パンチの独り言

(2024年3月18日〜3月24日)
(利便性、手出し無用、企業体質、危険思想、平和な国、独裁の果て、中流意識)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



3月24日(日)−中流意識

 国民性の一つなのだろう、皆と同じであることに、拘りを持つ人が多い。だから、格差のある社会は、正しくないものとして、厳しく糾弾する。だが、その根拠は、希薄なようだ。一方で、個人主義の台頭が、取り沙汰されるが、そこにこそ、多くの人々の誤解があるようだ。
 嘗て、この国では、国民の大多数が、中流であるとの自覚を持った。経済発展が続く中、確かに、貧富の差は、縮まり始め、それによって、皆が、真ん中辺りに居る、と考えたのだ。詳しく調べた訳ではないが、そんな論調が目立った時代もあった。しかし、泡が弾けてから、様相が一変し、格差が広がった、という論調が目立つ。ただ、この状況にしても、一部の例を取り上げ、恰もそれが全て、と主張する論調には、賛同できない。一方で、一度失われた、中流意識は、簡単には戻って来ず、多くの人々が、厳しい生活を強いられている、との意識を抱いているようだ。ただ、この背景には、個人主義の台頭があり、皆と同じとは、考えにくくなっている、社会情勢に、原因があるようにも見える。皆と同じという考えは、今でも、多くの人が抱いており、それが格差を忌み嫌う、社会的な風潮へと膨らむ。だが、この矛盾に関して、誰も取り上げようとせず、ただ、不平不満の捌け口として、格差を論じているに過ぎない。個人の差が、はっきりするのなら、それは、差別とは異なる形で、格差を産み出す訳で、そこに異様さは感じられない。にも拘らず、多くの人は、格差は敵であり、自分達の考え方は、間違っていない、と結論づけようとする。ただ、努力もせず、判断も下さぬままに、一方で、皆と同じであるべきと考え、他方で、自分は違うと主張するのは、幾ら何でも、身勝手過ぎることだろう。この点に関しては、もっと厳しい意見を打つけ、反省を促すべきと思う。その上で、自分のやりたいことを、どう実現すれば、成功を手に入れられるのか、じっくり考えるべきだろう。

* * * * * * * *

3月23日(土)−独裁の果て

 軍事侵攻した国も、隣の大国も、嘗ては、ある体制の下、国が成り立っていた。しかし、その仕組みに、限界が見えてくると、突然、経済を優先させた、新たな体制が、築かれたと言われる。でも、本当に、そうだろうか。一党支配という意味では、何も変わっていない。
 ばかりか、発展を遂げたと思えた結果、別の大きな問題が、起きたとも思える。党の支配は、確かに、極端な体制を、続ける為に、不可欠なものだったが、そこに、経済発展が織り込まれ、一見、自由な考えが、採り入れられたかの如く、見えたのだが、現実には、何方の国も、今や、独裁体制が、強まりつつある。党の支配は、確固たる体制を、築く為に必要不可欠だが、その中で、独裁者が登場すると、状況は、大きく異なってくる。嘗て、何方の国も、独裁的な体制が築かれ、それによって、強い弾圧が、行われていた。結果は、悲惨なものとなり、そこからの脱却を目指したものの、歪んだ仕組みは、修正されることなく、特に、経済活動において、欠陥を晒すこととなり、敵対国の資本主義と、何ら変わらぬ仕組みが、構築された。といっても、現実には、支配体制には、殆ど変化がなく、蓄積した歪みは、解放されることがなかった。それでも、経済発展は、国力を増すことに繋がり、国の広さだけでなく、経済力をも、誇れるようになった。だが、その状態を続ける為、と称して始まった、独裁体制には、百害あって一利なし、となるのだろう。こちら側から見れば、様々な欠点が、露となる中で、強固な体制と称して、一人の指導者が、居座ることとなった結果が、今の状況だろう。ここから、何処まで坂を下るのか、知る術は無いが、どの道、国か独裁者か、一方か双方かが、崩壊するのだろう。独善的な大統領が出た国は、体制が異なったので、助かったが。

