パンチの独り言

(2024年2月26日〜3月3日)
(科学的とは、政治と科学、手配写真、経験済み、男女差、平等感、富の元)



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3月3日(日)−富の元

 今朝の経済紙の一面トップには、「大学、生かせぬ「富の元」」、という見出しが、踊っていた。そこから、読者は、何を思い浮かべるか。パンチは、人材育成の話か、と思ったのだが、現実は、特許収入が、海の向こうと比べて、50分の1しかない、という話だった。
 引用した、ネット上の見出しには、全く異なる言葉が、踊っている。曰く、「大学に眠る特許、生かせぬニッポン、米国は収入50倍」、とある。印刷のものと、ネット上のもので、違ってくるのは、完成の時間のズレ、があるのだろう。それにしても、と思うこと頻りだ。経済界では、大学とは、知の源であり、それは、企業活動に不可欠な、新製品開発に、必須のものとの認識が、あるという意味だ。しかし、現実には、大学で、研究に費やされる予算は、ここ四半世紀、減り続けており、まさに、経済の停滞で言われる、「失われた30年」が、反映したもの、と言えるのではないか。実は、その四半世紀前に、大学では、知的財産に関して、大きな変化が起きた。それまで、研究と特許は、直接結びつかないもの、と受け取られていたが、突然、その重要性が取り沙汰され、部門が新設されたのだ。それ以前から、国内で、眠っている知的財産を、掘り起こそうとする動きが、ある省庁の外郭で、起きていたが、それ自体は、企業も大学も区別なく、活用への道筋を、立てようとするものだった。だが、一向に埒が明かず、痺れを切らしたからか、直接、国立大学内に、その促進を図る組織を、打ち立てたのだ。しかし、現状を見れば、明らかなように、その英断は、全く功を奏さず、依然として、厳しい状態が続く。つまり、この決断こそが、大学への運用資金を、縮小するための算段であり、その後続き、今、窮状が伝えられる状態への、道をつけるものだった。がしかし、結果は、明らかだろう。経済界も含め、認識を改めねばならないことは、大学の役割であり、人材育成を第一とする、ということだ。

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3月2日(土)−平等感

 男女の差も、その最たるものだが、平等という考え方が、如何に、誤解に満ち満ちたもので、傲慢な考えから、誤った意識に取り憑かれ、暴走する人が多いことに、呆れてしまう。更に、この問題を深刻にしているのは、そんな主張をする人々が、差別的な考えに、凝り固まっていることだ。
 まあ、そんな事例を、一つ二つ挙げたとしても、何の役にも立たないし、無意味なことに違いない。そんな議論に、付き合うことは、時間の無駄でしかない。だが、最近は、国際機関も、報道も、挙って、そういう主張を繰り返し、社会を、捻じ曲げている。そこに関しては、警鐘を鳴らす必要があり、そんな暴挙が、新たな差別を産むことに、厳しい批判を浴びせる必要がある。この国が、開国という形で、大きく舵を切った当時も、人々の権利と、それを活かすための方策に、腐心した人が居た。だが、それから百数十年を経て、今、どんな状況にあるのか。当時の人にとって、重要と思われたことは、この国で、実現できたのだろうか。一方で、そんな人の一人が、著した書籍についても、明らかな誤解に基づき、様々な主張がなされている。「学問のすすめ」で、かの人物は、「天は人の上に人を造らず」と記したとされる。これが、平等という考えの、本体を成すものであり、この考えに則って、人は人を見なければならない、との主張が繰り返される。だが、その言葉の後に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」と引き、学問を勧めた訳だ。今の平等感には、こんな考え方は、微塵も感じられない。何の努力もなしに、平等であるべきという点は、確かに、人権には当てはまるだろう。がしかし、それを越えてなお、権利を主張するのは、如何なものか、と思うこと頻りだ。まさに、智なき者は、という意味であり、一つ覚えで、何事も要求し続け、誤った見方を、他人や社会に押し付ける。排除すべきか否かは、多様性の時代に、何とも言えないだろう。無視するだけでは、不十分だが。

