パンチの独り言

(2024年2月19日〜2月25日)
(思いつき、物価高、通じない、下らない、高値超え、元も子も、違和感)



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2月25日(日)−違和感

 いつだったか、「させていただく」に関する本を読み、あまりの内容の薄さに、がっかりした覚えがある。そんなものが、世に出てくるのは、社会全体に、そんな用法が氾濫し、パンチを含め、人によっては、不快感を催す程に、なっているからだ。しかし、今度は、違う。
 先日、誕生日を祝いに来た人々に対し、硝子の向こうから、挨拶した人物から、発せられたのは、「来ていただき」だったか、それとも、「祝っていただき」だったか、兎に角、誰が誰に向かって、そんな言葉を発するのか、と思えるものだった。手にした紙には、侍従が認めたであろう、挨拶文があり、それを読んでいるだけ、なのだろうが、それにしても、如何なものかと思えた。仮令、侍従が認めたにしても、2代前の人物なら、何かしらの指摘を、したに違いない。だが、時代が変わり、80年程前に、神のような存在から、人間へと変わったとは言え、更に、近しい存在へと、望んだからだろうが、それにしても、である。「来てくれてありがとう」の一言で、済ませていた頃と違い、何かしら、下の方に降りて、近しい存在として、挨拶しようとでも、したのかもしれない。にしても、この状況は、どうだろう。最も長く続く、君主制と言われるが、それぞれの国で、批判の声が高まり、難しい状況が、起こり始めているらしい。だからこそ、こういう挨拶も、それなりの気遣いも、必要なのだとでも、言いたいのかもしれないが、それこそが、誤った方向への、進展に思えてしまう。何も、尊敬に値する存在として、居続けて欲しい、と願う訳ではない。象徴となっても、君主として、やるべきことは、数多くあり、そういう存在だからこそ、できることがあるだろう。無理難題を、強いるつもりはないが、こういう形が、長く保たれてきたからこその、国民性もあり、また、そこから生まれる心情もある。ほんの一言で、有難いと思えば、いいのだけれども。

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2月24日(土)−元も子も

 瀬戸内の一部では、春の風物詩として、この季節に、家々で佃煮が炊かれる。嘗ては、狭い地域だけのものだったようだが、今では、かなり広範囲になったらしい。その拡大に反して、漁獲量は、ここ数年激減し、絶滅の危機に瀕している、とまで書かれている。
 半世紀以上前に、先進各国で、公害の問題が、深刻化したことがある。確かに、工場排水や排気に、多くの有害物質が含まれ、人々の健康を害するだけでなく、深刻な後遺症を残し、盛んに報じられた。当初は、経済発展を優先し、一部の被害者に、何の補償もせず、放置していたが、報道による批判などから、政府を挙げて、対策を講じ始め、補償も行われた。だが、同じ頃に、家庭からの排水や廃棄物の問題も、表面化していた。特に、合成洗剤の問題が、深刻となり、天然洗剤への回帰が、取り沙汰されていた。その後、徐々に浄化が進み、今では、嘗てない程の水準に、到達していると言われる。が、最初に取り上げた問題が、まさに、浄化こそが原因では、とも言われている。水質改善が進んだが、今でも、循環型社会の実現に、更なる浄化を、と訴える声が聞こえるが、どんな状態が、循環型に必要か、という点の議論は、殆ど聞こえてこない。そこに、一部の漁業関係者から、海の栄養が不足し、魚介類の生育に、悪影響を及ぼす、という声が上がった。真偽の程は不明だが、自然を考える上で、追い求めるべき対象が、間違っているかも、と考えさせられる。一方、漁獲高の激減は、それだけが、原因でもない、との声もあり、予備調査の結果から、愈愈、禁漁も考えるべきか、との意見もあるらしい。既に、漁期を限定するなど、対策は取られているが、一向に改善しない状況では、やむを得ないとのことだ。果たして、どうなるのか。食卓の必需品とされたものが、姿を消してしまうのは、寂しい限りだが、絶滅させては、元も子もない、ということなのだろう。

