物価上昇が始まり、生活が、一段と苦しくなった、と訴える声がある。だが、本当だろうか、と思う。確かに、出費が嵩み始め、手に残る金は、減り続けている、ように見える。一方で、何か、無駄にしているものは無いか、考えてみたことが、あるだろうか。
そんな問い掛けに、即座に、無いと答える人が、多いだろう。しかし、手にした端末に、どれ程の金を、掛けているのか、調べてみただろうか。いや、これは、必要不可欠、と返答するだろうが、本当だろうか。何と長時間に渡り、手にした端末を、見つめ続け、触り続けているか、改めて考えた上で、それに掛かる経費を、見つめ直したらどうか。その一方で、多くの人々が、異なる納税制度を、利用していると聞く。それにより、何かしらの品を手に入れ、生活の足しにしている、のだそうだ。しかし、それは、自分の住む場所に、問題を生じている。これについては、何度も書いたが、呆れる状況と思う。その一方で、景気が良くなりつつあっても、楽にならないから、施しを乞う人が居るようだ。こちらも、大きな問題と言える。出すものを出さずに、ただ、何かしらのものを、手に入れようとする。こんな状況では、長く続いた制度も、破綻しかねないだろう。一方で、海の向こうでは、競争社会が、厳しい状況に、追い込まれつつある。貧富の差は、広がるばかりで、それが、社会の不満を高め、不安定を招いている。この国の共同体制は、今に始まったことでもないし、まさか、戦後から、という訳でもない。ずっと昔から、こうやってきたのに、今頃になって、それがおかしいと言う。呆れて物が言えない。競争は、確かに、互いを高めるのに、役立つのかも知れないが、社会として、保つ為には、競争より、共同や協奏が、重要なのだ。今更、こんなことを書いても、誰からも見向きもされないだろうが、その重要性に、今こそ、気付くべき時と思う。競争でも、狂騒でもなく、協奏なのだ。
結婚に関して、違憲か合憲かが、話題となっている。あらゆる報道機関が、情報を流しており、それに対する意見も、種々雑多なものが、掲載されている。ただ、敢えて書くが、普通の考えからすると、何をそんなに揉めるのか、と思える。権利との話も、理解に苦しむ。
婚姻に関しては、法律で定める所があり、官庁も、その情報を提示する。一方で、法律そのものは、憲法と民法に定めがあり、抜粋が掲げられ、理解の助けとなる。これらの定めは、両性間のもの、を則っており、今回の話題は、その範疇にない。その一方で、人権の定めがあり、そちらとの関係に、矛盾が生じた。法律は、基本的に、社会規範を条文化したものであり、その時代の常識が、基本となる。時代の移り変わりで、世界各地で、顕在化した問題は、嘗ての社会では、取り上げるまでもなく、異常との解釈があった。しかし、今では、「常識」と認めざるを得ず、このような係争が起きる。だが、彼らの根拠は、その多くが、認められないと、不利益を被る、という点にある。例えば、財産の分与や、扶養の関係など、婚姻関係を、条件とするから、となっている。しかし、一方で、事実婚や、内縁と呼ばれる関係など、それらの権利を、認める場合がある。確かに、法律上の認定ならば、問題無く、権利が認められるが、そうでなければ、一々、争う必要が出てくる。その違いが、権利の問題となるようだ。だが、そちらに関しても、多くの場合、扶養関係に関して、便宜を図り始めており、法律上の明らかな違反でなければ、何とかなりそうに思う。その一方で、婚姻が、子を授かる為のものであり、そこには生物学的に、両性の必要が、あるのだとすれば、この事態は、一体全体、どうなのか。その上、女性間の同性婚では、他人の精子提供で、可能となるから、法律ではなく、生物学的な親子関係は、崩れてしまう。既に現実化するのを見ると、法律の問題は、軽々しく扱えぬのではないか。
論理的に、物事を考えることの重要性は、言うまでもないことだが、この場で何度も取り上げるのは、その重要性に気付かず、ただ漫然と、他人からもたらされる情報を、鵜呑みにするだけの人が、社会に溢れているからだ。ただ、同じことを考える人の数は、かなりのものと思う。