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3月1日(金)−男女差

 耳を疑うようなが、流れてきた。見出しを見ても、内容を見ても、そんなに深刻になっているのか、と思う人の方が、多いに違いない。だが、損失とは何か。何と比べて、失われているのか。その点について、深く考えることなく、ただ表面的な問題を、なぞっているだけでは。
 こんなことを書くと、何と非常識なことか、と思う人が多いだろう。先程紹介した、報道を鵜呑みにして、問題解決を、と望む人々には、非常識としか映らない。だが、女性特有の問題で、損失が出ているという主張には、大きな欠陥がある。男女共同参画とか、男女機会均等とか、男女平等とか、そういう類の主張の多くで、問題視されるのは、男女が同じであるべきなのに、という点だろう。だが、同じとは何か。主張する彼らの多くは、全く理解していない。例えば、大人と子供で、同等であると思う人は、皆無ではないか。人権という意味では、保障されるべきという点で、同じでなければならないが、一方で、能力とか、やれることという意味では、違って当然と思うだろう。では、女と男ではどうか。生物学的に、そこには明らかな差異があり、それは、あって当然のものだ。生理とか、更年期とか、この報道で持ち出したものの全てが、元々は、生物学的な差異であり、はじめから、考慮しなければならないものだ。なのに、それを損失の原因として、掲げてくる。平等という考え方が、陥り易い、過ちの一つなのだが、主張する人々は、気付く気配さえ見せない。もし、月に何日か、生理による休息が必要なら、それは、はじめから設定すべきもので、それがある人と無い人を、区別するのは当然だろう。それにより、何割か、就業時間を削る必要があれば、はじめから、考えるべきことだ。それにより、基本給が変わるのなら、それも止むを得ない。そんなことを、損失と呼ぶこと自体が、大間違いである。更年期も同様だが、最近は、状況に変化がある。要するに、個別に考えるべきことだ。

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2月29日(木)−経験済み

 経験済みだから、問題は無い、との意見があるという。隣の大国が、不動産不況を発端とし、経済停滞に入りつつあり、それに加えて、海の向こうの大国との関わりで、厳しい状況に、追い込まれる中、工場移転や新規事業で、進出した人々に、不安が広がるとも言われるが。
 確かに、泡が弾けて、不動産価格が暴落し、経済不況に陥った、という図式は、そっくりそのままだが、その後の、失われた30年を考えると、経験済みが、どれ程役に立つのか、怪しいものだと思う。特に、急速な経済成長の後、富裕層と貧困層に、二極化した現状から、類似性は、かなり失われており、その反面、貧困層が、安物を好むからと、物価の低下が、徐々に著しくなりつつある点は、類似性があるとは言え、随分と安請け合いをしたものだ、とも思えるのだ。元々、不動産市場が、活況を示していた頃、泡の崩壊を、危惧した意見が、多く出る中、経験済みを掲げたのは、あの国の政府だった。ところが、勢いのついた市場は、下り坂を走るが如く、ずんずんと速度を増し、手が付けられない状況に、陥っていった。その結果が、今の状況であり、経験が、何の役にも立たないことが、明らかなのではないか。そこに、またぞろ、同じ轍を踏もうと、言い出す人々は、やはり懲りない輩であり、後始末など、する気もないのだろう。他の国のことなど、知ったことではない、と言う人も、最近は、増えている。自分の生活だけで、精一杯であり、他人のことなど、まして、他の国となれば、もうどうとでもなれ、としか思っていない。失われた時代は、過ぎ去ったかも知れず、今、再びの成長が、始まったのかも知れないが、その中で、資産運用は、国民全体の課題となり、投資先を見つけることが、喫緊の課題となった、と言われる。カジノかどうかは、まだ見えてこないが、乱高下を繰り返す相場に、著名投資家が、警鐘を鳴らしたと伝えられる。その中、経験済みとは、どんなものやら。

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2月28日(水)−手配写真

 半世紀程前から、街角の指名手配写真で、見かけていた顔が、突然、茶の間に飛び込んできた。潜伏生活に疲れ、病魔に襲われた今、偽名ではなく、本名で死にたい、と願ったのだそうだ。嘗ての容貌はなく、面影が僅かに残る姿に、捜査員も、俄かには信じられなかっただろう。
 病床での取り調べは、厳しいものではなく、依然として、本人確認が行えぬまま、死亡したとの報道があった。その後、親族とのDNA照合から、本人と特定できたと報道され、再び、話題となり始めたが、それ以前に、潜伏地での取材から、その姿が浮かんできた。指名手配犯とは、全く気付かなかった、との話は、あるのが当然だが、その一方で、遥か昔に、その疑いの目を向けた、という人物の話には、ある意味、驚かされた。もし、疑いの目を向け、それに対して、姿を消したというのなら、何故、情報提供しなかったのか。一市民として、信じ難いと思った人も、多かったのではないか。外国人から、治安の良さを、聞く度に、住民が、互いを意識することが、その根幹にある、と思ってきたが、近年、かなりの変化を、来たしたのだろうか。自分中心の考え方が、徐々に増え、他人の目を嫌い、互助的な考えが、消滅しかかっているとさえ、言われる時代に、ある意味、当然のことかもしれないが、こと犯罪に関しては、如何なものかと思う。五輪期間中に、ある国の選手が、選手村で襲われたテロは、記憶の片隅にある人も、居るだろうが、その国で、30年程前の事件の犯人が、指名手配されてきた中、住民からの通報で、逮捕されたとの報道が、単なる偶然だろうが、最近流れたばかりだ。治安の良さは、窃盗や強盗などの、どちらかと言えば、軽い犯罪の問題であり、殺人やテロなどの、重大犯罪に関しては、もっと深刻に受け止められる、と信じる人も多いが、今回の話は、全く違った考え方が、町の何処かに潜んでいるような、そんな気配を感じさせた。