* * * * * * * *

3月22日(金)−平和な国

 紛争地域や、軍事侵攻を、眺めていると、つくづく、この国が平和なのだ、と思えてくる。だが、報道関係は、何はともあれ、不安と心配を、煽り続けており、その断絶ぶりに、呆れ果ててしまう。如何に、悲観的に考えることが、大切だとしても、この乖離は、如何なものか。
 馬鹿げた、世界的な感染症騒動も、いつの間にやら、何処かに消し飛び、外国人の姿は、有名な観光地のみならず、全国各地に、見られるようになった。彼らが、口を揃えて言うのは、この国が、魅力的なことだけでなく、日常の治安も含め、平和であることだ。一部の人々は、それを、躍起になって、否定しようとする。毎日、垂れ流される、不安材料を並べ、如何に、酷い国であるかと、反論頻りなのだ。端から見ると、馬鹿げたものにしか、見えないのだけれど、大真面目な態度に、外国人は、戸惑うばかりとなる。数々の証拠を並べ、説得されようとも、揺るがない考えには、どんな自信があるのだろうか。それとも、単に、世間知らずであり、物事を、冷静に分析し、理解しようとする、心掛けが、欠けているのだろうか。何れにしても、敗戦直後の状況は、悲惨なものだったろうが、今や、高度成長期を経て、先進国の仲間入りどころか、その先頭集団に、含まれるのを考えれば、心配することは、何も無いように思える。と書くと、流石に、やり過ぎと思われ、ある程度は、心配事を挙げた方が、良さそうだ。とは言え、老後資金の心配は、確かに、ある程度はあるものの、今の老人達の生活を、眺める限りは、然程のものとも思えない。少子化の問題とて、何が適正なのかを、考えるべき時が、来ているとも言え、増減ばかりを追わずに、安定が、何処にあるかを、考えるべきだろう。それらの問題は、実は、平和とは、あまり関係が無い。紛争は、奪い合いの問題であり、他国からの攻撃も、その一つとなる。そこに陥らぬ為には、何が必要なのか、今だからこそ、考えられるのではないか。

* * * * * * * *

<3月21日(木)−危険思想

 先日取り上げた、指名手配の話もそうだが、最近、当時の活動家達の話が、度々取り上げられる。理由は、定かではないが、何かしらの目論見が、あるのだろう。それも、どの道、大したものではなく、例の如くに、社会不安を拡大することで、自らの利益を得ようとする。
 確かに、あの日から、既に四半世紀を過ぎ、30年になろうとする。多くの若者が、関わったものなのに、今の若者達は、殆ど何も知らず、何の関心も抱かない、と言われている。当時の若者達も、そんな風潮の中、閉塞感から脱しようと、強硬手段に出た。だが、彼らの思いとは、何だったのか。同じ年代だった、と思う人間には、理解の糸口さえ、掴めない。狂気の沙汰とまで言われても、その狂気の根源が、見えてこないからだ。だとすれば、今の若者の反応は、当然のものだろう。一方、それより昔に、過激派と呼ばれた活動家が、この国の各地で、事件を引き起こした。それについても、指名手配の話も含め、別の立て籠もり事件など、様々に取り上げられる。それとて、事件の顛末は、詳細に伝えるものの、背景については、殆ど伝えない。何か、意図的なものを感じるが、何だろうか。更に、驚いたのは、活動家集団が、久々に街頭デモを、強行していたことと、そのアジトの異様さに比べ、活動家達が、至って普通の人々のように、捉えられていたことだ。真意は、定かでないものの、こんな状況に、あの時代を知る人々は、何を感じただろう。あの宗教集団とて、最終手段を挙行するまでは、普通の人々と、扱う専門家がおり、支援していた。こういう感覚こそが、危機迫る中、誤った判断を、下すことになるのでは、などと危惧するのは、単なる心配性だろうか。それとも、こんな時こそ、異質なものを見極め、回避を含め、何かしらの行動に、出るべきなのだろうか。平等主義が、あらぬ方に向かいかけ、そういった判断を、差別と捉える風潮は、危ういと思うのだが。

* * * * * * * *

3月20日(水)−企業体質

 外圧に弱い、この国の状況を揶揄して、黒船来航を引き合いに出すのは、維新前の混乱を指しており、「たった四杯で夜も寝られず」と歌われたのが、その状況を示している。あれ以来なのか、特に、外圧には弱く、国内の喧騒は無視できても、海の向こうからのものは。
 自動車業界では、半世紀程前に、海の向こうで起きた、様々な妨害は、まさに、その典型と伝えられる。だが、黒船来航という表現では、前世紀末に、起きたことの方が、的を射ているのではないか。その企業は、確かに、魅力的な車を、生産していた。しかし、愛好家精神を、貫くことで、業績は、悪化の一途を辿り、窮地に追い込まれた。救いの手は、海の向こうでも、正反対の方向から、差し伸べられ、資本提携の運びとなり、ある人物が、最高執行責任者として、乗り込んできた。まさに、黒船来襲である。その後、傾いていた経営は、急速に回復して、競争相手とも、対等まではいかぬが、それなりの戦いが、行えるようになった。だが、その際に断行されたのは、下請け企業に対する、厳しい締め付けや、切り捨てであり、恨みつらみの声は、長く続いていた。黒船は、悪事の末に、黒箱で、海外逃亡したが、企業自体は、その後も、良好な経営を、続けていると言われていた。が、最近発覚したのは、下請けに対する、納入代金引き下げという、不法行為を行ったことで、自動車業界全体に、厳しい状況にあるとは言え、何たることかと、経済界から厳しい叱責が飛ぶ。体質の問題、と言ってしまえば、その通りなのだろうが、さて、どうしたものか。特に、物価高騰が続き、愈々、給与上昇が、明確となりつつある中、その皺寄せを、下に押し付ける態度は、許される筈のないものだ。今回の、景気の転換は、確かに、外圧によるものだろうが、それに対して、どう振る舞うかは、各人の考え方による。経営の基本を、見失った人間に、舵を握られる組織は、どうなってしまうのか。