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2月23日(金)−高値超え

 経済紙の一面に、最高値の文字が踊る。証券業界の人々の、30年ぶりの喜びの声を伝え、景気回復が、本格的となったと解説する。しかし、一方で、報道は、街の声として、実感が無いとか、生活が苦しいとか、そんな話ばかりを取り上げ、盛んに、不安を煽り立てる。
 不安や心配を、掲げることこそ、自らの役割と、信じ込んでいるようだ。しかし、これまでの最高値が、伝えられた当時、今とは、多くの面で異なっていた。半世紀程前には、貯金利率の引き上げで、半年複利の仕組みでは、10年で倍になる、とされていた。その後、相場や不動産価格の高騰で、社会全体が浮かれた後、一気に、泡が弾けてしまい、経済は、低迷の時代へと、駆け下りていった。預貯金の金利は、経済成長により、大きく左右されるから、当然、利率は下がり始め、遂には、小数点以下に、幾つ0が並ぶのか、と言われる程となり、外国では、預けるだけ損となる、という程にまで、落ち込んでいた。その中では、資産運用として、有効と見られたのは、株式、債券、為替辺りだったろうか。運用するより、ただ貯める方がいい、と信じてきた国民には、この急変は、対応し切れず、庶民の関心は、値下げや安売りへと、移っていった。だが、その後の停滞を招いたのは、主に、そういった国民感情と、それに応えようと、減税などの政策を、繰り出す政府に、原因があった。生活が、楽にならないと言いつつ、ただ漫然と、日々の消費を続け、不平不満を並べるだけでは、何の解決にもならない。資産運用が、老後への備えとして、常に考えられてきた、海の向こうでは、全く異なる様相が続き、波はあるものの、それなりの成長を、続けてきている。こちらも、遅ればせながら、やっと、以前の頂点を超えたことで、次の展開が、始まろうとするが、ここに至っても尚、動きそうにない人々の、相手をするのは、やめておいたほうがいい、と思う。賢く生きるとは、何をすることか。

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2月22日(木)−下らない

 読んでいないが、「質問力」なる本がある。意思の疎通において、相手に、何を尋ねるかが重要、という意味だとしたら、庶民にとって、高い壁となりそうだ。何しろ、尋ねる事柄の質の高さで、人間の価値が決まる、と思う人が居る。その中で、この本は、何を狙ったのか。
 読もうとさえ、思ったことのない本を、話題にするのは、間違いだろうか。ただ、きっかけとして、取り上げただけで、意思の疎通において、質問の仕方と答え方が、非常に大切となるのは、確かなことなのだが、それは、質が高いかどうかとか、高度な内容を尋ねられるとか、そんなことによるのではない。講演会でも、不明を詫びる言葉から始め、重箱の隅をつつくような質問を、並べる人が居るが、辟易としてしまう。それより、誰もが疑問に思うが、馬鹿にされそうで、尋ねることができない事柄を、口にしてくれる人が居ると、ほっとするだけでなく、その後の遣り取りでも、成る程と思うことがある。演者にとって、簡単な質問だから、答え易いという訳ではなく、思いがけなく、はじめの段階から、聴衆の理解が、進んでいなかったことに気付き、補う説明を継ぐのだ。それにより、多くの聞き手に、改めて全体の理解が進み、別のことを尋ねてみよう、と思うことさえある。簡単なことを、尋ねただけなのに、何故、場の活性が上がるのか、と思う人には、理由は見えてこない。だが、何も理解できず、困り果てた末に、分かりもしないことを、尋ねるよりは、ずっとましだろう。意思の疎通とは、おそらく、その程度のものであり、高度な議論をすることだけが、目的とはならない。特に、興味本位を含め、何の予備知識もなく、話を聴きに来た人々には、その程度でも、という安心感は、重要な手助けとなる。実は、その場で大切となるのは、年長者が率先して、その役を演じることであり、時には、本心から、初歩的なことを尋ねるのが、最も効果的となる。難しくする必要は無い。

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2月21日(水)−通じない

 感染症蔓延防止に、人流制限が、最大の効果を上げる、と専門家が喧伝したが、その結果は、どうだったのだろう。誰も、検証を行わず、誰も、結果を論じない。こんなことでは、科学への信頼は、失われたままとなる。その上、唯一の頼みとばかり、先進各国で行われた、接種はどうか。
 調査を本業とする人々が、手を出さないのは、何故なのか、下々の者達にとり、理解不能となったが、どうでもいい、というのが本音だろう。だが、振り回された大衆には、その一言で片付けるには、納得しかねることが多過ぎる。例えば、教育現場では、直接的な接触が、禁忌事項となり、画面を通した遣り取りが、殆どとなった。徐々に慣れた子供らは、それでも、何かしらを身に付けたのかもしれないが、全体の状況は、芳しいとは言えない。特に、意思の疎通において、大きな変化が生じ、それまで以上に、戸惑う場面が増えたと言われる。この問題を、直視しない人に対しては、例えば、社会媒体での意見交換を、眺めてみよ、と言いたくなる。今は、対面のように、その場での遣り取りに似た、質疑応答が行われ、問題無いと思うだろうが、現実には、的外れな質問や、尋ねられたことに、全く答えていない回答など、問題が、山積している。その上、対面ならば、その場での会話により、互いの齟齬を、指摘することができるが、媒体を通した途端に、それが、上手く回らなくなる。これこそが、対面の重要性として、多くの人々が、指摘する点であり、その解決には、端末を通したものでは、至らない場合が殆どだ。逆に言えば、そういう力不足が、ネット社会では、露呈し易いと言える。その上、当の本人は、そのことに全く気付かず、相手の問題と捉える。これは、ネット掲示板、と呼ばれる代物が、登場した頃から、指摘されてきたことで、今更の感があるが、今更でも何でも、放置していいものでは無い。対面でさえ、問題を抱えているのだとしたら、尚更、考えねばならないことだ。