だからこそ、論理的思考に関する、本や話題が、巷に溢れている。ただ、ここでの論理は、所謂、logicではなく、別の言葉で表されることが多い。原語では、critical thinking、敢えて訳すなら、批判的思考となるだろう。しかし、批判という言葉は、この国では、何故だか、忌み嫌われており、特に、他人を尊重し、教え育む場では、使い辛いものとされる。誤解に基づくものだが、こういうことも、簡単に流される人が多く、使うのが躊躇われる。そこで、これも、根本的には、論理的思考と呼ぶべき、とされるようになり、論理なら、忌み嫌われることなく、何か、大切なものを扱うように、聞こえるとばかり、好んで使われている。そんな状況では、logicとcriticalの区別が、曖昧になるだけだろう。論理とは、何度も書いてきたように、話の流れとして、順序立てて組み上げるもので、そこには、多くの人々の、共通理解が存在する。しかし、批判には、そんな感覚は存在せず、仮令、論理が組み上がっても、それを、厳密に検討すると、ある矛盾が生じる、という場合なども当てはまる。この感覚の違いは、曖昧な表現しかしない人々には、殆ど無いのだろうが、ある程度、確かな表現を心掛け、それを、正しく伝える為に、注意深く準備をする人々には、大きな違いとなって現れる。とは言え、多くの人々が、曖昧な表現に惑わされ、不安を煽るだけの言説に、振り回される中、この違いは、大したことではなさそうだ。一方で、情報に接する際に、その内容を、注意深く読み込むことは、正確な情報を、手に入れる為に、不可欠な手段となる。その意味で、論理が大切となる。
不安を煽る為の、最大の武器は、異常だろう。普段通りでなく、何かしらの違いが、兆候として現れる。そんなものを、一つひとつ取り上げ、如何に違うかを論じ、それが、更に大きな変化を、もたらすと結ぶ。敢えて探さずとも、日々そんな情報が、流され続け、心配が募る。
だが、そんなものの大部分は、杞憂で終わり、次の心配の種を探したり、蒔いたりと、繰り返していく。確かに、ヒトという生き物は、何事も、楽観的でなく、悲観的に考え、心配を繰り返すことで、種としての危機を、逃れてきたと言われる。だが、今の世の中に、流布されているのは、その大部分が、瑣末で取るに足らない、どうでもいい心配だ。大震災や大事故で、本当に正しい選択をせねば、助からないという場面に、出会すのは、針の先ほどの可能性も、無いのだから。異常の最たるものに、気象の問題がある。今は、温暖化などの問題を、重ねることで、一時のものではなく、将来に渡って続く、深刻なものとの扱いが、主になっているから、以前のような、異常気象とは、違ったものとなった。それも、どちらに振れても、同じ原因によるもので、結論として、掲げられたものが、まるで宗教の教義のように、繰り返される。温暖化は、酷暑や暖冬と、結びつけられるが、現実には、冷夏だろうが、極寒だろうが、何でも対応可能だ。こうなってしまうと、議論の余地が無くなり、何を言っても、同じ答えが返ってくる。困ったものだと思うが、練りに練り上げた、筋書きだと信じ込み、その筋に沿った形での展開を、滔々と語るわけだから、始末に負えない。暖冬から、春の訪れも、早まると予想されたが、現実には、桜の開花も、予想程には早まらず、待ち遠しくなりつつある。また、衣替えの問題も、簡単には片付かず、あれこれと、悩む人も多いだろう。そうでなくとも、春は、気持ちが定まらず、不安定な上に、年度替りで、慌ただしくなるもの。どうなることか、心配はしないけど。
確率や統計で、説明を受けていても、所詮、他人事でしかない。そんな経験は、誰にもあるだろう。だが、それが、現実になった時、つまり、確率で言えば、1となった時、どんな受け止め方ができるか、人それぞれだろうが、対応によっては、大きなものを、失いかねない。
でも、大震災や大病など、元々、確率の低いものだと、誰しも、自分の身には、降ってこないと信じたくなる。その時が来るまで、そんな感覚で、他人事として考える。しかし、度々報道されるように、どんなに低い確率でも、それが起きれば、その場に居る人の数は、それなりとなる。毎冬、寒冷地の国道で、大雪の中、大渋滞の末、閉じ込められた話が、伝えられる。画面のこちら側では、そんなことになるのは何故、と思う人も居るだろうし、誰か、不注意な人が、準備不足で、他人に大迷惑を起こした、と思う人も居るだろう。だが、そこに巻き込まれた人には、そんなことは、ある意味、どうでもいいのだ。何とか、この窮地を抜け出す手立てが無いか、考え続けたり、さっさと、無駄な抵抗を捨て、諦める人も居るだろう。その場では、確かに、その程度のことしかできず、もし、自分が、その原因を作ったのだとしたら、反省と共に、他の人達に、謝罪の気持ちを、表したくなるだろう。でも、実際には、それも、どうでもいいことだ。その時点で、どうしたら、早く解決できるか、誰か、考えてくれ、と思うのが、殆どではないか。多くの場合、逃げ道が無く、閉じ込められるから、まずは、そこに向かわぬように、交通整理をする必要がある。場合によっては、引返す為の、手立てを考えることも。その上で、動けなくなった車の、移動の手段を講じ、早めの解決を目指す。そんなことが、現実に起きて、3時間程の立ち往生を、余儀なくされた。と言っても、じりじりと動いていたから、まだ、ましだったろう。結局、解決には、6時間程かかったようだ。結果として、軽度だったのだろうか。
