹿げた話さえ、出てくる始末に、世も末と思えてくる。何れにしても、免責云々の話は、詭弁に過ぎず、法律の重箱の隅を、突きさえすれば、何でもありとなる。しかし、庶民感情から言えば、罪を犯せば、罰せられるのは当然であり、どんな言い訳も、通じないのが当然ではないか。そのこと自体も、今回の馬鹿騒ぎには、呆れるばかりとなるが、その上、そんな人間に、票を投じようとする人間が、ごまんと居ることに、驚くしかない。分断が露わとなったから、とする向きもあるが、本当に、そうだろうか。一方で、現状打破への期待から、という意見にしても、次に何が起きるのか、五里霧中ではないか、と思ってしまうと、何事かと思えてくる。ただ、前回の任期中に、国が滅ぶ所まで、行かなかったから、という意見があるとしたら、それは、大間違いだろう。あれ程に愚かでも、国を治める仕組みが、確立した中では、無力だったということだ。その意味で、独裁政治とは、全く異なる状況なのである。

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2月7日(水)−突っかい棒

 教育現場で犯される、最大の過ちは何だろうか。ちゃんと教えないとか、厳しく叱るとか、そんなことを、思い浮かべた人も多いだろう。だが、最大のものは、自分達が経験しなかったことを、子供達に押し付けることだと思う。経験できなかったから、やらせてやる、という話だ。
 今、行われているもので、最大のものは、おそらく、小学校で英語を、という教育だろう。多種多様なことを、学ばせることに、反対する人は居ないだろうが、時と場合を選ばずに、どんどん押し付ける、となってしまうと、本人達は戸惑い始め、所謂、躓きを経験することとなる。英語の話は、大人達が、外国に出かけたり、外国人を迎えたりする時、上手く対処できなかった、という経験があり、それを防ぐ為には、幼い頃から学ばせることこそが、重要と考えたからだ。しかし、言語能力は、成長に従って身に付き、徐々に、ある水準に達する。その際に、多様な言語を、同時進行で学ばせることが、必ずしも、効果的とは限らない、という話もあり、今のやり方に対して、反対の声も上がっている。転ばぬ先の杖、とでも言いたいのだろうが、肝心の杖が、突っかい棒のようになり、邪魔となる場合もある。同じようなことが、昨日の夕刊に、掲載されていた。教育家なる人物が、都会で盛んとなる、中学受験の問題で、受験しない子供達が、勉学の目的を見失い、戸惑うことがある、と指摘したのだ。その上で、それを支える為の対策を、一つひとつ上げていき、周囲の大人の対応が肝心、と論じたようだ。だが、これとて、またぞろ、同じ類の話だろう。子供達の学習意欲は、何かの目的を抱かせ、それに向かって、突き進むことで、涵養されるのではない。それこそ、自然に、自分の中から、知ることの喜びを感じ、その達成感から、次の目標へと向かうことこそが、重要なのではないか。押し付けで、何事も解決するのは、今の教育界が抱えた、大問題のように思う。

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2月6日(火)−不思議

 政治資金の不正疑惑は、ある告発状がきっかけで、始まったと言われる。これまでなら、蜥蜴の尻尾切りやら、秘書がやったことやら、そんな弁明で、有耶無耶になったものだが、今回はそうならなかった。その点も、ある意味不思議な所だが、全く別の点で、大いなる不思議がある。
 政治の世界では、あからさまな買収だけでなく、多くの金が要る、と言われる。買収となれば、明らかな犯罪となるから、誰もが手を染める、という訳ではないだろう。しかし、要るものは要るのだから、何処かから、算段をつけねばならない。資金力が必要とは、おそらく、古今東西変わらぬ、政治の世界での常識なのだろう。その点で、今回の不正では、一旦は、正当な資金集めとして、パーティー券なるものを販売したものを、ノルマを達成した人々には、それを上回る収入を、戻す手段が講じられた。不正となったのは、その収支報告が、なされていなかったからで、それにより、記録に残らぬ支出の財源を、確保した所に、多くの政治家が群がり、簿外の活動に、活用していた訳だ。だが、どんなに算段しても、収支報告は、法律上で規定されており、それを怠ったことは、明らかな犯罪となる。まあ、そんな遣り取りが、続いてきたのだが、その過程で、本来なら、誰もが思い当たる話に、全く触れようともしないことが、大いなる不思議なのだ。桜を見る会は、総理主催で、1952年から行われており、ある問題が発覚した後、中止となった。その問題は、当時の総理が、前夜祭なるものを開催し、そこでの参加費と経費が、著しく異なる点が、追及されたものだ。期間は、2013-19年だったそうだが、一方で、今回の不正疑惑と類似のことは、20年以上前から、行われていた、とされる。だったら、前夜祭の経費が、そこから捻出された可能性も、大いにありうるのだ。だが、誰も触れず、知らぬふりを続けている。死人に口無しだが、一方で、死者を冒涜するのは、避けるべきとの忖度か。

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2月5日(月)−騙されぬ

 噂、伝聞の類は、要注意だが、社会媒体では、伝聞を装うことが多い。噂とは、情報源もはっきりせず、時に、内容さえ、不確定な部分を含むが、一方で、伝聞は、その源だけは明らかにし、内容の真偽には、保証せずという態度が、殆どだろう。だが、その様相さえ、変化しつつある。
 特に、昨年辺りから、盛んに取り上げられているのは、人工知能を利用した、捏造の数々だろう。伝聞では、仮令、耳目を集めたとしても、それ程の影響が出ないが、本人が語る映像や、現場からの映像など、目に見える形で、訴えるものには、絶大な力がある。それを、捏造するというのだから、困った問題だろう。以前は、囀りなどで、本人を騙って書き込み、話題を集めたものが、盛んに流されていたが、アカウント名など、同一でないとの指摘で、発覚する場合が多かった。嘗て、ここでも書いたが、匿名性が保たれた掲示板で、議論を重ねる中、本人しか知り得ないこと、という点を参加者が指摘し、確定した話があったが、こちらは、単に、社会を騙そうとして、犯罪行為を繰り返すだけで、何の役にも立たない。そんな輩に、強力な武器を与えることとなる、との指摘が繰り返され、その検証を、またぞろ、人工知能にやらせよう、との動きも出ている。マッチポンプの一種では、としか思えないが、関係者らは、大真面目の様子で、呆れるしかない。所詮、捏造の類であれば、発言者本人が、否定すれば済むことで、逆に言えば、確認を怠らなければ、何の問題も生じない。噂に惑わされる人々は、その多くが、情報弱者を忌み嫌い、他を出し抜こうと、躍起になるものだ。その為、多くの場合、確認を怠り、騙された挙句に、損害を被るなど、煮え湯を飲まされることとなる。誰が、悪いのかと言えば、当然、詐欺を働く犯罪者だが、だからと言って、簡単に騙される人々に、なんの責任も無いかと言えば、そうでもなさそうに思う。少しの注意が必要ということだろう。

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