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2月20日(火)−物価高

 他人の意見を理解し、自分の意見を纏めるのに、論理が不可欠となる。だが、大衆を相手にした時、折角築き上げた論理が、何の役にも立たないこともある。群集心理というものに、振り回される人々に対して、論理は、ほぼ無力となる。非論理的であっても、通じた途端に、皆が走るのだ。
 その意味で、心理を操ることは、政治においても、経済においても、重要な武器だろう。様々な要因から、世界的な物価上昇が続き、人々の生活が、厳しくなったと言われるが、状況は、国によって、大きく異なっている。海の向こうでは、依然として、個人消費が堅調で、経済全体も、安定している、と伝えられる。一方、こちら側はどうか。物価高に苦しめられ、日々の生活が、困窮してきたという話ばかりが、届いており、経済も、先行きへの不安が、払拭できない、と伝えられる。何が違うのか。訳知り顔で、給与が上がらず、収入が増えないから、物価高が、家計を直撃するのだ、と答える人が居るだろう。確かに、そういう要因もある。だが、何故、長年、給与が上がらなかったのか、その理由を考えると、少し答えが見えてきそうだ。収入が増えないから、物価高が忌み嫌われ、製品の値段を、上げられずにいた商店や企業は、ここぞとばかりに、値上げし始めた、と言われるが、その実、消費者達は、値上がりを、依然として嫌い、安物買いさえ、できない事態に、購入自体を諦めた、と言われている。これでは、消費は、回復する筈もなく、経済が回らないのも、当然ではないか。何故、そうなるのか。安物に慣れた人々に、物価高を、悪いこととして伝え続け、その結果、増えた筈の収入も、使うあてが無くなり、結果として、更なる昇給は、望めなくなる。そこで、強く作用しているのは、群集心理と、それを操ろうとする、報道による情報操作だ。それに対して、海の向こうでは、物価上昇は、ある意味当然であり、それが、巡り巡って、収入増に繋がる、と理解している。成る程。

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2月19日(月)−思いつき

 論理的に、物事を考えることが重要、と説いてきた。他人の話を聴く時も、自分で話をする時も、論理性の有無は、最重要の要素であり、欠けた話は、聴くにも、話すにも、無価値となる。その線上で、科学的、という点に関しても、問題となることが、多々ある。
 隣国との間で、同じ言葉を用いて、正反対の結論を、導き出した上で、互いを認めないのは、如何なものか、と思う。これは、ほぼ政治的なものであり、政治に科学は無縁で、仮令、論理を展開したとしても、その根拠となるのは、科学でない、という場合が殆どだ。一方、経済はどうか。平日の朝、経済番組を観ているが、そこに登場する専門家には、大きく分けて、二種類の人間が居る、と思っている。科学的な思考の有無が、その区別なのだが、無い方の専門家が、出演する時の話は、多くが、聞くに堪えない。経済では、数字を頼りにして、論理を展開する場合が、殆どなのは当然だが、その算出法に、問題が生じるのだ。計算そのものは、如何にも、数学的な道具を、使っているように見せるが、その実、根拠となるものが、存在しておらず、さて、この話は、信用の置けるものか、と思うことが屡々ある。何故、そんなことが起きるのか。理由は単純で、本人が、自らの主張を先に作り、それに見合う数字を、当てはめる作業をするからだ。これでは、算出の根拠は、示される筈もなく、論理の欠片も、感じられなくなる。呆れるのは、同時に並べた数字が、それぞれに、根拠となるものがあり、それなりの論理の上に、立っているように見えるのに、肝心の主張には、それが無い、という事態だろう。これでは、話にならない、としか言いようがない。数学の世界で、いつまでも、確率という分野が、学問として認知されないのは、常に事後の説明でしかなく、事前の予測が、成立しないから、と言われる。経済も、実は、似たような所があり、未だに、認めない人が居るのは、こんな理由からか。

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