パンチの独り言

(2024年4月1日〜4月7日)
(年度始め、同調せず、実務経験、影響は、投げ出す、外交の綾、諦観)



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4月7日(日)−諦観

 処分が下された。との報道の中で、何が、最大関心事だったのか。おそらく、総裁、宰相自身が、自らを、どう処するのか、という点だったのだろう。野党からの指摘も、専ら、その点に注がれた。こんなことがある度に、彼らの、自戒能力の欠如に、呆れてしまうが、どうか。
 以前触れたように、一般社会では、違法行為を行い、社会秩序を乱せば、自らではなく、組織が、厳しく罰する。辞職ではなく、免職という処分も、その為と言われている。だが、政治家はどうか。仮令、免職したとしても、次の選挙で当選すれば、禊を済ませたとして、何事も無かったかの如く、復帰するだけだ。だから、という訳でもあるまいが、そんな処分を、期待する声は、一切無かった。というより、永田町でしか通用しない、法律の適用では、一般社会との比較は、無用との判断もある。何れにしても、仲間外れにするのが、精々といった具合に、庶民から見れば、生温さしか、感じられないのだ。だが、一方で、選挙の話に、触れもしないのは、どういう訳か。我らが大将とばかり、担がれてきた人物が、瑣末なことで、処分を受けても、支持者達には、響きもしない。ということが、歴然としており、触れる必要も無い、との判断が、報道にあったのか。はたまた、総裁の首を取れば、それで満足とばかり、その他大勢の無法者には、目もくれないのか。所詮、茶番劇で終わることは、当初から、予想されており、ここから先も、嘗てあったように、一旦離れる者が居ても、すぐに元の鞘に、となるだろうし、党員資格を失っても、当選すれば、それも元鞘となる。その程度のこと、と思えば、処分の軽重も有無も、何の意味も持たず、政治の世界は、別のものと見るしか無い、となるのだろう。その上、あの大震災の直前に、不平不満が噴出し、野党に政権が移っても、全体像では、殆ど変化がなく、庶民の生活は、苦しいままだったと考えれば、そんなものと、諦めるしかないのかも。

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4月6日(土)−外交の綾

 外交は、駆け引きが基本で、複雑怪奇なものだ、とよく言われる。だから、論理が通用すると限らず、時に、不条理なことさえ、押し通さねば、とも。だが、密室での駆け引きが、いつの間にやら、表舞台で繰り広げられ、野次馬までもが、口を出す時代となった。これも、社会媒体の為か。
 軍事侵攻を始めた、国と独裁者が、厳しく批判されるのは、当然と思えるが、一方で、急襲により、人質を取られた国が、反撃に出たことに対しては、どうだろうか。解放を目的として、軍事活動を行うのは、ある意味、止むを得ないとも、評されていたが、それが、人道に反する行為や、人道的な活動を、行っていた人々を、攻撃するに至り、一気に流れが変わった。と言っても、当初から、独り言で指摘したように、潜伏活動を続ける人々より、難民と見做される人々を、前面に押し出し、圧倒的な軍事力を行使する、国を敵対視する報道は、著しい偏見に基づく、情報操作を行い、悪者扱いを続けていた。そこに、今回の行為は、許し難いものとされ、支援国の大統領さえ、苦言を呈し始めた、と勝ち誇ったように伝える。だが、彼の国の要人が、語ったように、あの地区での戦闘の被害者数は、テロ組織発表のもので、戦闘員が、どれだけ含まれるかが、明らかでないのに、それを、恰も全てが、一般人かのように伝えるのは、卑怯極まりないもので、偏り過ぎている。確かに、人道支援団体が、被害に遭い、それが、彼の国の軍隊によるものとは、彼ら自身が認めたが、だからと言って、そこまでの流れにおいて、一方的に、責任を問うのは、如何なものか。これまでのやり方が、全て正しく、権利行使と見ることは、危険に違いないが、だとしても、こんな流れを、看過して良い、とは言えないだろう。外交の綾が、表面化した例の一つだが、とは言え、そこに住む人間には、何方の側にとっても、現状は、不条理に違いない。外野の声は、確かに必要かも知れぬが、このやり方は、正しいとは思えぬ。