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2月27日(火)−政治と科学

 そういう意味では、政治家が使う、科学的という言い回しには、注意を要する。処理水然り、感染拡大然りである。学説の一つでしかないものを、大々的に取り上げて、物事を論じるのは、科学の営みでは、当然の仕業だが、それ以外の所では、全く違った受け止めをされる。
 一方で、大震災後の事故の顛末では、全く逆の反応が起きた。政治家は、例の如く、安全・安心を訴え、市民に、平静を保つよう、働きかけていた。その中で、専門家と呼ばれる人々は、二極化したかの如く、極端な話を続け、結果として、科学への信頼を失わせた。と言っても、極端の片方は、単純には、ごくごく科学的な言説を、伝えていたに過ぎない。それは、可能性として考えれば、甚大な被害が生じる可能性は、殆ど無いというものだ。但し、そこには、確率という話が、付き纏っており、多くの人々に、混乱を招いた。一方、断定的な言説を、垂れ流した方は、世も末との結論であり、長い時間をかけて、多くの人々が、死に至るとの見解を示した。誰もが、死ぬ運命にある、という意味では、後者の主張には、何の問題も無いのだが、彼らが訴えたのは、事故の結果として、そういうことが起きる、ということであり、それを、断定的に伝えたのだ。心配や不安を、煽ろうとする動きには、何とも好都合な言説であり、多くの報道が、それらを、恰も真実かのごとく、扱っていた。となれば、問題無いとの主張は、大衆にとっては、嘘であり、誤りでしかない。これらの遣り取りも、十年一昔を超えて、皆の記憶から消し去られ、科学を疑う人の数が、増えただけだったろう。その上、正しい考え方を、否定することこそが、真実への道と信じ、科学的な話を、否定するばかりか、非科学的な言説を、撒き散らす輩が、社会媒体を、支配することとなり、社会は、全体として荒れ果て、対立ばかりが、際立つようになった。そんな時代の政治は、果たして、人民の為のもの、であり続けられるのか。

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2月26日(月)−科学的とは

 科学的の一言が、絶対的な真実を指す、と思っている人は、どれ位居るのだろう。科学は、確かに、様々な事実を明らかにし、その理由を説明してきた。だが、そう思ったのも束の間、ある日突然、一つの事実が明らかになり、否定されたこともある。だとしたら、どうか。
 処理水の排水を巡り、国内でさえ、様々な意見が出されるが、科学的には、との一言で、政府は、問題なしと断言した。一方で、別の国の政府は、同じ表現を使い、正反対の意見を、掲げ続けている。同じ科学なのか、それとも、科学には、種々雑多な、まるで宗教の如く、別の信心があるのか。いや、事実さえ、複数個存在するのか、とさえ、思えてくる。だが、冷静になれば、これまでの科学の歴史が、示してきたように、新たな事実が明らかになれば、それまでの科学的な解釈は、打ち捨てられる。今回の話は、何方が、正しいのか、と考えるより、互いの主張の中身を、吟味したらどうだろうか。国内での異論の多くは、実は、事実誤認が殆どであり、まるで、信じるか信じないか、という話である。これでは、科学もへったくれも、ありはしない。だが、隣国からの反論は、全く異なる根拠がある。こちら側は、ある核種に関して、現状で、どう考えられるかを示したのに対し、あちら側は、処理そのものが、不十分であるとの見解を示し、だから、危険だと結論づける。では、不十分の根拠は、どの程度の確実性を有するのか。その点に関して、議論が進められる可能性は、殆ど無いに等しい。何故なら、こちら側は、処理は、科学的な結果から、十分なものと主張するし、あちら側は、まだ別の核種が、残存している、とするからだ。この話は、堂々巡りに思えるが、実際には、そうではない。有限量の試料を使い、その範囲で、検出できないとの話を、否定することは、実は、科学の原則から、逸脱しているからだ。だとしたら、現時点で、どう考えるべきかは、明らかなのだ。

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