季節の移り変わりがあるからこそ、風物詩なるものがある。それらを楽しみに、日々を暮らすことが、この国に住む人間にとり、大切なこととなる。だが、そんなことには目も呉れず、ただ、日々を暮らす人も、多いのではないか。何方が良いかは、人それぞれなのだろう。
先日取り上げたように、風物詩に、危機が迫る場合がある。特に、自然任せの場合、環境の変化に、影響を受ける。最近は、持続可能を掲げ、如何にかかわかを、主張する人々が増え、何かと面倒な感じがする。動植物は、人間との関わりで、絶滅の危機に瀕することがある。となれば、更に、多様性の時代との掛け声で、厳しい状況に追い込まれる。では、楽しみに生きている人間から、それを奪うのは、誰の仕業なのか。先日の話題では、春の訪れと共に、瀬戸内の一部で繰り返される、いかなごの釘煮は、まさに、絶滅の危機にあると言われた。いざ、解禁となったものの、結局その日だけで、禁漁となった話に、衝撃を受けた人も多いようだ。関係者からは、激減したのだから、はじめから禁漁とすべきだった、との意見もあり、一方で、風物詩としての楽しみ、との意見もあり、結果的には、双方に配慮したようだが、一部の業者からは、資源保護こそ、最優先とすべき、との意見が出ている。だが、その理由として、相場の問題や、手間の問題、更には消費者の不満の問題など、様々に挙げられるが、さて、どんなものか、と思えてくる。皆の楽しみを、奪わない為には、保護こそが重要とされるが、その一方で、漁をするなら、安価で量も多くとする。矛盾に満ちた意見に、呆れたのは、こちらだけだろうか。現実には、高嶺の花ならぬ高値に、断念した人が居る一方で、楽しみだからこそ、と決断した人も居る。所詮、人それぞれの判断で、そんな所に、忖度する必要など、あるのかとさえ思える。楽しみを奪うことこそ、最大の問題となれば、細々でも続けるべきではないか。
忘れない、という掛け声が、事ある毎に、繰り返される。だが、現実には、どうだろうか。悪い思い出は、思い出したくないとか、悲しい気分には、なりたくないとか、そんな気持ちも、起きてくるだろう。だからこそ、この掛け声が、大切なのだ、という気持ちも、あるが。
現実には、人それぞれなのだ。その中で、叫び続ける人々は、時に、怒りを露わにし、時に、悲しみに暮れ、そんな光景を、報道は毎年繰り返す。さて、その効果の程は、どうだろうか。確かに、当事者にとり、様々な思いが過り、その日が近づくと、段々、気分の波が、激しくなる。でも、そんなことに、巻き込まれ続けていては、やはり、次の段階を、迎える準備ができず、結局は、目指す方に向かうことは、難しくなる。忘れることの大切さは、気分の変化により、次の段階を、迎えることができた人にしか、理解できないかも知れない。だとしたら、もういいではないか、と思えてくる。放っておかれると、何か寂しい気分に、陥るかも知れないが、一方で、放っとかれたことで、気分良く、自分なりのやり方を、思い出せるかも知れない。どちらが良いかは、人それぞれだ。個人主義という表現は、何か身勝手なものを、連想させるが、個人の選択を、尊重することが、大きな障害に直面した時には、重要なのではないか。寄り添うことしか、考えられない人を、突き放すことは、良くないように、思えるかも知れないが、一方で、温かく見守る、という感覚で、距離を置くことも、重要になりそうだ。通り一遍なやり方を、押し付けることこそが、こんな時に、忌み嫌われるものと思う。ただ、黙っていたとしても、気にしているかどうかは、大切なものだろう。だとしたら、自分はどうしたいのか、考えてみればいい。無理をして、他人に押し付け、混乱を起こすだけでは、何も良いことが起きない。悪い意味の個人主義ではなく、自分なりの考えなら、自信を持って進めば良いだけだ。