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4月5日(金)−投げ出す

 いつからか、当たり前のことが、当たり前ではなくなった。と書くと、あの騒動を引き合いに出し、こういう事態では、仕方ないから、と返す人が居るだろう。だが、それ以前から、そんなことは、日常的に起きており、現場の混乱を他所に、当人は、涼しい顔で、主張を続けたものだ。
 この国の場合は、その多くが、学校教育での問題として、紹介される。例えば、平日は、毎日通学するのが当然で、さぼるのは、以ての外とか、授業中は、静かに座って聴くものであり、突然立ち上がり、何処かに出て行くなど、以ての外とか、そんなことが、矢鱈に増えてきた。はじめは、子供の問題として、育児を含め、家庭環境に、原因を求めたものだが、何時頃からか、不幸な当人を、救済することこそが、第一と見做されるようになり、様々な方策が、現場に押し付けられた。だが、結局、何の解決も得られず、今では、当たり前のことになり、公教育の基本は、無いに等しくなった。一方、何の問題も無く、学校に行き、授業を受ける子供も、徐々に、問題を抱えるようになり、学習意欲の減退や、能力不足の問題が、取り沙汰され始める。その中で、前の話とは違う形での、個性の問題のように、「障害」という言葉を付けて、彼らの問題が片付けられ、納得し始めたようだが、現実には、殆どの問題が、未解決のまま、放置されている。札を付けても、解決法が見つからねば、結局、何の役にも立たず、現場の混乱は、拡大するだけだ。強制的に、何でも行われた時代と違い、個性と共に、人権を尊重する必要があり、その為には、皆と同じという扱いも、禁忌となる。教え育む筈の場を、全く異なる様相へと、変えてしまった責任は、誰にあるのか、知る術も無いが、現状は、まさにそんな感じだろう。あるべき姿を、押し付けるのも、憚られるとなれば、これまでの教育に、何の力も無いのでは。だとしたら、何ができるのか、誰が考えるのだろう。

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4月4日(木)−影響は

 何処かに書いたように思うが、あの馬鹿騒ぎの影響は、どうだったのだろう。感染や接種による、後遺症の問題を、盛んに取り上げた時期もあったが、元々、数から言えば、僅かなものであり、社会全体として考えれば、瑣末と見做される。一方、大多数の人間は、普通に暮らすように見えるが。
 感染症の騒動は、世界の、特に先進国で、大きく広がった。外出制限、都市封鎖、金銭的な支援など、様々な方策が、取られたことで、社会への影響は、甚大だったと思われる。これらの流れに関して、疫学的にも、公衆衛生的にも、調査が行われているかについてさえ、何の情報も、流れてこないが、政府や世界機関が、全精力を挙げて、断行したものだけに、総括への危機感は、非常に大きいのだろう。だとすれば、そんなことをしたとしても、権力批判にしかならず、何の利益も生まない、との判断が下されても、致し方ない所だ。では、総合的な評価ではなく、個々の評価については、どうだろうか。こちらは、各組織で、どんな実情かを眺め、対策を講じる必要があれば、そうすべきとなるだろうから、意味のあることと思える。ただ、どの組織も、騒動の最中、対応に苦慮しただけに、その悪影響の存在を、認めたがらないのかも知れない。ほぼ3年間に渡り、様々な制限が、組織に対しても、かけられてきた。それをどう反映させるかは、それぞれに任されたものの、この国は勿論のこと、多くは、横並びとなったようだ。だからこそ、制限が解けて、以前と同じ状況に、戻り始めた頃から、幾つかの違和感が、広がったのだろう。例えば、この国の初等中等教育では、中高の間、各3年間の学習期間となる。その上、多くの場合、間に受験が入るので、新たな環境へと移るから、高校や大学において、問題が広がった可能性は大きい。一方、通常4年間とはいえ、大学卒業後の就職も、大きな変化が起きる。こちらでも、どんな問題が広がったのか。これから、徐々に、明らかとなるだろう。

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4月3日(水)−実務経験

 件の首長が、辞任を表明した。それも、先日話題になったことからではなく、以前から取り沙汰された、誤解を招く発言、によるとのことだ。内容は、余りに瑣末なことで、普段の行状と、別の要因が、合わさったもの、と考えるのが妥当だ。にしても、何たることか。
 この人物は、首長になる前は、大学に勤めていた、ということになっている。確かに、その通りだが、生業は、そうとも言えない、と思う。一般的には、評論家、批評家として、名が通っていた。それ故の、大学在籍、とも言えるのだ。それが、突然のこと、首長選挙に出馬し、当選した。その後も、暴言癖は、収まることなく、評判は、両極端だった。しかし、選挙となれば、人気が衰えることなく、無難な成績を残す。しかし、評論家が、政治家になることには、強い抵抗を覚える。何しろ、権力を敵と見做し、攻撃を繰り返すのが、評論家の役割であり、自らが、権力を持たないからこそ、好き勝手な批判ができる。それが、力を得た途端に、どうなるかは、今の状況を見ても理解できる。元の鞘に収まり、評論だけを、生業にすることが、自分の為でもあるだろう。一方、国政をはじめとして、今や、評論家然とした、人々が、政に携わる。以前なら、官僚上がりとか、役人上がりが、議員や首長に、なるのが当然だったが、今は、弁論や評論に、精を出した人間が、多く加わっており、実務経験の無い人間が、組織を操ることに、危うさを覚える人も多い。この状況が、これからも続くとなると、国や自治体の運営に、障害が生じることは、火を見るより明らかだろう。だとしたら、実務経験を、条件とすることも、考えるべきかも知れない。多様性の時代に、惚けた提案であることは、大いに認めることだが、それくらい、危うい状況に陥っている、としか思えないのだ。任期途中で、投げ出すことも、今が潮時などと、言われるのが精々だが、それにしても、混乱の極みに、とは思う。