* * * * * * * *

3月19日(火)−手出し無用

 毎年、この季節が来ると、書いているような気もするが、気が落ち着かなくなる話だ。季節の変わり目、ということと共に、多くの場所では、年度替りと称して、様々な変化が起きる。節目となる人も多く、彼等の中には、体調を崩すだけでなく、心の病に襲われる場合も。
 それを、あれこれと取り上げ、対策法を、くどくどと言い連ねる。お節介な人々は、自分のことは、棚に上げて、せっせと、問題点を挙げ、解決法を、宣うのだ。だが、その多くは、百害あって一利なし、と言われるが如くに、お節介が迷惑となり、却って、拗らせることになる。今年も、その季節が来ているが、それに加えて、年の初めに、襲ってきた震災に、多くの人々が、甚大な被害を受けた。その衝撃から、立ち直りつつある人に、大丈夫かとか、心配無いとか、そんな言葉を掛けるのが、肝心要のように、振る舞う人々が居る。確かに、温かい言葉掛けは、人によっては、救われた気持ちになり、安心を取り戻す。だが、そうでない場合の方が、遥かに多いように思う。特に、社会全体に、閉塞感が蔓延し、厳しい時代となってから、悩み沈み人が増え、多くの場所で、深刻な問題となっている。だが、その解決に必要なのは、関わることとは限らない。声掛けは、確かに、気分を和らげ、孤独感から、解放することもある。だが、それも、度々となると、ただ習慣化して、何の効果も示さぬばかりか、却って、悪影響を及ぼすこともある。精神的な悩みの場合、最終的には、外部からの働き掛けより、内部からの動きが、重要となる。その時間稼ぎの為に、服薬が、功を奏する場合もあり、声掛けも、その一つとなる。ただ、内部の回復は、薬でも、声掛けでも、引き起こせない。結局、自分の力が、それを始めるのだ。その為に、時と場合によるが、暖かく見守ることも、大切な働き掛けとなる。それは、声を掛ける訳でも、薬を飲ませる訳でもなく、単に、見守ることなのだ。

* * * * * * * *

3月18日(月)−利便性

 毎年、この時期は、慌ただしくなる。年度替りで、新たな出発などがあり、それ自体でも、気忙しくなるものだが、それ以前に、一部の給与所得者を除き、申告の時期となるからだ。副業が認められたから、給与所得者と雖も、改めての申告が、必要となるかも知れないが。
 そんな頃に、与党内でのごたごたが、話題となって、不平不満が噴出する、とまで言われたが、それはお門違いというものだ。国民の義務として、誰彼なく、済まさねばならない。手書きの書類で、四苦八苦したという人も、一杯居るだろうが、今や、時代が変わった。電子申告は当然として、それが、いつも話題にする、手にした端末で、行うようになった。各地の税務署に設けられた会場も、様相が一変しており、相談の内容も、操作に集中している。自分でもできる、と謳われてもなお、ある年齢を超えれば、不安しか抱けず、会場へと足を運ぶ。だが、現実に、記入にかかる時間は、大幅に短縮された、と言われる。手書きから、端末入力になったことより、実際には、多くの情報が、紐付けされたことで、改めて記入せずとも、済むようになったからだ。その根源には、曰く付きの、例の仕組みの存在がある。そもそも、半世紀以上前に、提案されてから、何度も挫折した挙句に、今の仕組みとなったが、主な反対理由は、情報開示にあると言われる。特に、政治家への圧力となる、金持ちからの反対が、大きかったようだが、全ての金の流れが、番号により、露呈することが、不都合と考えられた。だが、それこそが、先程書いた、利便性の源となる。まだ、完全整備とはならず、一部、画像入力を必要とするが、多くの収支が、同じ番号の下、管理されており、申告手続きも、簡素化されたと言われる。でも、それに対して、依然として、反対の声があり、迷惑との声も絶えない。善良な市民に取り、何が問題なのか、理解不能だが、気になる人が居るらしい。気にせず、進めて欲しいものだ。

(since 2002/4/3)