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4月2日(火)−同調せず

 改めて問われたら、どう答えるのだろうか。「あなたの情報源は、何ですか?」と。以前なら、新聞、テレビ、ラジオ辺りを、挙げる人が大多数だった。だが、今や、新聞の購読者は、激減しており、電子版が、掲げられるものの、大したことはない。マスコミの凋落は、著しい。
 そうなった原因の一つに、活字離れがある、と言われる。毎朝、習慣的に開いて、眺めていた新聞から、人々が離れて、既に、かなりの時が過ぎた。その中で、多くの民は、自分に都合のいい話に、吸い寄せられ、それだけで、満足している、と言われる。だが、耳から入ろうが、目から入ろうが、どの道、活字から離れることは、とても難しい。だから、活字離れが、新聞や書物から、人が離れた原因とはならず、都合の良し悪しが、実は、真の原因かも知れない。でも、そうだとしたら、個人の都合は、どのように決まるのか。耳障りの良し悪しを、挙げる人が居るが、だとして、何が決定要因となるのか。個人による違いの方が、遥かに大きいから、簡単に決められないが、最近の風潮は、やはり、社会媒体の躍進だろう。以前なら、受け止めるだけのものが、媒体として、ある筋から、流れてきたが、今は、双方向性が重要と、賛否は勿論のこと、各自の感想や意見が、採り入れられる。その結果が、都合の良し悪しへと、結び付くのだろう。そうなると、事実か否かは、問題にはならず、また、科学的や論理的に、正しいものかも、問題にはならない。大勢がどう動くか、こそが重要となる。でも、これはおかしくないか。これはまさに、集団心理の典型であり、これまで起きた、多くの過ちの原因が、それに当たるからだ。だとしたら、どう動けばいいのか。皆が良ければ、という考えは、まず捨てる必要がある。その上で、社会に氾濫する、情報の多くを、疑ってかかり、批判的に捉えることが、重要となるだろう。結果として、異端となるかも知れないが、それを、損と考えないことだ。

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4月1日(月)−年度始め

 様々な始まりがある中、この国では、多くの組織が、この日を始まりとしている。世界標準なる言葉が、飛び交い始めた頃、これを改めるとの話が、各組織で出て来たが、結局、有耶無耶に終わった。多くの取り沙汰された無駄の中で、最たるものとして、残る話の一つだ。
 実は、この独り言も、20年以上前のこの日に、始まっている。カウンターは、少し遅れて気が付き、始めたものだから、ずれているが、過去の独り言を見に行けば、分かることだ。20年を節目として、辞めてしまおうか、とも思ったが、結局ずるずると、続けることとなった。一方で、始めた時も、偶然とは言え、月曜日だった。何年毎かで、訪れるだけの話だが、今年は閏年に当たり、ずれが生じたので、ちょっと気分が違ってくる。何れにしても、長く続いたものだが、相変わらず、世界は、話題に事欠かない。自然現象も、多く扱って来たが、やはり殆どが、人為的なものだろう。人の営みとは、各人の望みとは裏腹に、安定しないものだが、その原因の大部分が、自分達の行状から来る。何故、あんなことを、とか、何故、浅はかな考えを、とか、そんなことばかりで、敢えて、指摘するまでも無いことが、多いのは事実だが、それに気付かぬ人の多いことに、改めて、呆れるばかりとなる。関係者達は、大真面目で、馬鹿げたことを、し続ける訳だが、その一方で、それを眺める大衆から、更に馬鹿げた話が、出て来ることに、驚かされることも多い。特に、社会媒体が、市民生活に浸透した結果、誰かの意見を拝聴するより、自身の意見を掲げる方が、遥かに重要と思い、愚かで浅薄なことを、大真面目で論じるのには、呆れるしかないと思う。理由は、未だに見えてこないが、玩具の一つとして、手にした端末から、好き勝手な意見を、世界に向けて発信できるのは、子供の遊びの一種と、何ら変わらぬように思える。テレビが、白痴化を助長するとした評論家が、生きていたら、何と思ったか。

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